間話 恒一とポルシェ944
間話です。今回は少し時間を遡って、湊の父・恒一のお話です。本編では海外を飛び回る父親として登場している恒一ですが、そんな彼にも当然、若い頃がありました。そして朝比奈家の地下ガレージに眠る一台のポルシェ944。なぜ恒一は、この車を今まで大切に乗り続けているのか。今回はそんな「父と車」の出会いを描きます。……まあ、簡単に言えば、若者が車屋で一目惚れする話です。人生、だいたいこういうところから始まります。それでは、どうぞ。
それは、恒一がまだ若かった頃の話。朝比奈恒一、当時二十三歳。まだ戦場を飛び回る記者でもなければ、世界各地を転々とする男でもなく、ただの、車が好きな若者だった。
「……高いな」
中古車販売店の前。恒一は一台の車を眺めながら、腕を組んでいた。深い色のボディ。低い車高。丸みを帯びたヘッドライト。そして、車体の後ろには――
PORSCHE
その文字があった。
「ポルシェ944……」
店員が隣に立つ。
「お好きなんですか?」
「いや。 好きというか……」
恒一は車をじっと見る。
「こういう車が買える人生に憧れてる」
「同じようなものじゃないですか?」
「違うんだよ。 今の俺は買えない」
「でしょうね」
「即答すんなよ」
恒一は笑った。944は、当時の恒一にとって決して安い買い物ではなかった。新車ではない。年式も古い。傷だってある。それでも、妙に惹かれた。大排気量の怪物というわけではない。ただ速ければいいという車でもない。フロントにエンジンを積み、後ろにトランスアクスルを置く。重量配分を考えられた、少し変わったポルシェ。何より――
「……格好いいな」
結局、それだった。理屈なんて後からついてくる。車を好きになる理由なんて、案外そんなものだ。
「乗ってみますか?」
「え?」
「試乗くらいなら」
恒一は少し黙った。
「……いいんですか?」
「もちろん」
数分後。恒一は944の運転席に座っていた。シートに身体を預ける。目の前にはシンプルなメーター。ハンドルを握る。エンジンを始動する。低く、乾いた音が響いた。
「……」
恒一は笑っていた。
「こりゃあ、ダメだな」
「何がです?」
「欲しくなる」
「でしょうね」
「店員さん、アンタさっきから容赦ないな」
道路へ出る。アクセルを踏む。車が滑らかに前へ出た。派手な演出はない。ただ、運転している人間に「自分で動かしている」と思わせる感覚があった。恒一はしばらく無言だった。そして、ぽつりと言った。
「……これだ」
「はい?」
「これ、俺が欲しかったやつだ」
試乗を終えて店へ戻る。恒一は車を降りた。そしてもう一度、944を見る。今度は、さっきまでとは少し違って見えた。
「いくらです?」
店員が金額を告げる。
「…………」
「どうしました?」
「ローンって、どれくらい組めます?」
こうして、若き朝比奈恒一は、少し無茶をしてポルシェ944を手に入れた。もちろん、その後しばらくは大変だった。車を買ったせいで生活費が苦しくなった。修理代もかかった。周囲からは、
「なんでそんな古いポルシェ買ったの?」
「もっと普通の車にすればいいのに」
と散々言われた。それでも恒一は手放さなかった。仕事で疲れて帰ってきた夜。休日の朝。何となく遠くまで走りたくなった日。
944に乗った。
そして年月が流れ、仕事も変わり、世界を飛び回るようになった。
結婚した。
子供も生まれた。
その子供が大きくなり――いつしか、944は朝比奈家の地下ガレージに収まっていた。
◇
「……というわけだ」
「どういうわけだよ」
現在。湊は地下ガレージで父親の話を聞いていた。目の前には、今も大切に保管されているポルシェ944。
「つまり父さんが若い頃に買った車ってこと?」
「そういうこと」
「よく今まで残ってたね」
「そりゃ大事にしてたからな」
「海外ばっかり行ってたのに?」
「……」
恒一が黙った。
「父さん?」
「整備士さんが頑張ってくれた」
「人任せじゃん」
「世の中、助け合いだよ」
恒一は笑った。湊は944を見る。子供の頃から何度も見てきた車だ。けれど、今日初めて知った。この車にも、父親の若い頃の時間が詰まっていたことを。
「乗ってみるか?」
「え?」
「まだ運転は駄目だけどな」
「じゃあ聞くなよ」
「いつか免許取ったらな」
恒一は車体を軽く撫でた。
「そのときは、お前が運転してみろ」
「……いいの?」
「ああ」
少しだけ間を置いて。
「この車は、俺が人生で最初に『欲しい』と思ったものだからな」
湊は944を見る。古い車体。けれど、丁寧に磨かれたボディは、地下ガレージの照明を静かに反射していた。
「じゃあ、大事にしないとな」
「そうだな」
父と息子は並んで眺めるポルシェ944。それは父親の青春を乗せて、今も朝比奈家の地下で眠っていた。
間話でした。というわけで、今回は恒一とポルシェ944のお話でした。本編では「地下ガレージにポルシェがある」という設定だけ出していましたが、せっかくなので持ち主の過去も掘ってみました。恒一、若い頃から結構無茶してます。二十三歳でポルシェ。普通なら「もっと堅実に生きろ」と言われそうですが、残念ながらこの人は後に戦場まで行く男なので、たぶんこの時点ですでに手遅れです。ちなみに944を買った理由は、最終的には「格好いいから」。車を好きになる理由なんて、それくらいでいいんじゃないでしょうか。そしていつか湊が免許を取ったとき、この944のハンドルを握る日が来るのか。その頃には父親も隣で余計なことを言っていることでしょう。……安全運転だけはしてください、朝比奈家のみなさん。感想、ブックマーク等いただけると幸いです。次回、第四十四話もお楽しみに。




