小さな教室の大きな一日
ひまちゃんダイアリー
- ちいさな教室の大きな一日 -
朝の酒田は、まだ少しひんやりしていた。
春の終わり。
風はやわらかいのに、空気の底にはまだ朝だけの冷たさが残っている。
最上川の方から流れてくる風が、幼稚園へ向かう道の旗をふわりと揺らし、遠くには少し霞んだ月山が見えた。
三浦陽毬は、その朝も元気いっぱいだった。
「おかあさん、はやぐ! きょう、はやぐいがねど!」
黄色い帽子をかぶり、リュックを背負い、玄関先でぴょんぴょんしている。
ひなたは靴をそろえながら笑った。
「ひまり、急がんでも幼稚園は逃げねぇよ」
「でもね、きょうはね、はなだんのチューリップ、みるの!」
「昨日も見だべ」
「きょうのチューリップは、きのうのチューリップでねぇもん」
その返しに、ひなたは少しだけ目を丸くしてから、笑った。
「……それ、ちょっと作家っぽいの」
台所の方から、隆の声が飛んでくる。
「ひまり、ハンカチ持ったがー?」
「もったー!」
「ティッシュは?」
「もったー!」
「ほんとか?」
「ほんと!」
ところが、玄関でリュックを開けてみると、ティッシュの代わりに小さな石が二つ入っていた。
「……ひまり」
「ん?」
「これ、ティッシュでねぇ」
陽毬はリュックの中をのぞき込んで、少しだけ考えた。
「……だいじな石」
「それは分がるけど、ティッシュの代わりにはなんねぇ」
結局、ひなたがティッシュを入れ直し、隆が「石は一個だけな」と言ってリュックのポケットへ戻した。
そんな朝だった。
⸻
1.幼稚園へ
酒田みなみ幼稚園の門の前には、すでに何人かの園児と親の姿があった。
先生たちが「おはようございます」と声をかけ、子どもたちがそれぞれのテンポで返事をする。
ちゃんと「おはようございます」と言える子もいれば、走りながら「おはよー!」の子もいる。
泣きそうな顔の子もいれば、すでに園庭へ飛び出したい顔の子もいる。
陽毬は門をくぐるなり、ぴたりと立ち止まった。
「……まだ来でねぇ」
「誰が?」
ひなたが分かっていながら聞くと、陽毬は当然のように言う。
「みちや」
その数秒後、少し向こうから元気すぎる声が響いた。
「ひまりー!」
内田道也だった。
年中、四歳。
帽子が少し斜めで、リュックの肩ひもも片方だけずれていて、朝からすでに全力だった。
なぎさが後ろから追いかけてくる。
「道也! 走るなって!」
「ひまりー! きょう、むしいる! むし!」
道也は開口一番そう叫び、その勢いのまま陽毬の前まで来ると、なぜかそこで一度よろけた。
「おっと」
陽毬がすかさず道也の腕をつかむ。
「みちや、まずくつぬいで、バッグしまってから!」
「むしがにげる!」
「にげねぇ!」
そのやり取りを見ていた先生が笑う。
「ひまりちゃん、朝からありがとねぇ」
陽毬は少しだけ得意そうだ。
なぎさは額に手を当てる。
「すみません先生、今日も朝から全開で……」
ひなたが隣で笑った。
「元気でよがったよ」
通泰は少し遅れて追いついてきて、息を整えながら言う。
「道也、ほんと朝だけはロケットだな……」
「朝だけじゃねぇべ」
なぎさがすぐに返す。
「一日中ロケットだ」
その表現がぴったりすぎて、四人とも少し笑った。
⸻
2.泣いている子
朝の支度が終わり、陽毬が年長の保育室へ入ろうとした時だった。
廊下の隅で、小さな泣き声がしていた。
年少の女の子が、お母さんの足にしがみついたまま泣いている。
先生がやさしく声をかけているけれど、女の子は首を横に振るばかりだ。
「おかあさん、やだぁ……」
泣き声は小さいのに、聞いている方の胸がきゅっとなるような声だった。
近くを通った子の中には、ちらっと見てそのまま行く子もいる。
年長の男の子が、悪気なく「まだ泣いでる」とつぶやいて、友達に引っぱられていく。
陽毬は、その場で足を止めた。
先生が困っている、というより、
あの女の子が“ひとりでこわがってる感じ”が気になったのだ。
ひなたがその後ろ姿を少し離れて見ていた。
声はかけない。
陽毬がどうするのか、ただ見る。
陽毬は、そっとしゃがんだ。
「だいじょうぶだよ」
女の子は泣きながら、少しだけ顔を上げた。
「……やだ」
「うん、やだだよね」
陽毬は、ちゃんと頷く。
「わたしもね、ちっちゃいどき、ちょっとこわかったよ」
その言い方は、ひなたに似ていた。
言い聞かせるのではなく、相手の気持ちの横に座るような言い方だった。
女の子はまだ泣いている。
でも、泣きながら陽毬の顔を見ている。
そこへ、道也が年中の部屋へ行く途中で、状況を察したらしい。
「なにしてるの?」
「この子、ちょっとかなしいの」
「そっか」
道也はポケットをごそごそやって、貼ってあった虫シールを一枚はがした。
「これ、あげる」
女の子は涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、道也の手を見る。
「……ちょうちょ?」
「ん。ちょうちょ」
先生が、そっと笑う。
「ありがとう、道也くん」
女の子はまだ泣いていたけれど、さっきより泣き方が少し変わっていた。
こわい一色ではなくなっている。
ひなたは、その様子を胸の奥で受け止めていた。
この子たちは、もう知っている。
泣いている子を急いで黙らせなくてもいいこと。
まず、その隣にいていいこと。
⸻
3.むしと泥とピーマン
その日の幼稚園は、朝からずっと忙しかった。
道也は、園庭へ出るなり本当に虫探しを始めた。
春の終わりと初夏の入口のあいだの園庭には、小さな生き物が意外と多い。
「いたー! あり!」
「ありはむしでねぇべ!」
陽毬が言う。
「むしだよ!」
「あり!」
「むし!」
その言い合いの最中に、道也は花壇の手前のやわらかい土へ片足を突っ込み、そのままぐらっと傾いた。
「うわっ」
陽毬が止めようとして、いっしょに少し泥をはねる。
先生が駆け寄る。
「ちょっとちょっと、二人とも何してるのー!」
道也は泥のついた靴を見て、妙に誇らしそうだ。
「みて! どろ!」
「みで、じゃねぇ!」
陽毬は半分怒って、半分笑っている。
昼のお弁当の時間には、また別の事件が起きた。
道也が、急にピーマンを持ち上げて宣言したのだ。
「きょうは、ぼく、ぴーまんたべる!」
周りの子たちがざわつく。
「えー」
「みちや、たべられるの?」
「むりだべ」
その煽りに道也は燃える。
「たべる!」
勢いよく口へ入れた。
次の瞬間、顔がぎゅっと全部真ん中へ集まる。
陽毬が吹き出す。
「むりしてる!」
「むりしてない!」
「してる!」
先生も笑いをこらえながら水を差し出す。
道也はごくんと飲み込んでから、涙目で言った。
「……おとなのあじ」
その表現があまりにも四歳らしくて、クラス中が笑った。
でも、その笑いは道也を恥ずかしくさせるものではなかった。
むしろ、挑戦したことごと笑ってくれる笑いだった。
陽毬は、そういう笑い方が好きだった。
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4.「いれて」が言えない子
自由遊びの時間だった。
年長組の部屋では、積み木で大きな町を作る遊びが始まっていた。
道路を作る子。
家を積む子。
橋ばかり作りたがる子。
陽毬もその輪の中にいたが、ふと部屋の端が気になった。
少し離れたところに、同じクラスの男の子が立っている。
遊びを見ている。
でも近づいてこない。
陽毬は、しばらくその子を見ていた。
だれも仲間はずれにしているわけじゃない。
ただ、だれも気づいていない。
その子がずっと同じ場所に立っていることに。
陽毬は、そっとその子のところへ行った。
「いっしょにやる?」
男の子は、びくっとしたみたいに顔を上げる。
でも、すぐにはうなずけない。
「……」
「いれて、って言うのむずかしい?」
その聞き方が、またやわらかい。
男の子は、小さくうなずいた。
陽毬が「だいじょうぶだよ」と言いかけた時だった。
どこから見ていたのか、道也が急に来た。
「くる!」
そして、その子の手をつかんで、ほとんど勢いで遊びの輪へ引っぱっていく。
「ちょ、みちや!」
陽毬が追いかける。
でも、結果的にはそれでよかった。
男の子は最初きょとんとしていたが、道也が「ここ、トンネル!」と積み木を渡し、陽毬が「じゃあこのへん、えきにしよう」と言うと、少しずつ手を動かし始めた。
やがて、その子はちゃんと笑った。
先生は、その様子を少し離れて見ていた。
やさしさは、いつも上手な形で届くとは限らない。
でも届くことはある。
陽毬の“気づく力”と、道也の“体が先に動く力”は、たぶんその両方が必要なのだろうと思った。
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5.帰ってから話すこと
家に帰ると、陽毬はその日のことを一生懸命に話した。
ひなたは台所で夕飯の準備をしながら、でも手は止めず、ちゃんと耳を向けている。
隆も、原稿用のノートを閉じて居間へ出てきた。
「きょうね」
陽毬が言う。
「ちいさいこが、ないでだの」
「うん」
「でも、あとで、ちょっとわらってくれた」
「そっか」
「みちやがね、ちょうちょのシールあげだ」
「おぉ」
隆が少し笑う。
「みちや、えらいな」
「んでね、それから、いれてっていえない子もいたの」
ひなたの手がほんの少しだけ止まる。
「うん」
「だから、わたし、いっしょにやる?ってきいた」
「うん」
「そしたら、みちやが“くる!”ってやった」
陽毬は、その“くる!”を、道也そっくりの勢いで再現した。
ひなたと隆は、同時に吹き出した。
「みちやらしいのぉ」
「らしいなぁ」
陽毬は、笑ったあとで少し真面目な顔になる。
「でもね」
「うん」
「その子、さいご、わらったよ」
その一言に、ひなたは胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
そうか。
この子は、ちゃんと見ている。
泣いていたことだけじゃなくて、最後に笑ったことも。
そこが大事なのだ。
傷ついたことだけで終わらせない。
戻ってきた小さな笑顔まで、ちゃんと覚えている。
ひなたはその夜、ノートを開いた。
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6.ひまちゃんダイアリー
机の上のランプの明かりはやわらかい。
家の中は静かで、遠くの部屋から陽毬の寝息が小さく聞こえる。
ひなたは、今日のページを書き始めた。
泣いていた子のこと。
シールを差し出した道也のこと。
「いれて」が言えずに立っていた子のこと。
そして、“くる!”と手を引いた小さな手の勢いのこと。
文章は、前よりずっと母の目になっていた。
でも、ひなた自身の感覚もちゃんとそこに残っている。
最後に、いつものように短歌を書いた。
泣く声の
となりでそっと
座る子の
小さな背中に
明日が宿る
ひなたは、その一首を書き終えてから、少しだけ目を閉じた。
このダイアリーは続いていく。
陽毬がいるかぎり。
この子が毎日なにかを感じて、言葉にならない形で誰かに手を伸ばし続けるかぎり。
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7.ちいさな手
寝る前、陽毬と道也は、なぎさたちが遊びに来ていたこともあって、少しだけいっしょに絵本を見ていた。
陽毬がページをめくる。
道也は半分くらいしか分かっていないくせに、真剣な顔で見ている。
「みちや」
「ん?」
「きょう、えらかったね」
「ぼく、つれてった」
「うん。つれてったね」
道也は、少し照れたように鼻をこする。
「だって、たってた」
「うん」
「だから、くる!ってした」
それだけだ。
でも、そこには十分すぎるくらいの意味があった。
陽毬は、小さく笑った。
「また、だれかないてたら、いっしょにいようね」
「うん」
二人はまた、手をつないだ。
その小さな手と手の重なりを見ながら、ひなたは思う。
教室は、大きくなってから突然始まるものではない。
人の心のそばに座る練習は、もっとずっと小さな場所から始まっている。
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8.ちいさな教室の大きな一日
こうして、スピンオフの一日は終わる。
でも、本当は終わっていない。
明日もまた、幼稚園ではだれかが泣くかもしれない。
だれかが転ぶかもしれない。
仲間に入れなくて立ち尽くす子がいるかもしれない。
そのたびに、陽毬は気づくのだろう。
道也は、たぶん先に体が動くのだろう。
そして家に帰って、また『ひまちゃんダイアリー』が一ページ進む。
教室の外へ出ても、光は続く。
その光は今、もっと小さな教室の中でもちゃんと灯っている。




