第六話 たまにはゆっくりしましょう
第6話です。湊としろのお買い物回です。
週末・土曜日の朝。カーテンの隙間から差し込む柔らかな陽射しが、湊の部屋を優しく照らしていた。
「ん……」
目覚まし時計を見る。午前八時。平日なら登校の準備をしている時間だが、今日は休日。慌てて起きる必要はない。湊はベッドからゆっくりと身体を起こすと、大きく伸びをした。
「いい天気だな」
窓を開ける。少しひんやりとした風が部屋へ流れ込み、庭の木々がさらさらと葉を揺らしていた。下の階からは、包丁がまな板を叩く規則正しくも心地よい音が聞こえてくる。
「しろさん、もう起きてるんだ。」
湊は軽く身支度を整え、一階へ降りた。
◇
キッチンでは、しろが朝食を作っていた。フライパンでは目玉焼きが香ばしい音を立て、鍋からはスープの湯気が立ち上っている。
「……おはようございます、ご主人。」
「おはようございます」
湊は欠伸をしながら笑った。
「今日は早いですね」
「……休日なので」
「?」
「朝寝すると、もったいないですから」
「珍しい」
思わず口から出た。
「しろさんがそんなこと言うなんて」
「……。」
しろは少しだけ考える。
「……もちろん、二度寝はさせていただきます」
「……ですよね。」
「はい」
真顔で頷く姿に、湊は苦笑した。
◇
朝食を食べ終え、二人で食器を片付ける。その最中、しろが冷蔵庫を開けた。
「……ご主人」
「はい?」
「牛乳がありません」
中を覗くと、本当に空だった。
「卵も残り二個です」
「野菜も少ないですね」
「そうですね」
湊も頷く。
「買い物、行きましょうか」
「買い物でしたら、一人で行くつもりですので――」
「今日は僕も行きます。」
「荷物持ちくらいできますし」
しろは少しだけ目を丸くした。
「……ありがとうございます」
◇
三十分後。玄関で靴を履いていた湊は、ふと廊下の奥を見た。
「しろさん?」
「……はい」
部屋の扉が開く。そこから現れたしろを見て、湊は一瞬言葉を失った。
「……。」
メイド服ではない。白いオーバーサイズのパーカー。淡いベージュのロングスカート。白いスニーカー。肩からはキャンバス地のトートバッグを提げている。銀色の長い髪は後ろでゆるく一つにまとめられ、いつものきっちりした雰囲気とは違い、どこか年相応の柔らかさがあった。
メイドではなく、ごく普通の二十三歳の女性。
そんな印象だった。
「……どうかされましたか?」
しろが首を傾げる。
「あ、いえ……」
湊は慌てて視線を逸らす。
「その、」
「私服、初めて見たなって。」
「……お出かけですから」
「そうですよね」
「似合っていませんか」
珍しく、しろの方から尋ねた。湊はすぐに首を横へ振る。それはもう大きく。
「いえ!」
「すごく似合ってます!」
「その……」
「可愛いです」
口にした瞬間、自分でも少し照れてしまった。
「……」
しろは黙ったまま湊を見つめる。
数秒後。
「……ありがとうございます」
そう言って、ほんの少しだけ口元を緩めた。それは本当にわずかな変化だったが、湊にはちゃんと分かった。
(……笑った。)
その笑顔を見て、胸が少しだけ高鳴る。
「じゃあ、行きましょうか」
「……はい、ご主人」
二人は並んで玄関を出た。春の陽気に包まれた住宅街を、ゆっくりと歩き始める。住宅街を吹き抜ける風が、湊の整えられた髪を撫で、しろの銀色の髪をふわりと揺らした。休日の朝。平日とは違い、車の通りも少ない。犬の散歩をする人や、ジョギングをする人がゆっくりと行き交い、街全体が穏やかな空気に包まれていた。湊としろは肩を並べて歩く。どちらも口数は多くない。けれど、不思議と気まずさはなかった。
「……今日は暖かいですね」
しろが空を見上げながら言う。
「そうですね」
「買い物日和です」
「お昼寝日和でもありますけど」
「……それもありますね」
真顔で頷くしろに、湊は思わず笑ってしまう。
「やっぱりそっちですか」
「……休日ですし」
「また帰ったら寝る予定ですか?」
「はい」
「即答ですね」
「夕飯の準備までは寝ます。」
「計画的犯行だなぁ」
そんな他愛もない話をしながら歩いていると、向こうから近所のおばあさんが歩いてきた。
「あら、湊くん」
「おはようございます」
湊は笑顔で頭を下げる。
「おはよう。」
「あらあら」
おばあさんはしろを見て、にこにこと目を細めた。
「今日はメイド服じゃないのねぇ」
「……休日ですので」
「私服も可愛いじゃない」
「ありがとうございます。」
おばあさんは二人を交互に見て、どこか嬉しそうに笑った。
「本当に仲がいいわね」
「え?」
湊が聞き返す。
「まるで仲のいい姉弟みたい。」
「あはは……」
湊は苦笑いする。しろはいつも通り無表情のまま、小さく会釈した。
「それじゃ、行ってらっしゃい」
「はい」
「行ってきます」
おばあさんが手を振りながら去っていく。その姿が見えなくなると、湊がぽつりと呟いた。
「姉弟、ですか……」
「……そうですね」
しろも小さく頷く。
「ご主人は年下ですし」
「でも、しろさんの方がしっかりしてるから、本当にそう見えるのかもしれませんね」
「……かもしれません」
◇
十分ほど歩くと、大型スーパーが見えてきた。自動ドアが開くと、ひんやりとした空気が二人を迎える。
「まずは野菜からですね」
「……はい」
しろは買い物かごを手に取ると、迷いなく野菜売り場へ向かった。
「キャベツ」
スッ。
「玉ねぎ」
サッ。
「じゃがいも」
シャッ。
まるで迷いがない。湊はその様子を見ながら笑う。
「しろさんって、本当に買い物が早いですね」
「……買う物が決まっていますので」
「献立ももう決まってるんですか?」
「ええ。 三日分ほど。」
「三日分!?」
「……はい。」
トマトを手に取りながら続ける。
「今日は豚の生姜焼き、」
「明日は肉じゃが、」
「明後日はカレーです。」
「全部決まってる……。 すごい」
湊は感心するばかりだった。冷蔵庫の中身を見ただけで献立を組み立て、必要な物だけを買う。無駄がまったくない。やはり完璧なメイドである。睡眠が大好きな点を除いて。
「これ、全部頭の中なんですか?」
「……慣れていますから。」
しろはさらりと言ってのける。そのときだった。
「あっ」
しろの足が止まる。
「どうしました?」
「……」
しろは棚をじっと見つめている。そこに並んでいたのは、お菓子売り場だった。色とりどりの袋が所狭しと並んでいる。その中でも、あるチョコレート菓子にしろの視線が釘付けになっていた。
「……」
「しろさん?」
「……新しい味」
ぽつりと呟く。湊は思わず笑ってしまった。
「好きなんですか?」
「……たまに食べます」
「買います?」
「……」
しろは値札を見る。商品を見る。もう一度値札を見る。
「……いえ、我慢します」
「え?」
「今月はまだありますし」
「十分予算ありますよ?」
「……そんな贅沢私にはもったいないです」
そう言って立ち去ろうとするしろ。その背中を見ながら、湊は少しだけ考えた。普段、自分のためにはほとんどお金を使わない。欲しい物があっても、「なくても困らない」と諦めてしまう。それが、しろという人だった。湊は棚からそのチョコレートを一つ手に取る。
「ご主人?」
「今日は休日ですから」
かごの中へ、そっと入れた。
「これは僕からの、感謝の気持ちです」
「……」
しろはかごの中をじっと見つめる。しばらく何も言わなかった。そして、小さく息を吐く。
「……ありがとうございます」
その声はいつもと変わらず静かだった。けれど、耳までほんのり赤くなっていたことには、湊は気づかなかった。買い物かごは、いつの間にかいっぱいになっている。野菜に肉、牛乳、卵、調味料、そしてチョコレート菓子。しろと、湊が手際よく選んだ食材がきれいに並んでいる。
「これで全部ですかね」
湊がメモを確認する。しろもかごの中を一通り見渡した。
「……はい」
「買い忘れはありません」
「さすがです」
「……慣れていますので」
そう言いながらも、かごの隅には湊が入れたチョコレート菓子がちょこんと収まっていた。しろは何度かそれに視線を向けては、少しだけ口元を緩める。その様子を見て、湊も自然と笑顔になった。
◇
レジを済ませ、二人はスーパーを出る。店を出た瞬間、昼前の柔らかな日差しが降り注いだ。
「結構買いましたね」
「そうですね」
湊は大きな買い物袋を二つ持ち上げる。
「僕が持ちますよ」
「……いえ、持たせていただきます」
「大丈夫ですよ」
「ご主人だけでは重いです」
「高校生を甘く見ないでください。」
「……」
しろは湊の顔をじっと見つめる。
「……では」
素直に小さい方の袋を受け取った。
「ありがとうございます。」
「いいえ」
二人は並んで歩き始める。その歩幅は自然と揃っていた。
◇
帰り道。公園の前を通りかかると、元気な子どもたちの笑い声が聞こえてきた。
「鬼ごっこだー!」
「待てー!」
滑り台やブランコの周りを、小学生くらいの子どもたちが走り回っている。その光景を見て、しろはふと足を止めた。
「……平和。」
「そうですね」
湊も立ち止まる。
「休日って感じがします」
しばらく二人で公園を眺める。すると、一人の小さな男の子が転んでしまった。
「うわっ!」
膝を擦りむいたらしく、その場で泣き出してしまう。
「いたいぃ……」
近くにいた母親が慌てて駆け寄った。
「大丈夫、大丈夫」
優しく頭を撫でる。男の子は涙を拭きながら立ち上がった。その様子を見届けると、しろは小さく息を吐く。
「……よかった」
湊は横顔を見つめる。
「しろさん、子ども好きなんですか?」
「……嫌いじゃないです」
「意外でした」
「そうですか?」
「なんとなく、興味ないのかなって」
「……泣いてる子を見るのは好きじゃないです」
短い言葉だった。けれど、湊にはそれだけで十分にしろの優しさが伝わってくる。
「ご主人も」
「え?」
「昔、泣いてる子を助けたんですよね」
「ああ、この前の子ですか」
「……はい」
しろは少しだけ微笑む。
「やっぱり、ご主人らしいです」
「またそれですか」
「……はい」
「褒めすぎですよ」
「褒めてません」
「え?」
「誇っているのです」
真顔でそう言われると、湊は何も返せない。
「ありがとうございます」
照れ隠しのように笑うしかなかった。
◇
朝比奈家へ戻ると、時計の針は十一時半を指していた。
「ただいま」
「……ただいまです」
玄関へ荷物を運び込み、二人で冷蔵庫へ食材をしまっていく。
「牛乳はここへ」
「卵は……」
「上の段です」
いつもの連携だ。そんな中で、しろがチョコレート菓子だけは自分の手で大切そうにしまっていた。その光景を横目にしながら湊はしろとともに着々と片付けを進め、ほんの5分ほどで終わった。
「終わりましたね」
湊が額の汗を拭う。
「ありがとうございました」
「こちらこそ」
しろはそう言うと、リビングへ向かった。
ソファの前まで歩き――
「……」
ぴたりと止まる。
「どうかしました?」
湊が声を掛ける。しろはソファを見つめたまま、小さく呟いた。
「……眠い」
次の瞬間。ぽすっ。操り人形の糸が切れたように、ソファへ倒れ込んだ。
「えっ」
湊が慌てて近寄る。
「しろさん!?」
「……」
返事がない。すでに目は閉じられ、規則正しい寝息が聞こえ始めていた。
「え早っ」
買い物から帰ってきて、その間わずか6分。完全に眠ってしまっている。思わず苦笑する湊。
「本当に寝るの好きなんですね……」
そう呟くと、棚から薄手のブランケットを取り出し、しろの肩へそっと掛けた。
「風邪ひきますよ」
「……ん」
寝返りを打ったしろが、小さくブランケットを抱き寄せる。どこか安心したような寝顔だった。その姿を見ていた湊は、小さく笑う。
「おやすみなさい、しろさん」
穏やかな休日の昼。静かなリビングには、時計の音と、しろの静かな寝息だけが流れていた。
そんな何気ない時間こそ、湊にとってはかけがえのない日常だ。
第6話でした。お楽しみいただけたでしょうか。相変わらず「ご主人<睡眠」なしろでしたが、この式が書き換えられるときは訪れるんでしょうか。感想、ブックマーク等ぜひお願いいたします。第七話もお楽しみに。




