第四十四話 絆はつづくよどこまでも
第四十四話です。家族が帰ってきた。そう思ったら、もう帰っていく。夏休みって短いですね。今回は、そんな朝比奈家の夏休みを締めるお話です。湊にとっても、しろにとっても、久しぶりに家族四人で過ごした時間。だからこそ、別れの朝は少し寂しい。……まあ、両親には別に二度と会えなくなるわけじゃないんですけどね。というわけで、第四十四話。「いってらっしゃい」のお話です。それでは、どうぞ。
夏休みも、少しずつ終わりに近づいていた。朝比奈家の朝は、以前より少しだけ静かになっていた。両親が帰ってきてからというもの、家の中にはずっと人の気配があった。父の笑い声。母が台所で食器を並べる音。湊が階段を下りてくる足音。そして、しろの「おはようございます」という声。四人で食卓を囲む。それだけのことが、妙に新鮮だった。
「……で、いつまでいるの?」
朝食を食べながら、湊が何気なく尋ねた。
「ん?」
恒一がトーストをくわえたまま顔を上げる。
「父さんたち。 今回、いつまで日本にいるの?」
「あー……」
恒一が美咲を見る。美咲も、少しだけ困ったように笑った。
「明後日よ」
「……明後日?」
「うん」
湊の箸が止まった。
「もう?」
「もう、なのかしらね」
美咲は穏やかに言った。仕事の予定は、帰国する前から決まっていた。母は海外の医療支援へ。父は次の取材先へ。二人とも、それぞれ戻らなければならない場所がある。分かっていた。分かっていたはずなのに。
「……そっか」
湊はそれ以上、何も言えなかった。隣では、しろも黙って朝食を食べている。五年間。彼女にとっても、両親が家にいる時間は決して長くなかった。だからこそ、この数日間は少し特別だったに違いない。母と一緒に料理をした。父と湊が地下のガレージで車の話をしているのを聞いた。四人で食卓を囲んだ。何でもない話をして。何度も笑った。――それが、終わる。
「まあ、でも」
恒一が突然、明るい声を出した。
「明日までなら、まだ二日ある!」
「二日もないよ」
湊が冷静に突っ込む。
「細かいことはいいんだよ」
「細かくない」
恒一が笑う。美咲も小さく笑った。しろも、つられて笑う。けれど。笑ったあとに残った静けさは、少しだけ寂しかった。
◇
その日の午後。しろは洗濯物を取り込んでいた。庭から見える空は、まだ夏の色をしている。蝉の声も聞こえる。なのに、夏は、もう終わりへ向かっていた。
「……早いですね」
誰に言うでもなく、しろが呟く。五年前も。四年前も。毎年、同じように夏は過ぎていった。ただ今年は、少しだけ違った。家族が帰ってきて、四人で過ごして、そしてまた、送り出す。
「……いってらっしゃい、か」
しろは小さく呟いた。その言葉を口にする日が、もうすぐやってくる。洗濯物を抱えたまま、しろはしばらく青い空を見上げていた。
◇
その日の夜。朝比奈家のリビングには、夕食を終えた四人が揃っていた。テレビから流れる音を聞きながら、湊はソファに座っている。その隣では、しろが食後のお茶を飲んでいた。向かいには恒一と美咲。普段なら、何気ない会話が続いている時間だった。
「そういえば湊」
恒一が口を開く。
「夏休みの宿題、終わったか?」
「……終わってる」
「本当か?」
「本当だよ」
「じゃあ見せてみろ」
「なんで父さんに見せなきゃいけないんだよ」
「親として確認する義務が――」
「絶対面白がってるだけだろ」
恒一が笑う。
「まあな」
「認めるなよ……」
しろが思わず吹き出した。美咲も笑っている。そんなやり取りをしていると、本当に明日両親が帰ってしまうのか、分からなくなる。ずっとこうしているような気さえする。
「……私ね」
美咲が静かに口を開いた。
「今回、帰ってきてよかったと思うの」
湊が顔を上げる。
「急にどうしたの」
「こうして四人で過ごせたでしょう?」
美咲は湊を見る。
「昔みたいだったから」
「……昔?」
「湊が小さかった頃」
湊は少し考えた。
「……あんまり覚えてないな」
「そう?」
「父さんが車の話ばっかりしてたのは覚えてる」
「それは今もだろ」
「あと母さんが、父さんに『また無茶して』って言ってた」
「それも今もね」
三人で笑った。しろも、その会話を聞きながら微笑んでいる。すると、恒一がふと思い出したように言った。
「そういや、しろちゃんが来たばっかりの頃も、こんな感じだったな」
「……え?」
しろが驚く。
「まだ敬語ガチガチだった頃」
「今も敬語ですけど」
「いや、今はもっと自然だよ」
恒一が笑う。
「最初なんて、俺が話しかけるたびにすごい緊張してたじゃん」
「……あの頃は、まだ皆さんのことをよく知りませんでしたから」
「湊なんて中一だったしな」
「そうですね」
しろが湊を見る。
「ご主人は、あの頃からあまり変わっていませんけどね」
「俺は成長してる」
「そうでしょうか」
「成長してるよ」
湊が少しむきになったその様子を見て、両親が笑った。しろも笑う。それから少しして、美咲が立ち上がった。
「そろそろ寝ましょうか」
「ああ」
恒一も立ち上がる。明日の朝は早い。二人とも荷物をまとめなければならない。リビングから出ていこうとしたところで、湊が呼び止めた。
「……父さん、母さん」
「ん?」
「また帰ってきてよ」
短い言葉だった。恒一は一瞬だけ黙った。そして、いつものように笑った。
「もちろん」
美咲も頷く。
「また帰ってくるわ」
「……うん」
湊が笑う。しろも、その隣で静かに頭を下げた。
「お待ちしています」
その言葉を聞いて、恒一が笑った。
「じゃあ、頑張って帰ってこないとな」
そう言って、二人は階段を上がっていった。残されたリビングは、急に広く感じた。
「……明日か」
湊が呟く。
「そうですね」
しろも答える。窓の外では、夏の夜風が静かに吹いていた。楽しい時間は、いつだって終わるのが早い。だからこそ。明日はちゃんと笑って、送り出そう。しろは、そう思った。
◇
翌朝。まだ空が白み始めたばかりの時間に、朝比奈家の前へ一台の車が停まっていた。
「荷物は、こちらで全部ですか?」
しろがトランクを開けながら尋ねる。
「たぶん大丈夫よ」
美咲が確認する。
「パスポートは?」
「持った」
「航空券は?」
「持った」
「恒一さんは?」
「俺?」
「何か忘れていませんか?」
「……たぶん」
「たぶんでは困ります」
しろの冷静な返答に、湊が思わず笑った。
「父さん、相変わらずだな」
「いや、俺だってちゃんとしてるぞ」
「その『たぶん』が一番信用できないんだよ」
恒一が苦笑する。結局、出発前に荷物を三回確認して、ようやく全員が車に乗り込んだ。運転席は、しろ。助手席に恒一。後部座席に美咲と湊。
車が静かに走り出す。朝の街はまだ眠っていた。信号も、通勤する人も少ない。窓の外を流れていく景色を眺めながら、湊は黙っていた。
「眠い?」
隣の美咲が尋ねる。
「ちょっと」
「昨日、遅かったものね」
「母さんたちが帰る前に、いろいろ話したかったから」
「そうね」
美咲が微笑む。前方では、しろがハンドルを握っている。その横で恒一が窓の外を眺めていた。
「しかし、しろちゃんの運転は安心するな」
「ありがとうございます」
「俺より上手いんじゃないか?」
「それは……」
しろが少し考える。
「否定はしないでおきます」
「おい」
車内に笑い声が広がった。空港に着く頃には、朝の空もすっかり明るくなっていた。駐車場に車を停め、四人で空港の中へ向かう。搭乗手続きを終え、あとは出発するだけだった。
「じゃあ」
恒一が振り返る。
「行ってくる」
「うん」
湊が頷く。
「気をつけて」
「湊もな」
恒一は笑って、湊の頭を軽く撫でた。
「しろちゃんも、湊のこと頼むな」
「はい。 お任せください」
「……俺、子供じゃないんだけど」
「分かってるよ」
恒一が笑う。美咲がしろのほうを見る。
「しろちゃん」
「はい」
「いつもありがとう」
「……いえ」
しろは少しだけ目を伏せた。
「こちらこそ、いつもありがとうございます」
美咲は優しく笑った。
「また帰ってくるから」
「はい。 お待ちしています」
それから二人は、搭乗口へ向かって歩いていった。湊としろは、その背中を見送る。何度も振り返って手を振る恒一。その隣で笑っている美咲。二人の姿が人混みの向こうへ消えるまで、湊もしろも動かなかった。
「……行っちゃったなぁ」
「そうですね」
しばらくして、湊が小さく息を吐いた。
「帰りましょうか」
「はい」
駐車場へ戻る。帰り道は、行きより静かだった。けれど、
「……しろさん」
「はい?」
「喫茶店、寄っていきません?」
しろがちらりと湊を見る。
「喫茶店ですか?」
「朝早くてご飯食べれてないですし」
「……いいですね」
少しだけ考えてから、しろが笑った。
「行きましょうか」
しばらく走ったところで、二人は小さな喫茶店に入った。窓際の席に座る。湊はコーヒーを、しろは紅茶を注文した。
「なんか、久しぶりですね」
「そうですね」
湊が窓の外を見る。
「家に帰ったら、また二人ですね」
「……はい」
しろも同じ方向を見る。寂しくない、と言えば嘘になる。けれど、あの二人が帰ってくる場所は、ちゃんと残っている。そう思えば、不思議と少しだけ安心できた。
「しろさん」
「はい?」
「また、帰ってきてもらいましょうね」
「……そうですね」
しろは紅茶を一口飲んで、静かに笑った。
「それまで、ちゃんと家を守っておきましょう」
「ええ」
朝の喫茶店に、コーヒーカップを置く音が響く。夏休みは、まだもう少し続く。そして朝比奈家には、また二人の日常が戻ってきたのだった。
四十四話でした。両親、帰ってきたと思ったら帰りました。この作品、親の登場時間がどうにも短い。まあ仕事が仕事なので仕方ないんですが。今回は恒一と美咲がまた海外へ戻る話でした。四人で食卓を囲んだり、昔の話をしたり、最後は空港まで見送りに行ったり。こういう「何も起きないけど、あとから思い返すと大事だった」みたいな話、個人的には結構好きです。そして最後は喫茶店。この二人、何かあると喫茶店に行く。もう朝比奈家の第二リビングです。さて、両親が帰って、また湊としろの日常へ。夏休みも、そろそろ終盤。……そろそろ終わってくれ、夏。長い。感想、ブックマーク等いただけると幸いです。次回、第四十五話もお楽しみに。




