家の中の沈黙
第3話
家の中の沈黙
朝は、いつも同じように来る。
夜の続きを断ち切るように、窓の向こうが少しずつ白くなり、遠くの道路を走るトラックの音が聞こえ、風がどこかの屋根や看板を揺らしていく。酒田の朝は静かなようでいて、耳を澄ませばいくつもの生活の音が重なっている。
三浦家の朝も、本来ならそうだった。
台所で湯が沸く音。
実里が包丁を置く音。
なぎさの声。
正康がテレビのニュースを見ながらコーヒーを飲む気配。
そのどれもが、いつもと同じはずなのに、その朝はどこか少しだけ噛み合っていなかった。
最初にその異変を知っていたのは、たぶん隆自身だった。
目覚ましが鳴る前から、目は覚めていた。
いや、正確には、浅い眠りの底をずっと漂っていて、朝が来るのを待っていたという方が近い。
カーテンの隙間から、まだ冷たい色の光が入っている。
天井を見上げる。
部屋の隅に積んだ教科書。昨夜、途中で閉じたままのノート。机の端に伏せられたスマホ。
目覚ましが鳴る。
電子音は妙に鋭くて、頭の内側に響いた。
隆は布団の中でじっとしていた。音は止めなければならない。止めなければ家の下まで聞こえる。それは分かっているのに、腕が重くて、布団の外へ出すだけの気力が湧かなかった。
数秒遅れて、ようやく手を伸ばす。
音が止まる。
静かになったはずなのに、その静けさがかえって胸を圧迫した。
今日も学校がある。
その事実を考えた瞬間、胃のあたりがきゅっと縮む。痛いわけではない。ただ、内側から固く握られるような感覚があった。
行きたくない。
そう思った瞬間に、自分の中でもう一つの声がそれを打ち消す。
たかがそれくらいで。
何を大げさに。
まだ、本当に何かされたわけじゃない。
でも、その“何かされたわけじゃない”という言葉が、いまの自分にはいちばん苦しかった。
殴られたわけじゃない。
物を壊されたわけでもない。
教室に入った瞬間、全員が敵意を向けてくるわけでもない。
それでも、確かに嫌だった。
嫌で、怖くて、息が詰まる。
それをどう説明すればいいのか、隆には分からなかった。
階段の下から正康の声がした。
「隆、起きてるか」
いつもの声だ。いつもと同じ調子。少し低く、短く、余計な感情を混ぜない声。
「……起きてる」
答えは返した。
だが、その声がいつもより遅かったことを、隆は自分でも分かっていた。
「遅れるなよ」
「うん」
足音が離れていく。
隆は布団をめくり、ゆっくりと起き上がった。床に足をつける。冷たかった。春が近いはずなのに、朝の床はまだ冬の名残を残している。
制服に袖を通す。ボタンを留める手元が、わずかに鈍い。鏡の前に立つ。顔色が悪い。目の下に薄い影が落ちている。
これくらい、誰も気づかない。
そう思いながら、また別の自分が小さく言う。
なぎさは気づくかもしれない。
その予感は当たった。
リビングに下りると、なぎさはすでに食卓についていた。牛乳の入ったコップを両手で持ちながら、テレビの占いコーナーに夢中になっている。今日のラッキーアイテムがどうとか、そんなことを気にする年頃だ。
だが、隆が姿を見せた瞬間、なぎさはすぐに顔を上げた。
「お兄ちゃん、遅い」
それからほんの一秒の間を置いて、首をかしげる。
「……寝不足?」
「別に」
いつものように返したつもりだったが、声がやや掠れていた。
実里が味噌汁をよそいながら言う。
「顔洗ってきた?」
「洗った」
「そう」
その“そう”が、いつもより少しだけ慎重だった。
隆は席についた。茶碗を持つ。箸を持つ。味噌汁の湯気が上がっている。いつもなら、それだけで少し食欲が戻るはずだった。実里の味噌汁は薄すぎず濃すぎず、朝にちょうどよかった。
けれど、その日は違った。
一口飲んでも、温かさが身体の中に入っていく感じがしない。喉を通ったはずなのに、胃のあたりで止まってしまうような、そんな感覚があった。
「隆、ご飯よそいすぎた?」
実里が自然を装って聞く。
「……いや」
「食べないの?」
「ちょっと、食欲ない」
その言葉に、食卓の空気がわずかに止まった。
テレビでは天気予報が続いている。海沿いは風が強くなります、とアナウンサーが言っている。だが、その声が遠く聞こえた。
なぎさがじっと隆を見ていた。
「お兄ちゃん、ほんとに大丈夫?」
「大丈夫」
「でも全然食べてない」
「朝からうるさい」
言ってしまってから、しまったと思った。
なぎさの目が一瞬だけ見開かれる。普段なら、もう少し軽く返せるはずだったのに、言葉が妙に尖ってしまった。
「……ごめん」
隆は小さく言ったが、なぎさは「別に」とだけ答えて、コップに口をつけた。その“別に”は、隆のそれよりずっと子どもっぽくて、それだけに胸が痛んだ。
正康は新聞をたたみ、隆の方をちらりと見た。
「風邪か」
「違う」
「頭痛は」
「ない」
やり取りはそれだけだった。
だが、正康の目はそこで終わっていなかった。
無口な父親は、気づいていないように見えて、案外よく見ている。無理に聞き出すことはしないが、見ていないわけではない。
ただ、その見方は少し不器用だった。
正康は隆を心配していた。
けれど、思春期の息子にどこまで踏み込んでいいのか、いつも距離を測りかねていた。干渉しすぎれば嫌がられる。放っておけば冷たい父だと思われる。その真ん中が、正康には難しかった。
玄関で靴を履くとき、なぎさがランドセル――ではなく、通学用のリュックの肩紐を直しながら、もう一度だけ隆を見上げた。
「お兄ちゃん」
「なに」
「ほんとに、なんもないの」
その問いは、実里のものより、正康のものより、ずっと真っ直ぐだった。
隆は一瞬だけ、答えに詰まった。
本当は、何かある。
でも、“ある”と認めたら、それが本物になってしまう気がした。まだ自分の中でもうまく言葉になっていないものを、口に出した瞬間、後戻りできなくなるような気がした。
「ないって」
なぎさは何も言わなかった。
だが、その沈黙には納得していない気配がはっきりとあった。
学校までの道は、風が強かった。
信号待ちの間、制服の裾が揺れる。自転車で追い越していく生徒たちの笑い声が背中を抜けていく。いつも見慣れた道のはずなのに、その朝はどこかよそよそしかった。
校門が見える。
グラウンドからは運動部の掛け声。
昇降口では、友達同士が当たり前のように会話をしている。
その“当たり前”の中へ、今日も自分は入っていかなければならない。
教室の前まで来たとき、隆はほんのわずかに立ち止まった。
中から声が聞こえる。
「だからさ、センカリが――」
笑い声。
胸の奥がきゅっと狭くなる。
足が一瞬だけ止まる。
そのまま保健室へ行けたら。いや、休んでしまえたら。そんな考えが頭をよぎった。
でも、隆はドアを開けた。
何事もなかったふりをして、自分の席へ向かう。
「おはよー」
「おはよう」
普通の挨拶が飛ぶ。
その中に、わざとらしくはないけれど確かに混じる声。
「センカリ来た」
「しっ」
「聞こえるって」
小さな笑い。
黒川大河は、机に片肘をつきながらそちらを見ていた。目が合いそうになって、隆はすぐに視線を落とした。
黒川は悪い顔をしていなかった。
それがいっそう辛い、と隆は思う。
あからさまに敵意を向けられた方が、まだ怒る理由がある。
でも、黒川たちはあくまで“面白がっているだけ”の顔をしている。じゃれ合いの延長。クラスのノリ。そういう顔だ。
だから、隆の方が悪く見える。
空気を壊すのは、たぶん自分の方になる。
一時間目の授業。
ノートを開く。
先生の声が聞こえる。
黒板に書かれる文字が目に入る。
だが、頭の中にまでは入ってこない。
後ろの方から、小さく声がした。
「センカリ」
誰が言ったのか分からない。
わざわざ振り向くほどでもない小さな声だった。でも、聞こえるように言われたことだけは分かった。
心臓が一回、大きく打った。
隣の列で原口が何か言い、相原が笑う。
それが自分のことかどうか、確信はない。ないはずなのに、全部が自分のことのように聞こえる。
そんな状態で授業が頭に入るはずがなかった。
休み時間になると、相原が机に近づいてきた。
「なあ三浦」
隆は顔を上げる。
「その本、まだ終わんないの?」
「……まだ」
「え、そんな長いの?」
「普通」
「普通って」
相原は笑う。
その後ろで、原口がにやにやしている。
「一生読んでそう」
「大事にしすぎだろ」
周囲でくすくすと笑いが広がる。
「貸してって言ったら、また怒られそうじゃん」
「怒ってない」
思わずそう言うと、相原はわざと目を丸くした。
「ほら、怒った」
「怒ってないって」
「うわ、こわ」
その一言で、また笑いが起きる。
隆は口を閉じた。
何を言っても、全部同じ方向へ転がされる。
言い返しても“ムキになってる”。黙っても“図星”。その構図ができてしまっていた。
昼休み、弁当を開いても、あまり箸が進まなかった。
唐揚げ。卵焼き。昨夜の残りのきんぴら。実里の弁当はいつも色合いがよく、なぎさが羨ましがるくらいだった。けれど、その日は味が分からなかった。
スマホが震える。
画面を見る。
クラスのグループトークに、また新しい投稿が来ていた。
誰かが描いた落書きの写真。
本を山みたいに積み上げたキャラクターの横に、
「まだ読み終わらないので貸せません」
と吹き出しがついている。
その下に並ぶ短いコメント。
“センカリ先生”
“本の守護神”
“草”
“弁当も独占してそう”
隆は画面を閉じた。
教室の喧騒が、急に遠く聞こえた。
弁当箱の中の唐揚げが、急に油っぽく見えて、箸を置いた。
窓の外は青白い空だった。雲が低く流れている。
このまま、どこか別の場所へ行けたら。
図書室でも、保健室でも、トイレでもいい。とにかく、ここじゃないどこかへ。
そう思って立ち上がりかけたとき、目の前に影が差した。
「食べないの?」
真田美優だった。二年一組。図書室で何度か話したことがあるだけの、別クラスの女子。
「……ちょっと」
「具合悪い?」
「別に」
「別に、って顔じゃないけど」
美優は淡々と言う。余計に踏み込もうとする感じではなく、ただ事実をそのまま口にしたような言い方だった。
隆は何も答えなかった。
「無理しない方がいいよ」
そう言って、美優は自分の用事に戻っていった。
たったそれだけのやり取りなのに、隆は少しだけ息がしやすくなった気がした。教室の中で、自分を“笑いの材料”ではなく、普通の人間として見ている視線がまだある。そのことが、かえって切なかった。
五時間目の終わり頃、隆は一度、廊下に出た。
教室の中がうるさすぎた。
自分の耳が、周りの音を全部悪い方へ拾ってしまう。
廊下の窓から入る風は冷たかった。
壁に背を預ける。
「三浦くん?」
保健室の方から声がする。
養護教諭の相沢直子だった。
「顔色悪いけど、大丈夫?」
「……大丈夫です」
「大丈夫な顔には見えないなあ」
やわらかい言い方。責めない声。
でも、隆は首を振った。
「ちょっと、教室暑くて」
「そう」
相沢は無理に保健室へ連れていこうとはしなかった。
ただ、少しだけ眉を寄せて隆を見る。
「しんどくなったら、いつでもおいで」
「はい」
それだけで終わった。
本当は、その“いつでも”に救われたかったのかもしれない。
でも、保健室へ入ることは、“自分が弱っている”と認めることのような気がして、隆にはまだできなかった。
帰り道、足取りは朝より重かった。
家に着いて玄関を開けると、いつものようになぎさが飛び出してきた。
「お兄ちゃん!」
その声は昨日までと同じなのに、今日は少し慎重だった。
「……ただいま」
「ねえ」
なぎさは言葉を選ぶようにして立っている。
「今日も、なんかあった?」
「ないって」
「絶対ある」
「ない」
「だって、顔ちがうもん」
その一言に、隆の中で何かがぴんと張った。
学校では誰もそんなふうに見ていない。見ていても、笑いの方向へしか見ない。
でも、なぎさは違う。見たままを言ってくる。
その真っ直ぐさが、今の隆には苦しかった。
「うるさいな」
思ったより強い声が出た。
なぎさがぴたりと止まる。
その目が、大きく見開かれる。
しまった、と隆はすぐに思った。けれど、もう遅い。
「……ごめん」
小さく言ったが、なぎさは唇をきゅっと結んで、「別に」とだけ返した。
実里が台所から出てくる。
「どうしたの」
「なんでもない」
隆はそれだけ言って、二階へ上がった。
部屋のドアを閉める。
制服のままベッドに倒れ込む。
目を閉じる。
すると、教室の声が蘇る。
センカリ。
まだ読み終わらないの。
怒った。
こわ。
草。
耳の奥で反響するみたいに、その言葉だけが何度も何度も戻ってくる。
下の階では、なぎさが食器を運ぶ音がした。実里が何か話しかけている声もする。日常の音だ。普段なら安心するはずのその音が、今日はひどく遠かった。
しばらくして、部屋のドアの外で足音が止まった。
「お兄ちゃん」
なぎさの声だった。
返事をしようとして、できなかった。
「……さっきは、ごめんね」
今度は、なぎさの方がそう言った。
隆は目を開けた。
なぜなぎさが謝るのか分からなかった。悪いのは自分なのに。
「別に」
ドア越しにそれだけ言うと、向こう側で少し間が空いた。
「お兄ちゃん、最近、前みたいに笑ってない」
その声はとても小さかった。
隆は返せなかった。
足音が離れていく。
胸の奥に、鈍い痛みが残る。
夕方、実里はなぎさからその話を聞いた。
食卓の準備を手伝いながら、なぎさはぽつぽつと言った。
「お兄ちゃん、たぶん学校でなんかあるよ」
「どうしてそう思うの」
「だって、朝も変だし、ご飯食べないし、帰ってきてもすぐ部屋行くし」
なぎさは言葉を選びながら続ける。
「あとね、わたしに怒ったのも、あれ、お兄ちゃんじゃないみたいだった」
実里は手を止めた。
母親として、違和感はもう何度も感じていた。
食欲がない。返事が短い。視線が合わない。家の中にいても、気持ちだけどこか遠くへ行っている。
でも、どこかでまだ、“思春期だから”“疲れているだけかもしれない”と自分に言い聞かせていた。そうであってほしかった。
なぎさの言葉は、その最後の逃げ道を少しずつ塞いでいった。
「お母さん」
「うん」
「学校に、やな人とか、いるのかな」
実里はすぐには答えられなかった。
「……いるかもしれないね」
それはあくまで可能性の形を取った言葉だった。
けれど、その瞬間、実里の中でははっきりとした不安が輪郭を持ち始めていた。
夜、正康が帰ってきたとき、家の空気は朝とも夕方とも違っていた。
「ただいま」
「おかえり」
実里の声は落ち着いていたが、長く一緒にいる正康には、その落ち着きの裏にある張り詰めたものが分かった。
「隆は」
「部屋」
「飯は」
「少しだけ食べた」
正康は上着を脱ぎながら、実里の顔を見る。
「何かあったか」
実里は少し迷ってから言った。
「学校で、何かあるかもしれない」
正康の動きが止まる。
「どういうことだ」
「まだ分からない。でも、様子がおかしい。朝も食べないし、帰ってきてもすぐ部屋に行くし、なぎさにもきつく当たった」
正康は黙った。
顔色は変わらない。
だが、その沈黙は怒っているときのものに近かった。誰かにではなく、状況の分からなさに対して。
「聞いたのか」
「聞いた。でも、何もないって」
「……そうか」
短い返事。
その中には、納得ではなく、考え込む重さがあった。
夕食のあと、正康はしばらくテレビの前に座っていたが、内容はほとんど頭に入っていなかった。ニュースではどこかの事故や政治家の発言が流れていたが、そんなものはどうでもよかった。
息子に何が起きているのか。
仕事の現場なら、異変には原因がある。原因があるなら、確認し、対処する。正康はそういう世界で生きてきた。だが、家庭や学校の中の異変は、そんなふうに簡単に切り分けられない。
しばらくして、立ち上がる。
二階へ向かう階段の途中で、実里が「無理に聞かないで」と小さく言った。
正康は振り返らず、「分かってる」とだけ返した。
隆の部屋の前で立ち止まる。
ドアの向こうは静かだった。勉強している音もしない。音楽もかかっていない。何も聞こえない静けさが、かえって不穏だった。
ノックをする。
「隆」
「……なに」
「入るぞ」
返事を待って、正康はドアを開けた。
隆は机の前に座っていた。だが、ノートは開いているだけで、ペンは動いていない。部屋の空気は少しよどんでいた。
「学校、どうだ」
正康は真正面から聞いた。
「普通」
返ってきたのは、朝と同じ答えだった。
だが今度は、その“普通”が嘘だと、正康にははっきり分かった。
分かったのに、それをどう崩せばいいのかが分からない。
「普通じゃない顔してる」
思ったよりも率直な言葉が口から出た。
隆の肩がほんの少しだけこわばる。
「……別に」
「何かあるなら言え」
「ない」
「本当にないのか」
隆は黙る。
その沈黙が答えだった。
正康はそこで追い詰めることもできた。父親として、問い詰めることはできたかもしれない。
でも、目の前の息子は、少し押しただけで壊れそうなガラスみたいに見えた。
だから正康は、問い詰める代わりに、低い声で言った。
「言いたくないなら、今はそれでもいい」
隆が少しだけ顔を上げる。
「でも、何かあったら一人で抱えるな」
それだけ言って、正康は部屋を出た。
廊下に出ると、自分の手が思ったより強く握られていることに気づいた。拳を緩める。爪の跡が少しだけ掌に残っていた。
その夜、実里はなかなか眠れなかった。
隣で正康も起きている気配がする。互いに何度か寝返りを打つ。暗い部屋の中で、天井の見えない高さだけが広がっている。
「明日もあんな感じなら」
実里が小さく言う。
「学校に相談するか」
正康の声。
「でも、本人が何も言わなかったら……」
「何もないのに、あんなにはならない」
その言い方は少し硬かった。
けれど、怒っているわけではない。心配しているからこそ、言葉が硬くなるのだと実里には分かった。
「なぎさにも気をつけないと」
実里が言う。
「うん」
「あの子、すごく見てる」
「見てるな」
二人とも、同じことを考えていた。
家の中で最初に異変をはっきり言葉にしたのは、なぎさだった。子どもだから鈍いのではなく、子どもだからこそまっすぐ見えてしまうものがある。
一方、なぎさもまた、自分の部屋で眠れずにいた。
天井を見ながら、昼間の兄の顔を思い出す。ご飯をあまり食べなかったこと。声が変だったこと。「うるさいな」と言ったあとの、すぐに後悔したみたいな顔。
なぎさは兄が好きだった。
年の離れた大人みたいな兄ではない。たまに機嫌が悪い日もあるし、テレビを見ながらくだらないことで笑うこともあるし、自分の話を聞き流すこともある。それでも、兄は兄だった。
その兄が、最近どこかへ行ってしまいそうな気がする。
同じ家の中にいるのに、手の届かない場所に立っているような気がする。
それが、なぎさには怖かった。
翌朝、隆は前日よりさらに起きるのがつらかった。
目覚ましの音。
天井。
胃の重さ。
学校に行けば、また同じだ。
教室に入る前の一瞬。
小声で呼ばれるあだ名。
笑い。
SNS。
何も起きていないような顔をしたクラス。
その全部を想像しただけで、身体が布団に縫い付けられるみたいに重くなる。
それでも、起きる。
行かなければならないから。
それが“普通”だから。
でも、その“普通”が、自分を少しずつ削っている。
階段を下りると、実里がすぐに振り向いた。
なぎさも、箸を持つ手を止める。
正康は何も言わないまま、テレビから視線を移す。
家の中の全員が、もう気づいていた。
何かが起きている。
まだ名前はついていない。
まだ誰もはっきり言っていない。
けれど確かに、三浦家の空気は変わってしまっていた。
教室で生まれた小さな悪意は、もう学校の中だけでは終わっていなかった。
家の食卓にまで入り込み、家族の会話を慎重にし、笑うタイミングさえ狂わせ始めていた。
いじめは、教室の中だけで完結しない。
そのことを、まだ誰も言葉にしていない段階で、三浦家はもう体で知り始めていた。
この家には、はっきりした暴力の音はない。
怒鳴り声もない。
泣き崩れる姿もまだない。
あるのはただ、少しずつ増えていく沈黙だけだった。
昨日まで何でもない会話で埋まっていた場所に、今日は言わない言葉が積もっていく。
食卓に。
廊下に。
部屋のドアの前に。
階段の途中に。
家の中の空気は、もう前とは同じではなかった。
⸻
その日の放課後、実里はエプロンの紐を結びながら、ふと立ち止まった。
このまま、何もしないでいたらどうなるのだろう。
そんな考えが頭をよぎる。
すぐに打ち消したかった。
大丈夫かもしれない。本人がそのうち話してくれるかもしれない。ちょっとしたことなら、自然に収まるかもしれない。
でも、母親の勘は、そういう希望を静かに拒んでいた。
ちょっとしたことなら、食欲はここまで落ちない。
ちょっとしたことなら、目があんなふうにはならない。
ちょっとしたことなら、家の中でさえ笑えなくはならない。
実里は携帯を手に取って、画面を見た。
学校の連絡先。
担任の名前。
指先が止まる。
まだ早いかもしれない。
でも、遅いかもしれない。
その迷いの中で、ふいに玄関の鍵が回る音がした。
隆が帰ってきたのだ。
実里は携帯を伏せた。
今日もまた、息子の顔を見ることから始めなければならない。
そこで何が分かるのか。
何を聞けるのか。
何も聞けないのか。
その一つひとつが、これから先を決めていく。




