特別話 いつかみんなで、熊本へ
特別話です。今回は少し特別なお話です。7月28日に熊本県で地震が発生したことを受け、熊本への応援の気持ちを込めて、この特別話を書きました。幼き日の湊が熊本で過ごした「楽しかった思い出」を通して、熊本の魅力が少しでも伝わって、被災された方々に応援の気持ちが少しでも伝われば嬉しいです。それでは、いつもとは少し違う特別なお話をどうぞ。
七月二十九日。青嶺高校は、すでに夏休みに入っていた。蝉の声が朝からうるさく響き、太陽は容赦なく地面を照らしている。そんな夏休みの昼下がり。
「……暑い」
湊はリビングの机に向かいながら、扇風機の風を一身に受けていた。
「暑いですねぇ……」
その隣では、しろが涼しい顔で麦茶を飲んでいる。
「ご主人、宿題は進んでおりますか?」
「……進んでますよ」
「そうですか」
「……」
「……」
「進んでないんですね」
「はい」
即答だった。しろは小さくため息をつく。
「夏休み初日から随分と堂々としていらっしゃいますね」
「初日じゃないです。もう一週間くらい経ってます」
湊は最近、こうしてしろと冗談を言い合えるようになってきていた。
「なおさら問題では?」
「……返す言葉もありません」
湊が机に突っ伏した、そのときだった。居間からテレビの音が聞こえてきた。ニュース番組だった。何気なく顔を上げた湊の耳に、聞き覚えのある地名が入ってくる。
「熊本県宇城市……」
湊の動きが止まった。テレビでは、前日の夜に発生した熊本県熊本地方の地震について報じていた。被害の状況。現地の様子。今後の注意。画面に映る情報を、湊は黙って見つめる。
「……熊本」
その言葉を聞いて、しろもテレビへ目を向けた。
「ご主人?」
「……熊本、行ったことあるんですよ」
「熊本へ?」
「はい。 昔、家族旅行で」
湊はしばらく画面を見つめていた。ニュースの中に映る熊本と、湊の記憶の中にある熊本。同じ場所のはずなのに、まったく違って見える。
「宇城市と八代市に行ったんです」
「まあ」
「結構いろんなところ回って」
湊は少し懐かしそうに笑った。
「……なんか、久しぶりに思い出しました」
その日の夕方。三人でカフェに行ったとき、湊はひまりと優斗にもその話をすることになった。
「熊本行ったことあるの!?」
ひまりが目を輝かせる。
「うん。 昔だけど」
「どこ!?」
「宇城市と八代市」
「いま一番被害が出てるとこだ……」
優斗も興味を持ったらしく、湊のスマホを覗き込む。
「どんなところだったの?」
「いろいろあるよ」
湊はスマホを操作しながら答える。
「宇城市なら、三角西港とか」
「三角西港?」
「うん」
「何それ?」
「港」
「いやそのまんまだな」
「名前なんだから仕方ないだろ」
湊は苦笑する。
「でも、普通の港とはちょっと違ってさ」
「へぇ?」
「海のそばに、昔の石積みの岸壁とか古い建物が残ってて」
湊の声が少しずつ弾んでいく。
「明治時代に造られた港なんだって」
「明治!?」
ひまりが驚く。
「そんな昔!?」
「僕も昔は知らなかったんだけど」
湊はスマホのアルバムを開いた。
「でも、実際に行ってみると結構すごかった」
画面に、一枚の写真が表示される。青い海。その手前に続く石積みの岸壁。その奥には、どこか懐かしさを感じさせる古い建物。
「……綺麗」
ひまりが呟いた。
「だろ?」
湊は少し嬉しそうに笑う。
「僕、子どもの頃に行ったんだけど、なんかタイムスリップしたみたいだった」
「へえ」
「港なのに静かでさ。 海を見ながら歩くのが結構楽しかった」
優斗が写真を眺める。
「湊って、こういうところ好きだったんだな」
「今でも好きだよ」
湊は写真を眺めながら答えた。
「……また行ってみたいくらい」
「じゃあ行こうよ」
「え?」
ひまりが即答した。
「いつかみんなで!」
「気が早くない?」
「だって楽しそうじゃん!」
優斗も頷く。
「俺も行ってみたい」
「お前まで……」
「湊が案内してくれるんだろ?」
「昔の記憶だぞ?」
「大丈夫!」
ひまりが笑う。
「道に迷ったら、みんなで迷えばいいじゃん!」
「旅行として最悪だろ、それ。」
三人の笑い声が響く。テレビでは、今も熊本のニュースが流れている。湊はもう一度、スマホの写真を見た。そこに映っているのは、何年も前の熊本。青い海。古い港。そして、まだ幼かった自分。
「……そういえば」
湊は次の写真を開く。
「八代にも行ったんだよ」
「八代?」
「うん」
「その話も聞きたい!」
ひまりが身を乗り出す。湊は笑った。
「じゃあ、次は八代の話」
遠い昔の旅行。忘れていたと思っていた思い出。けれど、こうして話し始めると、不思議なくらい鮮明に蘇ってくる。あの日見た海も。歩いた街も。家族と笑った時間も。
――熊本には、湊にとって大切な思い出があった。
◇
湊がスマホを操作すると、次の写真が画面に表示された。
「これが八代」
「おお……!」
ひまりが身を乗り出す。
「これ城跡?」
「うん。 八代城跡」
「お城!」
「まあ、今はお城そのものが残ってるわけじゃないけどね」
湊は写真を拡大する。画面に映っているのは、大きな石垣だった。その周囲には木々が生い茂り、奥には青空が広がっている。
「石垣とか堀が残ってるんだ」
「へえ……」
優斗も写真を覗き込む。
「結構でかいな」
「実際に見るともっと大きく感じるよ」
湊は少し懐かしそうに話す。
「俺、子どもの頃は普通に『お城がある』と思って行ったんだけど」
「違ったんだ」
「うん」
湊は笑った。
「着いて最初に言ったのが、『お城どこ?』だった」
「ふふっ」
ひまりが吹き出す。
「子どもらしい」
「そしたら親に『目の前の石垣がお城の跡だよ』って言われて」
「それはちょっと残念だね」
「当時の俺にはな」
湊は肩をすくめる。
「でも、今思うとあれはあれで面白かった」
「なんで?」
「石垣の周りを歩いてみたら、思ったより広くてさ」
湊は写真を次々と切り替える。
「昔の建物はなくても、ここに昔お城があったんだって考えると、なんか不思議だった」
「歴史を感じるってやつ?」
「たぶん」
「湊、そういうの好きなんだ」
「……意外?」
「ちょっと」
「失礼だな」
優斗が笑う。
「でも、確かにこういう場所いいな」
「だろ?」
湊も笑った。そして次の写真へ。
「あと、日奈久温泉にも行った」
「日奈久って確か今回の地震の発生源の…?」
「確かにその近くだったかもなぁ」
「えーでも温泉いいな」
「家族旅行だからな」
「でも温泉って大人っぽい」
「子どもの俺には普通に熱かったけど」
「感想それ?」
「熱かったんだから仕方ないだろ」
湊が写真を見せる。昔ながらの街並み。旅館や店が並ぶ通り。その向こうには山が見える。
「日奈久温泉って、八代市にある温泉街なんだ」
「私こういうところ好きかも」
ひまりが写真を眺める。
「なんか、昔の町って感じがする」
「実際、歴史の長い温泉地なんだって」
「湊、旅行したときにそういうの調べてたの?」
「いや」
「じゃあ今調べた?」
「……ちょっと」
「やっぱり!」
ひまりが笑う。
「昔は何も知らずに歩いてたんだ」
「そうだよ」
湊は苦笑した。
「でも、知らなくても楽しかった」
「うん」
「旅館に泊まって、温泉入って、夜に家族でご飯食べて」
湊は一枚の写真で指を止めた。そこには、旅行中に撮られた家族の写真があった。
「これ、好きなんだ」
「家族写真?」
「うん」
写真の中の湊は、今よりずっと幼い。その隣には、両親が笑顔で並んでいる。
「日奈久温泉から出たあとに撮ったんだと思う」
「覚えてる?」
「全部は覚えてない」
湊は少し笑う。
「でも、楽しかったってことは覚えてる」
ひまりは写真を見つめる。
「……なんか、いいね」
「何が?」
「こういう思い出」
「そう?」
「うん」
ひまりは少しだけ笑った。
「旅行って、有名なところに行ったことより、一緒に誰かと過ごした時間の方が覚えてたりするじゃん」
「……それは、そうかもな」
湊も写真を見る。八代城跡。日奈久温泉。そして、家族と歩いた街。どれも何年も前の思い出だ。けれど、こうして振り返ると、昨日のことのように感じる。
「……また行きたいな」
湊がぽつりと言った。
「熊本?」
「うん」
ひまりがすぐに笑う。
「じゃあ、行こうよ」
「またそれ?」
「だって行きたいもん」
「俺も行きたい」
優斗まで頷いた。
「三角西港も見てみたいし、八代城跡も」
「日奈久温泉も!」
ひまりが付け加える。
「ひまり温泉目当てじゃない?」
「だって温泉だよ?」
「知らないよ」
三人が笑う。
湊も笑いながら、スマホの画面を閉じた。熊本で見た景色。昔の自分が歩いた場所。今は写真の中にしかないけれど。
「……落ち着いたら、みんなで行けたらいいな」
湊が言った。
「うん」
ひまりが頷く。
「約束ね」
優斗も笑った。
「約束」
窓の外では、蝉が鳴いていた。夏はまだ始まったばかりだ。今すぐに叶う約束ではない。それでも――。
「いつか行きたい」と思える場所がある。それだけで、少しだけ未来が楽しみになる。湊はそう思いながら、もう一度だけ熊本の写真を眺めた。
◇
その日の夕方。湊が帰宅すると、しろが玄関まで迎えに来た。
「お帰りなさいませ、ご主人」
「ただいま帰りました」
靴を脱ぎながら、湊はふと思い出したように言った。
「そうだ。 今日、二人にも熊本旅行の話をしたんですよ」
湊は居間へ向かいながら、スマホを取り出した。
「さっき見せるの忘れてましたけど、写真も残ってて」
「拝見してもよろしいですか?」
「もちろんです」
しろが隣に座る。湊は写真を一枚ずつ見せていった。
「ここが三角西港です」
「海が綺麗ですね」
「ですよね」
「こちらは?」
「八代城跡。 石垣とかが残ってるんです」
「立派ですね」
「で、こっちが日奈久温泉」
「温泉……」
しろの目がほんの少しだけ輝いた。
「……しろさん、温泉好きなんですか?」
「いえ」
一拍置いて。
「嫌いではありません」
「好きじゃないですか」
「嫌いではないだけです」
「その言い方、だいたい好きな人のやつですよ」
しろは小さく笑った。
「ご主人は、熊本旅行が思い出に残っているのですね」
「はい」
湊は写真を眺めながら答えた。
「子どもの頃は何も考えずに歩いてたんですけど、今思うと結構いい場所だったんだなって」
「そういうものなのかもしれませんね」
「?」
「子どもの頃には気づかなかった、いえ、気づけなかったことを、大人になってから思い出すことはありますから」
しろは写真の中の海を見つめる。
「思い出というものは、不思議ですね」
「……そうですね」
湊も頷いた。しばらく二人で写真を眺める。その静かな時間を破ったのは、ひまりから届いたメッセージだった。
『熊本旅行、絶対行こうね!』
その直後。
『俺も行きたい!』
優斗からもメッセージが届く。湊は思わず笑った。
「今日、二人と『いつか熊本に行こう』って話したんですよ」
「まあ」
「それこそ三角西港とか、八代城跡とか」
「楽しそうですね」
「……しろさんも」
湊が少しだけ言葉を止める。
「よかったら、一緒に行きませんか?」
しろは一瞬、目を丸くした。
「私も、ですか?」
「はい」
湊は笑う。
「みんなで行った方が絶対楽しいですし」
「……」
しろはスマホの写真を見る。そこに映る青い海。古い港。そして、まだ幼い頃の湊。
「……はい」
しろは静かに頷いた。
「いつか、ご一緒できるとよいです」
「約束ですよ」
「はい」
その返事を聞いて、湊も笑った。窓の外では、夕暮れの空が少しずつ夜へ変わっていく。テレビでは、今日も熊本のニュースが流れている。湊はその画面をしばらく見つめた。そして、写真の中にある熊本の景色へ目を戻す。
「……また、あの海を見たいな」
小さな呟きだった。今すぐには行けない。いつになるかも分からない。
それでも、いつか、また。
昔と同じ景色を見に行けたらいい。そして今度は、自分一人の思い出ではなく。
しろさんと。
ひまりと。
優斗と。
みんなで笑いながら歩けたらいい。そんな未来を思い浮かべながら、湊は静かにスマホの画面を閉じた。
――がんばれ、熊本。
またいつか、会いに行きます。
特別話でした。今回のお話は、特別編として熊本を応援する気持ちを込めて書きました。7月28日に熊本県で大きな地震があり、ニュースを見ていて、何か自分にもできることはないだろうかと考えました。作者の自己満足かもしれません。ボランティアに行けるわけでもなく、大金の援助をできるわけでもない。どうすればいいのか。そこで思いついたのが、この作品のキャラクターたちに「熊本の思い出」を語ってもらうことでした。今回登場した宇城市の三角西港、八代市の八代城跡、日奈久温泉。観光地を紹介するだけではなく、「いつか行ってみたい」と思える場所として描きたかった。災害が起きたとき、その場所がニュースの中で「被災地」として語られることがあります。でも、そこには当然、誰かの日常があって、誰かの思い出があって、誰かにとって大切な場所があります。湊にとっての熊本が、そういう場所であるように。そして、いつかまたたくさんの人が熊本を訪れて、笑って、食べて、遊んで、素敵な思い出を作れる日が来ることを願っています。この作品を読んでくださった皆さんも、もし熊本に興味を持ったなら、いつか訪れてみてください。そのときには、湊たちが今回話していた景色を思い出してもらえたら嬉しいです。
最後に、熊本の皆さまへ。長々と偉そうなことを書いてすみません。つらい日々が続いていると思います。揺れによる被害、暑さ、またいつ揺れるかわからない恐怖。苦しいことはたくさんあると思います。でも、熊本という土地がたくさんの笑顔を生み出せる場所であってほしい。そして、一日でも早く、安心して過ごせる日常が戻りますように。そして、たくさんの笑顔がまた熊本に戻りますように。
がんばれ、熊本!
またいつか、湊たちと一緒に会いに行きます。




