新しい年の入口
第44話
新しい年の入口
年末から年始に変わる時間には、独特の静けさがある。
町全体が、いったん深く息を吸い込んで、それから新しい一歩を踏み出そうとしているような静けさだ。
雪の降る夜は、なおさらそうだった。音が吸い込まれ、道も屋根も、遠くの街灯の光までやわらかく白くなる。
十二月の終わり、三浦家の窓から見える景色も、きれいに雪化粧していた。
家の中では、年越しそばの湯気が立ち、テレビでは年末の番組が流れ、なぎさが「もうすぐだー」と何度も騒ぎ、実里が「そんなに時計見なくても年は来る」と笑い、正康が少し呆れながらも口元をゆるめている。
その少し外側に、今ではひなたの存在がかなり自然にある。
年末も、年始も。
教室の中で育ってきた関係が、家の時間へ入り込み、家族の笑いに混ざっていく。
それは、少し前までの隆には想像できなかった景色だった。
⸻
1.年末のあたたかさ
大晦日の夕方、ひなたは三浦家に顔を出していた。
「おじゃまします」
「いらっしゃーい!」
なぎさの声は相変わらず元気だ。
「ひなたさん、もうほぼ家族みでぇだの」
「お前がそういうごど言うな」
隆がすぐに返すと、ひなたは笑う。
「でも、うれしい」
その一言に、実里が台所から顔を出した。
「ひなたちゃん、今日あったかい甘酒もあるよ」
「わ、いただきます」
正月前の家の空気は、ふだんより少しだけやわらかい。
大掃除も終わり、食卓の上には年越し用の料理が少しずつ並び始め、台所には甘いだしの匂いが漂う。
ひなたは、三浦家のこういう時間にもうかなり馴染んでいた。
なぎさがテレビを指してはしゃぐ。
実里が「そんなに近くで見ない」と言う。
正康が静かに新聞を畳む。
隆がその全部を半分呆れ、半分当たり前みたいな顔で見ている。
その一つひとつが、ひなたにはやっぱり少し特別に見える。
そして隆にとっても、ひなたがこの空気の中にいることが、だんだん“特別だけど自然”なものになり始めていた。
⸻
2.小説は教室の外へ
年末のあいだにも、小説の反応は少しずつ増えていた。
冬休みに入ると、読む側にも時間ができるのか、いつもより少し長めのコメントがつくことがある。
ある日の夜、隆はパソコンを開いて、ひとつのコメントを二度読みした。
『この話を読んで、自分の中学時代を思い出しました。
あのころの教室って、だれか一人だけが悪いんじゃなくて、空気全体が人を追い詰めることがあったと思います。
でもこの作品は、そこからちゃんと変わろうとする人たちも描いていて、救われました。続きが読みたいです。』
その感想を読み終えたあと、隆はしばらく画面を閉じられなかった。
教室の中で起きたこと。
自分たちのあの時間。
それが、知らないだれかの“自分の中学時代”と重なっている。
つまりこれはもう、完全に二年二組だけの話ではなくなっているのだ。
ひなたへ送る。
また来た。今度はけっこう長い
返事はすぐだった。
読む
スクリーンショットを送ると、少し間が空いてから、ひなたからメッセージが届く。
ちゃんと届いでるの、すごいの
さらに続く。
隆くん、もう“書いてる人”だの
その言葉に、隆は少しだけ照れた。
でも、前よりは素直に受け取れる。
まだ全然途中だ
と返すと、
途中でも、書いてる人は書いてる人だべ
と返ってきた。
ひなたは、もう“読者第一号”を越えて、“書き続ける人を支える人”になっている。
そのことを、隆もはっきり自覚し始めていた。
⸻
3.相原と宮原の冬休み
一方で、相原と宮原の“冬休みの約束”も、ちゃんと現実になった。
派手なデートではない。
駅前の本屋をのぞき、文房具屋に入り、途中で肉まんを買って、少しだけ公園を歩く。
それだけの時間だ。
でも、二人には十分すぎるくらい意味があった。
最初は、やっぱり少しぎこちなかった。
「寒いのぉ」
宮原が言う。
「んだな」
「肉まん、熱っ」
「そりゃそうだべ」
そんな会話しかできない時間が、最初の三十分は続いた。
でも、そこで無理に面白いことを言おうとしなくてもいいと分かってから、少しずつ会話がほどけていく。
「雪の日、ほんと痛がったっけ」
相原がふと笑う。
「うるさい。あれは普通に痛い」
「でも、足なんともなくてよがった」
その言い方が、宮原にはまた少しだけくすぐったい。
「……あの時、ありがど」
「今さら?」
「今さら」
「別に」
相原は、少しだけ照れくさそうに肉まんへ視線を落とした。
宮原は、その横顔を見ながら思う。
この人は、本当に変わろうとしている。
まだ不器用だし、まだ危なっかしい。
でも、前の場所へ戻らないように、ちゃんともがいている。
そして相原の方も、宮原が以前よりずっとやわらかい視線で自分を見てくることに気づいていた。
まだ名前はつかない。
でも、この時間の先には、たぶん何かがある。
⸻
4.年明けの約束
そして、新しい年の入口。
雪は、年をまたいでもやまずに降っていた。
夜のあいだにまた少し積もり、近所の道は白く静かだった。
元旦の夕方。
三浦家では、ひなたがまた来ていた。
なぎさも完全におめかししていて、その理由は本人が言わなくても分かる。
内田通泰も、このあと初詣に一緒に行く予定だからだ。
「ひなたさん、マフラーこれでいいと思う?」
「いいと思う。かわいい」
「ほんと?」
「ほんと」
そのやり取りを見ながら、隆は少し呆れる。
「お前、気合い入りすぎだべ」
「お兄ちゃんに言われだぐねぇ」
なぎさが即答する。
「なに」
「ひなたさん来るって時のお兄ちゃん、毎回気合い入りすぎ」
「うるせぇ」
「図星だ」
ひなたは、その兄妹のやり取りだけでかなり笑える顔をしていた。
そして本当に、内田通泰がやって来る。
玄関の外から、少しだけ緊張した声が聞こえる。
「なぎさちゃん、来たよ~」
なぎさは一瞬で顔を輝かせる。
「私の王子様よ~!」
「うるせぇ!」
隆が即座につっこみ、ひなたはもうその時点でお腹を押さえている。
「だめ、ほんとこの家おもしぇ……!」
四人そろって、雪の降る中を神社へ向かう。
⸻
5.正月早々のやらかし
近所の神社へ続く道は、雪で少し歩きにくくなっていた。
街灯の下だけがぼんやり明るく、吐く息は白く、足元はところどころ踏み固められている。
四人は並んだり、少し前後したりしながら歩く。
なぎさは通泰の隣へ行ったかと思えば、急にひなたの方へ戻ってくる。
ひなたはそれを面白がっていて、隆は半分呆れながら後ろから見ている。
「なぎさちゃん、落ち着けって」
「落ち着いでるし!」
「全然落ち着いでねぇ」
「お兄ちゃんの方が落ち着いでねぇべ」
「なんでだや」
その言い合いをしていた時だった。
なぎさの足が、雪に隠れたわずかな段差を踏んだ。
「きゃっ!」
見事に足を取られ、そのままつるっと滑る。
「うわっ!」
通泰が反射的に手を伸ばしかけたが、間に合わず、なぎさはそのままぺたんと尻もちをついた。
「いったぁ……!」
そのはずみで、スカートの裾が少し乱れ、下着が見えそうになる。
そして通泰は、ほんの一瞬、思わずそっちを見てしまった。
完全に反射だった。
「……!」
なぎさはその視線に気づくと、一気に顔を真っ赤にした。
「もう、通泰のバカ! 見だでしょう!」
通泰も耳まで赤くなる。
「み、見でねぇし!」
「今の間は完全に見だ人の間だべ!」
「違うって!」
ひなたはそのやり取りを見た瞬間、もうだめだった。
「っはははは! だめ、今年も正月早々やらかし多そうやね!」
お腹を抱えて笑い始める。
隆も、最初は「大丈夫か」と声をかけるつもりだったのに、通泰の慌てぶりとなぎさの怒り方があまりにも分かりやすすぎて、結局吹き出してしまった。
「お前ら、正月から何やってんだや……!」
なぎさは雪の上で半泣き半怒りだ。
「笑うなぁ!」
「いや、でも今のは……!」
ひなたは本当に腹筋を押さえている。
「通泰くんの“見でねぇし”がもう見だ人の顔なんだって……!」
「ひなたさんまで!」
通泰は完全にしどろもどろだった。
「違うんだって、ほんとに、いや、違わねぇけど、違うっていうか」
「どっちだや!」
なぎさが叫ぶ。
そのやり取りに、周りを歩いていた近所の人まで少し笑っているような気がした。
雪の神社へ向かう道で、四人の声だけが妙に元気に響く。
⸻
6.新しい年の入口
神社へ着いた頃には、なぎさの怒りも半分以上は照れに変わっていた。
通泰はまだ妙におとなしい。
ひなたは時々思い出してはまた吹き出している。
隆は呆れながらも、こういう騒がしさが嫌いではない。
参道の石段の上には、雪が少し積もっている。
神前の灯りはあたたかく、冬の夜の空気はきりりとしていた。
四人で並んで手を合わせる。
今年、どうかちゃんと前へ進めますように。
そんなふうに言葉にした者はいない。
でも、たぶんみんな少しずつ似たことを願っていた。
ひなたは、目を閉じながら思っていた。
去年の今ごろ、こんなふうに隆の隣に立っていることは想像していなかった。
でも今は、ちゃんと恋人として、家族みたいな笑いの中にいて、一緒に新しい年を迎えている。
隆もまた、同じようなことを考えていた。
一学期のあの頃。
夏の図書室。
文化祭。
初めての投稿。
クリスマスの告白。
そして今日の初詣。
ここまで来た。
まだ途中だけど、たしかにここまで来た。
雪は静かに降り続いている。
その白さの中で、笑いながら、少し転びながら、少し照れながら、新しい年は始まっていく。
そんな正月だった。




