母の電話
第5話 母の電話
家の中で、言葉にされたものは、もう元の沈黙には戻らない。
それまで三浦家を満たしていたのは、どこか曖昧な不安だった。
隆の食欲がないこと。
返事が短くなったこと。
なぎさに強い声を出したこと。
部屋へ逃げるように上がっていくこと。
その一つひとつは、別々に見れば「疲れているのかもしれない」で済ませられる種類のものだった。
だが、名前がついた瞬間、それらは全部ひとつの方向を向き始める。
やられている。
学校で、何かが起きている。
その事実は、まだ輪郭が曖昧で、どこからどこまでが本当で、どこからどこまでが隆の感じている苦しさなのか分からなかった。
それでも少なくとも、“何もない”ではなくなった。
実里は買い物袋から食材を出しながら、手元の動きを崩さないよう努めていた。
だが、頭の中は居間の方へ向きっぱなしだった。
なぎさが兄と話した。
そして、兄は否定しなかった。
それだけで、もう充分だった。
夕飯の支度を進める音だけが、台所に小さく響く。
包丁がまな板を打つ音。鍋の蓋が鳴る音。換気扇の低い回転音。
日常の音は変わらない。
けれど、日常そのものは確かに変わってしまっていた。
正康が帰ってきたのは、いつもより少し遅い時間だった。
「ただいま」
その声を聞いた瞬間、実里は玄関へ向かった。
「おかえり」
いつものやり取り。
だが、今日の“おかえり”には明らかに重さがあった。
正康は靴を脱ぎながら、妻の顔を見る。
「……何かあったか」
家の空気だけで察したのだろう。
その問いに、実里はすぐには答えなかった。
「ご飯の前に、ちょっと話したい」
正康の表情が変わる。
いつもの無口な顔つきのまま、目だけが少し鋭くなる。
「隆は」
「居間」
「そうか」
短いやり取り。
だが、その中で、もうだいたいのことは伝わっていた。
居間には、隆となぎさがいた。
なぎさはさっき泣いた名残をまだ少し目元に残していて、隆はテーブルの端に座ったまま、両手を膝の上で組んでいた。
正康は上着を脱いで椅子の背にかけると、ゆっくり腰を下ろした。
「……話、聞いた」
それだけ言う。
隆は視線を落としたままだった。
実里がなぎさの横へ座る。
「なぎさ、ありがとね。話してくれて」
なぎさは小さく頷いた。
けれど、「うん」とは言わなかった。いまはそれどころではないという顔だった。
実里は改めて隆を見た。
「隆」
できるだけ柔らかく呼ぶ。
「今、お母さんとお父さんに、分かるところだけでいいから話してくれる?」
隆はすぐには答えなかった。
唇を一度だけ強く結んでから、ゆっくり開く。
「……最初は」
それだけ言って、また止まる。
正康は何も言わない。
実里も急かさない。
沈黙の中で、なぎさだけが、兄の方をじっと見ていた。
「最初は、本のごどだった」
ぽつり、と落ちるような声だった。
「図書室がら借りだ本、黒川が『俺も読もうど思ってだ』って言ってきで……わだし、『先に借りだがら』って、ただそう言っただけなんだ」
そこで隆は苦く笑おうとしたが、うまくいかなかった。
「でも、それがなんが、感じ悪いってなって」
実里の胸の中で、何かがぎゅっと縮む。
たった、それだけのこと。
そう思った。
でも、たったそれだけのことから、人は追い詰められるのだと、母親としての勘がもうはっきり告げていた。
「そっから、あだ名つげらいで」
「センカリ、だの」
なぎさが小さく言う。
隆は頷いた。
「最初は、ちょっとからかわいでるだけだど思った。相原とか原口とか、その場のノリで言ってるだけなんだど」
「黒川も?」
正康が初めて口を挟んだ。
声は低く、押さえていた。
だが、その低さの中にはすでに怒りが混じっていた。
「……黒川も、止めね」
隆は言う。
「自分が一番言う時もあるし、でも、なんが困ったみでえな顔すっ時もある。だども、結局、止めね」
正康の顎が少しだけ固くなる。
「そのあとは?」
実里が聞く。
「毎日、ちょっとずつ」
その表現が、かえって現実味を帯びていた。
毎日、ちょっとずつ。
つまり、毎日何かがあるのだ。
「教室入るど、なんか空気変わる時あるし。しゃべれば笑わいるし、しゃべんなくても後ろで何か言わいるし。グループトークさも、落書きみでえな画像上げらいで」
実里は思わず聞き返した。
「グループトーク?」
「……クラスの」
「それ、残ってるの?」
「たぶん」
「消してないの?」
「見だぐねぐて、通知だけ切った」
正康が深く息を吐く。
その息は、怒鳴り声になる直前みたいな息だった。
「先生は」
それをどうにか抑えるようにして、正康は言った。
「担任は気づいでねえのが」
「少しは、気づいでるがもしんね」
隆は答える。
「何回が、何かあったがって聞がいだ。だども……」
「だども?」
実里が促す。
「言えねがった」
その一言には、苦しさと、後ろめたさと、どう説明すればいいか分からないもどかしさが全部混ざっていた。
「だって、殴らいだわげでもねえし、物取らいだっても、ほんとにそうだが分がんねえし。全部、『気にしすぎ』って言わいだら終わりみでえで」
そこまで言って、隆はやっと顔を上げた。
「わだし、ほんとに分がんなぐなってきたんだ。これ、いじめなんが、わだしが勝手にそう思ってるだけなんが」
その言葉に、なぎさがすぐに身を乗り出す。
「違うよ」
強い声だった。
「違わい。わだし、今日聞いだもん。お兄ちゃんのごど笑ってだもん」
隆はその言葉に救われるように、ほんの少しだけ表情を緩めた。
実里は息を整えるように、一度静かに呼吸した。
「隆」
「……うん」
「それは、気にしすぎなんかでねえよ」
庄内弁の柔らかさの中に、母親としての芯の強さが通っていた。
「苦しぐなって、ご飯食べらいねぐなって、家さ帰ってきても笑えねぐなってる時点で、もう“たいしたごどねえ”では済まねえ」
正康も頷いた。
「そうだ」
短く、はっきりと。
「お前が苦しいってなってるなら、それはもう十分おかしい」
隆の喉が、小さく動く。
何か返そうとして、でも返せない。
その代わりに目が少しだけ潤んだ。
正康はそれを見て、いま無理に厳しいことを言ってはいけないと自分に言い聞かせた。
本当は腹の中で煮え立つものがあった。誰に対してかといえば、相手の生徒にも、学校にも、そして何も知らなかった自分自身にもだ。
だが今、父親として必要なのは怒りを見せることではない。
「グループトークの画面、あとで見せられるが」
実里が言う。
「……うん」
「学校さは、お母さんが連絡する」
その言葉に、隆の表情がまた少し強張る。
「やめで」
思わず、そう言った。
「言ったら、もっと悪ぐなるがもしんね」
実里はその不安がよく分かった。
学校に訴えることで、表面上はおさまっても、水面下で悪化することがある。親が出たことで「チクった」と見られることもある。そういう話をニュースでも、近所の噂でも、見聞きしたことがあった。
でも、ここで黙っているわけにはいかなかった。
「分がるよ」
実里はゆっくり言う。
「そう思うよね。お母さんも、そこはこわい」
隆が少し驚いたように顔を上げる。
親は“こうしなさい”としか言わないと思っていたのかもしれない。
「だども、今のまま黙ってたら、お前ひとりで毎日削らいでぐだけだ。それはだめだ」
正康もそこで口を開く。
「すぐに大騒ぎにするわげではねえ」
低い声だった。
「まずは、担任さ事実ば伝えで、どう見でるが確認する。それでも動がねえなら、次考える」
その言い方は、仕事の段取りを組み立てるときの正康に近かった。
怒りを、手順へ変えている。
隆はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「……わかった」
夕飯は、結局いつもよりかなり遅くなった。
食卓には、普段と同じように味噌汁や煮物が並んでいた。
でも、その食卓はもう普段と同じではなかった。
なぎさはいつもより静かに食べ、実里は何度も隆の茶碗に目をやり、正康は黙って箸を動かしていた。
それでも、今夜の沈黙は前までの沈黙とは違っていた。
隠している沈黙ではなく、これからどうするかを考える沈黙だった。
食後、なぎさは先に風呂へ入り、正康はリビングの端で腕を組んだまま座っていた。
実里は携帯電話を手にして、何度か画面を見ては閉じた。
担任・高石正美。
連絡先は学校からの連絡網に載っている。
だが、電話をかけることには独特の重さがあった。
本当に今でいいのか。
夜に連絡して迷惑ではないか。
大げさだと思われないか。
証拠と言えるほどのものは、まだグループトークの画面くらいしかない。
でも、それを言い始めたら、いつまでも“まだ早い”になってしまう。
実里は深く息を吸い、発信ボタンを押した。
数回の呼び出し音。
その間がやけに長く感じられた。
「……はい、高石です」
電話の向こうから、若い女性の声が聞こえた。
少し疲れているが、緊張もしているような声だった。
「夜分遅くにすみません、二年二組の三浦隆の母、実里です」
「あ……三浦くんのお母さま。どうされましたか」
その一瞬で、高石にも何かを察するものがあったのだろう。
声が少しだけ引き締まる。
実里は、なるべく感情だけにならないように気をつけながら話し始めた。
「実は、隆のことでご相談があって……最近、家での様子がかなり変わってきてまして。食欲がなくて、朝もつらそうで、学校のことで何かあるのではないかと思っていました」
「はい」
「今日、本人から少し話を聞きました。クラスであだ名をつけられていることや、笑われたり、グループトークでからかわれていることがあるようです」
電話の向こうで、一瞬、呼吸が止まる気配がした。
「……そうですか」
高石の声は低くなった。
「名前……あだ名というのは」
「『センカリ』と呼ばれているそうです。本の貸し借りのことが発端だったようで」
それを聞いた瞬間、高石の頭の中で、ここ数日の断片がつながった。
教室で何度か聞いた小さな笑い。
三浦が名前を呼ばれたあと、わずかに遅れる返事。
班活動でよどむ空気。
相原や原口の妙なはしゃぎ方。
そして、何より、今日の三浦の目。
あれは単なる気のせいではなかった。
いま、はっきりと形を持った。
いじめの可能性が高い。
高石はそう認識した。
「お母さま、教えてくださってありがとうございます」
声の色が変わっていた。
さっきまでの“相談を受ける教師”の声ではなく、明らかに“事態を把握した教師”の声だった。
「私も、三浦くんの様子に違和感は感じていました。ですが、本人が『何もない』と言っていたので、十分に踏み込めていませんでした。私の見立てが甘かったです」
実里は、その素直な言葉に少しだけ救われた。
最初から言い訳が来るのではないかと身構えていたからだ。
「今の時点で、すぐに断定はできませんが、少なくとも軽く見ていい話ではないと思っています」
「……はい」
「グループトークの内容などは、可能であれば保存しておいていただけますか」
「はい、本人に見せてもらいます」
「明日、私の方でも教室の様子を注意して見ます。それと、できれば三浦くんとも改めて時間を取って話したいです」
実里は少し間を置いてから、率直に言った。
「先生、正直に言うと、学校に伝えることで逆に悪化しないか心配です」
高石はその気持ちも分かっていた。
教師になってまだ長くはないが、表面化したことで水面下へ潜るケースがあることは知っている。
「そのご心配は当然だと思います」
高石は慎重に答えた。
「ですので、こちらもいきなり全員の前で何かを言うのではなく、まずは状況確認を丁寧に進めます。三浦くんがさらに孤立しないよう、そこは注意します」
その答えに、実里は「お願いします」と言った。
電話を切ったあと、実里はしばらく携帯を握ったまま動かなかった。
「どうだった」
正康が聞く。
「分かってくれだ」
実里は静かに答えた。
「少なくとも、軽くは見でね」
正康は短く頷いた。
「そうか」
その一言の中には、安心と、まだ消えない警戒の両方が混じっていた。
二階の部屋で、隆は布団の端に座っていた。
さっき実里が電話をかけている気配は伝わっていた。階下の話し声ははっきり聞こえなくても、自分のことについて動き始めている空気だけは感じ取れる。
怖い。
明日、何かが変わるのかもしれない。
変わらないかもしれない。
でも、少なくとも昨日までと同じ一日にはならない。
そのことが不安であり、同時に、ほんの少しだけ心強くもあった。
翌朝。
高石正美は、いつもより少し早く教室へ入った。
窓を開け、朝の空気を入れ替えるふりをしながら、机の配置や黒板、後ろの掲示物まで何となく見渡す。
まだ生徒は半分ほどしか来ていない。
黒川は友人と話しながら入ってきた。
相原は笑い声を立てながら、そのすぐ後ろにいる。
原口は眠そうな顔で鞄を肩にかけている。
高石は、あえていつも通りを装った。
「おはよう」
「おはようございまーす」
生徒たちは何も知らない顔だ。
いや、本当に“何も大したことはしていない”と思っている顔でもあった。
それが、高石にはかえって恐ろしかった。
三浦隆が教室へ入ってきたとき、高石はその顔色を見逃さなかった。
昨日より少しだけ強張っている。
母親からの電話のあと、担任が何か動くかもしれないと分かっている顔だ。
「三浦、おはよう」
少しだけ意識して、普段よりはっきり声をかける。
「……おはようございます」
その一瞬、教室の空気が微かに揺れた。
高石には分かった。
こちらが意識していることを、生徒たちも何となく感じ取ったのだ。
何かあった?
先生、なんで今日あんなふうに?
そんな疑問が、声にならないまま教室のあちこちに走っていく。
相原が黒川の方へ身を寄せ、何か囁く。
黒川は小さく眉をひそめる。
宮原彩乃は女子の方で、一瞬だけ視線を上げてからすぐに落とした。
教室の空気は、昨日までとは違う種類の張りつめ方を始めていた。
これまでは“三浦を笑ってもよい空気”だったものが、今日はそこへ“先生が見ているかもしれない空気”が重なった。
その二つの空気がぶつかるとき、教室は独特の静けさを帯びる。
一時間目が始まるまでの短い時間、だれも露骨なあだ名を口にしなかった。
だが、それは改善ではない。
ただ、様子を見ているだけだ。
高石は授業の準備をしながら、そのことを理解していた。
いじめがやむときの静けさと、いじめが潜るときの静けさは違う。
今、教室を覆っているのは後者の方だ。
机に向かう隆の背中も、それを感じ取っているように少し硬い。
高石は心の中で決めた。
今日一日、徹底して見る。
表情、視線、班の動き、休み時間、提出物、何でもいい。
見えないものを見えるところまで持っていく。
それが今の自分にできる、最初の仕事だと。
教室の窓の外では、また風が吹いていた。
カーテンがわずかに揺れる。
何も変わらない朝のようでいて、もう確実に、昨日までとは違う朝だった。
家族が知った。
担任が知った。
そして教室もまた、何かが動き始めたことを、言葉にならない形で感じ取っていた。
その気配は、目に見えないぶんだけ、いっそう緊張を深くした。
張りつめた空気の中で、三浦隆は静かに席についていた。
まだ安心はできない。
むしろ、これからどうなるのか分からない不安の方が強い。
それでも、昨日までとは一つだけ違うことがあった。
もう、自分ひとりの中だけで起きていることではない。
その事実だけが、ぎりぎりのところで、隆を教室の中につなぎとめていた。
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