第二十二話 夏のはじまり
第二十二話です。前回湿った梅雨の空気を蹴っ飛ばしたと思ったら、もう夏です。季節は夏へ――
六月の終わり。雨音ばかりが響いていた朝は、いつの間にか姿を消していた。カーテンの隙間から差し込む強い日差しが、部屋をじんわりと照らしている。
「……ん」
眩しさに目を細めながら、湊はゆっくりと体を起こした。枕元のスマートフォンを見ると、時刻は六時三十分。窓を開ければ、じめっとした空気ではなく、少し熱を帯びた風が頬を撫でる。
その瞬間――
「ミーン、ミンミンミン……」
遠くから、今年初めて聞く蝉の鳴き声が耳に届いた。
「……もうそんな時期か」
思わず呟く。昨日までの梅雨空が嘘のように、空は雲ひとつない青色だった。制服へ着替え、リビングへ向かう。香ばしい焼き魚の匂いと味噌汁の湯気が迎えてくれた。
「おはようございます、ご主人」
エプロン姿のしろが、こちらへ振り向いて柔らかく微笑む。
「おはようございます、しろさん」
「よく眠れましたか?」
「はい。 久しぶりに気持ちよく目が覚めました」
「それは何よりです」
しろは食卓へ朝食を並べながら、小さくテレビの音量を上げた。
『――関東地方は、本日、梅雨明けしたとみられると発表されました。平年より二日ほど早い梅雨明けとなっています』
「梅雨明けですか」
湊が画面へ目を向ける。
「いよいよ夏ですね」
「はい」
しろもニュースを見つめながら頷いた。
「今年の夏も暑くなりそうです」
「去年もおっしゃっていました」
「ふふっ。 それでも毎年、本当に暑くなるんですから不思議ですよ」
二人は顔を見合わせ、小さく笑う。朝食を食べ終え、湊がお茶を飲んでいると、しろがふと口を開いた。
「そういえば、ご主人」
「はい?」
「今日は衣替えの日でしたよね」
「あ、そうでした」
昨日のうちに準備していた夏服を思い出し、湊は自分の制服を見る。うっかり、冬服を着ていた。急いで自室に戻り、夏服に着替える。白い半袖のシャツ。冬服よりも軽く、見るだけで涼しげだ。
「もう七月ですからね」
「時間が経つのは早いものです」
湊には、文化祭が終わったのがついこの間のことのように感じた。クラスみんなで慌ただしく準備をして、コーヒーカップを完成させて。しろが学校へ来て。あの賑やかな二日間も、今では少し懐かしい思い出になりつつあった。
「……ぼーっとされていますよ」
「えっ?」
「ご飯粒が残っています」
「あっ」
頬についたご飯粒を慌てて取ろうとすると、
「失礼します」
しろがそっと指先で取ってくれた。
「あ……ありがとうございます」
「どういたしまして」
まるで何事もなかったように台所へ戻っていくしろ。一方の湊は、何となく気恥ずかしくなり、湯呑みに口をつけた。
(……近いんですよ、しろさんは)
そんなことを思っても、本人に悪気がないのはよく分かっている。だからこそ、困るのだ。
◇
「では、行ってらっしゃいませ」
玄関でしろが頭を下げる。
「はい。 行ってきます」
靴を履き終えた湊は、ふと空を見上げた。真っ青な空。白い入道雲がゆっくりと流れ、見える町並みにその影を落としていた。
梅雨が明けた。
その一言だけで、街の景色まで少し違って見える。
「暑くなりそうですね」
「はい。 水分補給を忘れずにしてください」
「分かりました。 しろさんも、熱中症には気を付けてくださいね」
「ありがとうございます」
そんなやり取りを交わしたことを想いつつ、湊は歩いていく。駅へ向かう道では、小学生たちが「あっつい!」とはしゃぎながら歩き、近所の庭先では朝顔が大きく花を咲かせている。
季節は、確かに夏へと動き始めていた。そして今日は、新しい季節を迎える最初の日。少しだけ軽くなった制服の袖を揺らしながら、湊は青嶺高校への道を歩いていった。
学校への坂道に差し掛かるころには、湊の額にはうっすらと汗がにじんでいた。坂道を下っていく風もどこか生ぬるく、梅雨明け初日の陽気を物語っている。
「暑い……」
思わず漏れた独り言は、坂道を駆け抜ける車にかき消された。
◇
「おはよう」
教室の扉を開けると、まだ始業前だというのに、いつもより賑やかな声が飛び交っていた。
「あ、湊! おはよー!」
真っ先に手を振ってきたのはひまりだ。
「おはよう、ひまり」
「ねえねえ、見て見て!」
そう言うと、ひまりはその場でくるりと一回転する。
「どう? 夏服!」
青嶺高校の夏服は、白を基調とした爽やかなデザインだ。半袖のブラウスに、紺色のスカート。胸元には細いリボンが揺れている。
「似合ってるよ」
「ほんと?」
「うん。 涼しそう」
「ふふーん♪ ありがと!」
満足そうに笑うひまり。そのやり取りを聞いていた優斗が、後ろからひょいと顔を出した。
「お、湊!」
「優斗もおはよう」
「今日から夏服だな!」
「そうだね」
「やっぱ夏って感じするわ!」
優斗は半袖の袖口をぱたぱたと仰ぎながら笑う。
「昨日まであんなに雨降ってたのにな」
「朝、ニュースでも梅雨明けって言ってたよ」
「マジで? じゃあもう夏じゃん!」
「暦の上でも七月だからねー」
と、ひまり。
「よーし! 今年の夏も遊ぶぞー!」
「まだ期末テストがあるって」
湊がそう言うと、
「あ」
優斗の動きが止まった。
「……忘れてた」
「忘れるなよ」
「現実見せんなー!」
教室に笑いが広がる。そんな他愛ない会話をしているうちに、教室のあちこちでも「夏服似合うね」「暑いね」といった声が聞こえてきた。制服が変わっただけなのに、不思議と教室全体が明るくなったように感じる。
「そういえば」
ひまりが机に頬杖をついた。
「湊って、夏好き?」
「好きだよ」
「おー、即答」
「夏休みがあるからね」
「それ目的!?」
「あと、日が長い」
「そこはなんか高校生っぽい理由だね」
「ひまりはどうなの?」
「私はねぇ……」
少し考え込んでから、
「アイスがおいしいから好き!」
と胸を張る。
「……それも食べ物目当てじゃんか」
「細かいことはいいの!」
二人が笑っていると、
「じゃあ俺は!」
優斗が勢いよく立ち上がる。
「海! 花火! 祭り! 全部好き!」
「全部遊び」
「青春だからな!」
「人生何週目だよ」
「二週目?」
なぜか得意げに笑う優斗を見て、ひまりがくすりと笑った。
その時。
キーンコーンカーンコーン――
始業のチャイムが校舎に響く。
「席着けー」
担任が教室へ入ってきた。
「おー、みんな夏服になったな」
教室をぐるりと見渡しながら、先生は満足そうに頷く。
「暑くなるから、水分補給はちゃんとすること。 熱中症で倒れたら笑えんぞ」
「はーい」
生徒たちの返事が重なる。
「それと、来週からはいよいよ期末テストだ」
その一言で、教室の空気が一変した。
「うわぁ……」
「早いって……」
「勉強してねぇ……」
あちこちから悲鳴にも似た声が上がる。湊は思わず苦笑した。
(……夏が来る前に、まずはテストを乗り越えないとだな)
窓の外では、青空に浮かぶ白い雲がゆっくりと流れていた。本格的な夏は、もうすぐそこまで来ている。
◇
キーンコーンカーンコーン――。
終礼のチャイムが鳴り、教室の空気が一気に緩む。
「よーし、帰るか!」
真っ先に立ち上がったのは優斗だった。
「お前、今日は部活ないの?」
「今日は休み! だから真っすぐ帰る!」
「珍しいな」
「たまには休まないとな!」
優斗はそう言って大きく伸びをする。
「……でも来週テスト……」
「今思い出したのかよ」
「忘れてた」
「大丈夫か、お前」
「大丈夫じゃない!」
教室中から笑いが起こる。その様子を見ていたひまりも肩を震わせながら笑っていた。
「優斗ってほんと分かりやすいよね」
「そこがあいつのいいところだけど」
「湊もなんだかんだ面倒見いいよね」
「そう?」
「そうだよ。 優斗の話、毎回聞いてあげてるし」
「放っとくと変なことしそうだから」
「ふふっ」
ひまりは楽しそうに笑う。
「じゃ、また明日ね」
「うん。 またね」
それぞれが教室をあとにし、賑やかだった教室も少しずつ静かになっていく。湊も鞄を肩に掛け、窓の外へ目を向けた。
青空。白い積乱雲。じりじりと照りつける夏の日差し。
(……本当に夏だ)
そう思うだけで、少しだけ胸が高鳴った。
◇
校門を出ると、熱を含んだ風が頬を撫でた。アスファルトから立ち上る熱気。街路樹ではすでに蝉たちが競うように鳴いている。駅へ向かう途中、小学生たちがランドセルを背負ったままアイスを食べていた。コンビニの店先には、色鮮やかなかき氷ののぼり旗。つい数週間前まで雨ばかりだった景色が、すっかり夏色へ変わっていた。
(今年の夏は、どんな夏になるかな)
文化祭が終わり、季節はまた一歩、いや、二歩も三歩も進んだ。来週には期末テスト。それを乗り越えれば、いよいよ夏休みだ。そんなことを考えているうちに、気づけば家の前だった。
◇
「ただいま帰りました」
玄関を開けると、すぐに聞き慣れた足音が近づいてきた。
「おかえりなさいませ、ご主人」
しろが柔らかな笑みを浮かべて出迎える。
「お疲れさまでした」
「ありがとうございます」
靴を脱ぎながら、湊は思わず息をついた。
「今日は暑かったですね」
「はい。 朝よりグッと気温が上がりました」
「学校でもみんな『暑い』しか言ってませんでしたし」
「ふふっ。 夏の風物詩ですね」
しろはそう言うと、キッチンへ向かう。
「冷たい麦茶をお持ちします」
「お願いします」
リビングへ入ると、エアコンではなく扇風機がゆっくりと首を振っていた。窓は開け放たれ、外からは蝉の鳴き声と風鈴の音が聞こえてくる。ほどなくして、しろが麦茶を持ってきた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
グラスを受け取り、一口。冷えた麦茶が喉を通り、火照った身体へ染み渡っていく。
「生き返った……」
「お気に召したようで何よりです」
湊はふと、しろの姿を見つめた。
「あれ?」
「その服、少し変わりました?」
しろは自分の袖へ目を落とし、小さく頷く。
「はい。 今日から夏用のものにいたしました」
いつものメイド服と同じデザインだが、生地は薄く、袖も短くなっている。どこか涼しげで、季節に合わせた装いだった。
「よく似合ってますよ」
その一言に、しろは少しだけ目を丸くした。そして、照れたように微笑む。
「……ありがとうございます、ご主人」
その笑顔を見ていると、自然とこちらまで笑みがこぼれる。窓の外では、入道雲が夕焼け色に染まり始めていた。梅雨が明け、制服も夏服へ変わった。街も、人も、少しずつ夏へと姿を変えていく。今年の夏は、きっと忘れられない季節になる。そんな予感が、湊の胸に静かに芽生えていた。
第二十二話でした。早いですね、夏。この前梅雨に入ったと思たらもう夏かよっ!ってなりますもんね。そんな空気感を出してみました。みんなもめっちゃ強調してますね。にしても、今年の夏も暑いですね。ぶっ飛んでますよ。ちなみに作者は沖縄にぶっ飛びたいです。はい。そんなこんなで、夏、始まります。感想、ブックマーク等お待ちしております。次回、第二十三話もお楽しみに。




