第五十三話 体育祭中編⑤(しろの徒競走)
第五十三話です。体育祭、午後の部も後半戦へ突入。C組の生徒たちから頼まれたしろは、保護者参加の徒競走に出場することに。ところが、待ち受けていたのはまさかの400メートル?!しろはいったいどうなってしまうのか?!
騎馬戦が終わり、午後の体育祭も後半に差しかかろうとしていた。グラウンドでは、競技を終えた生徒たちが水分補給をしたり、友人と結果を振り返ったりしている。二年C組の待機場所でも、男子たちが騎馬戦の反省会をしていた。
「いやー、四位かあ。 惜しかったな」
「まあ、午前中に二回優勝してるし、上出来だろ」
「次は何だっけ?」
「保護者参加の徒競走とかじゃなかった?」
そんな会話を耳にしながら、湊はペットボトルのお茶を飲んでいた。すると、クラス委員がパンパンと手を叩いた。
「はい、みんなちょっと聞いてくれ! 次の保護者参加の徒競走なんだけどさ」
湊は顔を上げた。体育祭のプログラムには、生徒の家族や保護者が参加できる競技もあったはずだ。生徒たちだけでなく、普段は学校に来ない大人たちにも楽しんでもらおうという企画らしい。
「うちのクラスからも、C組代表として誰か出てもらいたいんだよな。 せっかく文化祭のときに手伝ってくれた親御さんもいるし、お願いできないかなって」
「ああ、文化祭の手伝いか」
「そうそう。 準備から片付けまで、助けてもらった部分があるだろ?」
クラスメイトたちが頷く。文化祭のとき、二年C組は準備や当日の運営で慌ただしい日々を過ごした。その際、湊の家で働くしろも手伝いに来てくれたのだ。作業を手伝うだけでなく、細かなところにも気を配り、疲れた生徒たちに飲み物を差し入れてくれた。おかげで助かったというクラスメイトも少なくない。
「しろさん、来てくれたら面白そうじゃない?」
誰かがそう口にした。
「確かに! あの人、いつも落ち着いてるけど、走ってるところって見たことないな」
「というか、そもそも走るのかな?」
「走るだろ、普通に!」
「いや、なんか優雅に歩いてるイメージしかないんだよ」
「分かる。 廊下を歩いてるだけで絵になる感じ」
「お前ら、しろさんを何だと思ってるんだ……」
湊は思わず呆れた。確かに、しろが全力で走る姿など、普段の生活では想像しにくい。朝は自分を起こしに来て、食事の準備をして、家事をこなす。休日だって、外で派手に運動しているという話は聞かない。だが、だからといって徒競走ができないわけではないだろう。
「でも、しろさんって出ていいのか?」
湊は少し考え込んだ。しろは朝比奈家で働いているが、湊にとっては家族のような存在でもある。文化祭の手伝いを通じて、クラスメイトたちとも顔なじみになっていた。本人が嫌でなければ、参加をお願いすること自体は悪くないだろう。
「じゃあ、俺、先生にきいてくるからさ、湊からはしろさんに頼んでみてくれないか?」
「……俺が?」
「そりゃ、しろさんと一番話しやすいのは湊だろ」
「まあ、そうだけど」
「頼む! 文化祭でお世話になったお礼……になるかわかんないけど、みんなで応援したいんだよ!」
クラス委員が両手を合わせた。周囲のクラスメイトたちも、期待のこもった視線を湊に向けている。
「いや、本人の都合もあるだろ。 俺が勝手に決めるわけにはいかないって」
「もちろん! 無理なら無理でいいからさ、ものは試しだって」
「……分かった。 聞くだけだからな」
「よし、決まり!」
「いや、まだ決まってないだろ!」
湊のツッコミもむなしく、クラスメイトたちはすっかり盛り上がっていた。
「しろさん、頑張れー!」
「まだ出るって決まってないから!」
「湊、ちゃんと頼んでおいてくれよ!」
「だから、俺は伝言係か!」
周囲の笑い声を聞きながら、湊は小さくため息をついた。とはいえ、文化祭で世話になったクラスメイトたちが、しろに感謝しているのは本当なのだろう。本人が参加してくれたら、みんなも喜ぶに違いない。湊は観覧スペースのほうへ視線を向けた。そこには、ひまりと一緒に競技を眺めているしろの姿があった。日差しを避けるように少しだけ日陰に入り、手には飲み物を持っている。何かを話していたひまりが笑うと、しろも穏やかに微笑んだ。
「……よし」
湊は飲み物を置き、二人のもとへ歩き出した。
◇
「しろさん、少しよろしいですか?」
湊が声をかけると、しろはすぐに振り返った。
「はい、ご主人。 どうかなさいましたか?」
「いや、ちょっとクラスのことで相談があって」
「クラスのことで、ですか?」
しろが首を傾げる。隣にいたひまりも、興味深そうに湊を見た。
「もしかして、次の競技のこと?」
「そう、次に保護者参加の徒競走があるだろ?」
「ああ、あれね!」
ひまりが手を叩いた。
「それで、クラスのみんなが、しろさんに出てもらえないかって」
「……私に、ですか?」
しろは目を丸くした。
「はい」
「文化祭のとき、しろさんにいろいろ手伝っていただいて、それで、みんながお礼も兼ねて、一緒に競技に参加してもらえたら嬉しいって」
湊は少し言いづらそうに頬をかいた。
「もちろん、無理にとは言わないです。 急な話だし、しろさんにも予定があるでしょうから」
「嫌だったら断ってくれていいですし」
「そうだったんですね……」
しろは少し考えるように視線を落とした。湊は返事を急かさず、静かに待った。普段からしろには世話になっている。だからこそ、本人の気持ちを無視してまで頼みたくはなかった。すると、しろはゆっくり顔を上げた。
「私は構いませんよ」
「えっ?」
「皆さまがそうおっしゃってくださるのでしたら、ぜひ参加させていただきたいです。 文化祭では、私のほうこそ皆さまとご一緒できて楽しかったですから」
穏やかな笑顔だった。湊は一瞬、言葉に詰まった。
「……本当にいいんですか?」
「はい。 ご主人のクラスの皆さまには、いつもよくしていただいておりますから」
「そうですか……ありがとうございます、しろさん!」
湊がほっとしたように笑うと、しろも嬉しそうに微笑んだ。
「ただ、徒競走ということは……走るのですよね?」
「そりゃ、まあ……」
「ふふっ、少し緊張してしまいますね」
しろは困ったように笑った。その言葉を聞いたひまりが、ぱっと顔を明るくする。
「大丈夫だよ、しろさん! みんなで応援するから!」
「ありがとうございます、ひまりさま」
「私も応援するし、湊も絶対応援するよ!」
「えっ、俺?」
突然話を振られ、湊は目を瞬かせた。
「当たり前でしょ? 自分のクラスから出てもらうんだから!」
「いや、まあ、それはそうだけど……」
「ご主人が応援してくださるのでしたら、心強いです」
「……っ」
しろがいつもの調子で微笑む。ただそれだけなのに、湊はなぜか返事に少し困ってしまった。
「も、もちろん応援、します、俺も」
「ありがとうございます、ご主人」
しろは丁寧に頭を下げた。その様子を見ていたひまりは、二人に気づかれないように小さく笑った。
「じゃあ、決まりだね! クラスのみんなにも伝えてこようよ!」
「ああ、そうだな」
湊は頷き、しろに向き直った。
「じゃあしろさん、よろしくお願いします」
「はい、こちらこそよろしくお願いいたします」
しろは笑顔で答えた。こうして、保護者参加の徒競走に出場する人物が決まった。文化祭でクラスを支えてくれたしろが、今度は体育祭の競技に参加する。その知らせを聞いたクラスメイトたちが、どんな反応をするのか。そして、普段は落ち着いているしろが、グラウンドを走る姿はどんなものなのか。
湊はまだ知らない。ただ一つ確かなのは――自分が思っていた以上に、その競技を楽しみにしているということだった。
◇
保護者参加の徒競走。その名前だけを聞けば、和やかな雰囲気の中で行われる、ちょっとしたお楽しみ競技を想像するだろう。実際、参加者の大半はそうだった。
「いやあ、こういうのに出るのも久しぶりだなあ」
「俺なんか、昨日から足がつりそうで怖いよ」
「無理せず、ゆっくり走りましょうね」
グラウンドの一角に設けられた参加者用の待機場所。そこには、自らの息子や娘の応援に来た保護者たちが集まっていた。父親と思われる男性が多く、年齢層はおおむね四十代から五十代。中には祖父母と思われる参加者もいる。皆、競技に参加するというより、体育祭の思い出づくりに、という雰囲気だった。
そんな中――
「……あの、こちらが保護者参加の徒競走の受付でよろしいでしょうか?」
ひときわ落ち着いた声が響いた。受付を担当していた教師が顔を上げる。
「はい。 では、参加される方のお名前と、お子さんのクラスを……」
そこで、教師の言葉が止まった。目の前に立っていたのは、白いブラウスに動きやすそうなパンツ姿の女性だった。長い髪を邪魔にならないようにまとめ、手には小さなタオルと飲み物を持っている。どう見ても、二十代前半。いや、下手をすれば大学生と間違えてもおかしくない。
「あの……?」
しろが不思議そうに首を傾げる。
「あっ、失礼しました! ええと、お名前をお願いします」
「雪代しろと申します。 ご主人……いいえ、朝比奈湊の家のものです」
「朝比奈くんの……?」
教師は手元の名簿を確認した。朝比奈湊。二年C組。そして、保護者欄には両親の名前が記載されている。備考欄には、『同居人・雪代しろ』の名前もあった。
「ああ、なるほど。 ご家族の方ではなく、同居されている方なんですね」
「はい。 学校の許可はいただいております」
「そうでしたか」
「確認できたので、こちらにお名前をお願いします」
「ありがとうございます」
しろは丁寧に頭を下げ、用紙に名前を書き込んだ。教師はその様子を見ながら、内心で首を傾げていた。
若い。
とにかく若い。
保護者参加の競技なのだから、当然ながら参加者は大人ばかりだ。二十代の参加者が絶対にいないわけではないが、それでもかなり珍しい。ましてや、しろのように落ち着いた雰囲気の若い女性となると、なおさらだった。
「……あの、失礼ですが」
「はい?」
「おいくつでいらっしゃいますか?」
聞くつもりはなかった。だが、気がついたときには口から出ていた。しろは一瞬だけ目を瞬かせ、それから穏やかに答えた。
「二十三歳です」
「に、二十三……!?」
教師の声が、思わず裏返った。近くにいた別の教師が振り向く。
「どうしたんですか?」
「いえ、こちらの方が……二十三歳だそうで」
「二十三歳?」
その声を聞いた数人の保護者たちも、つられるようにしろを見た。
「えっ、二十三歳?」
「お母さま……なわけないし、お姉さんかな?」
「勝てる気がしない……」
ざわざわと声が広がっていく。しろは少し困ったように微笑んだ。
「皆さま、どうかなさいましたか?」
「い、いえ! 何でもありません!」
教師が慌てて首を振る。しかし、周囲の視線はなかなか収まらなかった。無理もない。この場にいる参加者の大半は、子どもを持つ父親や母親だ。中には二十代後半の若い保護者もいるだろうが、それでもしろの若さと落ち着いた佇まいは目を引いた。しかも、本人はまったく気にしていない様子で、受付の案内に従って待機場所へ向かっている。
「いやあ、若いねえ……」
「うちの娘とそんなに変わらないんじゃないか?」
保護者たちの会話が、妙な方向へ転がっていく。その中で、一人の男性が感心したように声をかけた。
「お姉さん、今日はよろしくお願いします」
「はい。 こちらこそ、よろしくお願いいたします」
「いやあ、うちの息子なんか、朝から友達と騒いでばかりでね。 お姉さんみたいに落ち着いててくれればいいんだけど」
「ふふっ。 お友達と楽しく過ごされるのも、素敵なことだと思いますよ」
「ははは、そう言ってもらえると助かるなあ」
しろは柔らかな笑顔で応じた。その受け答えを見て、男性はさらに感心した様子だった。
「いやあ、しっかりしてるねえ」
「ありがとうございます」
しろは軽く頭を下げた。……ただし、彼女がこれから参加する競技の内容については、まだ詳しく知らされていなかった。
◇
一方、その頃。二年C組の待機場所では、湊たちが次の競技の準備を見守っていた。
「おっ、しろさん、受付終わったみたいだぞ!」
優斗が観覧スペースのほうを指差した。
「本当だ」
湊もそちらへ目を向ける。しろは保護者たちの中に混じって、案内を受けているところだった。
「いやー、こうして見ると、やっぱり若いなあ」
優斗がしみじみと言った。
「お前、さっきからそればっかりだな」
「だって、周りのお父さんたちと並んでると、なんか不思議じゃないか? しろさんだけ、別の競技に参加しに来たみたいだぞ」
「……まあ、確かに」
湊も否定できなかった。普段、しろは朝比奈家で働いている。家の中では落ち着いた大人の女性という印象が強いが、こうして同年代に近い大人たちと並ぶと、彼女がまだ二十三歳なのだということを改めて実感する。自分が中学一年生だった頃から、ずっとそばにいてくれた人。それでも、しろ自身の人生がある。そう考えると、少しだけ不思議な気持ちになった。
「湊、しろさん、何か説明受けてるぞ?」
「ん?」
ひまりに言われて視線を戻す。ちょうど、競技担当の教師がマイクを手に取り、保護者たちに説明を始めたところだった。
『それでは、保護者参加の徒競走について説明します! 参加者の皆さまは、係員の指示に従って準備をお願いします!』
参加者たちが一斉に顔を上げた。
『今回の競技は、トラックを一周する四百メートル走です!』
「……四百メートル?」
湊は思わず聞き返した。隣で優斗が固まる。
「……え?」
ひまりも目を丸くした。
「四百メートルって、トラック一周だよね?」
「そうだけど……」
湊はグラウンドを見た。
四百メートル。それは陸上競技においても、短距離走の中では特にきつい種目として知られている。全力で走り切るには相応の体力が必要で、普段から運動していない人間にとっては、かなり厳しい距離だ。
もちろん、体育祭の保護者競技なのだから、競技者同士が本格的にタイムを競うわけではないのだろう。……それでも、四百メートルである。
「いやいやいや、保護者競技だよな? もっとこう、五十メートルとか、せめて二百メートルとかじゃないのか?」
優斗が困惑した声を上げた。
「俺に言われても……」
「しろさん、走れるかな?」
ひまりが心配そうに呟く。湊も、思わずしろの姿を探した。しろは教師の説明を聞きながら、少しだけ驚いたように目を丸くしていた。どうやら、さすがの彼女も四百メートルだとは思っていなかったらしい。それでも、すぐに表情を整え、真剣な様子で頷いている。
「……大丈夫かな」
湊は小さく呟いた。すると、隣から優斗が肩を叩いてきた。
「おい、湊。 ちゃんと応援してやれよ」
「分かってるよ」
「いや、なんかお前、俺より心配そうな顔してるぞ」
「……うるさい」
湊は目をそらした。優斗はニヤニヤと笑ったが、それ以上は何も言わなかった。
◇
やがて、参加者たちはスタート地点へと案内された。四百メートル走は、年齢や性別によって組を分けるのではなく、参加者全員がいくつかの組に分かれて走る形式らしい。しろは最初の組ではなく、後半の組に割り当てられていた。
「それでは、第一組の皆さま、スタート地点についてください!」
教師の声が響く。参加者たちが位置につき、観覧席からは応援の声が上がった。
「お父さーん、頑張ってー!」
「無理しないでねー!」
「転ぶなよー!」
温かい声援に包まれながら、第一組の競技が始まる。参加者たちはそれぞれのペースで走り出した。最初から勢いよく飛び出す人もいれば、周囲に合わせてゆっくり走る人もいる。中には、スタート直後こそ元気だったものの、半周もしないうちにペースを落とす人もいた。
「頑張れー!」
「あと半分だよー!」
観客たちの声援が響く。やがて、第一組の参加者たちが次々とゴールした。息を切らしながらも笑顔で戻ってくる人、膝に手をついて呼吸を整える人、走り終えた直後から「いや、四百メートルは聞いてないよ!」と笑いながら訴える人。それぞれが思い思いの反応を見せていた。
「……あれ、結構きつそうだな」
湊が呟く。
「だろ? 俺、今からでも代わりに走ってきていいかな?」
「お前、保護者じゃないだろ」
「心は保護者だ!」
「意味が分からん」
優斗の冗談に、ひまりがくすくすと笑った。しかし、湊の視線は再びスタート地点へ向かっていた。しろの組が近づいている。彼女は係員の案内に従い、スタート地点の手前で待機していた。周囲には、先ほど受付で話していた男性たちと同じような年齢の参加者が並んでいる。中には、しろの若さが気になっているのか、ちらちらと彼女を見ている人もいた。
「お姉さん、陸上か何かやってたの?」
隣にいた男性が、気さくに声をかけた。
「いえ、特には。 学生時代も、普通に過ごしておりました」
「そうなの? いやあ、若いから、てっきり現役の選手かと思っちゃったよ」
「そんなことはありませんよ」
しろは困ったように微笑んだ。
「でも、若いんだから、きっと走れるよ。 こっちはもう、完走できれば御の字だからね」
「ふふっ、私も、最後まで走り切れるよう頑張ります」
「お互い、無理せずいきましょう」
「そうですね」
しろは小さく頷いた。その表情に、気負った様子はない。
もちろん、四百メートルという距離に多少の不安はある。けれど、せっかくクラスの皆さまが誘ってくださったのだ。引き受けたからには、できる限り頑張りたい。
そう思っていた。
『それでは、次の組の皆さま、スタート地点へお願いします!』
放送が響く。しろは係員に促され、スタートラインへと歩いていった。観覧席では、湊がすでに立ち上がっていた。
「しろさん……」
「湊、そんなに前に出たら、ほかの人の邪魔になるよ」
ひまりに言われ、湊は慌てて一歩下がった。
「わ、分かってるよ」
「ふふっ、心配なんだね」
「……そりゃ、四百メートルだぞ。 結構きついだろ」
「うん。 でも、しろさんなら大丈夫だよ」
ひまりはそう言って、スタート地点を見つめた。湊も、もう一度しろの姿を追った。しろはスタートラインに立ち、係員の説明に耳を傾けている。周囲の参加者たちも、少しずつ走る準備を整え始めていた。
四百メートル。
たった一周。
けれど、その一周がどれほど長く感じられるのか、湊には想像もつかなかった。
『それでは、位置についてください!』
教師の声が響く。しろは小さく息を吸い、スタートラインの前で姿勢を整えた。観覧席から、クラスメイトたちの声が飛ぶ。
「しろさーん! 頑張ってー!」
「ファイトー!」
その声に気づいたのか、しろが顔を上げた。そして、湊たちのいる方向を見つけると、ほんの少しだけ微笑んだ。
「……頑張ってください、しろさん」
湊は、誰にも聞こえないくらい小さな声で呟いた。やがて、スタートの合図を告げるピストルが構えられる。しろは前を向いた。四百メートルの徒競走。そのスタートが、今幕を開けようとしていた。
◇
パンッ!
乾いた号砲が、グラウンドに響き渡る。その瞬間。
「…………え?」
誰かが、間の抜けた声を漏らした。スタートラインに並んでいた保護者たちが一斉に走り出す。その中で、ひときわ目を引く白い影があった。
しろである。
地面を蹴る足。ぶれない上半身。腕の振りと呼吸、そして一歩ごとに前へと伸びていく長い脚。その走りは、あまりにも美しかった。ただ速いのではない。無駄がないのだ。まるで陸上競技の選手が走っているかのような、洗練されたフォーム。
スタートからわずか数秒。
しろは、隣を走っていた男性を抜き去った。さらにその数秒後、前方を走る参加者たちを次々と追い越していく。
「は?」
「えっ、ちょっと待って!?」
「速っ!?」
スタート地点付近で、先生たちがそろって目をむいた。保護者席からも驚きの声が上がる。何しろ、先ほどまで「若いお嬢さんが頑張って走る微笑ましい競技」くらいに思われていたのだ。まさか、その若いお嬢さんが、競技場に現れても何ら違和感のない走りを披露するとは誰も予想していなかった。しろは涼しげな表情のまま、コーナーへと差しかかった。
400メートル。
トラック一周。
保護者競技としては、どう考えても距離の設定がおかしい。しかし、しろの走りには迷いがなかった。コーナーを抜け、最後の直線へ。その時点で、すでに後続との差は大きく開いていた。
「…………」
湊は、口を開けたまま固まっていた。隣では優斗も同じ顔をしている。
「……湊」
「……何?」
「お前んちのメイドさん、何者?」
「俺が聞きたい」
湊の声は、かすれていた。いや、本当に何者なのだろう。毎朝、朝比奈家の食卓に完璧な朝食を並べ、屋敷の隅々まで綺麗に整え、こちらが頼む前に必要なものを用意してくれる。たまに休日には、信じられないほど高級そうな車を運転している。そのうえ、走らせてみればこれである。しろのスペックを一つずつ知るたびに驚いていたら、こちらの心臓がもたないのである。
「しろさん、頑張れーっ!」
ひまりの声が、歓声の中を突き抜けた。その声に応えるように、しろは最後の直線を駆け抜ける。ゴールテープを切った。ぶっちぎりの一位。圧勝だった。
「うおおおおおおおっ!」
「しろさんすげえええええ!」
「うちのクラスの保護者、強すぎるだろ!」
「いや、保護者っていうか、あれもう選手だろ!」
C組の生徒たちが、まるで自分たちのクラスが全国大会で優勝したかのような騒ぎ方を始めた。そもそも、しろはC組の生徒ではない。そのうえ保護者でもなく、朝比奈家の使用人である。しかし、そんな細かい分類など、今の彼らにはどうでもよかった。文化祭で自分たちを助けてくれた人が、競技で圧倒的な勝利を収めた。それだけで十分だった。
「やったあああ! しろさん、一位だーっ!」
ひまりも両手を上げて喜んでいる。優斗は湊の肩を揺さぶった。
「おい湊! 見たか今の! お前、あの人に毎朝起こしてもらってるんだよな!? そのうえ朝ごはんまで作ってもらってるんだよな!? 人生の勝者か!? お前は人生の勝者なのか!?」
「うるさい! 今それどころじゃない!」
湊は優斗の手を振りほどき、ゴールの先へと視線を向けた。そこには、しろがいた。正確には、ゴール直後のしろが、少しだけふらついていた。さすがに全力で400メートルを走り切ったのだ。ゴールした瞬間までは完璧だったが、走り終えた途端、張り詰めていたものが切れたらしい。
「あっ……」
しろの足元が、わずかによろめいた。身体が前へ傾く。
次の瞬間。
「しろさん!」
湊は、考えるよりも先に走り出していた。ゴールの後ろで大騒ぎしているC組の生徒たちの輪を抜け、しろのもとへ駆け寄る。そして、倒れそうになった彼女の身体を、とっさに支えた。
「大丈夫ですか!?」
「……ご主人?」
しろは驚いたように目を見開いた。湊の腕が、しろの身体をしっかりと支えている。ほんの一瞬。周囲の歓声が、遠くなった気がした。
「無理しないでください! いきなりあんな全力で走るから……!」
「す、すみません……少し、力が抜けてしまって」
しろは申し訳なさそうに答えた。けれど、その頬はほんのりと赤くなっていた。全力疾走のせいだけではない。目の前にいる湊が、誰よりも早く自分のもとへ駆けつけてくれた。その事実が、しろの胸を妙に騒がせていた。
「……ありがとうございます、ご主人」
「い、いえ! 当然ですから!」
湊はそう返したものの、しろの顔をまともに見られなかった。
近い。
とにかく、近い。
普段から同じ家で暮らしている相手だというのに、こうして支えていると、いつもとは違う距離感を意識してしまう。しかも、しろの頬は赤い。自分の頬まで熱くなってきた気がする。いや、これはきっと暑さのせいだ。十月の体育祭で暑さのせいにするのは、少々無理がある気もするが、今の湊にそんなことを考える余裕はなかった。
「「…………」」
二人の間に、妙な沈黙が落ちる。そして、
「「「うおおおおおおおおおおおおおっ!!!」」」
C組の面々が、爆発した。
「何今の!? 何今の!?」
「ゴールした瞬間に駆け寄るの、漫画じゃん!」
「朝比奈! お前、反応速度どうなってんだよ!」
「いや、しろさんが一位になったことより、今のシーンのほうが気になるんだけど!?」
「お前ら、しろさんに聞こえてるからな!?」
湊が叫ぶ。しかし、誰も聞いていなかった。優斗は腹を抱えて笑い、ひまりは両手で口元を押さえながら、何とも言えない笑顔を浮かべている。
「……ふふっ」
しろも、小さく笑った。
「ひまりさま、皆さまはとても楽しそうですね」
「うん、そうだね……湊も、すっごく楽しそう」
「ひまり!?」
「えー? だって、湊、顔真っ赤だよ?」
「それは……!」
湊は反論しようとした。しかし、うまい言葉が出てこない。しろが、くすりと笑う。
「ご主人」
「私も、少し恥ずかしいです」
「…………っ!」
追い打ちだった。湊はついに、しろの顔を見られなくなった。それでも、支えていた腕を離すのは、しろがきちんと立てることを確認してからだった。しろが自分の足で立ったのを見届けて、ようやく一歩下がる。
「……本当に、お疲れさまでした。 すごかったです、しろさん」
今度は、少しだけ素直に言えた。しろは一瞬きょとんとしたあと、柔らかな笑顔を浮かべた。
「ありがとうございます、ご主人。 皆さまが応援してくださったおかげです」
「いや、あれは応援するとかいう次元じゃなかったですけどね……」
湊は苦笑した。しろは困ったように首を傾げる。
「そうでしょうか?」
「そうですよ」
間違いない。少なくとも、あの走りを見た先生たちが、今後しろを普通の保護者参加競技に誘うことは二度とないだろう。そして、C組の生徒たちにとっては、文化祭の恩人が体育祭でも伝説を作った日として、長く語り継がれることになるのは、またいつかのお話。
ただし。
その伝説の中心人物であるしろは、自分がどれほど周囲を驚かせたのか、いまひとつ理解していなかった。そして湊は、自分が彼女を支えた、ほんの数秒の出来事を。なかなか忘れられそうになかった。
五十三話でした。しろさん、あなた一体何者なんですか。朝食を作れます。掃除もできます。運転もできます。礼儀作法も完璧です。おまけに400メートルをぶっちぎりで走れます。もう朝比奈家の使用人という肩書きが追いついていません。そろそろプロフィール欄に「※一部の競技でオリンピック選手を超える可能性があります」とでも書いておくべきでしょうか。なお、今回の走りについては、作者も書きながら「いや、速すぎない?」と思いました。でも考えてみてください。ここで普通に走って、普通にゴールして、普通に「お疲れさまでした」で終わったら、わざわざ一話使う意味がないじゃないですか。イギリスの詩人は「事実は小説より奇なり」とか言ってますがどう考えても小説の勝ちです。小説というものは、ときに現実を超えなければならない。いや、超えるにしても限度があったかな。そして今回、もう一つ重要なのはゴール後です。転びそうになったしろを、湊がとっさに支える。頬を赤らめるしろ。照れる湊。それを見逃すはずもないC組の面々。……青春だなあ。いいですねえ。こういう、本人たちはちょっと意識しているのに、周囲は本人たち以上に盛り上がっている展開。作者としても大好物です。ただし、湊くん。君はそろそろ、自分がしろさんをどれだけ特別に思っているのか、少しくらい自覚してもいいんじゃないかな。いや、急かしているわけではありません。急かしているわけではありませんが、読者の皆さんがいつまでも待ってくれると思ったら大間違いだぞ。作者だって、いつまでも二人の微妙な距離感を書き続けられるわけではないのです。……いや、書き続けられるな。むしろ一生書けるな。というわけで、体育祭もそろそろ佳境。作者の筆も、読者の皆さんの忍耐力も、どこまで持つのか。どうぞ、温かい目で見守っていただければ幸いです。感想、ブックマーク等お待ちしております。それでは、また次回!




