見て見ぬ振りの教壇
第6話
見て見ぬふりの教壇
教室という場所は、不思議なところだ。
何かが起きているときほど、何も起きていないような顔をする。
誰かが苦しんでいるときほど、朝の挨拶は妙に普通に聞こえる。
そして、空気が変わったときほど、人は言葉を減らす。
その日の二年二組は、まさにそんな教室だった。
高石正美がいつもより早く入ってきてから、教室の空気はずっと薄く張りつめたままだった。
窓際のカーテンは、庄内の風に押されて時おりゆるく膨らみ、そのたびに日差しが机の上を滑っていく。黒板の上に掛けられた時計はいつも通り進んでいるのに、教室の時間だけがどこか不自然に遅かった。
誰も露骨なことを言わない。
少なくとも、先生の見えるところでは。
だがその“言わない”が、改善ではないことを、高石はすぐに悟った。
黒川大河はいつも通りの顔をしていた。
相原圭吾も、原口悠真も、妙に静かなだけで、反省しているようには見えない。
女子の方も、宮原彩乃が一見いつも通りに笑っている一方で、その笑いの端に、様子をうかがう薄い膜のようなものがあった。
そして何より、三浦隆自身が、朝から固かった。
背中が固い。
返事の出方が固い。
椅子に座る動きまで、見えないものに備えているみたいに硬い。
話が家庭から学校へ渡った。
そのことを、彼は全身で感じている。
高石は一時間目の英語の教科書を開きながら、視線だけで教室を細かく追っていた。
「じゃあ、今日は本文を読みます」
いつも通りの口調で言う。
いつも通りに進めることも、今は必要だった。大げさに構えれば、それだけで「何か起きた」と全員に知らしめることになる。
けれど、ただいつも通りに流していい段階でもなかった。
「黒川くん、この段落読んでください」
黒川が立ち上がる。
声はよく通った。発音も悪くない。教師にとって扱いやすい生徒の典型だった。
「はい、そこまで。ありがとう」
高石は黒板へ向き直りながら、次の名前を呼ぶ。
「三浦くん、続きお願いします」
その瞬間、空気が少しだけ揺れた。
ほんの少し。
けれど、高石にははっきり分かった。
黒川のあとに三浦。
その並びに、何人かが意識を向けたのだ。
隆は立ち上がった。
教科書を持つ手がわずかにこわばっている。
読み始める。
声は小さいが、つかえてはいない。内容も追えている。
だが、読み終わった直後だった。
後ろの方で、ほんの小さな息が漏れるような笑いが走った。
高石は即座に顔を上げた。
「今、誰か笑いましたか」
教室がしんとする。
相原はすぐに首を振った。
「笑ってないです」
原口も、いかにも不思議そうな顔をする。
「別にー」
黒川は何も言わない。
だが、その沈黙がいちばん厄介だった。
高石はしばらく教室を見渡していたが、それ以上は追及しなかった。
追及できなかった、と言った方が正確かもしれない。
証拠がない。
笑いは一瞬。
いま強く出ても、「気のせいです」と返されれば終わってしまう。
それでも高石は、教科書を閉じながら、静かに言った。
「人が読んでいるときに笑うようなことがあるなら、それは良くないことです。たとえ本人にそのつもりがなくても、相手が嫌な思いをするなら、教室ではやめてください」
それは一般論の形を取った注意だった。
教室のどこかで、わずかに緊張が動く。
黒川は顔を伏せたまま、シャープペンを指先で転がしていた。
相原は、先生の言葉をまともに受けたような顔をしていない。だが、今は黙っているしかないという顔はしていた。
授業のあと、高石は職員室へ戻る途中で、学年主任の佐伯美帆に声をかけた。
「佐伯先生、少しお時間いいですか」
佐伯は資料を束ねる手を止めて、高石の顔を見る。
「どうしたの」
「二年二組の三浦くんの件で」
それだけで、佐伯の表情が少し引き締まった。
昨日のうちに高石は簡単な共有をしていた。まだ“可能性”の段階として。
「状況が少し動いた?」
「はい。ご家庭からも連絡がありました。本人から、あだ名で呼ばれていることや、グループトークでからかわれていることを聞いたそうです」
佐伯は黙って頷く。
軽く扱ってはいけない、と判断したときの顔だった。
「現時点で加害を断定はできませんが、少なくとも私は、いじめの可能性が高いと見ています」
高石ははっきり言った。
それを口にした瞬間、自分の中でも何かが定まるのを感じた。
違和感ではない。
気のせいでもない。
もう、対応すべき事案だ。
「分かった」
佐伯は短く答える。
「まずは事実確認ね。ただし、全体へいきなり投げると潜るから、順番を間違えないように」
「はい」
「三浦くん本人の状態も気をつけて見て。教室にいるだけで相当しんどくなってるかもしれないから」
「分かりました」
高石は頷いた。
それから昼休み、彼女はあえて二年二組の教室に残った。
普段なら職員室で昼食を取る日もある。
だが今日は、教室の空気を見るために残ると決めていた。
教師がいる昼休みは、たいてい表面が整う。
それでも、人間関係の流れは見える。
弁当箱を開く音。
女子たちの小さな会話。
男子の机を寄せる音。
隆は自席で弁当を開いたが、箸の進み方は明らかに遅かった。
一方で、相原や原口はいつもよりおとなしい。
そして黒川は、教師がいることで笑いの方向を変えられないぶん、やや所在なさげに見えた。
白石ひなたは何度か隆の方を見ていた。
視線が合いそうになると、すぐに逸らす。
浅井結菜もまた、どこか落ち着かない様子で、友達の会話に完全には乗れていない。
高石はその両方を見逃さなかった。
傍観している側は、教室が静かになったときにいちばん揺れる。
いままで流れに乗っていただけの者ほど、「これは本当にただの冗談だったのか」と自分の立ち位置を意識し始めるからだ。
昼休みの終わり際、高石は黒川と相原を別々に呼んだ。
まずは黒川からだった。
「黒川くん、少しだけいいですか」
「……はい」
廊下の窓際。
教室の中からは届かないくらいの距離。
高石は真正面からは問わなかった。
相手に逃げ道を残しすぎず、しかし防御一色にもさせない距離を探る。
「最近、三浦くんの周りの空気、何か気になることある?」
黒川はすぐには答えなかった。
窓の外を一瞬見てから、曖昧に言う。
「別に……特には」
「本当に?」
「はい」
「“センカリ”って呼ばれてること、知ってるよね」
その言葉に、黒川の表情が初めてはっきり動いた。
「……まあ」
「誰が言い始めたの」
「分かんないです」
嘘だ、と高石は思った。
分からないはずがない。少なくとも中心にいる側は、流れの発端を知っている。
だが、ここで押しすぎても壁になる。
「黒川くん」
高石は少し声を落とした。
「本人が嫌な思いをしていて、家庭からも相談が来ています。『遊びだった』『冗談だった』では済まない可能性があります」
黒川はそのとき、初めてまともに高石を見た。
「……そんな大げさなことじゃ」
そこまで言って、口をつぐむ。
自分で言ってしまった“そんな大げさなことじゃ”という言葉が、すでにまずいと分かったのだろう。
高石はその言葉を聞き逃さなかった。
「大げさかどうかは、やられた側が決めることです」
黒川は黙る。
怒られている顔ではなく、戸惑っている顔だった。
本気で“そこまでのことではない”と思っていたのかもしれない。
その無自覚さが、いじめの怖いところだった。
次に相原を呼んだとき、反応はもっと分かりやすかった。
「え、俺ですか?」
最初から“なぜ自分が”という顔。
「少し聞きたいことがあります」
「何ですか」
「三浦くんのこと、最近どう見てる?」
「別に普通ですけど」
「“センカリ”って呼んでるよね」
相原は、少し笑うような顔をした。
「いや、あれはノリっていうか」
「本人は嫌がってるかもしれないよね」
「でも、そんな怒る感じでもないし」
「怒ってないなら何をしてもいいの?」
そこで相原の口が止まる。
少し間を置いてから、肩をすくめるように言った。
「遊んでただけですよ」
高石は、その一言の軽さにぞっとした。
遊んでいた。
その言葉の中には、自分は加害者ではない、という確信がある。
遊びの相手が、内側でどれだけ苦しくなっているかを想像しないまま、自分たちの行為を“遊び”と定義して済ませる、その感覚。
高石は静かに言った。
「その“遊び”で、三浦くんはかなりしんどくなってるかもしれない」
相原は目を逸らした。
「……そんなつもりじゃ」
「つもりがなくても、そうなっていた可能性がある。そこは考えて」
相原は「はい」と答えたが、その返事は納得とはほど遠かった。
その日の放課後、隆はまた高石に呼ばれた。
「三浦くん、少しだけ話せる?」
「……はい」
今度は相談室の手前の小さな面談スペースだった。
完全な密室ではないが、教室よりは息がしやすい場所。
高石は椅子に座らせてから、正面に向かい合う。
「昨日、お母さんからお電話をいただきました」
その一言だけで、隆の肩が少し上がる。
「ごめんなさい」
思わず、そんな言葉が出る。
高石は首を振った。
「謝らなくていいです。むしろ、教えてもらえてよかった」
隆は黙る。
「今、すごく不安だよね」
「……はい」
「話が学校に来たことで、もっと見られるんじゃないか、とか」
隆は少し驚いたように、高石を見た。
その不安を言語化されたことで、逆に逃げ場がなくなったような顔だった。
「……はい」
もう一度、同じ返事。
「先生は、すぐにみんなの前で何かを言うつもりはありません。ただ、状況は見ます。必要なら個別に話もします」
「……もっと悪くなるかもしれないです」
「その可能性も、ゼロとは言えない」
高石は正直に言った。
「でも、今のまま見て見ぬふりをする方が、三浦くんにはもっとつらいと思う」
隆は机の木目を見つめたまま、小さく頷いた。
「先生、わたし……」
そこで言葉が途切れる。
「うん」
「これが、本当にいじめなのかも、まだ分かんないです」
高石は即答しなかった。
その迷いもまた、被害の一部だからだ。
「じゃあ、こう考えてみようか」
ゆっくり言う。
「三浦くんが教室に入るのがしんどくなってる。食欲が落ちてる。名前じゃない呼び方をされて嫌な思いをしてる。グループトークもつらい。それは、もう“ただの冗談”ではないと思う」
隆は目を伏せたまま、静かに息を吐いた。
放課後の廊下は、いつもより静かだった。
だが、その静けさの裏では、すでに別の空気が動いていた。
先生に呼ばれた。
黒川も相原も呼ばれた。
三浦も呼ばれた。
その事実は、わずかな時間でクラスの中に広がっていた。
誰が誰に言ったのか分からない。
でも、教室という場所はそういう情報の伝わり方をする。目で見たもの、廊下で見かけたもの、戻ってきたときの表情、それだけで十分だった。
翌日、二年二組の朝は、前日とは別種の張りつめ方をしていた。
もはや“先生が見ているかもしれない”だけではない。
“誰かが話した”かもしれない、という疑いが空気の中に混ざっている。
それは、見えない水に一滴の黒いインクを落としたように、じわじわ広がっていた。
隆は教室へ入った瞬間、その変化を感じた。
あからさまな笑いはない。
でも、視線がある。
さっと逸らされる視線。
机に座ってからも、背中に小さく刺さる視線。
前より静かなのに、前より怖い。
席についてすぐ、白石ひなたが何か言いたそうにこちらを見た。
だが、結局何も言わずにノートを取り出した。
浅井結菜も、筆箱の位置を何度も直している。落ち着かないのだろう。
一時間目と二時間目は、とくに何もなかった。
なさすぎるほど何もなかった。
先生がいるところでは、だれも余計なことを言わない。
高石も必要以上に張りつめた空気を作らないよう、普段通りを装っている。
けれど、三時間目が終わって、教室の中が一瞬だけ無防備になった休み時間だった。
高石が職員室へ戻り、廊下の足音も遠のいたころ。
隆は机の中から次の授業のノートを取り出していた。
そのとき、背後から低い声が落ちた。
「……お前」
ぴたり、と手が止まる。
振り向くと、黒川と相原がいた。
原口は少し後ろ。
教室の周りは、聞こえているのに聞こえていないふりをする空気で満ちている。
黒川の顔は、怒っているというより、戸惑いと苛立ちが混じった顔だった。
相原の方は、もっと直接的に不機嫌を隠していない。
「お前、チクっただろ?」
その言葉は小さいのに、教室全体へ響いた気がした。
隆の喉が、ひゅっと狭くなる。
「……」
「先生に言ったんだべ?」
相原が続ける。
「親にでも言ったのか知らねえけどさ」
黒川がすぐに付け足す。
「いや、別に責めてるわけじゃねえけど」
その“別に責めてるわけじゃねえけど”が、いちばん責めていた。
「たださ」
相原が眉をひそめる。
「大したことじゃねえのに、なんで大事にすんだよ」
後ろで原口が、気まずそうに視線を泳がせている。
でも止めない。
止められないのか、止める気がないのかは分からない。
「遊んでただけじゃん」
黒川の声は低かった。
「マジで、そんなつもりじゃなかったし」
その言葉は、自己弁護の形をしているのに、隆には刃物みたいに刺さった。
遊びだった。
そんなつもりじゃなかった。
大したことじゃない。
なら、苦しくなった自分が悪いのか。
重く受け取りすぎた自分が。
家族に話した自分が。
先生に伝わるところまで行ってしまった自分が。
その考えが、ほんの一瞬で頭を埋めようとする。
でも次の瞬間、昨日の夕方のなぎさの声が胸の奥で響いた。
「お兄ちゃん悪ぐねえのに、なんでお兄ちゃんばっかり我慢しねばなんねなや」
隆は唇を噛んだ。
怖い。
体は逃げたい。
でも、ここでまた全部自分のせいだと思って飲み込んだら、本当に戻れなくなる気がした。
「……遊びでも」
ようやく声が出る。
喉が掠れていた。
「わたしは、嫌だった」
その一言で、黒川の顔が固まる。
相原も、一瞬だけ言葉を失う。
「嫌だったし、苦しかった」
隆は続ける。
「だから……話した」
教室の空気が、そこで完全に止まった。
だれも笑わない。
だれも動かない。
それは、これまでの“いじられる側”の三浦ではない声だった。
小さくても、確かに自分の感覚を言葉にした声だった。
黒川は何か言い返そうとしたが、うまく言葉にならなかった。
“そんなつもりじゃなかった”という理屈が、真正面から“嫌だった”と返されたとき、そこで初めて、自分たちの言葉が通じない種類のものだと気づいたのかもしれない。
けれど、気づいたからといって、すぐに謝れるほど彼らはまだ成熟していなかった。
相原は舌打ちするみたいに息を吐き、目を逸らした。
「……めんどくせ」
それだけ言って、二人は離れていった。
原口も気まずそうに後ろをついていく。
残された教室に、ひどく薄い静けさだけが残った。
白石ひなたは、ずっと下を向いたままだった。
浅井結菜は、何か言いたそうにしていたが、結局言えなかった。
だれも何も言わない。
でも、さっきまでと同じ教室ではもうなかった。
高石が戻ってきたとき、その変化にすぐ気づいた。
声の量が違う。
静かすぎる。
しかもその静けさが、落ち着いているときの静けさではない。
何かあった。
教師の勘が、はっきりそう告げた。
だが、何があったのかは、その場ではまだ分からない。
高石は教卓へ向かいながら、生徒たちの顔を見た。
黒川は目を合わせない。
相原は不機嫌そうに椅子へ深く座っている。
そして三浦隆は、教科書を開いたまま、さっきより少しだけ青ざめた顔をしていた。
高石の中で、何かがさらに一段深く沈む。
これはもう、曖昧な違和感ではない。
水面下へ潜ろうとしている。
しかも、“話した側が悪い”という方向へ。
その構図は、いじめがいちばん危険な段階へ入るときの典型だった。
高石は授業を始めながら、心の中で決めていた。
もう少し踏み込まなければならない。
個別に。
慎重に。
でも、確実に。
見て見ぬふりの教壇で終わるわけにはいかない。
それでも、その決意がすぐに教室を救えるわけではないことも、高石は分かっていた。
変わったのは、まだ「大人が気づいた」ということだけだ。
子どもたちの中では、罪悪感より先に、苛立ちや保身が動いている。
そしてその矛先は、たいてい“話した側”へ向く。
隆はその日の授業を受けながら、背中に残る言葉をずっと感じていた。
お前、チクっただろ。
大したことじゃねえのに。
遊んでただけじゃん。
なんで大事にすんだよ。
そのひとつひとつが、教室の壁みたいに前へ立ちはだかっていた。
でもその壁の向こうで、昨夜のなぎさの声もまた、消えずに残っていた。
わだしは、お兄ちゃんの味方だ。
だから、まだ完全には折れなかった。
教室の外には、味方だと言ってくれる家族がいる。
それだけが、いまの隆をぎりぎりのところで支えていた。
窓の外では、庄内の風がまた強く吹いていた。
空は薄く曇り、午後の光は白っぽい。
その白い光の下で、二年二組の教室は、いよいよ“何かを決めなければならない場所”へ変わりつつあった。
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