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手をつなぐ理由  作者: リンダ


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見えない線



第4話 見えない線


 それは、最初から目に見えるものではなかった。


 床にテープが貼られているわけではない。

 教室のどこかに、「ここから向こうには行くな」と書いてあるわけでもない。

 誰かがはっきりと宣言するわけでもない。


 それでも、教室には線が引かれていく。


 そこにいる全員が、うすうす気づいている。

 でも、気づいていないふりをする。

 そうしているうちに、その線は本当に存在するものになっていく。


 見えないのに、確かにある。

 越えようとすれば、空気が変わる。

 立ち入ろうとすれば、笑いが起こる。

 その線のこちら側と向こう側では、同じ教室の中にいるはずなのに、呼吸の仕方さえ違っていた。


 その朝、三浦隆は学校へ向かいながら、すでに疲れていた。


 朝のうちに何か大きなことがあったわけじゃない。

 誰かとぶつかったわけでも、家で怒鳴られたわけでもない。

 けれど、制服の襟を整えて家を出た時点で、もう胃の奥は重たかった。


 家の前の道を歩きながら、何度も思う。


 今日は何も起きないかもしれない。

 昨日までだって、実際には“たいしたこと”なんて起きていないじゃないか。

 あだ名をつけられて、少し笑われて、グループトークで茶化されただけだ。

 それくらいでこんなふうになる方がおかしいのかもしれない。


 そうやって、自分で自分を説得しようとする。


 けれど、それは失敗する。

 教室のドアが見えてくるだけで、心臓の音がはっきりしてくるからだ。


 昇降口で上履きに履き替えたとき、二年二組の何人かがすでに廊下を歩いていた。

 相原圭吾が、河野直人と何か話しながら笑っている。黒川大河は少し離れたところで、スマホの画面を見ていた。


 誰も、隆に直接何かを言ったわけではなかった。


 それなのに、二年二組の教室へ近づくにつれて、胸の内側にわずかな震えが広がっていく。


 ドアを開けた瞬間、会話がひとつ止まった気がした。

 気のせいかもしれない。

 でも、その“気のせいかもしれない”が積み重なって、人を追い詰めるのだということを、隆はもう身体で知り始めていた。


「おはよう」


 そう言ったのは、自分でも驚くほど小さな声だった。


「おはよー」


 何人かが返す。

 その声の中に、露骨な悪意はない。


 だが、席へ向かう途中、後ろの方で誰かが言った。


「センカリ、今日も本持ってきたんでね?」


 くすっと笑いが広がる。


 振り向かない。

 聞こえていないふりをする。

 その技術だけが、ここ数日で妙に上達してしまった。


 机の上に筆箱を置く。

 教科書を出す。

 ノートを開く。


 そのとき、ふと違和感があった。


 消しゴムがない。


 昨日まで使っていた白い消しゴム。角が少し丸くなっていて、カバーに青いペンで小さく名前を書いていた。いつも筆箱の左端に入れていたはずなのに、見当たらない。


 隆は一度、筆箱の中を全部確かめた。

 ペンを出し、定規を出し、シャープペンの芯ケースまで確認した。


 ない。


 鞄の中かもしれない。

 昨夜、机の上に出したままだったかもしれない。

 自分が入れ忘れただけかもしれない。


 そう思った。

 そう思わなければならなかった。


 でも、心のどこかでは、昨日の帰り際にちゃんと入れた記憶があった。

 授業の最後に使った。

 しまった。

 その手の感覚が、まだ残っている。


 だが、そこで「誰かが取った」と考えた瞬間、自分がひどく被害妄想の強い人間になるような気がして、隆はその考えを押し戻した。


 自分が忘れただけ。

 その方がまだましだ。


 一時間目の数学は、そんなふうにして始まった。


 先生が黒板に式を書く。

 数字と記号が並んでいく。

 教室には鉛筆の音が散る。


 隆はシャープペンを握りながら、消しゴムのことばかり考えていた。


 後ろの席から、紙がくしゃっと鳴る音。

 低い笑い声。

 誰かが机を引く音。


 全部が、自分に関係あるように聞こえる。

 でも、本当に関係あるのかどうかは分からない。


 その“分からなさ”が、一番苦しかった。


 休み時間になると、相原が隆の机の横に来た。


「なあ」


 隆は顔を上げる。


「消しゴムねぐした?」


「……え」


「さっき、探しったろ」


 語尾を少し真似るような言い方。

 それだけで、周囲に笑いが起こる。


「センカリ、消しゴムまで独占されたんが?」


「いや、それだば逆だろ」


「ははっ」


 誰が何を言ったのか、細かくは分からない。

 ただ、“隆が困っていること”が、またひとつ笑いに変換されたことだけは分かった。


「貸そうか?」


 原口悠真がそう言って、自分の消しゴムをひらひら見せる。


 親切に聞こえる声だった。

 でも、その目は笑っている。


「……いい」


「遠慮すんなま」


 また笑い。


 結局、隆は前の席の浅井結菜に「ごめん、ちょっと貸して」と小さく頼んだ。


 結菜は一瞬だけ迷うような顔をしてから、「いいよ」と言って消しゴムを渡してくれた。


 そのときだった。


「やさしー」


 女子の方から、誰かが言った。

 宮原彩乃か、香月結衣か、そのあたりだった。


「結菜、保護者みたい」


「センカリの面倒見係だの?」


 また、笑い。


 浅井結菜の顔がこわばる。

 隆はその表情を見て、胸の中が冷たくなった。


 自分に何かしてくれた人まで、巻き込まれる。


 そのことが、ひどく申し訳なかった。


「……ありがと」


 消しゴムを返すとき、隆はそれだけ言った。

 結菜は「ううん」とだけ返したが、その声にはさっきまでの自然さがなかった。


 教室の中に線が引かれていく。


 誰がこちら側で、誰が向こう側なのか。

 その線は、助けようとした人の足元にまで伸びてくる。


 だから、みんなためらう。

 だから、みんな黙る。


 その日の昼休み、班ごとに提出するプリントの回収があった。


 班長役になっていた黒川が、全員分のプリントを集めていた。

 隆も黙って自分の分を出した。


 黒川は一瞬それを受け取り、まとめた束の一番下に入れた。

 それだけのことだった。


 だが、提出の直前になって、黒川が「あれ」と言った。


「一枚たりね」


「誰の?」


「三浦のだね?」


 教室の空気がそちらを向く。


「出した」


 隆が言う。


「いや、ね」


「さっき渡した」


 黒川は束をめくる。

 相原も覗き込む。


「見当たんね」


「ほんとだ」


「出してねぐね?」


 その言い方に、隆の胸の中で何かが強く鳴った。


「出したって」


「どごさ?」


「さっき、お前に」


 少し強い声が出た。


 教室がしんとする。


 その沈黙を、相原がすぐに笑いに変えた。


「うわ、キレた」


「センカリ、今日ピリついでね?」


「こえー」


 黒川は困ったような顔をして、机の脇を見た。

 すると、床に一枚、プリントが落ちていた。


「あ、これだ」


 黒川が拾い上げる。


「なんだ、落ぢでだじゃん」


 それで終わりのはずだった。

 でも、隆の中では終わらなかった。


 本当に落ちていただけなのか。

 自分が気づかなかっただけなのか。

 それとも、誰かがわざと落としたのか。


 そのどれかは、証明できない。

 証明できない以上、口に出した瞬間に自分の方が厄介な人間になる。


 だから飲み込む。


 飲み込んで、何事もなかった顔をする。


 そうしているうちに、自分の中の“確かに嫌だった”という感覚まで、だんだん曖昧になっていく。


 もしかしたら、本当に全部、自分が気にしすぎなんじゃないか。


 そう思い始めたころには、もうかなり深いところまで追い込まれているのだと、隆はまだ知らなかった。


 その日の放課後、担任の高石正美は職員室で出席簿を見ながら、二年二組の様子を何度も思い返していた。


 何かがおかしい。


 それは、もう“なんとなく”ではなかった。


 三浦隆の顔色は悪い。

 発言は減った。

 席替えや班活動になると、空気が微妙によどむ。

 しかも、それを指摘できるほどはっきりした出来事が、なかなか見つからない。


 それが高石を迷わせていた。


 見えない。

 でも、ある。


 教師としていちばん厄介なのは、その状態だった。


 無視や陰口や空気の操作は、音がしない。

 音がしないからこそ、見つけたときにはもう深くなっていることがある。


 高石は迷った末、その日の放課後、三浦隆に声をかけた。


「三浦、ちょっといい?」


 隆は教科書を鞄にしまいながら、「はい」と答えた。


「最近、体調悪い?」


「別に」


「ご飯食べれてる?」


 その問いに、隆は一瞬だけ目を上げた。

 なぜそのことまで分かるのか、という顔だった。


「……普通です」


「ほんとに?」


「はい」


 高石は少し黙った。


「クラスで何かあるなら、言ってほしい」


 言葉を選びながら、そう言う。


 だが、隆は首を振った。


「何もないです」


 その“何もない”は、もはや会話を終わらせるための言葉になっていた。


 高石はそれ以上踏み込めなかった。

 まだ、本人が口を閉ざしている。

 しかも、はっきりした現場を押さえたわけでもない。


 教師として、それは苦しい位置だった。


 一方その頃、なぎさは自分の友達と一緒に学習塾へ向かう途中だった。


 港北中の正門前を通る道は、帰りの時間になると中学生が何人も出てくる。小学生のなぎさにとって、中学校は少しだけ大人の場所だった。制服を着た生徒たちは、自分たちより背が高くて、声も大きくて、笑い方も違う。


 兄が毎日そこへ通っている。


 そう思うと、なぎさはいつもなんとなく正門の方を見てしまう癖があった。


 その日もそうだった。


 友達と並んで歩きながら、何気なく校門の方を見る。


 すると、ちょうど数人の男子が道の角を曲がるところだった。

 二年生くらいに見える。制服の着崩し方も、声の出し方も、兄と同じ学校の生徒だということがすぐ分かった。


 そのうちの一人が笑いながら言った。


「三浦、今日もセンカリだっけさ」


 別の声が重なる。


「無視されでるくせに、まだ来るのすげーよな」


 どっと笑いが起きた。


 なぎさの足が、ぴたりと止まった。


 友達が「なぎさ?」と振り返る。


 でも、なぎさにはその声が遠く聞こえた。


 三浦。

 センカリ。

 無視。


 頭の中で、その三つの言葉だけが並ぶ。


 兄の名字。

 最近ずっと家で感じていた違和感。

 食欲のない朝。

 帰宅してすぐ二階へ行く背中。

 「うるさいな」と尖った声。

 そして、笑わなくなった顔。


 全部が、その瞬間につながった。


「なぎさ、どうした?」


 友達がもう一度聞く。


 なぎさははっとして、急いで首を振った。


「なんでもね」


 いつもより低い声が出た。自分でも驚くほどだった。


 塾へ向かう道の残りを、なぎさはほとんど何も覚えていなかった。

 先生に何を言われたかも、友達が何を話したかも、頭に入ってこなかった。


 三浦。

 センカリ。

 無視。


 その言葉だけが何度も胸の中を回った。


 家に帰ると、まだ実里は夕飯の支度をしていた。

 なぎさは一度、「お母さん」と言いかけてやめた。


 今すぐ話した方がいい気もした。

 でも、それをお母さんに先に言ってしまったら、兄がまた何か遠いところへ行ってしまう気がした。


 自分が先に、お兄ちゃんに聞かなきゃいけない。


 そう思った。


 その夜、正康は残業で遅くなるという連絡が入り、実里も買い物に出る時間が少し遅くなった。

 夕方の一時間ほど、家には隆となぎさだけになる時間ができた。


 それは、なぎさにとってほとんど偶然のような機会だった。


 隆は学校から帰ってくると、いつものように二階へ上がろうとした。


「お兄ちゃん」


 なぎさが呼ぶ。


「……なに」


「ちょっと、いで」


 隆は階段の途中で止まった。

 振り向いた顔は疲れていて、しかも少し警戒していた。


「なんだよ」


「居間さ、来て」


「めんどくさい」


「いいがら」


 なぎさの声は、子どもっぽい甘えではなかった。

 珍しく、真剣で、逃がさない響きがあった。


 隆は少しだけためらってから、階段を下りた。


 居間には夕方の薄い光が差していた。テレビは消えている。外では風の音がしている。台所には実里が途中まで切って置いていった野菜があり、家の中は静かだった。


 なぎさはテーブルの向こう側に座っていた。

 隆も、少し距離を置いて腰を下ろす。


「なんだよ」


 もう一度、今度は少しだけ弱い声で言う。


 なぎさはすぐには話し出さなかった。

 自分の手をぎゅっと握って、それから顔を上げた。


「わだし、今日、塾さ行ぐ途中で、お兄ちゃんの中学校の前通ったんだ」


 隆の表情がわずかに変わる。

 ほんの少しだけ、目の奥がこわばる。


「……だから?」


「男子何人が、笑いながら歩いでだ」


 なぎさの喉が、小さく鳴る。

 言うのが怖いのだと、隆にも分かった。


「そいで」


 そこで一度、なぎさは息を吸った。


「『三浦』って言った」


 隆の指先がぴくりと動く。


「『センカリ』って言った」


 今度は、はっきりと肩がこわばる。


「『無視』って言った」


 その瞬間、隆は目を伏せた。


 部屋の中が、急に静かになった。

 外の風の音だけが聞こえる。


「……聞いだんだ」


 ようやく出た隆の声は、ひどくかすれていた。


「聞いだ」


「……そっか」


 それだけだった。


 否定もしない。

 怒りもしない。

 笑ってごまかしもしない。


 その“否定しないこと”が、なぎさには何よりも苦しかった。


「ほんとなの?」


 なぎさが聞く。


 隆は黙る。


 沈黙が、答えだった。


「お兄ちゃん」


 なぎさの声が震える。


「無視されでるんが?」


 隆はすぐには答えなかった。

 唇を噛むようにして、しばらく俯いたままいた。


「……無視っていうか」


 やっと出た声は小さい。


「なんか、しゃべれば笑わいるし、しゃべんなくても何が言わいるし」


 なぎさはじっと聞いている。


「変なあだ名つげらいで」


 隆は笑おうとした。

 でも、うまく笑えなかった。


「最初は、別に、たいしたことでねえって思ったんだ。ちょっとからかわいでるだけだって。でも、なんか、ずっと続ぐし、誰が本気で言ってるが分がんねし、先生さ言うほどのことでもねえみでえな感じで」


 そこで言葉が切れる。


「……わがんねえんだ」


 その一言には、これまで飲み込んできたものが滲んでいた。


「わだしが気にしすぎなんがもしんねえし、でも学校さ行ぐど苦しぐなるし、朝も腹減らねし、でもこれで休むど、ほんとに負げたみでえで」


 なぎさの目に涙が浮かぶ。


「お兄ちゃん」


「お母さんさも、お父さんさも、なんて言えばいいがわがんね。殴らいだわげでもねえし、物隠されだって、わだしがなくしただけがもしんねえし、プリントも落ぢだだけがもしんねえし。全部、わだしのせいみでえに思えてくる」


 そこで初めて、隆の声が崩れた。


「でも、やなんだ」


 短く、はっきりした言葉だった。


「やなんだ、もう」


 なぎさは立ち上がった。

 テーブルを回って、兄のそばへ行く。


 隆は顔を上げない。

 泣いているわけではない。

 けれど、泣く手前の顔をしていた。


 なぎさは兄の前にしゃがみこんだ。

 小学生の妹が、いつもよりずっと小さく見えるはずなのに、そのときだけは不思議とまっすぐで、大きかった。


「お兄ちゃん」


 なぎさははっきり言った。


「わだしは、お兄ちゃんの味方だ」


 隆の肩が、わずかに揺れる。


「誰がなんて言ったって、わだしは味方だ。センカリでもなんでもねえ。お兄ちゃんはお兄ちゃんだ」


 なぎさの目から涙がこぼれる。

 でも、声は途切れなかった。


「わだし、ずっと変だど思ってだ。ご飯食べねえし、笑わねえし、部屋さすぐ行ぐし。でも、言えねがった。聞いで、ほんとだったらどうしようって思ったがら」


 隆は顔を上げた。


 目が赤くなっていた。


「……なぎさ」


「わだし、子どもだがら、なんもでぎねえがもしんね。学校さ行って怒るごどもでぎね。でも、お兄ちゃんが一人で抱えでいいことでねえ」


 なぎさは一度、鼻をすする。


「お母さんさも言うべ。お父さんさも言うべ。わだしも一緒にいるがら」


 その言葉は、子どもの励ましとしてはあまりにまっすぐで、だからこそ隆の胸に深く入った。


 “味方”。


 その言葉を、ここ数日で初めて聞いた気がした。


 教室の中では、自分はずっと“面白がられる側”か、“空気を壊す側”だった。

 誰かの側に立っているという感覚が、もうほとんど消えかけていた。


 それを、こんなふうに真正面から言われるとは思っていなかった。


「……でも」


 隆は小さく言う。


「言ったら、もっと大ごどになるかもしんね」


「大ごどにしていいんだ」


 なぎさはすぐに返した。


「だって、お兄ちゃん、今もう苦しいんだろ?」


 その言葉に、隆は何も返せなかった。


 苦しい。

 それを、自分でもようやく認めかけていたところだった。


「苦しいのに、黙ってる方がおがしい」


 なぎさの声は、子どもらしく不器用で、でも強かった。


「お兄ちゃん悪ぐねえのに、なんでお兄ちゃんばっかり我慢しねばなんねなや」


 その一言で、隆の中の何かがほどけた。


 涙が出たわけではない。

 派手に崩れたわけでもない。


 でも、ずっと強く締めつけられていた胸の真ん中が、少しだけ緩んだ気がした。


「……ありがど」


 ようやく、それだけ言う。


 なぎさは泣きながら笑った。


「遅えよ」


 その言い方が、少しだけいつもの兄妹に戻っていて、隆もほんのわずかに口元をゆるめた。


 そのとき、玄関の鍵が回る音がした。


 実里が帰ってきたのだ。


 居間の空気が、さっきまでとは違っていた。

 静かなだけではなく、何かが動いた後の空気だった。


「ただいま」


 買い物袋を下げた実里が玄関から声をかける。


 なぎさは立ち上がって、少しだけ隆の方を見る。

 その目には、さっきまでの涙のあとが残っていたが、迷いはなかった。


「お母さん」


 なぎさが言う。


「今、話さねが」


 実里はその声の調子だけで、何かが決定的に動いたことを悟った。


 隆はテーブルの前に座ったまま、ゆっくり息を吐いた。


 怖さが消えたわけではない。

 明日から急に教室が変わるわけでもない。

 問題が簡単に片づくはずもない。


 それでも、少なくとも今、自分は完全に一人ではない。


 それだけで、世界の見え方は少しだけ変わる。


 教室の中に引かれた見えない線は、まだそこにある。

 でも、その線の外側にも、自分を呼ぶ声がある。


 味方だ、と言ってくれる声がある。


 そのことが、沈みきる寸前だった心を、かろうじてつなぎとめていた。


 夕暮れの光が、居間の畳の上をゆっくりと移動していく。

 外では風が吹いている。

 どこかで犬が吠えて、遠くを車が通る。


 ごく普通の夕方だった。


 けれど三浦家にとって、その夕方は、ただの一日では終わらなかった。


 家の中に積もっていた沈黙が、初めて言葉になった日だった。

 そして、ひとりの妹が、兄の孤独の前に小さな体で立った日だった。


 たぶん後になれば、三浦隆は何度も思い返すことになる。


 あのとき、自分を最初に“ひとりじゃない”場所へ引き戻したのは、

 教師でもなく、クラスメイトでもなく、

 まだ小学生だった妹の、震えながらも真っ直ぐな声だったのだと。



 その夜、三浦家では、ようやく本当の意味での話し合いが始まることになる。


 実里は息子の顔を見て、もう“思春期だから”では済ませられないと理解する。

 正康は帰宅してから話を聞き、怒りと無力感の両方を抱える。

 高石正美もまた、翌日にはさらに踏み込むことになる。


 教室の線は、まだ消えない。

 むしろここから、もっとはっきりと残酷な形を見せ始める。


 けれど物語はもう、

 “隆ひとりが耐える話”ではなくなる。


 ここから先は、

 家族が知り、

 大人が知り、

 学校が問われる話になっていく。



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