第二十話 雨音の帰り道
第二十話です。とある日、梅雨にしても雨が降りすぎな日。帰るに帰れないいつもの三人組は、雨が弱くなるのを待って、購買へ向かうことに。
六月。梅雨入りして間もないある日の朝。目覚まし時計が鳴るより少し早く、窓を打つ雨音で湊は目を覚ました。一定のリズムで降り続く雨。カーテンを開けると、空は一面の灰色だった。向かいの家の屋根は雨に濡れ、庭先の紫陽花は鮮やかな青色を咲かせている。
「今日は結構降ってるな……」
小さく呟きながら制服に袖を通す。文化祭が終わって一週間。学校生活はすっかり普段通りに戻っていた。それでも、教室へ行けば時々文化祭の話題が出る。
「あの時さ」
「先生大暴れだったよな」
「次はもう三年か」
そんな何気ない一言を聞くたびに、胸の奥が少しだけ温かくなった。
◇
傘を差して家を出る。雨粒が傘を優しく叩く音だけが耳に残る。通学路の脇では、雨を浴びた紫陽花が色鮮やかに咲き、葉の上には小さな雫がいくつも揺れていた。水たまりを避けながら歩く人。少し急ぎ足で駅へ向かう学生。いつもより静かな朝だった。
◇
「おはよう」
教室へ入ると、優斗が窓際から手を挙げた。
「おはよう」
「朝からびしょ濡れだな」
「風が強かったな」
湊は苦笑しながら鞄を置く。そこへ、ひまりもやって来た。
「おはよう!」
制服の裾を軽く払う。
「もう最悪!」
「靴下まで濡れちゃった!」
「そんなに?」
「駅から学校までで水たまり踏んじゃったの!」
ぷくっと頬を膨らませるひまりを見て、優斗が吹き出す。
「朝からドジってんな」
「うるさい!」
「わざとじゃないもん!」
三人のやり取りに、周りのクラスメイトもくすりと笑う。教室には少しずついつもの笑顔が戻ってきていた。
◇
一時間目が始まる前。窓の外を眺めながら、ひまりがぽつりと呟く。
「梅雨ってさ、嫌いだったんだけど」
「最近はそうでもないかも」
「なんで?」
湊が聞く。
「まあ、なんとなく?」
ひまりは笑う。
「文化祭終わってから静かになったでしょ?」
「この雨くらい静かなほうが、今はちょうどいい気がする」
優斗が腕を組む。
「今日は詩人なのか」
「失礼だなぁ」
「私だってたまにはいいこと言うの」
三人は笑い合う。その時、チャイムが鳴った。担任が教室へ入ってくる。
「おはよう」
「おはようございます!」
いつもの一日が始まる。雨はまだ降り続いていた。
けれど、その雨音はどこか心地よく、文化祭の余韻をゆっくりと日常へ溶かしていくようだった。
◇
放課後。終礼が終わると同時に、教室のあちこちからため息が漏れた。
「うわー……」
「結構降ってる」
窓の外を見ると、朝よりも雨脚は強くなっていた。校庭はすっかり雨に煙り、グラウンドには大きな水たまりがいくつもできている。昇降口へ向かう生徒たちも足を止め、雨の様子を眺めていた。
「これは帰るタイミング難しいな」
優斗が腕を組む。
「傘あっても結構濡れそう」
湊も外を見つめる。風も強いく、校門まで歩くだけでも制服はびしょ濡れになりそうだった。
「ねぇ」
ひまりが二人の間から顔を出す。
「少し雨宿りしていかない?」
「雨宿り?」
「どうせ今出ても濡れるし」
「購買まだ開いてるよね?」
優斗が時計を見る。
「あと十五分くらいかな」
「じゃあ行こ!」
三人は昇降口を離れ、購買へ向かった。
◇
幸い、購買はまだ営業中だった。
「何にする?」
ひまりはショーケースを眺める。
「メロンパン!」
「早いな」
「迷わないタイプだから」
優斗は焼きそばパンを手に取り、湊はコーヒー牛乳とあんパンを選んだ。
「湊って昔からあんパン好きだよな」
「そう?」
「中学の頃もよく食べてた気がする」
「覚えてるんだ」
「意外とな」
三人は購買前のベンチへ腰掛ける。屋根に当たる雨音が、一定のリズムを刻んでいた。
◇
「いただきまーす」
パンを頬張りながら、ひまりが満足そうに笑う。
「購買のメロンパンって、なんでこんなに美味しいんだろ」
湊が頷く。
「文化祭前なんて急いで食べてたから、味わう余裕なかったもんな」
「あー、それ」
優斗が笑う。
「昼なんて五分で食ってた」
「午後から作業あったしね」
自然と文化祭の話になる。ひまりがパンを包み紙に戻しながら言う。
「毎日大変だったけど、楽しかったな」
「うん」
湊は静かに頷く。
「終わってみると、あっという間だった」
「またああいうことやりたい」
優斗がぽつりと呟く。
「次は体育祭かな」
「その前に期末テストだけどね」
一瞬、沈黙が流れる。
「……忘れてたのに」
「思い出させないで」
三人は顔を見合わせる。そして、声をそろえて笑った。文化祭ロスはまだ少し残っている。でも、こうして他愛もない話をしているだけで、不思議と寂しさは薄れていく気がした。その時だった。昇降口のほうから、誰かが職員室へ尋ねる声が聞こえた。三人は何気なくそちらへ目を向ける。優斗が、ふっと口元を緩めた。
「……あ」
「どうした?」
「いや」
優斗は意味ありげに湊を見た。
「どうやら、お迎えが来たみたいだぞ」
湊が首をかしげ、昇降口へ視線を向ける。雨の向こうに、見覚えのある白い傘がゆっくりと揺れていた。
◇
「……え?」
湊は思わず立ち上がった。昇降口のガラス越し。白い傘を差した一人の女性が、職員玄関の前で先生と言葉を交わしている。雨に煙る景色の中でも、その姿はすぐに分かった。
「しろさん……」
やがて先生に案内されるように校舎へ入り、傘を閉じたしろが廊下を歩いてくる。制服姿の生徒たちが「あの人誰だろう」と小さく振り返る中、しろはいつもと変わらない穏やかな表情で三人の前までやって来た。
「ご主人」
「は、はい」
湊は少し戸惑いながら返事をする。
「どうしたんですか?」
「今日は雨が強く、風もありましたので濡れて帰ると風邪をひいてしまうと思い」
それだけ言って、小さく微笑んだ。
「迎えに来ました」
一瞬、湊は言葉を失う。
「迎えに……」
「はい」
あまりにも自然に言うものだから、余計に照れくさくなる。横を見ると、優斗が口元を押さえて肩を震わせていた。
「優斗なに」
「いや、ごめん」
「無理」
「何が」
「いやぁ……」
優斗は笑いを堪えながら湊を見る。
「愛されてますなぁ、朝比奈クン」
「違うって!」
湊が慌てて否定すると、今度はひまりまで吹き出した。
「ふふっ」
「よかったじゃん、お迎え付きで」
「からかわないでよ」
「だってタイミングが完璧なんだもん」
ひまりは楽しそうに笑う。
「私たちが『雨強いね』って話してたら、本当に迎えが来るなんて」
しろは三人のやり取りを静かに見守り、不思議そうに小さく首を傾げた。
「……?」
どうやら、からかわれている理由はまったく分かっていないらしい。その様子が余計におかしくて、優斗はとうとう吹き出した。
「ははっ……!」
「ごめん、もう駄目だわ」
「ほんとにやめてってば」
湊が少し頬を赤くしながら抗議すると、優斗は何とか笑いを落ち着かせる。
「悪い悪い」
「じゃあ俺たちは帰るわ」
「うん」
ひまりも傘を手に取った。
「しろさん」
「湊のこと、よろしくお願いします」
「はい」
しろは素直に頷く。
「大切に連れて帰ります」
「……」
「……」
一拍置いて。
「ぶっ!」
優斗が再び吹き出した。
「駄目だ!」
「ほんっと面白い、笑い死ぬ!」
「優斗!」
湊は顔を真っ赤にしながら叫ぶ。
「しろさんも、そんな言い方しなくていいから!」
「そうでしたか?」
しろは本気で困ったような顔をする。
「失礼しました」
その真面目な反応に、ひまりまで笑いを堪えきれなくなった。
「ふふっ……もう、本当に面白い二人」
笑い声に包まれた昇降口。文化祭が終わって少し寂しかった放課後だったが、その空気はもうどこにもなかった。
「それじゃ」
優斗が傘を開く。
「また明日」
「またね」
「うん、また明日」
三人は手を振り合う。湊はしろと並び、昇降口を出た。屋根を打つ雨音は相変わらずだったが、不思議とさっきよりも少しだけ明るく聞こえた。
◇
校舎を出ると、雨は少しだけ勢いを弱めていた。それでも空は厚い雲に覆われ、街全体が淡い灰色に包まれている。しろが白い傘を広げる。
「入ってください」
「あ、ありがとうございます」
湊は少し照れながら傘の中へ入った。二人で歩くにはちょうどいい傘だったが、肩が触れないように自然と距離を取る。そのぎこちない距離が、かえって湊を意識させた。住宅街へ続く道を、二人はゆっくりと歩く。車が通るたび、水たまりが小さく波打つ。軒先からは雨粒が一定の間隔で落ち、植え込みの紫陽花は雨を受けて鮮やかに咲いていた。花びらの先に乗った雫が、風に揺れて静かに落ちる。
「紫陽花、きれいですね」
しろが足を止める。
「そうですね」
湊も隣に立つ。
「子どもの頃は気にもしてなかったですけど」
「今だったら、なんか……違って見えます」
「ふふ」
しろは優しく笑った。
「見える景色は変わらなくても、見る人は少しずつ変わっていくものですから」
その言葉が、不思議と胸に残った。二人はまた歩き始める。しばらくは、雨音だけが会話の代わりだった。静かな時間。でも、気まずさはなか、むしろ心地よい。
「ご主人」
「はい?」
「雨の日は、お好きですか?」
突然の問いに、湊は少し考える。
「昔は……あまり好きじゃなかったです」
「濡れるし、じめじめするし」
「外でも遊べませんでしたから」
「なるほど」
しろは静かに頷く。
「では、今は?」
湊は空を見上げる。灰色の雲、傘を叩く雨音。隣を歩くしろ。ほんの少し前まで、雨の日はただ憂鬱なだけだった。でも今日は違う。こうして歩く時間も悪くないと、素直に思えた。
「……今は」
湊は少しだけ笑う。
「悪くないかな、と」
その答えを聞いて、しろも穏やかに微笑んだ。
「それは良かったです」
また雨音だけが流れる。会話はそれで終わった。それでも、不思議と沈黙は心地よかった。文化祭のような賑やかな時間も楽しい。でも、こんな静かな帰り道も悪くない。
そう思えるようになったのは、いつからだろう。湊は隣を歩くしろを、ほんの少しだけ見つめる。雨粒を受けて柔らかく揺れる横顔は、どこか紫陽花のように穏やかで、静かだった。気付けば、目で追ってしまう。
(……また見てる。)
自分で自分に苦笑する。優斗に知られたら、また散々からかわれるに違いない。そんなことを考えながら、湊は小さく笑った。雨音に包まれた帰り道を、二人はゆっくりと歩いていく。
梅雨は始まったばかりだった。
第二十話でした。文化祭が終わったので、「次の大事件!」……とはならず、しばらくはちゃんと高校生らしく雨の日を過ごしてもらいます。青春って、実は放課後にパンを食べたり、どうでもいい話で笑ったり、そんな何気ない時間のほうが後から思い出になったりするんですよね。前も言ったかも。そして今回のMVPは、間違いなく優斗です。「大切に連れて帰ります」の一撃でしばらく笑いが止まりませんでした。本人たちは至って真面目なのに、周りだけが面白がる構図で作者はコメが食えます。さて、次回は写真だったり休日だったり、少しずつ「文化祭のその後」を描いていきます。雨はまだ続きますが、青春もまだまだ続きます。感想、ブックマーク等お待ちしております。次回、第二十一話もお楽しみに。




