初雪の前
第39話
初雪の前
冬は、いつも予告なく本気になる。
昨日までただ冷たいだけだった空気が、ある朝には雪を連れてくる。
しかも最初の雪ほど、なぜか遠慮がない。
少し舞って終わるのではなく、いきなり積もる。
道路の端も、校門の前も、駐輪場の屋根も、全部が一晩で白くなる。
その白さはきれいだ。
でも、同時に人の足元を簡単に奪う。
二年二組の冬もまた、そんなふうに始まりかけていた。
教室の関係は前より落ち着いている。
だが、落ち着いたからこそ見えてくる迷いやためらいもある。
小説を“投稿する”という次の段階。
好きだと言ったあと、言われたあと、その先へ進むこと。
変わったつもりの自分が、ほんとうに変わり続けられるのかという不安。
冬の前には、そういうものが少しずつ積もっていく。
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1.投稿の前
隆の小説は、もう“途中のノート”ではなくなりつつあった。
文化祭までを書き込み、教室の空気の変化も入れ、少女の輪郭もかなりはっきりした。
最初の一行から読み返せば、ちゃんと一本の流れがある。
だからこそ、次の問題が出てくる。
投稿するのか、しないのか。
小説投稿サイトに登録したのは夏のはじめだった。
その時は、書くことそのものが目的みたいなところがあった。
でも今は違う。
ここまで来ると、“見てもらう”という現実が急に重くなる。
誰かが読む。
知らない人が読む。
感想が来るかもしれない。
何も来ないかもしれない。
ひなたをモデルにしたこの物語が、自分の手の中だけではなくなる。
それが急に怖くなった。
放課後の図書室。
窓の外は灰色に近い冬の空で、午後なのにもう夕方みたいな光が落ちている。
ひなたは、机の上の原稿を読み終えて、顔を上げた。
「……で?」
「ん?」
「投稿、まだ迷ってるべ」
隆は苦笑した。
「分がる?」
「分がる」
ひなたは紙の束を軽く揃えながら言う。
「ここまで来たら、逆に怖くなるやつだろ」
その言い方があまりに正確で、隆は少しだけ肩の力を抜いた。
「なんかさ」
隆は、素直に言葉を出した。
「ノートで書いでるうちは、まだ“俺の中の話”で済んでだんだよ」
「うん」
「でも投稿したら、もう俺の手の中だけではなくなるじゃん」
「んだな」
「それが、ちょっと怖ぇ」
ひなたは、その“怖ぇ”を軽くは扱わなかった。
少しだけ考えてから、静かに言う。
「でもさ」
「うん」
「最初にわだしが読んだ時から、もうそれ、隆くんの中だけの話じゃねぇ気はしてだよ」
隆が顔を上げる。
ひなたは続けた。
「だって、あれ読んだ時、わだし、自分の話なのに自分だけの話でもねぇって思ったもん」
「……ん」
「教室のことでもあるし、誰かが怖い思いした話でもあるし、変わろうとした話でもあるし」
そこで少しだけ笑う。
「あと、木の役の話でもあるし」
「そこ何回も言うな」
「大事だがら」
それから、ひなたは原稿の一番上に手を置いて、少しやわらかく言った。
「わだし、読者第一号だべ?」
「……んだな」
「なら、第一号として言うけど」
ひなたは、まっすぐ隆を見る。
「投稿していいと思う」
その言葉は、妙に静かで、でもすごく強かった。
「誰かに届ぐかどうかは分がんねぇ。思ってたのと違う受け取られ方するがもしれねぇ。怖いのも当たり前」
「うん」
「でも、怖いから出さねぇってしたら、たぶん隆くん、あとで自分に腹立づと思う」
隆は、返す言葉がなかった。
その通りだと思ったからだ。
「わだしは読んでよがったと思ってる」
ひなたは言う。
「だから、次は知らね誰かが読んでもいいんでね?」
その一言で、隆の中の迷いがすぐ晴れたわけではない。
でも、“怖いまま出してもいい”という道が初めて見えた気がした。
「……ありがど」
「ん」
「読者第一号」
「特権だべ」
ひなたは少しだけ得意そうに笑った。
その顔を見ながら、隆は思う。
この人が最初に読んでくれて、本当によかった。
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2.冬を越える教室
教室の方も、少しずつ“冬を越えるクラス”の顔になっていた。
寒くなれば、体調を崩す者も出る。
気分が落ちる日もある。
進路の話はますます具体的になり、勉強の焦りも増える。
冬という季節は、それだけで人を少し内側へ向かわせる。
だからこそ、教室の空気がどちらへ転ぶかは大きい。
二年二組は、以前のように誰か一人を押し込める方へは、もう戻らなくなっていた。
前みたいに“なんとなくの悪ノリ”は起きない。
だれかがきつい言い方をすれば、別の誰かが軽く止める。
話題が偏れば、ひなたや結菜が自然に輪を広げる。
宮原もその流れにもう普通に乗っている。
そして、謝ったあともぎこちなかった黒川と相原のまわりには、“そっとしておくけど排除しない”空気ができていた。
それが、今の二年二組にとってかなり大きかった。
冬を越えるには、仲良しである必要はない。
でも、だれかを孤立させないことは、たぶん必要だ。
高石は、その空気を見ながら、前よりずっと安心して教室全体を見渡せるようになっていた。
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3.宮原の決心
宮原彩乃は、自分でも意識しないうちに、相原のことを気にする時間が増えていた。
恋とか、そういう名前のつくものとしてではない。
少なくとも最初は。
ただ、見てしまったのだ。
終業式の日の帰り道で、小学生に手を差し伸べる相原を。
あの時の背中を見て、自分の中で何かが動いた。
それから電話もした。
“いいところが見られてよかった”とも言った。
その言葉は冗談ではなかった。
けれど最近の相原は、少し疲れて見える。
前より静かで、前よりちゃんと考えているぶん、そのぶんだけ無理もしているように見えた。
宮原は、何度か声をかけようとしてやめた。
何を言えばいいか分からない。
心配してるみたいに見えすぎるのも変だ。
でも、放っておくのも違う気がした。
そんなふうに迷っているうちに、季節はどんどん冬へ近づいていった。
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4.初雪の朝
そしてある朝、本当にいきなり雪が積もった。
前の晩、天気予報では「平地でも積雪の可能性があります」とは言っていた。
でも、山形の初雪はいつも少し予報以上だ。
朝起きると、道路はうっすらどころではなく、しっかり白くなっていた。
通学路はところどころ踏み固められて、見た目よりずっと滑りやすい。
息は真っ白で、耳がじんと痛い。
相原は、マフラーを首に巻き直しながら歩いていた。
「さみぃ……」
誰に言うでもなくつぶやく。
手袋の中の指先まで冷たい。
学校までの道を、足元を見ながら慎重に進む。
少し前方に、見覚えのある背中があった。
宮原彩乃だった。
厚手のコートにマフラー。
髪を少しまとめていて、いつもより冬らしい輪郭に見える。
「……宮原」
声をかけようとして、相原は少しだけタイミングを探した。
その瞬間だった。
宮原の足元が、ほんの一瞬だけ流れた。
危ない、と相原が思った時には、もう遅かった。
「っ、きゃ!」
宮原はそのまま尻もちをついた。
雪の上に、やや派手に転ぶ。
鞄が脇に落ちて、宮原は顔をしかめた。
「いだだだだ……!」
相原の体は、その瞬間にはもう動いていた。
「宮原、大丈夫か!?」
自分も転ばないように慎重に足を出しながら、宮原のところまで急ぐ。
宮原は、少し情けない顔のまま苦笑した。
「うん……大丈夫。……でも痛い」
「そがぁ……」
相原はしゃがんで、まず足元を見た。
「足、ひねってねぇが?」
「たぶん、大丈夫」
「立てるか?」
そう言って、手を差し出す。
宮原は一瞬だけその手を見る。
冬の朝の冷たい空気の中で、その手だけが妙に体温を持って見えた。
「……ん」
宮原は手を伸ばす。
触れた瞬間、少しだけ驚いた。
あったかい。
ほんとうに、ただそれだけのことだった。
でも、その“あったかい”が、冬の朝にはひどくまっすぐに感じられた。
相原は、しっかり手を引いて宮原を立たせる。
「平気か?」
「……うん」
立ってみると、足首に痛みはない。
尻もちをついただけらしい。
「よがった」
相原がそう言って、ほっとしたように笑う。
宮原はその笑いを見て、胸の奥が妙に強く鳴るのを感じた。
こいつ、こんなあったかい手をしてるんだな。
その感覚は、転んだ痛みよりもずっと強く残った。
「ありがど」
「いや、そんなん」
「……見でだんだべ?」
「転ぶ瞬間な」
「最悪」
「いや、でもまじで心配した」
その言い方が、冗談じゃないのは分かった。
宮原は、頬が少し熱くなるのを感じながら、わざと雪の方を見た。
「雪、やだの」
「んだな。初日がら本気出しすぎだ」
二人は、そのまま並んで歩き出した。
自然に。
まるで最初からそうする予定だったみたいに。
雪を踏む音が、きゅっ、きゅっと静かに続く。
それ以上、特別なことは言わなかった。
でも宮原の中では、何かが確かに動き始めていた。
恋、という言葉をすぐに当てはめるには、まだ少し早い。
けれど、この朝のことは、たぶん忘れない。
冬の最初の雪。
転んだ痛み。
差し出された手。
その手のあたたかさ。
そして、その瞬間に自分の心が少しだけ先へ進んだこと。
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5.次の一歩
その日の放課後、宮原は席でノートを片づけながら、何度も朝のことを思い出していた。
相原は、教室ではいつも通りだった。
でも、“いつも通り”の中に、今朝のあたたかさがちゃんと残っている気がする。
相原の方もまた、宮原が転んだ時に自分が考えるより先に動いていたことを思い返していた。
終業式の日の小学生の時と同じだ。
何かが起きた時、もう前みたいに見て見ぬふりへ戻れない。
それは少し疲れる生き方なのかもしれない。
でも、そうやって動いた結果、朝の雪道で宮原がちゃんと立ち上がって、一緒に歩いたこともまた事実だった。
変わることの先には、ちゃんと別の景色もあるのかもしれない。
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6.白い息の向こう
初冬の教室。
白い息の朝。
投稿を迷う小説。
読者第一号の背中押し。
輪の中へ入ってくる宮原。
少し疲れながらも戻らない相原。
その揺れに気づく黒川。
そして、ひなたとの関係が、もう“そういうもの”として自然に教室へなじみ始めていること。
冬は冷たい。
でも、その冷たさがあるから、人の手の温度や、言葉のあたたかさが前よりはっきり分かる。
二年二組は、きっとこの冬を越えていく。
前と同じ形ではなく、前より少しだけやわらかい形で。
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