第三十一話 海の向こうの二人
第三十一話です。海回のはずが、いきなり家族の話です。湊の知らなかった両親のことが少しずつ明らかになっていきます。ここから少しだけ、湊の「家族」の話です。それでは、どうぞ。
夜、外も静かになった頃。湊は、ふと目を覚ました。時計を見ると、午前零時を少し過ぎた頃。
「……寝れない」
正確には、眠りが浅い。昼間、あれだけ海で遊んだというのに、妙に目が冴えている。みんなを起こさないように一度リビングへ降り、バルコニーへ出る窓を少し開けると、夜の海から潮の匂いが流れてきた。昼間とはまるで違う。波の音も、暗闇の向こうから一定のリズムで聞こえてくる。湊はしばらく窓辺に立っていた。すると。
「ご主人?」
廊下から声がした。
「……しろさん?」
振り返ると、しろが立っていた。
「起きていらしたのですね」
「はい。 ちょっと眠れなくて」
「私もです」
「しろさんも?」
「はい」
しろは廊下の先を見た。
「少し、お話でもしますか?」
「いいですね」
二人はソファに腰かけた。小さな明かりを一つだけつける。数時間前までは賑やかだった部屋も、今は静まり返っていた。
「……そういえば」
湊がふと思い出す。
「今日の車の話をしてませんでしたね」
「車?」
「はい」
湊はしろに向き直って言った。
「俺、あのスポーツカーのこと何も知らなかったんですよ」
「そうでしたね」
「家の地下ガレージにあるのに、その存在ですら」
「はい」
「しかも、しろさんが普通に運転してる」
「はい」
「……改めて考えると、謎だらけですよね」
しろは少し黙った。そして、
「……あれは、旦那さまの車です」
と答えた。
「……父さん?」
「はい」
湊の表情が変わる。
「あの車、父さんのなんですか?」
「正確には、旦那さまが以前所有されていた車です」
「……知らなかった」
「ご主人は、車に興味がおありではありませんでしたから」
「そういう問題じゃない気がしますけど」
湊は苦笑した。しかし、しろの表情を見て笑みを消した。
「……しろさん」
「はい」
「父さんって、今どこにいるんですか?」
しろは答えなかった。その沈黙が、答えのように感じられた。
「母さんも」
湊は続ける。
「二人とも、ずっと家にいないですよね」
幼い頃の湊の記憶にある父親は、いつも忙しかった。母親も同じ。仕事で家を空けている。そう聞かされていた。だから、それが普通なのだと思っていた。学校行事に両親が来ないことも、家に帰っても誰もいないことも、しばらくして、しろが家にいるようになったことも。
全部、そういうものなのだと思っていた。
「……俺、昔から聞かないようにしてたんです」
湊は窓の外を見る。
「父さんと母さんが何の仕事してるのか」
「……」
「忙しいんだろうな、聞いたら迷惑かなって、それだけで」
波の音がする。静かな夜だ。
「でも」
湊は振り返る。
「そろそろ教えてくれてもいいんじゃないですか?」
しろはしばらく黙っていた。やがて、ゆっくり口を開く。
「……ご主人のお父さま、旦那さまは、普通の会社員ではありません」
「知ってます」
「奥さまもです」
「……やっぱり」
湊は小さく息を吐いた。
「何となく、そんな気はしてました」
「お二人とも、ご主人を巻き込みたくなかったのです」
「巻き込みたくなかった?」
「はい」
しろの声は静かだった。
「だから、ご両親はご主人には何も言わないようにしていました。 私にも『何も言わないように』と」
「……何を?」
しろは答えない。
「しろさん」
「……」
「さっきから何を隠してるんですか?」
長い沈黙がやってくる。やがて、しろは諦めたように窓の外へ視線を向けた。
「……今から、すべてをお話しします」
「……すべて?」
「はい」
湊の胸が、わずかにざわついた。
「ですが」
しろは続ける。
「聞いたことを、後悔するかもしれません」
「それでも聞きたい」
即答だった。しろは湊を見る。その目には、いつものしろの穏やかさとは少し違うものがあった。
「……分かりました」
しろは静かに息を吐いた。
「では、まず――」
そこで、廊下から物音がした。
「……?」
二人が振り向く。そこには、眠そうな顔をしたひまりが立っていた。
「……何してんの?」
「ひまりさま」
「二人とも寝ないの?」
「少し話をしていただけです」
「ふーん……」
ひまりは目をこすりながら近づいてくる。
「なんか、真面目な話?」
「……そうですね」
しろが答える。
「じゃあ、私も聞く」
「ひまりさまには――」
「湊の家族の話でしょ?」
湊が驚く。
「……なんで分かった?」
「女の勘」
ひまりはしろの横に腰を下ろした。
「それに、いつもお世話になってるのに、湊のお父さんとお母さんの話って今まであんまり聞いたことな かったし」
その言葉に、湊は黙った。確かにそうだ。そう思うのは当然かもしれない。優斗はまだ眠っているのだろう。ここにいるのは三人だけ。窓の外では、月明かりが静かな海を照らしている。しろは二人を見た。
「……では、改めてお話ししましょう」
その夜。誰も知らなかった湊の家族の過去が、少しずつ明かされ始めた。母がなぜ家にいないのか。父がなぜ帰ってこないのか。夏の夜は、まだ長い。
◇
波の音が、一定の間隔で聞こえていた。別荘の窓は少しだけ開いている。夜の海から入り込んだ風が、カーテンをゆっくり揺らしていた。昼間、あれだけ眩しかった海は、今では黒い闇の中に沈んでいる。月明かりだけが、その輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。
「……父さんが、戦争ジャーナリスト」
湊は、もう一度その言葉を口にした。
「はい」
しろは向かいに座ったまま、静かに頷く。
「そして奥さまは、『国境なき医師団』の医師です」
「……」
ひまりが息を呑む。さっきまで眠そうだった顔から、完全に眠気が消えていた。
「だから……二人とも、ずっと海外に?」
「はい」
しろは窓の外を見た。
「旦那さまは紛争地域や災害地域などを取材しておられました。 お仕事柄、長期間日本を離れることも珍しくありませんでした。」
「母さんも?」
「奥さまも同じです。 医師として、医療の行き届かない地域へ向かわれていましたから」
湊は黙って聞いていた。父親の顔を思い出そうとする。記憶の中の父は、いつもどこか疲れていた。大きな鞄を持って家を出て、帰ってくると日に焼けた顔で笑っている。そしてまた、どこかへ行く。幼い頃の湊にとっては、それだけだった。
「……俺、父さんって普通の記者だと思ってました」
「そう思わせていたのだと思います」
「母さんも、海外の病院で働いてるくらいに」
「はい」
「どうして教えてくれなかったんですか?」
しろはすぐには答えなかった。部屋の中に、時計の針が進む音だけが響く。
「……怖かったからです」
「怖かった?」
「ご主人に、自分たちの仕事を知ってほしくなかった」
しろの声が、少しだけ低くなる。
「お二人とも、ご主人をとても大切にしておられました」
「……」
「だからこそ、ご主人には普通の子供として育ってほしかったのだと思います」
湊は目を伏せた。普通の子供。普通の高校生。その言葉が、妙に胸に残った。
「じゃあ……俺が何も知らなかったのは、俺を守るためだったってことですか?」
「はい」
しろは頷いた。
「ですが、それだけではありません」
「……?」
「お二人には、お二人なりの後悔もありました」
しろは少しだけ目を細める。
「お仕事のために、ご主人と過ごす時間をたくさん失ってしまったことです」
湊は何も言えなかった。窓の外で波が崩れる。
ザァ……。
ザザァ……。
「……俺、寂しかったのかな」
ぽつりと出た言葉だった。ひまりが湊を見る。
「子供の頃は、よく分かってなかったんです」
湊は続けた。
「学校から帰ってきても誰もいない。 でも、そういう家なんだと、それが普通なんだと思ってた」
「……」
「父さんも母さんも仕事で忙しくて、だから仕方ないって」
湊は苦笑した。
「しろさんが家に来るようになってからは、もっと気にしなくなりましたし」
「……ご主人」
「だから俺、両親がいないことをそんなに気にしてないつもりだったんです」
少しだけ間が空く。
「でも……今聞くと、やっぱりちょっと寂しかったのかなって」
ひまりが何も言わず、湊の隣へ座った。しろも黙って湊を見つめている。
「……申し訳ありませんでした」
突然、しろが謝った。
「え?」
「私は、ご主人に何もお伝えしていませんでした」
「いや、しろさんが謝ることじゃ――」
「ですが」
しろは穏やかに続けた。
「ご主人が寂しい思いをしていたことを、私は知っていました」
「……」
「それでも、お二人との約束がありましたので」
「約束?」
湊が顔を上げる。しろはしばらく迷った。そして、静かに口を開いた。
「『湊には、できるだけ普通の生活をさせてほしい』と」
その言葉を聞いた瞬間。湊の胸の奥で、何かが小さく揺れた。
「……父さんと母さんが?」
「はい」
「俺のこと……そんなに考えて」
「はい」
しろは迷いなく答えた。
「お二人とも、ご主人のことを大切に思っておられます」
湊は俯いた。泣くほど悲しいわけではない。むしろ、その逆だった。今まで分からなかったものが、少しずつ繋がっていく。幼い頃、父親が出張へ行く前に、必ず湊の頭を撫でていたこと。母親が海外へ行く前、冷蔵庫に大量の作り置きを残していったこと。誕生日には必ず、少し遅れてでもプレゼントが届いたこと。全部。
「……俺、覚えてる」
湊が呟いた。
「父さんがあの車に乗せてくれたこと」
ふと、今日のスポーツカーが頭に浮かぶ。
「あの車」
湊は窓の外を見る。
「昔、あれに乗ったことがある」
「はい」
「父さんが運転してて……」
記憶の中の景色が、少しずつ蘇っていく。助手席に座った小さな自分。隣でハンドルを握る父。流れていく街の景色。
『湊、どこか行きたいところあるか?』
そんな声。いつのことだったのかは、もう分からない。ただ、あの時間は確かに幸せだった。
「……父さん、あの車好きだったんだ」
「はい」
しろが微笑む。
「旦那さまは、その車をとても大切にされていました」
「ご主人を乗せて走るために」
「……」
「仕事で長く家を空けることが多かった旦那さまにとって、ご主人と二人で過ごせる時間は、とても大切だったそうです」
湊は何も言わなかった。ただ、窓の外の暗い海を見つめる。
「……明日も、あの車で帰るんですよね」
「はい」
「……父さんに会えた気分になれるかもな」
しろは静かに笑った。
「きっと、旦那さまも喜ばれると思いますよ」
その隣で、ひまりが小さく息を吐いた。
「……なんか、ずるいな」
「何が?」
「こんな話聞いたら、明日の帰り、私までちょっと寂しくなるじゃん」
「なんでひまりが」
「だって……」
ひまりは窓の外を見る。
「こういう夏休み、ずっと続けばいいのに」
その言葉に、湊も海を見る。夜の海は静かだった。今日という一日が、もう終わってしまう。楽しかった時間も、砂浜ではしゃいだ声も、夕焼けも。全部、少しずつ過去になっていく。
「……まだ夏休み、始まったばっかりだろ」
湊が笑う。
「明日もある」
「うん」
ひまりも笑った。そして三人は、しばらく何も話さなかった。ただ、波の音を聞いていた。
その夜、湊は初めて知った。両親がいなかった理由。そして、自分が知らないところで、両親がずっと自分のことを考えていたこと。それは、少し寂しくて、それでも、どこか温かい真実だった。夏の夜は、静かに更けていく。
「……」
そのときだった。廊下から、
ペタ……。
ペタ……。
と、妙な足音が聞こえてきた。
「……?」
三人が同時に振り返る。暗い廊下の向こうから、誰かが歩いてくる。寝ぼけたように目を細め、髪を少し乱した少年。
「……水……」
「「「……」」」
優斗だった。どうやら喉が渇いて、起きてきたらしい。優斗は三人の姿を見つけると、しばらく立ち止まった。
「……何してんの?」
「いや……」
湊が答えようとする。
「ちょっと話をしてて」
「ふーん……」
優斗はぼんやり頷いた。
「……何の話?」
「俺の親の話」
「……」
優斗が固まる。
「……そう」
「うん」
「……眠い」
「寝ろよ」
「水飲みに来た」
「ああ……」
優斗は冷蔵庫へ向かう。扉を開ける。明るい照明が顔を照らした。
「まぶし……」
「自分で開けたんだろ」
「……」
優斗はペットボトルを取り出す。そして、その場で一気に飲み干した。
「……ハハッ」
湊は思わず笑った。さっきまで胸の奥にあった重たい空気が、少しだけ軽くなる。
「優斗」
「ん?」
「今の話、聞いてた?」
「全然」
「だろうな」
「なんか深刻そうだったけど」
「まあな」
優斗はペットボトルを眺める。
「じゃあ……俺、寝るわ」
「お前、本当にそれだけ?」
「だって何も分かんないし」
「それはそうだけど」
優斗はふらふらと廊下へ戻っていく。そして、二歩進んだところで振り返った。
「あ」
「何?」
「明日の朝、何時に起きる?」
「知らない」
「そか」
そう言って優斗はまた歩き始める。しかし、三歩進んだところで再び、
「……湊」
「ん?」
「海、楽しかったな」
湊は少し驚いた。優斗は眠そうな目のまま、笑っていた。
「……ああ」
「じゃ、おやすみ」
「ああ、おやすみ」
優斗が廊下の奥へ消えていく。
ペタ……。
ペタ……。
という足音が遠ざかっていく。
「……本当に寝ぼけてたんだな」
ひまりが吹き出す。
「何だったの、今の」
「俺にも分からない」
湊も笑った。しろも口元に手を添えて、静かに笑っている。
「優斗さまらしいですね」
「ですね」
さっきまでの重たい空気は、すっかり消えていた。湊はもう一度、窓の外を見る。月明かりの下で、海が静かに揺れている。
「……まあ」
湊が呟いた。
「今日はもう寝るか」
「うん」
ひまりが立ち上がる。
「明日も海だし」
「また行くのかよ」
「行くよ!」
「元気だなぁ……」
しろも立ち上がる。
「では、明日に備えて休みましょう」
「はい」
湊は小さく笑った。父のことも、母のことも、まだ全部を理解できたわけじゃない。けれど、今はそれでいい気がした。少しずつ知っていけばいい。夏休みは、まだ始まったばかりなのだから。そしてその夜。別荘の中には、波の音と四人の寝息だけが残った。
三十一話でした。今回は、これまであまり触れてこなかった湊の両親について、少し踏み込んだ話になりました。父親は戦争ジャーナリスト。母親は国境なき医師団。二人とも世界中を飛び回る仕事をしているため、湊の家にはほとんどいない。今まで湊自身も、「両親は忙しいくらいにしか考えていませんでした。でも、本人が知らなかっただけで、両親には両親なりの事情があった。そして、その間ずっと湊のそばにいたのが、しろです。この作品では今まで、しろと湊の日常を中心に描いてきました。だからこそ、ここからは少しずつ、「なぜ、しろが湊の家にいるのか」という部分にも、少しずつですが触れていきたいと思っています。……ちなみに作者は、海回を書いている間ずっと、「いいなあ、青春してんなあ」と思っていました。こっちは部屋でキーボード叩いてるだけなんですけどね。夏休みって、いいなぁ。感想、ブックマーク等よろしくお願いいたします。次回、三十二話もお楽しみに。




