囃し立てる声
第8話 囃し立てる声
いじめというものは、いつも同じ顔をしているわけではない。
昨日までのものがそのまま大きくなることもある。
逆に、昨日まで笑っていた者が急に黙り、その代わりに、少し離れたところで見ていただけの者が面白がり始めることもある。
とくに大人が動いたあと、教室の空気は一段ねじれる。
止まる者は止まる。
だが、止まらない者は、もっと陰に回る。
そして、最初は中心にいなかった者たちが、「なんか面白そうなことが起きている」と嗅ぎつけて集まってくる。
それが、いちばん厄介だった。
学校との面談が決まった、ということは、まだクラス全員に明確な形で伝わっていたわけではない。
けれど、教室という場所は、そういう情報を恐ろしく速く、しかも曖昧なまま広げていく。
三浦隆の親が動いているらしい。
担任が学年主任と話しているらしい。
黒川たちが個別に呼ばれたらしい。
三浦が何か言ったらしい。
“らしい”の連鎖が、教室の隅々にまで染み込んでいく。
その朝、隆が二年二組の教室へ入った瞬間、空気の違いははっきりしていた。
前より静かだった。
だが、その静けさは、平穏の静けさではない。
自分に関係のあることが起きているのを知っていて、でも大人の目があるからまだ表に出しきれない。
そんなときの、抑えられたざわつきだった。
隆が席につくと、斜め後ろの方から小さな声がした。
「ほら、来た」
誰の声かは分からない。
わざと分からないくらいの小ささだった。
少し間を置いて、別の声がかぶる。
「今日も先生さ言うんだろ」
くすっと笑い。
隆の手が、一瞬だけ止まる。
教科書を出す。
筆箱を開く。
顔は上げない。
それが今の自分にできる、ほとんど唯一の防御だった。
「また親に泣きつぐんでね?」
今度は前の方から。
男子か女子かも分からないほどの低い声。
教室の中に、小さな波紋みたいな笑いが広がる。
だれもはっきり口元を開かない。
でも、肩の揺れや、目を逸らすタイミングで、それが笑いだと分かる。
その瞬間、隆は悟った。
もう黒川や相原だけの話ではない。
面白がるだけの連中が増えている。
はっきり中心に立って言うわけではない。
責任を持つほど前へ出るつもりもない。
でも、誰かが落ちかけているのを見ると、そこへ石を一つ投げてみたくなる。そんな種類の人間が、教室には必ずいる。
そして、その数は思ったより多い。
一時間目が始まるまでの間、高石正美は教卓の前でプリントを整えながら、生徒たちの様子を見ていた。
何かが変わっている。
昨日までとは違う張りつめ方だ。
しかもその変化は、中心にいる黒川や相原だけではなく、周囲の“ふだんは強く前に出ない層”にまで広がっている。
宮原彩乃は口数が少ない。
香月結衣はスマホを触れない時間にも、妙に落ち着きなく周りを見ている。
原口は少し興奮した顔をしている。
そして、何より、教室の空気そのものが“見物”の方へ傾いていた。
これは、危ない。
高石は直感した。
主犯格だけならまだ、焦点は絞れる。
だが、空気が“面白がる方”へ広がったとき、教室は一気に手に負えなくなる。
被害を受けている本人の苦しさが、もはや個人間の問題ではなく、教室全体の娯楽へ変わり始めるからだ。
高石は一時間目の最初に、教科書を開く前に、あえて短く言った。
「授業の前に一つだけ言います」
教室が静まる。
「最近、人のことをあだ名で呼んだり、揶揄したりするような空気が見えることがあります。相手が嫌だと思う言葉、面白がっているだけのつもりでも傷つける言葉は、この教室では許しません」
誰の名前も出さない。
でも、“この教室のことを言っている”とは全員が分かる言い方だった。
高石は続ける。
「それから、誰かが困っていて、先生や家族に相談することを“悪いこと”のように扱うのも違います。困ったときに大人へ相談するのは、間違いではありません」
そこで、教室の空気がわずかに硬くなる。
高石は分かった。
今日の朝、すでに何かが言われている。
それも、おそらく“チクった”“親に言った”という類のことが。
三浦隆の顔は、前よりさらに青かった。
だが、机に置かれた両手は、昨日よりほんの少しだけ強く組まれていた。家族に話したことで、完全に一人ではなくなったぶん、崩れきらずにすんでいるのかもしれない。
それでも苦しいことに変わりはない。
授業が始まり、数式や英単語が黒板を埋めていく。
だが隆の耳には、先生の声の隙間から、周囲の小さな息づかいばかりが入ってきた。
後ろの席で椅子がきしむ。
隣の列でノートが閉じる。
窓際の誰かが小さく吹き出す。
その全部が、自分のことのように聞こえる。
実際に全部が自分のことではないのかもしれない。
でも、いまの隆には、それを切り分ける余裕がもうあまり残っていなかった。
二時間目と三時間目の間の休み時間、今度はもっと露骨な囃し立てが混じり始めた。
「先生来たら、また言えよ」
男子の笑い声。
「“高石せんせー、ぼく今日もいじめられましたー”ってが」
それにかぶせるように、別の声がわざと鼻にかかった調子でまねる。
「おかーさーん、また言われだー」
どっと笑い。
それは、もう完全に“見物”だった。
言っている本人たちは、自分が加害者の中心ではないつもりでいる。
黒川たちほど責任のある立場でもなく、ただの野次馬の顔をしている。
でも、その野次こそが、人をさらに追い詰める。
隆は俯いたまま、ノートの端を見ていた。
そこに書かれているのは授業の文字のはずなのに、目に入らない。
喉の奥が詰まり、耳の後ろが熱くなる。
ここで反応したら、さらに面白がられる。
ここで立ち上がったら、「ほら、まただ」と言われる。
だから動けない。
それを見ていたのは、白石ひなただった。
彼女はずっと、迷っていた。
最初のころから、これは少しおかしいのではないかと思っていた。
でも、“みんなの軽口”と“いじめ”の境目を、自分の中で強く言い切れなかった。自分が大げさに受け取りすぎているのかもしれない、と何度も思った。
けれど今は、もうそういう段階ではなかった。
先生に言うんだろ。
また親に泣きつくのか。
そう言って笑うのは、どう考えても“ただの冗談”ではない。
白石は思わず立ち上がりかけた。
だが、そのとき宮原彩乃がちらりとこちらを見た。何も言わない。ただ、その視線の中に「ここで動くの?」という無言の圧があった。
白石は、その一秒で固まった。
その一方、浅井結菜は、自分の机の消しゴムを何度も指でずらしていた。
前に一度、隆へ消しゴムを貸しただけで、自分まで変なふうに見られた感覚がまだ残っている。助けたい気持ちはある。けれど、今ここで自分が声を上げれば、間違いなく次の標的の一部になる。
そう分かっている。
だから動けない。
動けない自分に、さらに嫌悪感が募る。
教室というのは、そういう場所だった。
加害する側だけでなく、止められない側の自己嫌悪まで育てていく。
昼前、高石はついに学年主任の佐伯美帆を教室へ呼んだ。
理由は明確だった。
もう一人で抱えるには危険だと判断したのだ。
佐伯は二年二組の後ろ扉から静かに入り、授業の様子を少し離れて見た。彼女は若い高石と違い、学校という場の“見えない悪意”に対して、もう少し長く付き合ってきた目をしている。
数分見ただけで、佐伯にも分かった。
これは静かな教室ではない。
押さえ込まれた教室だ。
そして押さえ込まれているものは、反省ではなく、面白がりと探り合いだ。
授業後、佐伯は高石と短く言葉を交わした。
「広がってるね」
「はい」
「中心だけを見てると取りこぼす」
「……そう思います」
「今日は三浦くんを無理に教室へ残さないで。しんどそうなら保健室も使っていい。あと、午後のホームルーム、私も入る」
高石はその言葉に、少しだけ背中を押される思いがした。
一人で見ていると、自分の感覚が過敏なのか、まだ足りていないのか、分からなくなる瞬間がある。
でも、学年主任も同じものを見ている。
それだけで、対応の軸がぶれにくくなる。
その日の午後、ホームルームの時間、佐伯は教室の後ろに立った。
高石は前へ出て、少しだけ長めに話をした。
「最近、この教室の中に、人を面白がって傷つける空気があります」
前回よりも踏み込んだ言い方だった。
「名前を変えて呼ぶこと、人が大人へ相談したことを責めること、そういう言葉は全部、相手を追い詰めることになります」
そこで教室がざわつきかける。
佐伯が一歩だけ前へ出ると、そのざわめきはすぐに止まった。
高石は続ける。
「この件は、いま学校として見ています。もし、自分は直接言っていないから関係ない、と思っている人がいるなら、それも違います。周りで笑うこと、囃し立てることも、教室の空気をつくっています」
その言葉は、明らかに“面白がるだけの者”たちへ向けられていた。
教室の空気が、ぎゅっと縮む。
宮原彩乃は腕を組んだまま、顔を伏せている。
相原は不満そうに唇を尖らせている。
黒川は前を見ているが、表情は硬い。
白石ひなたは息を詰め、浅井結菜は膝の上の手をぎゅっと握っていた。
そして隆は――胸の奥が苦しかった。
守られているのか、さらされているのか、その境目が分からない。
先生たちは明らかにこちら側へ立とうとしている。
でもそのことで、教室の中では自分が“話を大きくした中心”として、さらに目立つ存在にもなってしまう。
安心と不安が同時に来る。
そのどちらも本物だった。
放課後、保健室で少し休ませてもらってから帰宅した隆は、家へ着くなり居間へ倒れ込むように座った。
「おかえり!」
ラジオの音が流れていた。
なぎさが宿題をしながら聞いていたらしい。
明るく通る女の声。
そのあと、少し間を置いて、別の声が重なる。
「はい今週も始まりましたー! 土曜夜八時、庄内も名寄もひっくるめて笑わせる、ウィークエンド爆笑イブニング!」
実里が台所から顔を出す。
「今日、もう始まってだよ」
隆ははっとした。
土曜日。
そうだ、今日は土曜日だった。
毎週土曜の夜八時から放送されるラジオ番組。
酒田出身の佐々木ひよりと、北海道名寄出身の秋元逸美の方言丸出しお笑いコンビ、天庄屋の看板番組。
『ウィークエンド爆笑イブニング』。
学校で何があっても、この一時間だけは、不思議と呼吸がしやすくなる。
そんな時間だった。
隆は制服のまま、居間のラジオの近くへ座る。
番組の中では、ひよりが勢いよく言っていた。
「いやぁ逸美さん、今週も来ましたよ! 酒田の風さ吹っ飛ばされそうになりながらも、ちゃんとスタジオさ来ました!」
すぐに逸美が返す。
「なに言ってんの、こっちは名寄の雪ん中育ってんだべした! 酒田の風ぐれえで飛ばさるるなら、とっくにお笑い辞めでるわ!」
ひよりが大げさに叫ぶ。
「出た! 名寄仕込みの防風性能!」
「そっちこそ庄内弁強すぎで、標準語が避難しったんでねえの?」
「避難してねえ! いまもスタジオの隅っこで震えでる!」
なぎさが吹き出す。
実里も台所で小さく笑う。
隆も、口元が緩むのを止められなかった。
番組の中の二人は、方言を隠さない。
隠さないどころか、それをそのまま武器にして笑いへ変えていく。
学校の中では“ズレていること”や“少し違うこと”が笑われる材料になる。
でも、このラジオの中では、“そのままの自分”が笑いになる。しかも、人を傷つける方向ではなく、救う方向へ。
それが、隆にはたまらなくありがたかった。
番組はその夜も絶好調だった。
「はい、今週の方言対決ー!」
「負げねえぞー!」
「お題は、“コンビニでおにぎり温めますか?”をそれぞれの方言でどうぞ!」
「庄内はまず、“あっためるが?”だの」
「名寄は……いや北海道広えがら一括りにすんなって怒られるやつ!」
「そこも込みで笑いさ変えんのがプロだべ!」
言葉の勢い。
間。
お互いを受ける速さ。
それを聞いている間だけ、教室のことが少し遠のく。
今日言われた言葉の棘が、少しだけ内側へ沈んでくれる。
番組の後半、“おたより紹介”のコーナーに入ったとき、隆は思い切ってスマホを手に取った。
前から送ろうか迷っていた。
でも、“こんなことで送っていいのか”と躊躇していた。
今日は違った。
送らなければ、たぶん自分の中でこの時間まで息苦しくなる気がした。
メッセージ投稿フォームを開く。
指先が少し震える。
何度か書いては消し、書いては消して、ようやく送った。
内容は短かった。
学校でつらいことがあって、教室にいるのが苦しいです。
でも、お二人の元気な声と方言丸出しのコントを聞いていると、その間だけ少し笑っていられます。
ありがとうございます。
名前は本名ではなく、ラジオネームにした。
けれど送った瞬間、胸のどこかが少し軽くなった。
それは、助けてほしいと大きく叫ぶのとは違う。
ただ、自分が救われている場所へ、小さく手を伸ばしただけだった。
その夜の放送では読まれなかった。
でも、それでよかった。
どこかへ届いた。
それだけで十分だった。
実里は、居間でラジオを聞きながら、隆の表情が少しだけ緩んでいるのを見ていた。
この子が最近まともに笑う瞬間は少ない。
でも、天庄屋のラジオを聞いているときだけは、頬の筋肉が自然に動く。
なぎさも同じことに気づいているらしく、コントの山場で兄が吹き出すと、横からちらっと顔を見て、少しだけ安心したように笑う。
その一時間は、家の中に久しぶりに“普通の笑い声”を戻した。
だが同時に、その一時間が終わったあと、隆の顔にまた静かな影が戻ることも、実里は見ていた。
だからこそ思う。
このラジオは、この子にとってただの娯楽ではない。
逃げ場なのだ。
ぎりぎりで呼吸をつなぐための、小さな避難所なのだ。
学校側は、その“避難所が必要になるほど追い詰められている”現実を、もっと重く見なければならない。
その翌週の放送で、天庄屋は一通のメッセージを読むことになる。
ラジオネームは見慣れないものだった。
ひよりが読み上げる途中で、スタジオの空気がほんの少しだけ変わる。
「……おお」
ひよりが小さく息をつく。
逸美も、いつもの勢いを少しだけゆるめる。
でも、番組は湿っぽくならない。
なぜなら、それが天庄屋の流儀だからだ。
ひよりは明るい声で言う。
「メッセージありがどさまでした。いやー、つらい中でも聴いでくれでるって、これめっちゃ嬉しいっす」
逸美が続ける。
「ほんとだわ。つらいときって、ちゃんと笑えなくてもいいんだよね。口の端っこ一ミリでも上がれば、もうそれ立派な前進だべ」
ひよりが、いつもの勢いに少し優しさを混ぜて言う。
「うちら、毎週ここで騒いでっからさ。よかったらまた来てけろなー!」
その言葉を聞きながら、隆はラジオの前でじっとしていた。
読まれたことへの驚き。
自分の言葉が届いたという信じられなさ。
そして、届いた先から“また来てけろ”と言われたことの温かさ。
教室では、“お前は空気を壊す側”として見られている。
でも、ラジオの向こうの人たちは、自分を“来ていい側”へ置いてくれる。
その違いが、胸に深く残った。
それが、三浦隆と天庄屋の交流の始まりだった。
まだ小さな接点。
リスナーとパーソナリティ、ただそれだけの距離。
でも、この先、物語の中でその距離は少しずつ変わっていく。
一方で、現実の教室は、そんな温かいラジオとは真逆の方向へ動いていた。
高石と佐伯の介入で、表立った言葉は少し減った。
しかしそのぶん、机の中のプリントがぐしゃっと折られていたり、ノートの端に小さく“チクリ魔”と書かれていたり、そういう露骨で陰湿なものが、まだ細い芽のように顔を出し始めていた。
それはまだ“大事件”と呼べるほどではない。
でも、芽は芽だ。
根がつけば、必ず伸びる。
そして教室の中では、直接の加害者とは別に、面白がって囃し立てる声が、もう確実に育ち始めていた。
先生に言うんだろ。
また親に泣きつくのか。
チクったくせに。
次は何を告げ口するんだ。
そういう声は、最初は小さい。
だからこそ見逃されやすい。
そして見逃されるうちに、いつの間にか教室の空気の一部になっていく。
高石も、佐伯も、その芽を見ていた。
家庭もまた、その芽が伸びていることを感じ始めていた。
だが、芽を見つけたからといって、すぐに根こそぎ抜けるとは限らない。
その難しさが、この先の三浦家と学校の対峙を、さらに深く、厳しいものにしていく。
それでも、隆にはひとつだけ、毎週土曜の夜八時に戻れる場所ができた。
庄内弁と北海道弁が飛び交う、方言丸出しの爆笑ラジオ。
天庄屋のふたりが、画面の向こうではなく、声だけでこちらの心を少し持ち上げてくれる一時間。
教室の中では、まだうまく息ができない。
けれど、世界の全部があの教室ではないと、ぎりぎり思い出させてくれる場所がある。
そのことが、いまの隆にとっては何よりも大きかった。




