第四十二話 あの頃は
第四十二話です。湊が中学一年生だった、春。まだ何も始まったばかりだった頃、湊は道端で一人の女性を見つけた。行き倒れていた彼女を家へ連れて帰ったことから、二人の奇妙な縁が始まった。今回は、しろが朝比奈家へやってきた日の物語。それでは、どうぞ。
昼食を終えたあとも、四人はしばらく食卓を囲んでいた。久しぶりに家族が揃ったせいか、話題はなかなか尽きない。父が海外で見た話をして、母が向こうでの仕事の話をして、湊が学校の話をする。そして、その合間にしろが静かにお茶を注いでいる。そんな時間が、妙に心地よかった。
「そういえば」
ふと、母が言った。
「しろちゃんがこの家に来たときのこと、覚えてる?」
「……五年前の話?」
湊は顔を上げた。
「ええ」
母はしろを見る。
「もうそんなになるのね」
「そうですね」
しろは湯呑みに視線を落とした。
「私も、最初の頃のことはよく覚えています」
「俺も覚えてるよ」
湊が答える。すると父が少し驚いた顔をした。
「本当に?」
「そりゃ覚えてるよ」
五年前。湊が中学一年生になったばかりの春。まだ制服にも完全には馴染んでいなかった頃。桜が散り始めた道を歩いていた。その日のことは、今でも妙に鮮明に覚えている。
春だった。暖かくなってきたとはいえ、朝晩にはまだ少し冷え込む頃。
新しい制服。
新しい教室。
新しい生活。
何もかもが始まったばかりだった。そして、その帰り道。
湊は道端に、一人の女性が倒れているのを見つけた。最初は、ただ寝ているだけだと思った。けれど、近づいてみても起きる気配がない。
「……大丈夫ですか?」
声をかけても、返事がない。どうすればいいのか分からなかった。中学一年生だった湊にとって、大人の女性が道端で倒れているという状況は、それだけで十分すぎるほど異常だった。それでも、放っておくことはできなかった。
「……本当に、大丈夫?」
もう一度声をかける。すると。
「…………」
女性が、ほんの少しだけ動いた。長い髪。疲れ切りやせ細った顔。そして、ひどく弱々しい声。
「……お腹が、空きました……」
「……」
湊は、その言葉を聞いてしばらく固まった。救急車を呼ぶべきなのか。誰か大人を呼ぶべきなのか。それとも――。
何が正解なのか分からない。ただ一つだけ分かったことがある。
この人を、このままにはしておけない。
それが、始まりだった。
朝比奈家の中で、誰よりも家事ができて。誰よりも運転が上手くて。妙にゲームが強くて。そして、毎朝自分を起こしてくれることになる女性。しろ。その人との出会いは、決して華々しいものではなかった。むしろ、道端で行き倒れていた大人を、中学一年生の少年が拾うという、とんでもなく不安な始まりだった。
◇
中学一年生になったばかりの湊は、相変わらず倒れていた女性を前に途方に暮れていた。
「……どうしよう」
目の前の女性は、相変わらず起きない。救急車、警察、近所の大人。
頭の中にいくつもの選択肢が浮かんでは消えていく。けれど、そのたびに女性が小さく身じろぎする。
「……うぅ……」
「……」
湊は困ったように頭を掻いた。どうやら怪我をしているわけではなさそうだった。ただ、とにかく弱っている。そのことだけは、子供の湊にも分かった。
「……とりあえず」
湊は自分の鞄を持ち直した。
「うち、近いから、少し休んでいきますか?」
女性はしばらく湊を見つめていた。そして。
「……いいんですか?」
「はい」
それが、二人の奇妙な共同生活の始まりだった。――とはいっても、家までの道のりは決して簡単ではなかった。
「歩けます?」
「……たぶん」
「たぶんって」
「頑張ります……」
数歩歩いては止まり、また数歩歩いては止まる。見かねた湊が何度目かの休憩を挟み、ようやく家にたどり着いた頃には、湊のほうが疲れていた。玄関を開ける。
「ただいまぁ」
返事はない。両親は当然、家にいない。いつものことだった。湊はとりあえず女性をリビングのソファへ案内した。
「ここ、使ってください」
「ありがとうございます……」
「ちょっと待ってて」
湊は台所へ向かった。冷蔵庫を開ける。何か食べられるものはないか。そう思って中を探す。
牛乳。
卵。
野菜。
作り置きのおかず。
そして、パン。
「……これなら」
湊はパンを取り出した。ついでに牛乳も持っていく。
「どうぞ」
「……」
女性はパンを見つめた。まるで、何日も食べていなかった人のような目だった。
「食べていいですよ」
「……では、いただきます」
小さな声。そして、ゆっくりとパンを口に運ぶ。その様子を見て、湊はようやく少し安心した。
「……おいしいです」
「普通のパンだけど」
「はい」
それ以上、何を話せばいいのか分からなかった。知らない女性。自分は中学一年生。家には誰もいない。冷静に考えれば、とんでもない状況だった。けれど、目の前で苦しんでいた女性が食事をしている。それだけで、今はいい気がした。しばらくすると、女性はソファにもたれかかるようにして目を閉じた。
「眠いんですか?」
「……少し」
「じゃあ寝てていいですよ」
「……すみません」
「謝らなくていいですって」
女性は、そのまま眠りに落ちた。湊は毛布を一枚かける。それから少し離れた場所に座り、どうしたものかと考えた。その日の夕方。玄関の鍵が開いた。
「ただいまー」
このころはまだ聞き慣れていた声。湊の母だった。
「おかえり」
「湊、今日は早かったのね」
「うん。 それで……」
湊が言い終わる前に。母の視線がソファへ向いた。
「……誰?」
「えっと」
湊は言葉に詰まった。すると、その声で女性が目を覚ました。
「……ん」
ゆっくりと顔を上げる。視線の先に母。女性も固まった。母も固まった。そして数秒。
「……湊?」
「うん」
「この人は?」
「……道で倒れてた」
「道で?」
「うん」
「倒れて?」
「うん」
母は額に手を当てた。
「……あなた、変なことしてないわよね?」
「してないよ!」
そのやり取りの途中で、玄関からさらに声が響いた。
「ただいまー」
今度は父だった。仕事から帰ってきた父がリビングへ入ってくる。母と湊、そしてソファに座っている見知らぬ女性を見る。
「……」
「……」
「……」
三人が沈黙した。
「……湊」
「うん?」
「この人は?」
「道で倒れてた」
「そうか」
父は一度だけ頷いた。
「それは大変だったな」
「いや、あなた納得するの早くない?」
母が突っ込む。そんなことお構いなしに、父は女性へ視線を向けた。
「大丈夫か?」
「……はい」
女性は姿勢を正した。そして、深く頭を下げる。
「突然お邪魔してしまって、本当に申し訳ありません」
その声は弱々しかった。けれど、言葉遣いだけは妙に丁寧だった。
「事情を聞かせてもらってもいい?」
母が優しく尋ねる。女性は少しだけ黙った。そして。
「……私には、行く場所がありません」
◇
その言葉のあと、しばらく誰も口を開かなかった。夕暮れのリビングには、時計の秒針が刻む音だけが響いている。やがて、母が静かに尋ねた。
「もしよかったら、話せる範囲でいいから聞かせてもらえる?」
女性は膝の上で両手を握った。
「……はい」
そして、ゆっくりと話し始めた。少し前まで働いていたこと。住む場所も、仕事も失ってしまったこと。詳しい事情については、何度も言葉を濁した。
「仕事を辞めたあと、しばらく知り合いのところにお世話になっていました」
しろは俯いたまま続ける。
「ですが、ずっとご迷惑をおかけするわけにもいかなくて……」
そこから先は、うまくいかなかった。仕事を探しても決まらない。住む場所もない持っていたお金も、少しずつ減っていく。どうにかしようと思っているうちに、どうにもならなくなっていた。
「……気がついたら、何もなくなっていました」
その言葉を聞いて、湊は黙っていた。自分には当たり前にあるものだった。帰る家があって、冷蔵庫を開ければ食べるものがあって、学校から帰れば、誰かがいる。
けれど、目の前の女性には、それがなかった。
「それで、今日……」
「はい」
しろは小さく頷いた。
「朝から何も食べていなくて」
「だから倒れてたんですか?」
「……はい」
なんとも言えない沈黙が流れた。父が腕を組み、母が静かにしろを見る。
「それで、これからどうするつもりだったの?」
「……分かりません」
しろは正直に答えた。
「何とかしなければとは思っていました。 でも、どうすればいいのか……」
声が少しだけ震えた。
「すみません」
「どうして謝るの?」
母が優しく返した。
「こんな話を聞かせてしまって……」
「謝ることじゃないでしょう」
「……」
「困っているなら、まずは困っているって言えばいいのよ」
母の声は穏やかだった。しろは顔を上げる。その目には、戸惑いが浮かんでいた。
「……私が、ここにいてもいいんでしょうか」
「今すぐ出ていけなんて言わないわ」
母は微笑んだ。
「少なくとも、今日くらいはゆっくりしていきなさい」
「ですが……」
「それに」
母は湊を見る。
「湊が連れて帰ってきたんでしょう?」
「……うん」
湊が頷く。
「だったら、少しくらい責任を持たないとね」
「えっ、僕?」
父が笑った。
「まあ、きっかけを作ったのはお前だからな」
「そんな……」
湊が困った顔をすると、しろが小さく笑った。
「……ありがとうございます」
その笑顔は、まだどこか遠慮がちだった。それでも、さっきまでの張り詰めた表情よりは、ほんの少しだけ柔らかかった。
「ところで」
父が尋ねる。
「名前、聞いてもいいか?」
「……はい」
女性は背筋を伸ばした。
「雪代しろ、と申します」
「雪代しろ?」
「はい」
「珍しい名前だな」
「よく言われます」
父が頷く。
「じゃあ、しろちゃんだな」
「……はい」
しろは小さく頭を下げた。そのときだった。
「それで、ご主人様」
「……ん?」
湊が固まった。
「今、なんて?」
「ご主人様、です」
「なんで?」
「こちらのお宅に置いていただくのであれば、私は使用人として働かせていただきます」
しろは真剣だった。
「ですので、湊さまのことはご主人様と――」
「いや、待って」
湊が手を上げる。
「俺、そんな器じゃないよ」
「……器?」
「ご主人様って呼ばれるような人じゃないってこと」
「そうですか?」
「そうだよ」
父が横から口を挟む。
「まあ、確かに湊に『ご主人様』は似合わないな」
「なんか父さんに言われるとちょっと腹立つけど……」
母も少し考える。
「じゃあ、湊くん?」
「なんか普通だね」
「湊さま?」
「まだ距離がある感じがする」
しろは腕を組んだ。
「では……ご主人」
「……それなら」
湊は少し考えてから頷いた。
「それなら、まあ」
「では、これからご主人とお呼びします」
「うん」
「よろしくお願いします、ご主人」
「……よろしく」
こうして、しろの呼び方は「ご主人」へと決まった。
五年前の春。
道端で倒れていた一人の女性を、湊が家へ連れて帰った。その日から。朝比奈家には、少しだけ新しい日常が増えることになった。そしてその日常は――五年経った今も、続いている。
四十二話でした。今回は過去の回想でした。しろと湊の出会い。今まで「湊がしろを助けた」という話には何度か触れてきましたが、ようやくその日の出来事を少し詳しく描くことができました。五年前の湊は中学一年生。今より当然幼くて、そんな少年が道端で行き倒れている女性を見つける。普通ならかなり困ります。というか、作者だったら絶対困ります。「どうしよう」じゃ済まない。でも湊は、とりあえず家に連れて帰りました。……行動力だけは妙にあるのは昔っからですね。そして今回、現在のしろにつながる「ご主人」という呼び方も決まりました。最初は「ご主人様」。しかし湊本人から、「俺、そんな器じゃないよ」というまさかの自己申告。結果、「ご主人」に落ち着きました。五年後も律儀にその呼び方を続けているあたり、しろらしいなと思います。こうして振り返ってみると、二人の関係もかなり長くなりました。出会った頃は、まさか五年後に一緒に海へ行ったり、夏祭りで花火を見たりしているとは、二人とも思っていなかったでしょう。そして、読者の皆さんにもここまで二人の時間を見届けてもらえたことを嬉しく思います。お盆編はもう少し続きます。今度は過去だけではなく、現在の朝比奈家にも少しずつ話を戻していく予定です。感想、ブックマーク等いただけると幸いです。次回、第四十三話もお楽しみに。
追記:最近更新サボっててすいませんでした。作者がサボってても見に来てくれた人、ありがとう。




