夏休み、それぞれの宿題
第28話
夏休み、それぞれの宿題
夏休みには、学校から出される宿題がある。
ワークの残り。
感想文。
自由研究。
読書記録。
部活の課題。
でも、本当にその季節にしかできない宿題というものは、たいてい別のところにある。
自分の中へ持ち帰ったもの。
一学期の終わりに、教室からそれぞれが抱えて帰ったもの。
言えなかったこと。
謝ったこと。
赦されていないこと。
気づいてしまったこと。
誰かの言葉で、もう前の自分ではいられなくなったこと。
二年二組の生徒たちは、それぞれ違う宿題を抱えたまま夏に入っていた。
1.隆の机
三浦隆の机の上には、この夏、二種類のノートがあった。
一つは学校の宿題用。
もう一つは、小説のためのノートだった。
ひなたをモデルにした物語。
ただし、ひなたをそのまま書くわけではない。
海の日に聞いた思い出や、教室で見た強さや、笑った時の顔や、木の役が悔しかったという子どもっぽさまで、全部を混ぜて、別の名前を持ったひとりの人物にしていく。
それが思っていたより難しかった。
事実はある。
記憶もある。
でも、小説はそれを並べるだけでは立ち上がらない。
だから隆は、ノートに書いては止まり、止まってはまた書いた。
その子は、木の役だったことをまだ少しだけ根に持っている。
その一文の下に、また別の一文を書く。
でも、悔しがるその顔には、誰より自分をちゃんと見てほしいという気持ちが隠れていた。
そこでまた止まる。
「……違うな」
独り言が出る。
違う。
でも、まるで違うわけでもない。
ひなたを知ったからこそ、簡単に嘘っぽくしたくない。
でも、知っていることをそのまま写せばいいわけでもない。
その間で、隆は何度も迷った。
なぎさはそんな兄を見て、毎日のようにからかった。
「お兄ちゃん、作家先生みでぇな顔して悩んでるのぉ」
「うるせぇ」
「ひなたさんのこと考えすぎで進まねんでね?」
「違う」
「違わね」
それでも以前と違うのは、そのやり取りがきちんと笑いとして成立していることだった。
隆は、ノートの上で悩みながら、ふと思うことがある。
一学期のあの頃、自分は毎日ただ教室をやり過ごすことで精一杯だった。
今は、誰かのことを書こうとしている。
しかも、好きだと言ってくれた相手のことを。
その変化は、自分でも信じられないくらい大きい。
2.取材の続き
ひなたとは、海の日のあとも何度か会った。
図書館。
三浦家の居間。
ときには駅前のベンチ。
会うたびに、小説のためという名目で、ひなたの過去や考え方を少しずつ聞いていく。
「小っちゃい頃、いちばん怖がったごどって何だ?」
図書館の静かな机で、隆が聞く。
ひなたは頬杖をついて少し考えた。
「……忘れられるごど、がもしんね」
隆のペンが止まる。
「忘れられる?」
「んだ。別に、みんなの真ん中さ居でぇってわげでねんだげど、最初っから居ねみたいになるの、なんか嫌だった」
その言葉は、海の日の時に聞いた“木の役”の記憶ともつながっていた。
「だから、ああいう時立ったのが」
「うん?」
「教室で、ああいう時」
ひなたは、少しだけ笑った。
「そういうのもあるがもしんね」
「……そっか」
「でも、ただそれだけでねぇよ」
「うん」
「卑怯なままでいたぐねぇって、それが一番だった」
隆は、その一文をまたノートに書き留める。
ひなたの言葉には、派手さはない。
でも、どの言葉にもちゃんと重さがある。
その重さが、小説の中で少しずつ人物の骨になっていく。
一方で、ひなたの方も、“モデルにされる側”という立場にだんだん慣れてきていた。
「なぁ、今日の話、どご書ぐ?」
「まだ分がんね」
「また木の話がら始まるなや」
「木、強いがら」
「そんな強ぐねぇ」
そう言いながらも、ひなたは嬉しそうに笑う。
自分の思い出や考えが、誰かの中で別の形に生まれ直していく。
それは恥ずかしくもあり、でもやっぱり特別なことでもあった。
3.黒川の夏
黒川大河の夏は、派手ではなかった。
部活に行く。
家の手伝いをする。
友達と少しだけ遊ぶ。
学校の宿題を片づける。
表面だけ見れば、ごく普通の中学生の夏休みだ。
けれど内側では、一学期の終わりがずっと残っていた。
謝った。
でも、それで自分が“いい側”へ戻れたわけではない。
黒川はそのことを、ちゃんと分かっていた。
時々、自分でも不思議になる。
あの時なぜ、自分はそんなに軽く笑えたのか。
どうして、三浦がしんどそうにしている顔を見ても、それを“ノリ”の中へ戻せてしまったのか。
もう今は、それができない。
できなくなったからこそ、前の自分の無神経さが逆に見えてきて、嫌になる。
黒川は何度か、三浦へもう少しちゃんと話すべきかと思った。
けれど、それを急ぐのも違う気がした。
謝罪のあとに必要なのは、たぶん“言葉を重ねること”だけではない。
変わった自分でいることを、時間の中で見せることでもある。
そのことを、黒川はまだうまく言葉にできないまま、夏を過ごしていた。
4.柴田と結菜
柴田蓮斗の夏は、思っていたよりにぎやかだった。
結菜に誘われたカラオケの一件以来、結菜の友達の中で柴田の名前が妙に知られるようになってしまったのだ。
駅前でばったり会えば、
「お、Silent Jealousy」
と呼ばれる。
最初は意味が分からなかったが、すぐに気づいた。
「それやめろって!」
「いやー、あの本気具合忘れらんねもん」
「結菜から聞いだ?」
「聞いだ」
柴田は顔を赤くするしかない。
でも、そのからかいには、教室で誰かを吊るし上げていた頃の悪意はない。
そこが決定的に違っていた。
結菜もまた、その違いを分かっていた。
笑われているのに嫌じゃない。
少し恥ずかしいけれど、輪の中に入れてもらっている感じがある。
それは柴田にとって、かなり大きなことだった。
結菜との距離も、少しずつ自然になっていく。
「宿題どごまで終わった?」
「数学ワークは半分」
「遅ぇ」
「お前は?」
「英語終わった」
「うそだや」
「ほんとだもん」
そんなやり取りを重ねながら、二人は“友達から”という言葉を、ちゃんと実際の時間の中へ置き始めていた。
5.相原の夏
相原圭吾の夏は、もっと重かった。
終業式の帰り道で出会った、小学生の男の子。
乱れたランドセル。
泣き声。
「遊んでただけだし」と言った子どもたち。
あの場面は、その後も何度も頭に戻ってきた。
自分は、あの子たちに向かって、遊びのつもりでも相手がいじめられたと感じたらそれはいじめだ、と言った。
曲がり間違えば、人を傷つけ、大変な思いをさせることになる、と言った。
けれど、その言葉はまるごと少し前の自分にも返ってくる。
だから相原は、この夏、自分がどう変わるのかをちゃんと見なければいけないと思っていた。
夜、また天庄屋の番組を聴く。
ひよりの勢いのある声。
逸美の落ち着いた返し。
何気ない笑い話の中に、時々はっとするような言葉が混じる。
笑いって、軽いだけじゃない。
軽さの中で、ちゃんと人を楽にする力がある。
それを知ったあとでは、自分がしていた“からかい”がどれだけ安っぽかったかが、嫌でも見えてしまう。
ある晩、相原はノートの端に、誰に見せるでもなく一文だけ書いた。
遊びで済んでるのは、傷ついたことがない側だけだ。
書いたあと、その言葉をしばらく見つめていた。
自分の中でまだ全部整理されたわけではない。
でも、前へ戻ることだけは、もうできない。
6.宮原彩乃
そして、この夏、静かに変わり始めていたのは宮原彩乃だった。
終業式の日の帰り道。
相原が小学生のランドセルの件で立ち止まったのを、宮原は少し離れたところから見ていた。
最初は偶然だった。
たまたま帰る方向が一緒で、たまたま前方に相原の後ろ姿が見えた。
別に声をかけるつもりもなかった。
でも、泣いている男の子へ相原が駆け寄るのではなく、逃げる男子を追いかけて捕まえたところで、思わず足が止まった。
さらに、そのあと聞こえてきた言葉。
遊んでで、なんで泣いでんだよ。
遊びのつもりでも、相手がいじめられだって感じだら、それはいじめなんだよ。
宮原は、その場で少しだけ息を呑んだ。
相原は変わった。
少なくとも、前の相原なら、あれを“面倒くさいこと”として素通りしていた。
それなのに今日は、追いかけて、止めて、しかも自分の過ちまで含めるようなことを言っていた。
宮原は、その帰り道、ずっと無言だった。
家に着いても、すぐに自分の部屋へ入った。
窓を開ける。
外は夕方の色になっている。
そして、ふと思った。
あいつ、いいとこあるじゃん。
すぐに、そんなふうに思った自分に少し驚く。
前なら、相原みたいなのはただ勢いで動くタイプだと思っていた。
でも、あの背中は違った。
勢いだけじゃない。
自分がしたことを知った上で、同じことが目の前で起きかけた時に、今度は止める側へ立っていた。
それは、簡単なことじゃない。
そして次に、もっと自分に近い考えが湧いた。
自分も、このままじゃだめだ。
宮原は、教室の中でいつも“空気を読む側”にいた。
中心にいすぎず、でも外れもしない。
笑う時は笑う。
まずいと思ったら一歩引く。
その位置は、うまく生きるには便利だった。
でも、それで何が守れたのか。
自分に置き換えたら。
もし、あんなふうに何気ないやり取りがどんどん悪意のあるものへ変わっていって、教室の空気全体がひとりを追い詰めていくのを、自分が受ける側だったら。
耐えられない。
その答えは、あまりにもはっきりしていた。
耐えられない。
絶対に嫌だ。
自分が同じ立場なら、絶対に嫌だ。
だったら、どうして自分はあの教室で、あそこまで平気な顔でいられたのか。
その問いに、宮原はまだきれいな答えを出せなかった。
でも、分からないままでも、一つだけ確かなことがあった。
自分はもう、“関係ない顔”ではいられない。
あの帰り道の相原の背中が、それを突きつけてきたのだ。
7.それぞれの宿題
夏休みは、自由な時間のようでいて、実は一番自分から逃げにくい時間でもある。
学校がない。
教室がない。
毎日のチャイムがない。
だからこそ、そこへ置いてこられないものが、自分の中へ濃く戻ってくる。
隆は、ひなたの小説を書く。
ひなたは、自分が誰かの物語の中でどんな輪郭を持つのかを少し照れながら待つ。
黒川は、謝罪のあとをどう生きるかを考える。
相原は、謝ったその先で、何を選び続けるのかを試される。
結菜と柴田は、“友達から”を本当に友達の時間へ変えていく。
宮原は、ようやく自分の立ち位置の危うさへ目を向け始める。
それぞれの宿題は、ワークや読書感想文なんかより、ずっと答えが出にくい。
でも、その答えの出なさごと抱えながら、子どもたちは少しずつ次の季節へ向かっていく。




