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手をつなぐ理由  作者: リンダ


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家族会議



第7話


家族会議


 家に帰るまでの道を、隆はほとんど覚えていなかった。


 足は確かに前へ出ていたし、信号が赤なら止まり、青になれば渡った。制服の袖口に風が入り込み、頬を冷たく撫でていった感覚もあった。だから、身体はちゃんと現実の中を歩いていたはずだった。


 けれど頭の中だけは、ずっとあの教室のまま止まっていた。


 お前、チクっただろ。

 大したことじゃねえのに。

 遊んでただけじゃん。

 なんで大事にすんだよ。


 あの言葉は、ただ耳に残っているというより、身体の内側に貼りついている感じだった。歩いても、立ち止まっても、深呼吸しても取れない。靴の裏にべっとり貼りついた泥みたいに、何をしてもついてくる。


 ときどき、あれは本当に起きたことだったのかと変な気分になる瞬間があった。

 でも、黒川の顔も、相原の声も、原口の居心地悪そうな目の動きも、妙に鮮明に思い出せる。思い出せるということは、やっぱり本当にあったのだ。


 しかも一番きつかったのは、あの言葉自体より、その奥にあったものだった。


 お前が悪い。

 言葉にはしていなくても、結局あれはそういう意味だった。


 俺が苦しいって感じたこと。

 俺が家で話したこと。

 先生に伝わるところまで行ったこと。


 その全部が、“空気を読めない面倒なやつ”のせいみたいに言われた。


 そうなることは、どこかで予想していたのかもしれない。

 だからこそ怖かったし、だからこそずっと黙っていた。


 家の前まで来たとき、足が少しだけ止まった。


 玄関の向こうには、母さんがいる。

 なぎさがいる。

 今日はたぶん、父さんももう帰ってきている。


 昨日までなら、そのことに少しだけ安心していたはずだった。

 でも今日は、その安心の中へ自分が何を持ち込むのかを思うと、玄関の扉がやけに重たく見えた。


 ただいま、と言ったあとで、何をどう話せばいいのか。

 今日また悪くなったことを。

 先生が動いたことで、逆にクラスの空気が変わったことを。

 黒川たちに言われたことを。


 頭の中で何度か言葉を並べてみる。

 でも、どれも違う気がした。軽すぎたり、重すぎたり、変なところが抜けたりした。


 結局、何もまとまらないまま玄関を開けた。


「ただいま」


 声は思ったより普通に出た。

 それがかえって、自分でも不思議だった。


 台所から実里の声が返る。


「おかえり」


 その声は、前より少しだけ慎重だった。

 いつもの明るい調子の“おかえり”に、こちらの顔色をうかがう薄い膜がかかっている。


 居間には正康がいた。

 今日は早く帰れたらしい。仕事着のまま、テーブルの上の新聞を見ていたが、隆の声を聞いてすぐに顔を上げた。


「おう」


 短い返事。

 けれど、その目がこちらを見た瞬間、隆は「あ、もう分がってる顔だ」と思った。


 なぎさは宿題を広げていた。

 鉛筆を持つ手を止めて、兄を見る。

 その視線はもう、昨日までの“なんとなく変”を見る目じゃない。はっきり“今日どうだったか”を聞きたがっている目だった。


「……どうだった」


 正康が先に聞いた。


 それだけ。

 余計な前置きもない。


 隆は鞄を下ろし、椅子の背に手をかけたまま少し黙った。


「……だめだった」


 やっとそれだけ言う。


 その瞬間、居間の空気が一段低くなった。


 実里が火を弱める音がする。

 なぎさの鉛筆が机に置かれる。

 正康は新聞をたたんだ。


「何あった」


 今度は少し低い声だった。


 隆は居間の椅子に座った。

 鞄はそのまま足元へ置く。肩から力を抜こうとしても抜けない。


「今日……先生、黒川ど相原さ話したっぽい」


「っぽい、ってのは」


 実里が台所から出てきながら聞く。


「たぶん、俺のごどで」


 言ってから、喉が少し詰まる。


 俺。


 家で話すとき、自然にそう出た。

 学校では、言葉が縮こまって“俺”すらうまく出ない時があるのに、家ではまだそれが残っているのだと、どこかで少しだけ思った。


「それで?」


 正康が促す。


「休み時間に……黒川ど相原が来て」


 そこまで言うと、なぎさの顔がすぐに強ばった。


 隆は、机の端を見ながら続けた。


「“お前、チクっただろ”って」


 実里の指先がぴたりと止まる。

 正康の顔は動かなかった。動かなかったが、空気が変わった。


 怒りというものは、声を荒げる前に、まず空気を変える。


「……誰が言った」


 その問いは低く、硬かった。


「相原。黒川も、同じような感じで」


「ほかに誰いた」


「原口も、後ろにいた」


「何て言われだ」


 正康の声はさらに低い。

 実里がちらりと夫を見る。


 隆は一度だけ深呼吸した。

 思い出したくない。

 でも、ここで曖昧にしたら、またどこかで“たいしたことじゃなかったのかも”へ戻ってしまいそうな気がした。


「“大したことじゃねえのに、なんで大事にすんだよ”って」


 なぎさが、ぎゅっと唇を結ぶ。


「“遊んでただけじゃん”っても言わいだ」


 その瞬間、正康の拳がテーブルの下で強く握られたのが分かった。

 実里も分かったらしく、ほんの少しだけ息を飲んだ。


「遊び……?」


 その言葉を、正康はまるで異物でも口にしたみたいに繰り返した。


 隆は頷く。


「俺が嫌だって言ったら、黒川、なんか黙って……相原は“めんどくせ”って」


 最後まで言うと、居間に沈黙が落ちた。


 その沈黙は重かったが、これまでの“言葉がないから重い沈黙”ではなく、言葉を受け止めたあとに来る重さだった。


 最初に口を開いたのは、実里だった。


「隆」


「……うん」


「それ、もう十分ひどいよ」


 母親の声だった。

 感情的に怒鳴るのではなく、事実としてはっきり認める声。


「“遊びだった”って言われれば、傷ついた方が我慢しねばならねみだいな話になる。そんなの、おかしい」


 隆は俯いたまま頷いた。


 でも、その言葉がありがたい反面、まだどこかで「ほんとにそこまで言っていいのか」と迷う自分がいるのも分かった。長いあいだ、相手の軽さに合わせて“たいしたことじゃない”方へ自分を寄せてきたせいで、感覚がまだきちんと戻っていない。


 そのときだった。


 正康が、低く言った。


「ふざけんな」


 声は大きくなかった。

 でも、その一言に含まれた怒りは、家の中の誰にもはっきり伝わった。


「遊びだ? 大したことじゃねえ?」


 正康は顔を上げる。

 その目は、普段の無口な父親のものではなかった。抑えていたものが、もう抑えきれなくなった顔だった。


「人ひとり、ご飯食えねぐなって、学校さ行ぐの怖ぐなって、家さ帰ってきても笑えねぐなってるのに、それで遊びだったで済むわけねえべ」


 なぎさがびくっと肩を揺らした。

 正康がここまで感情を露わにするのを、そう何度も見たことはない。


 でも、怒鳴っているわけではない。

 声を張り上げる代わりに、言葉のひとつひとつを硬く押し出している。


「しかもチクっただ? 話した方を悪くすんのか」


 正康はテーブルに視線を落とし、奥歯を噛むようにして続けた。


「最低だ」


 短いその言葉の方が、怒声よりずっと重かった。


 隆は、その言葉を聞いて初めて、胸の奥に溜まっていた苦しさの一部が“怒っていいものだった”のだと気づいた。


 これまで、自分が弱いから苦しいんだと思い込もうとしていた。

 我慢が足りないから。

 気にしすぎだから。

 空気を読めないから。


 でも今、父さんは怒っている。

 俺の代わりにではなく、俺が受けたことそのものに対して怒っている。


 それは妙に大きなことだった。


 実里は夫の怒りを受け止めながらも、同時に次の段取りを考えていた。


 怒りだけでは守れない。

 怒りが正しくても、それだけで学校が動くわけじゃない。


「正康」


 静かに呼ぶ。


「うん」


「これは、もう面談した方がいい」


 その一言で、空気の向きが変わった。


 感情の話から、行動の話へ。


 正康は頷いた。


「だな」


「担任の先生と、必要なら学年主任も入れてもらう。今のまま電話だけで済ませる話ではねえ」


 実里の声は落ち着いていた。

 でも、その落ち着きは迷いのなさから来るものだった。


「本人の様子も、教室の空気も、もう一回ちゃんと学校側に見でもらわねばならね」


 隆が顔を上げる。


「……面談、するの」


「する」


 実里ははっきり言った。


「明日すぐかどうかは調整いるけど、やる」


 隆は少し黙った。


 怖い。

 その気持ちはまだ強かった。

 面談をしたことで、また何か言われるかもしれない。

 “親まで出してきた”と思われるかもしれない。


 教室の中のあの視線が、もっと冷たくなる未来も、簡単に想像できた。


「また……悪ぐなるがもしんね」


 小さくそう言う。


 今度はなぎさが、すぐに口を開いた。


「だども、今のままでいれば、もっと悪ぐなるべ」


 まっすぐな声だった。


 昨日と同じように、いや、昨日よりも少し強く。


「今日だってもう悪ぐなってるんだもん」


 実里となぎさの目が合う。

 実里は小さく頷いた。


「そうだよ、隆。もう今の時点で、“黙ってればそのうち自然におさまる”段階は過ぎてる」


 正康も言う。


「我慢で何とかなるうちは、もう終わってる」


 その言葉は残酷でもあった。

 でも、嘘ではなかった。


 隆もそれは分かっていた。

 今日の黒川たちの顔を見れば分かる。先生が少し動いただけで、もう“話した側”を責める方へ空気が流れ始めていた。ここから自然に良くなる未来は、正直もう見えなかった。


 なぎさが椅子から立って、兄の隣へ来る。


「お兄ちゃん」


「……なに」


「昨日も言ったけど、わだし味方だがら」


 その言い方は、昨日より少しだけ明るかった。

 励ますために、あえて少し軽く言ったのだと分かる。


「先生さ何話すがってなっても、家さ帰ってきてまた嫌なごど言わいでも、わだし味方だ」


 隆は、少しだけ笑いそうになった。


「お前、何回言うんだよ」


「何回でも言う」


 なぎさは胸を張る。


「お兄ちゃん、すぐ忘れるがら」


 その言い方が少しだけいつもの兄妹に戻っていて、実里も口元を緩めた。

 正康でさえ、ほんのわずかに肩の力を抜いた。


 けれど、その小さな和らぎのあとで、実里はまた現実へ戻る。


「今日のこと、もう少し整理しよう」


 そう言って、メモ帳を持ってきた。


 何を言われたか。

 誰がいたか。

 先生がいつ、誰を呼んだか。

 グループトークの内容はどこまで残っているか。


 ひとつずつ、確かめていく。


 隆は最初、その作業をひどく現実離れしたもののように感じた。

 自分の苦しさが、メモ帳の上の箇条書きになる。時刻や名前や場所として整理されていく。


 でも、書き出していくうちに、逆に分かってくることもあった。


 これはやっぱり、ただの気のせいではない。

 毎日少しずつ起きていたことにも、ちゃんと流れがある。

 発端があり、広がりがあり、今日みたいな“話した側を責める”言葉へつながっている。


 名前がつくと、怖さは増す。

 けれど同時に、闘い方も少しだけ見えてくる。


 正康は途中から一言も発さずに聞いていた。

 だが、たまに入る質問が、現場を確認するみたいに鋭かった。


「それ言ったのは黒川本人が」


「うん」


「相原はそのとき、どんな感じだった」


「……一番、直接言ってきた」


「原口は止めだが」


「いや、見でだだけ」


 その答えを聞くたびに、正康の表情が少しずつ硬くなっていく。


 父親の怒りは、最初の爆発を過ぎると、今度はもっと静かな形に変わることがある。

 正康はいま、まさにそういう怒り方をしていた。


「明日、学校さまた連絡する」


 実里が言った。


「面談のお願いもするし、今日みでえに“話しただろ”って責めるような流れがあるなら、そこも伝える」


 隆は、その言葉にまた少し不安そうな顔をした。

 実里はその顔を見て、声を柔らかくする。


「こわいよね」


「……うん」


「でも、お母さん一人で勝手に走るわけでねえ。お父さんもいるし、お前の話もちゃんと聞ぎながら進める」


 正康も短く言う。


「学校さ任せきりにはしね」


 その一言は、隆にとってずしりと重かった。

 でも、悪い重さではなかった。


 自分の背中に乗っていたものを、少しだけ大人が持ってくれるような重さだった。


 夜、なぎさが風呂上がりに兄の部屋をのぞいた。


「入っていい?」


「なんだよ」


「いいが悪いが」


「……いい」


 なぎさは部屋へ入って、ベッドの端にちょこんと座る。


 少し沈黙してから、言う。


「今日、ほんとはずっと怖がった」


「何を」


「お兄ちゃんが、ほんとのごど話してくれねがっだらどうしようって」


 隆は机の上のシャーペンをいじりながら、小さく息を吐いた。


「俺も、話したくなかった」


「なんで」


「話したら、本物になる気ぃしたがら」


 なぎさはその言葉を、子どもなりにゆっくり噛みしめたようだった。


「でも、もう話した」


「……うん」


「じゃあ、次は一人で我慢しねで」


 それは命令じゃなく、お願いの形をした言葉だった。


 隆は少しだけ笑う。


「お前、ほんと小学生かよ」


「小学生だよ」


 なぎさはふくれた顔をしてから、少しだけ真面目な目に戻る。


「でも、お兄ちゃんの味方だ」


 昨日から何度も聞いているはずなのに、その言葉は聞くたびに違う場所へ入ってきた。


 昼間の教室で、黒川たちの前ではぎりぎり踏みとどまるための言葉だった。

 今この部屋では、崩れきらないための言葉だった。


「……ありがど」


「うん」


「何でお前が泣きそうなんだよ」


「泣ぎそうにもなるわ」


 なぎさは鼻をすすりながら言う。


「お兄ちゃん、最近ずっとへんだったもん」


 その“へんだった”の中に、心配も、不安も、怒りも、全部詰まっているのが分かった。


 なぎさが部屋を出ていったあと、隆はしばらく机に向かったまま動かなかった。


 今日のことを思い返す。


 黒川の顔。

 相原の声。

 “チクっただろ”の一言。

 そしてそのあと、自分が「嫌だった」と言ったこと。


 あれが正しかったのかどうか、まだ分からない。

 でも、少なくとももう、全部を飲み込んでなかったことにするところへは戻れない。


 その先に待っているものが、必ずしも良い方向だけじゃないことも分かっていた。


 明日から、教室の空気はさらに悪くなるかもしれない。

 いや、たぶん悪くなる。


 直接言ってくるやつだけじゃなく、横で囃し立てるようなやつも出てくるかもしれない。

 “チクったやつ”を見物するみたいな目が増えるかもしれない。


 先生が見ていないところで、もっと陰湿になるかもしれない。


 そう考えると、胃の奥がまた重くなる。


 でも、完全に一人ではない。

 それだけは、昨夜より少しだけ本当に思えた。


 翌朝、実里は高石へ再び連絡を入れた。

 前日の放課後、三浦隆が同級生から「チクっただろ」「大したことじゃないのに大事にするな」と言われたこと。

 面談を早急にお願いしたいこと。

 必要であれば正康も同席すること。


 高石は電話の向こうで、一瞬だけ言葉を失った。

 そこまで早く“報復めいた反応”が出るとは思っていなかったのだろう。


 だが、それは同時に、事態がもうかなりはっきりしてきたことを意味していた。


 教室の空気は、さらに悪くなる。

 それはもう、かなりの確率で見えている。


 しかも厄介なのは、中心で言う者だけではない。

 まわりで笑う者。

 囃し立てる者。

 “先生来るぞ”と面白がる者。

 そういう二次的な加速役が出てきたとき、教室の空気は一段深く壊れる。


 高石も、実里も、正康も、まだその全部を見切れてはいなかった。

 けれど、予感だけはすでにあった。


 この先は、もっと悪くなるかもしれない。


 教室の中で、誰かひとりが悪いというより、

 空気そのものが誰かを押しつぶす形に変わっていく。


 それにどう立ち向かうのか。

 学校はどこまで本気で向き合うのか。

 家庭はどこまで息子を守り切れるのか。


 本当の対峙は、ここから始まるのだった。



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