第十九話 祭りのあと
第十九話です。本日より新章開幕です!無事、文化祭を終えた湊たちは、文化祭ロスなるものにはまっていた…。
文化祭が終わってから、最初の月曜日。朝から細やかな雨が降っていた。空一面を覆う灰色の雲は低く垂れ込め、いつもより少しだけ暗い朝を作っている。住宅街の屋根を濡らした雨粒は、軒先から一定のリズムで落ち、静かな音を響かせていた。
六月の雨は、春とも夏とも違う匂いがする。
湿った土の香り。
濡れたアスファルトの匂い。
道端では、紫陽花が雨粒をまとい、青や紫の花をゆっくりと咲かせ始めていた。湊は紺色の傘を差し、その景色を眺めながら学校へ向かう。先週まで歩いていたこの道と何も変わらないはずなのに、不思議と景色だけが違って見えた。先週は、みんな文化祭の話をしていた。
「あそこ直さないと」
「今日は何時まで残れる?」
「もうすぐ本番だぞ!」
そんな声が、登校中にもあちこちから聞こえていた。だけど今日は、すれ違う生徒たちは静かに傘を差し、雨音だけが道路に響いている。
文化祭が終わった。
その事実を、雨がゆっくりと実感させてくるようだった。
◇
「……おはよう」
教室へ入ると、優斗が眠そうに片手を上げた。
「おはよう」
「眠そうだな」
「雨の日はいつもこんな感じ」
そう言って大きな欠伸をする。窓際では、ひまりが濡れた前髪をハンカチで拭いていた。
「あ、おはよう」
「二人とも傘、大丈夫だった?」
「まあ、ギリギリ」
湊が苦笑する。
「風で結構濡れたわ」
「今日は一日降るみたいだよ」
ひまりは窓の外を見る。いつも野球部が朝練をしている校庭には誰もいない。グラウンドには細かな雨が降り続き、水たまりが静かに広がっていた。
◇
湊は自分の席へ座る。ふと、教室の中央へ目を向けた。
――何もない。
そこにあったはずのコーヒーカップはもうない。壁を彩っていた色紙も、黒板いっぱいのイラストも、天井から吊るしていた飾りも。全部なくなっていた。見慣れていたはずの教室。それなのに、どこか広く感じる。
(……終わったんだ。)
たったそれだけのことなのに、胸の奥が少しだけ寂しくなった。
「湊」
優斗が前の席に肘を乗せる。
「何見てんの?」
「いや」
湊は苦笑しながら教室を見渡した。
「なんか……」
「広いなって」
優斗も同じように教室を眺める。
「分かる」
「俺もさっき思ったんだ」
「何もなくなると急に寂しいよな」
その会話を聞いていたひまりも、小さく笑う。
「昨日まであんなに賑やかだったのにね」
「毎日残って作業して」
「終わったら終わったで、こんなに静かになるなんて」
三人はしばらく黙って教室を見つめた。雨音だけが、窓の外から静かに聞こえてくる。
◇
ホームルームが始まり、担任が教室へ入ってきた。
「はい、おはよう」
「おはようございまーす」
返事は揃っている。けれど、文化祭前のような勢いはない。担任もそれに気付いたのか、少し笑って言った。
「どうした」
「燃え尽きた顔してるぞ」
教室に小さな笑いが広がる。
「まぁ、無理もないか」
「まずは、文化祭お疲れさん」
その一言だけで、また少しだけ教室が静かになった。誰もが同じ気持ちだった。楽しかったからこそ、終わってしまったことが少し寂しい。
「でも」
担任は出席簿を閉じる。
「今日からまた普通の学校生活だ」
「切り替えていくぞ」
「……はーい」
どこか力の抜けた返事に、担任も思わず苦笑する。
「元気ないな」
「先生もじゃないんスか」
誰かがそう言うと、教室に笑いが戻った。
「先生だって文化祭ロスなんだよ」
担任が肩をすくめると、教室はさっきよりも少しだけ明るい空気に包まれた。けれど窓の外では、雨が変わらず降り続いている。季節は少しずつ梅雨へと移り変わり、賑やかな文化祭の日々も、静かな思い出へと変わり始めていた。
◇
文化祭が終わって最初の授業は、どこか落ち着かなかった。数学の先生が黒板へ数式を書き連ねる。チョークが擦れる音だけが教室に響き、生徒たちは黙々とノートを取っている。先週まで放課後のことばかり考えていたこの教室は、まるで何事もなかったかのように日常へ戻っていた。
窓の外では、雨が細く降り続いている。雨粒はガラスをゆっくりと伝い、校庭を白く霞ませていた。ぼんやりと外を眺めていると、先生の声が聞こえる。
「朝比奈」
「……はい!」
慌てて立ち上がる。
「問三、答えてみろ」
「えっと……」
教室のあちこちから小さな笑い声が漏れた。優斗は口元を押さえながら肩を震わせている。
「文化祭終わって、気が抜けたか?」
先生が苦笑すると、湊も照れくさそうに頭をかいた。
「すみません……」
答え終えて席に座ると、優斗が小声で囁く。
「珍しいな、お前が上の空なんて」
「……そうかな」
「そうだよ」
湊自身も否定はできなかった。授業に集中しようとしても、ふと文化祭のことを思い出してしまう。コーヒーカップを回す音。教室いっぱいに響いた笑い声。最後にみんなで乗ったあの時間。どれも昨日のことなのに、もうずいぶん昔のような気がした。
◇
昼休み。三人はいつものように机を寄せて昼食を食べていた。
「今日は静かだね」
ひまりが窓の外を見ながら呟く。周囲では他のクラスの生徒たちも入り混じって昼食を広げているが、文化祭前ほどの賑やかさはない。
「どこのクラスも同じなんじゃない?」
優斗がサンドイッチを頬張る。
「みんな燃え尽き症候群」
「文化祭ロスってやつ?」
「たぶん」
湊が苦笑する。
「うちだけじゃないんだね」
「そりゃそうでしょ」
ひまりも頷いた。
「昨日まで毎日遅くまで準備してたんだもん」
「急に何もしなくなったら、変な感じになるよ」
三人は自然と黙り込む。言葉にしなくても、同じことを考えていた。放課後になれば集まって、作業をして、笑って。帰る頃には夕焼けになっている。そんな毎日が、もう終わってしまった。
◇
そして放課後。終礼が終わると、担任が教壇から言った。
「雨も強くなってるから気を付けて帰れよ」
「はーい」
教室には椅子を引く音が響く。カバンを肩に掛け、生徒たちは次々と帰っていく。
「じゃあね!」
「また明日!」
「お疲れー!」
いつも通りの挨拶。それなのに、誰も教室へ残ろうとはしなかった。文化祭前なら、
「あと少し作業しよう」
「この部分どうする?」
そんな声が飛び交っていた。今はもう、その必要がない。五分も経たないうちに、教室には湊と優斗、ひまりの三人だけが残っていた。
「……帰ろっか」
ひまりが静かに言う。
「うん」
湊も立ち上がる。ふと振り返ると、夕方の教室は雨雲のせいで少し薄暗かった。机が整然と並び、壁には何も飾られていない。数日前まで、あれほど賑やかだった場所とは思えない。
「なんか」
優斗が窓際に立ったまま笑う。
「やっぱり寂しいな」
その一言に、二人も小さく頷いた。誰も否定しなかった。教室の窓を打つ雨音だけが、静かに三人の間を流れていく。文化祭は終わった。でも、その余韻はまだ、この教室にも、このクラスにも残っていた。
◇
昇降口へ向かう廊下もやはり、いつもより静かだった。雨脚は朝より少し強くなり、地面を叩く雨粒が絶え間なく音を立てている。傘を開く音。友達同士で「また明日」と手を振り合う声。それらもどこか穏やかで、文化祭前の慌ただしさはもうどこにもなかった。
三人も靴を履き替え、昇降口を出る。しっとりと湿った風が頬を撫でた。
「雨、やまないね」
ひまりが空を見上げる。
「梅雨入りだからな」
優斗が傘を開く。
「しばらくこんな感じらしい」
湊も傘を差し、校門へ向かって歩き出した。三人並んで歩いているのに、不思議なくらい会話が少ない。昨日までは、文化祭の準備や当日の話題で途切れることなんてなかった。今は何を話せばいいのか、お互いに少しだけ分からなくなっている。そんな沈黙を破ったのは、ひまりだった。
「……ねぇ」
「ん?」
湊と優斗が同時に振り向く。ひまりは二人の顔を交互に見て、小さく笑った。
「このまま帰る?」
「え?」
「なんかさ」
彼女は傘の先で小さな水たまりをつつく。
「文化祭終わってから、みんな元気ない」
「まあ……」
湊は苦笑する。
「俺もそんな気はする」
優斗も頷く。
「完全に燃え尽きてるよね?」
「だったら」
ひまりはぱっと表情を明るくした。
「寄り道しよう!」
「寄り道?」
「うん!」
「せっかく三人いるんだし」
「このまま『じゃあね』じゃ、余計に文化祭終わった感じがするもん」
湊と優斗は顔を見合わせる。確かに、その通りだった。いつもなら何気なく帰るだけなのに、今日はそれが妙に寂しく感じる。
「どこ行く?」
優斗が尋ねる。すると、ひまりは待っていましたと言わんばかりに笑った。
「ゲームセンター!」
「ゲーセン?」
「そう!」
「思いっきり遊んで、文化祭ロスなんて吹き飛ばそう!」
その勢いに、優斗が吹き出した。
「発想がひまりらしいな」
「いいじゃん!」
「たまには放課後っぽいことしようよ」
湊も思わず笑ってしまう。文化祭の準備が始まってからは、放課後といえば教室で作業だった。三人でどこかへ遊びに行くなんて、ずいぶん久しぶりのように感じる。
「……いいよ」
湊が頷く。
「行こうか」
「決まり!」
ひまりは嬉しそうにガッツポーズをした。
「多数決、二対一でゲーセン案可決!」
「いや、俺まだ賛成って言ってないんだけど」
優斗が苦笑する。
「優斗は反対なの?」
「……いや」
彼は肩をすくめた。
「俺も行く」
「よっしゃ!」
ひまりは満足そうに笑った。
◇
駅前へ続く商店街は、雨の日らしく少し人通りが少なかった。軒先から落ちる雨粒。濡れた石畳。傘の花がゆっくりと行き交う。そんな景色の中を、三人は並んで歩いていく。他愛もない話をしながら。文化祭の話ではなく、今日の授業やテレビ番組の話をしながら。その何気ない会話が、少しずつ重たかった心を軽くしてくれる。
駅前のゲームセンターが見えてくると、ひまりが子どものように声を弾ませた。
「よーし!」
「今日は負けないからね!」
「何に?」
湊が笑う。
「全部!」
「ざっくりしてんな」
優斗も笑いながら自動ドアをくぐる。ゲームセンターに入ると、明るい電子音が三人を迎えた。文化祭の余韻で静まり返っていた気持ちが、その音だけで少し軽くなる。
「まず何やる?」
ひまりが館内を見回しながら振り返る。
「クレーンゲーム!」
「いや、絶対取れないだろ」
優斗が呆れたように笑う。
「今日は取れる気がする!」
「その自信はどこから来るんだよ」
結局、最初に挑戦したのはクレーンゲームだった。
「よーし……!」
ひまりが真剣な表情でレバーを動かす。アームはぬいぐるみを掴んだ――ように見えたが、すぐに力なく滑り落ちた。
「あぁー!」
「惜しい!」
湊が思わず声を上げる。
「惜しくない」
優斗が即座に突っ込む。
「全然つかめてないし」
「次は湊!」
「え、俺?」
言われるまま挑戦するものの、結果はひまりと大差なかった。
「湊も下手じゃん」
「難しいよ、これ……」
二人の様子を見て、優斗が笑いながら百円玉を入れる。
「まあ、見とけって」
慣れた手つきでアームを動かすが、狙ったぬいぐるみはあと一歩のところで転がり落ちた。
「……」
「……」
「……ま、まあ惜しかったな」
湊が肩を震わせる。
「笑うな!」
「ごめん」
三人は顔を見合わせ、声を上げて笑った。文化祭が終わって初めて、お腹の底から笑った気がした。店を出る頃には、雨も少しだけ弱まっていた。駅前の空には、厚い雲の切れ間からわずかに夕暮れの光が差し込んでいる。
「たまにはこういう放課後もいいね」
ひまりが満足そうに伸びをする。
「うん」
湊は頷いた。文化祭は終わった。その寂しさは、きっとすぐには消えない。でも、笑える時間もまた、これから違う形で少しずつ増えていくのかもしれない。三人は駅前で手を振り合い、それぞれの帰路へと歩き出した。
第十九話でした。まずは、最近更新サボっててすいませんでした。構成を考え直すのに時間がかかっていた、という言い訳をさせてください。こんな作者ですが、これからもお付き合いください。さあ、文化祭編が終わったと思ったら、今度は文化祭ロス編が始まりました。冗談です。……いや、青春ってイベントそのものより、「終わったあと」のほうが妙に心に残ったりしません?そんな気持ちを梅雨の雨に全部代弁してもらいました。便利ですね、雨。そしてここからは、派手な文化祭編とは打って変わって日常編です。……とはいえ、この作品の「日常」というのはだいたい誰かがニヤニヤして、誰かが振り回されて、誰かがツッコミを入れて終わるので、多分そんなに静かではありません。雨が降っても、青春はまだまだ続きます。感想、ブックマーク等お待ちしております。次回、第二十話もお楽しみに。




