冬の気配
第37話
冬の気配
秋が深まると、教室の空気はまた少し変わる。
窓から入る光が白くなる。
朝の廊下が冷たくなる。
制服の袖を少し長く引っ張る生徒が増える。
放課後の空が暗くなるのが早くなって、帰り支度の音にもどこか急ぎ足の感じが混じる。
そうなると、文化祭の熱も、夏の余韻も、少しずつ日常の中へ溶けていく。
二年二組の関係もまた、前よりずっと落ち着いていた。
だれか一人を吊るし上げる空気は、もうない。
ひなたと結菜の間には自然な連携がある。
柴田はその輪の中へ前よりずっと自然に入れるようになった。
黒川と相原も、“その後の普通”を不器用ながら続けている。
宮原もまた、自分から輪へ近づくことをやめなくなった。
けれど、教室が少し落ち着いてくると、今度は別のものが見えてくる。
進路。
将来。
勉強。
この先のこと。
中学二年の冬は、まだ“受験本番”には早い。
けれど、だからこそぼんやりした不安が教室のあちこちに顔を出し始める。
このままでいいのか。
自分は何になりたいのか。
将来って、本当に来るのか。
好きなものはあるけれど、それでやっていけるのか。
そういう、答えのない問いが、窓の外の冷たい光と一緒に教室の中へ入ってきていた。
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1.ひとつの区切り
隆の小説は、十一月に入ってようやくひとつの区切りへ近づいていた。
もちろん完成ではない。
でも、“ここまで”と呼べる場所が見えてきた。
木の役だった少女。
見えないことを怖がる少女。
教室の空気。
立ち上がること。
泣くこと。
誰かが変わること。
その全部が、ようやく物語としてつながり始めていた。
放課後の図書室で、隆はノートをひなたへ差し出す。
「ここまで、いったん読んで」
ひなたは受け取り、前よりずっと真剣にページをめくる。
窓の外はもう薄暗く、図書室の蛍光灯が紙の白さを際立たせていた。
読み終わるまで、ひなたはかなり長く黙っていた。
「……どうだっけ」
隆が聞く。
ひなたは、すぐには顔を上げなかった。
指先で最後のページの端をなぞりながら、ゆっくり言う。
「区切りになってる」
「ん」
「ちゃんと、一回息つけるとこまで来てる」
その言い方が、隆にはすごくうれしかった。
「でも」
ひなたは顔を上げる。
「これ、まだ終わりでねぇよの」
「んだな」
「この子たち、このあとも生きるもん」
「うん」
「だから、終わり方じゃなくて、いったんの区切りなんだと思う」
その感覚は、隆自身が考えていたことにかなり近かった。
小説を書いているつもりなのに、どこかで“教室そのもの”を書いている。
そしてその教室は、まだ終わっていない。
「……ひなちゃん」
「ん?」
「やっぱ、お前に読んでもらってよがった」
ひなたは少しだけ照れたように笑う。
「モデルだがらな」
「そこ、ずっと言うな」
「言うよ。特権だべ」
二人の間に流れる空気は、もうかなり自然だった。
それはまだ“恋人です”と大きく言えるほどはっきりしたものではない。
でも、少なくとも二人とも、前とは違う場所に立っていることだけは分かっていた。
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2.少しはっきりするもの
ひなたとの関係は、文化祭のあとから、ほんの少しずつ形を持ちはじめていた。
教室での視線。
帰り道の会話。
図書室での時間。
家でのアルバム騒動。
そういう一つ一つが、前よりも“ただの偶然”ではなくなっている。
ある日、放課後に図書室を出たあと、ひなたがふと聞いた。
「なぁ」
「ん?」
「隆くんって、今のわだしのごど、どう思ってる?」
その問いは、冗談みたいな顔で投げられたのに、内容は全然冗談ではなかった。
隆は一瞬、言葉を失った。
「……どうって」
「いや、そのまんま。前よりも、今の方がはっきりしてきた気するがら」
ひなたは、わざと軽く言おうとしている。
でも、その声の奥に少しだけ緊張があるのが分かった。
隆は、少しだけ視線を泳がせてから言う。
「……好きだよ」
言ってしまってから、自分でも驚くくらいまっすぐ出たと思った。
ひなたは一瞬だけ固まって、それから顔を赤くした。
「……そういうごど、急に真っすぐ言うなや」
「そっちが聞いだんだべ」
「聞いだげど!」
「じゃあ、ひなちゃんは」
「それは、前に言った」
ひなたはそう言って、すぐに前を向く。
耳まで赤い。
「でも、今も同じだよ」
その一言だけで、隆の胸の奥がじんわり熱くなった。
ちゃんと“好き”が往復した。
大げさな告白の場じゃない。
図書室帰りの、ただの放課後。
でも、だからこそ本物みたいに思えた。
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3.冬の不安
教室が落ち着いてくると、今度は別の不安が顔を出す。
進路調査。
三者面談の日程。
将来について書かされた紙。
“高校”という言葉が、ぐっと具体的に近づいてくる。
結菜が、昼休みにぽつりと言う。
「なんかさ、二年なのに急に“先の話”しろって言われると、ちょっとしんどい」
ひなたが頷く。
「分がる。まだ今のことでいっぱいな時あるのに」
柴田も、男子の方で似たようなことを言っていた。
「将来の夢って書げって言われでも、そんな簡単に決まんねって」
黒川はその会話にあまり混ざらなかったが、内心では同じだった。
相原もまた、ぼんやりした顔で進路希望の紙を見ていることが増えた。
変わろうとすること。
そのあとを生きること。
さらに、その先の将来まで考えなければならないこと。
中二の冬は、思っているより忙しい。
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4.ひなたのひと言
そんなある日の昼休み、ひなたが机に頬杖をついたまま言った。
「たまには皆で大きな声出して歌いたいのぉ」
その言葉は、ほんとうに何気なく出たものだった。
結菜がすぐ笑う。
「またカラオケ?」
「んだ。文化祭終わったら、なんか急に行ぎだぐなった」
柴田が言う。
「俺は行ぐ」
「早ぇな」
結菜が笑う。
「だって、この前のSilent Jealousy、まだいじられてるし」
「自業自得だべ」
そのやり取りを聞きながら、隆はふと思った。
たしかに、たまにはいいかもしれない。
クラス全員じゃなくても、何人かで、ただ大きな声を出して、妙に考えすぎずに騒ぐ時間。
それは今の二年二組に、案外必要なものかもしれなかった。
「……じゃあさ」
隆が言う。
「今度、カラオケでも行がね?」
ひなたが顔を上げる。
「ほんとに?」
「んだ。せっかぐだし」
結菜も身を乗り出す。
「誰誘う?」
「柴田は確定な」
「確定て何だや」
そこで隆は少しだけ間を置いた。
でも、ここで引いたら意味がない気がした。
「黒川と相原も、誘うか」
一瞬、空気が止まる。
ひなたも、結菜も、柴田も、すぐには何も言わなかった。
だが、反対の空気ではない。
「……いいんでね」
最初に言ったのはひなただった。
「たまには、皆でワーッと騒ぐのも」
その一言で、隆は少しだけ楽になった。
「んだよな」
その日の放課後、廊下で黒川と相原を見つけた隆は、少しだけ緊張しながら声をかけた。
「なぁ」
二人が振り向く。
「土曜の昼、カラオケでも行がね?」
黒川と相原は、見事なくらい同じ顔をした。
俺たちもか? なんで?
そのまんまの表情だった。
隆は苦笑する。
「たまにはいいじゃん。皆でワーッと騒ぐのも」
相原が、少しだけ眉を上げる。
「……俺ら行ってもいいのか?」
「誘ってるがら言ってんだべ」
黒川は、少しだけ黙ったあと、相原と顔を見合わせた。
「……じゃあ、行ぐ」
相原も、まだ少し不思議そうな顔のまま言う。
「俺も」
その返事を聞いて、隆は自分でも気づかないうちに少しだけほっとしていた。
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5.土曜の昼
カラオケ店の個室は、昼なのに少しだけ夜みたいな照明だった。
集まったのは、隆、ひなた、結菜、柴田、黒川、相原。
六人という微妙にちょうどいい人数。
最初は少しだけぎこちなかった。
誰が最初に入れるのか。
何を歌うのか。
どのテンションでいけばいいのか。
でも、ひなたが先に軽めの曲を入れて空気を動かし、結菜がそれに続き、柴田が相変わらず本気寄りの選曲で場を混ぜるうちに、少しずつ個室の空気はやわらいでいった。
黒川も相原も、最初は控えめだった。
だが、マイクが回ってきても断らず、何曲か歌ううちに少しずつ表情がほどけてくる。
「相原、その曲意外と合うのぉ」
ひなたが言うと、相原は苦笑する。
「褒めでんのか分がんね」
「褒めでる」
「ならいい」
そんな小さな会話が、前よりずっと自然に流れていた。
そして、何曲か回ったあと、隆がデンモクを手に取る。
「次、俺入れでいい?」
「いいよー」
ひなたがそう返す。
隆が選んだのは、X JAPANのForever Loveだった。
その選曲に、柴田がすぐ反応する。
「お、そこ行ぐ?」
「ん」
「またXか」
結菜が笑う。
「柴田に言われだぐねぇ」
「それもそう」
軽い笑いが起きる。
そして、前奏が流れた。
最初の一音を出した瞬間、部屋の空気が変わった。
透き通っているのに、少しだけハスキーな高音。
無理に張り上げているのではなく、まっすぐ上へ伸びていく声。
静かなバラードなのに、部屋の中がすっと引き込まれていく。
誰も、途中で茶々を入れられなかった。
ひなたは最初の数秒で目を見開き、それからじっと隆を見つめた。
結菜も、柴田も、思わず座り直す。
黒川と相原は、完全に驚いた顔で隆を見ている。
歌い終わるまで、部屋はほとんど静まり返っていた。
最後の音が消えたあとで、しばらく誰もすぐには何も言えなかった。
画面に得点が出る。
99点。
その数字が出た瞬間、黒川が本気で声を上げた。
「えっ、すげぇ!」
相原も、目を丸くしたまま言う。
「おめぇ、めっちゃ歌うめぇじゃん」
柴田が机を叩く。
「いや、ちょっと待って、99はやばいって!」
結菜は、ひなたの腕を軽く叩いた。
「聞いだ!? 今の!」
ひなたは、少しだけ呆れたように、でもものすごくうれしそうに言う。
「前がら上手いのは知ってだげど、やっぱりやばいのぉ」
隆は、さすがにここまで真正面に褒められると照れるしかなかった。
「……別に」
「別に、の点数でねぇって」
相原が、ほんとうに感心した顔で言う。
「何なんだや、その声」
黒川も続ける。
「なんかもう、ふつうにびびった」
その言葉には、お世辞の感じがまったくなかった。
そして、その“素直に驚いて褒める空気”が、部屋の中の距離をまた少し変えた。
謝罪のあとも、どこかぎこちなさの残っていた関係。
それが、“教室であったこと”とは別の場所で、“こいつすごいじゃん”とまっすぐ言い合える時間を持ったことで、少しだけ修復へ向かった。
黒川が笑いながら言う。
「次から隆、締めの曲担当な」
「勝手に決めんな」
「いいべ、99点だし」
相原も、前よりずっと自然に笑った。
「これは反則だろ」
その笑いは、誰かを削る笑いではない。
ただ純粋に、同じ部屋で同じ歌を聴いて驚いたあとの笑いだ。
隆は、その空気の中で少しだけ思った。
こういうふうに、謝罪したあとにしか作れない関係もあるのかもしれない。
前に戻るのではなく、前と違う場所で、少しずつ普通を作っていく関係。
それは不器用で、遠回りで、でも本物なのだろうと。
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6.冬の入口
帰り道、外の空気はもうすっかり冷たくなっていた。
秋の終わり。
冬の気配。
六人で駅前を歩きながら、だれかがまたカラオケ行こうと言い、だれかが今度はもう少し早い時間がいいと言い、結菜が柴田の選曲をまだいじり、ひなたがそれを笑い、黒川と相原も前より自然にその輪の中にいる。
ほんの数か月前には考えられなかった光景だった。
教室の関係は、前よりずっと落ち着いている。
でも、その先には進路や将来の不安が顔を出し始めている。
相原と宮原には、“変わったあと”の次の課題がある。
隆の小説はひとつの区切りへ届き、ひなたとの関係も少しずつはっきりしてきている。
冬は、たぶんまた別のものを連れてくる。
でも今は、この秋の終わりの空気の中で、六人が同じ方向へ笑えていることだけで十分だった。




