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手をつなぐ理由  作者: リンダ


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終業式の日


第27話


終業式の日


 終業式の日の朝は、いつも少しだけ特別だ。


 教科書の重さが違う。

 机の中を整理する音が違う。

 廊下を歩く足取りが、どこか軽い。

 夏休みという言葉が、まだ始まってもいないのに、すでに空気の中へ混ざっている。


 けれど、その軽さがそのまま教室の軽さになるとは限らない。


 二年二組にとっての一学期は、最初から最後まで、ただ「早く終わればいい」と思えるような時間ではなかった。

 苦しさもあった。

 痛みもあった。

 だれかの言葉で沈み、だれかの言葉で立ち止まり、また別の言葉で少しだけ息をつなぐ、そんな季節だった。


 だから、この終業式の朝の静けさには、ただの浮つきとは違うものが混じっていた。


 教室に入った隆は、まず最初に窓の外を見た。


 空は薄く晴れていて、校庭の向こうにある木々がもうすっかり夏の色をしている。

 風はそれほど強くない。

 カーテンはゆるく揺れていて、その揺れ方までどこか落ち着いて見えた。


 少し前の自分なら、終業式の日であっても、教室へ入るだけで喉が固まっていたかもしれない。

 でも今日は、もちろん緊張がゼロなわけではないにしても、教室の空気を“最初から敵だ”とは感じていなかった。


 それだけでも、かなり大きな変化だった。


 ひなたはいつもの席に座っていて、隆が入ってくると、前より自然に目を合わせた。


「おはよう」


「おはよう」


 ひなたは少し笑って言う。


「今日で一学期終わりだの」


「んだな」


「早かったような、長がったような」


「長がった方だべ」


「んだの」


 二人とも少し笑う。


 その会話の軽さが、隆にはうれしかった。

 特別に甘い言葉を交わすわけじゃない。

 でも、海の日の一日を越えたあとで、こうして自然に話せる。


 そのことがすでに、前とは違う。



1.一学期最後の教室


 終業式前のホームルームは、いつもより少しだけざわついていた。


 机の中のものを片づける者。

 通知表の話を先に始める者。

 夏休みの予定を小声で確認し合う者。


 けれどそのざわつきは、以前の二年二組にあった“誰か一人を見物する方向”のざわつきではなかった。


 相原は今日は比較的静かだった。

 だが、その静けさは逃げの沈黙ではなく、自分の中で考え続けている者の静けさに近い。

 黒川もまた、無理に誰かへ話しかけることはないが、必要なやり取りはちゃんとしている。


 柴田は、以前より自然に教室の中へ声を流せるようになっていた。


「おい、プリント残ってっぞ」


「誰のだや」


「そこ、前の列の」


 そんな短いやり取りが、前よりずっと普通に聞こえる。


 結菜と紗良は、夏休みの宿題の話をしていた。

 ひなたもそこへ少しだけ混ざる。

 香月も、前ほど不自然な距離を取らなくなっていた。


 もちろん、全部が完全に修復されたわけではない。

 でも、“この教室の中で普通に会話が流れる”こと自体が、もう一つの成果のように思えた。


 高石正美は教卓のところで出席簿を整えながら、その空気を見ていた。


 荒れた時期を知っているからこそ、今のこの静かなざわめきの意味が分かる。

 これは、何もなかった教室のざわめきではない。

 いろんなことがあったあとで、それでももう一度普通の時間を作り直そうとしている教室のざわめきだ。


 そこへ佐伯美帆が、一度だけ扉から顔を出した。


 高石と目が合う。

 言葉はない。

 でも、その一瞬だけで、お互いが同じことを感じていると分かった。


 ここまで来た。

 まだ途中だけれど、ここまで来た。



2.高石と佐伯の見た一学期


 終業式のあと、職員室へ戻った高石は、通知表の記録を整えながら、ふっと長い息を吐いた。


「終わった……」


 半ば独り言のように漏らすと、隣の机で資料をまとめていた佐伯が少し笑った。


「まだ二学期があるわよ」


「分かってます」


「でも、まあ、一学期としては長かったわね」


 その言い方に、高石も苦く笑う。


「長かったです。ほんとに」


 佐伯は手を止めて、少しだけ真面目な顔になった。


「最初は、正直ここまで来られると思わなかった」


 高石はうなずく。


「私もです。見立てが遅れたし、最初に動いた時も、水面下へ潜る怖さばかり見てました」


「それは実際、あったからね」


 佐伯は静かに言う。


「でも、子どもたちの中から声が出たのは大きかった」


 白石ひなた。

 浅井結菜。

 柴田蓮斗。

 そして、謝罪した黒川と相原。


 教師が外から押さえつけるだけでは、教室の空気は変わらない。

 変わるためには、教室の内側の言葉が必要だった。


「三浦くんも、最初に比べれば表情が全然違います」


 高石がそう言うと、佐伯はうなずいた。


「夏休み明けが勝負ね」


「はい」


「でも、一学期の最後に“前より怖くない教室”まで来られたのは、ちゃんと意味がある」


 その一言に、高石は少しだけ肩の力を抜いた。


 教師は、すぐ結果を求めがちだ。

 けれど、教室の再生には時間がかかる。

 その時間の最初の一区切りとして、この終業式は悪くない場所まで来ている。


 それは、簡単な言葉では言い表せないけれど、確かな前進だった。



3.隆が終える一学期


 終業式が終わり、最後のホームルームで通知表や夏休みの注意が配られたあと、隆は教室の窓際に立ってしばらく校庭を見ていた。


 一学期が終わる。

 その事実を、やっと少しずつ飲み込んでいる。


 四月のころ、自分は本当に苦しかった。

 教室へ入るだけで息が詰まり、弁当の味も分からず、家へ帰っても何も話したくなかった。


 あの時の自分からすると、今こうして終業式の日の教室に立って、普通に窓の外を見ていられること自体が信じられない。


 もちろん、全部が消えたわけじゃない。

 傷ついた記憶もある。

 まだ、黒川や相原と“何もなかった顔”で話せるわけでもない。


 でも、それでも、一学期を終える今の自分は、あの春の自分とは確実に違っていた。


 家族に話した。

 なぎさが味方だと言った。

 実里と正康が動いた。

 高石と佐伯が教室を見た。

 天庄屋のラジオがあった。

 ひなたが立った。

 結菜が立った。

 柴田が立った。

 黒川が謝った。

 相原も、ようやく謝った。


 その全部が積み重なって、いまの自分がいる。


 隆は思う。


 ――この一学期は、つらかった。

 でも、ただつらかっただけじゃなかった。


 そのことを、終業式の日の光の中で初めて、少しだけ言葉にできる気がした。



4.ひなたとの海の日の余韻


 放課後、校門を出るとき、ひなたはいつもより少しだけ近い距離で歩いた。


「なんか、終わったって感じするのぉ」


「んだな」


「でも、海の日あったがら、わだしの中ではもう一学期終わる前に夏始まってだ気もする」


 隆は少し笑った。


「それは分がる」


「小説、どごまで進んだ?」


「まだ最初の方だげど、木の役のとご書いだ」


 ひなたが吹き出す。


「ほんとにそこ使うんだ」


「使う」


「悔しがってだ私、そんな印象強かった?」


「強かった」


「やだー」


 ひなたはそう言いながらも、声はどこかうれしそうだった。


 しばらく歩いてから、ひなたが少しだけ真面目な声になる。


「夏休みさ、また書ぐ日つくる?」


 隆はその問いにすぐ答えた。


「つくる」


「ほんと?」


「だって、まだ全然足りねぇし」


「じゃあ、今度は図書館にすっか?」


「んー……」


 隆は少し考えてから言う。


「図書館でもいいし、また家でもいい」


「またなぎさちゃん無双なるよ?」


「なるな」


「でも、楽しかった」


「……俺も」


 その返事は、前より少し自然に出た。


 ひなたは、それを聞いて目を細める。


「じゃあ、夏休みのどっかでまた約束だの」


「んだな」


 “また約束”。


 その一言に、終業式の日の空気が少しだけやわらかくほどけた。


 一学期が終わる。

 でも、そこで切れるわけじゃない。

 夏休みの向こうにも、ちゃんと続きがある。


 そのことが、隆にはうれしかった。



5.相原の帰り道


 一方で、相原圭吾は終業式を終え、ひとりで帰り道を歩いていた。


 通知表の入った封筒が鞄の中で少しだけ硬い。

 蝉はまだ本格的ではないが、木の上で時々先走るように鳴いている。

 アスファルトの照り返しはすでに夏の入口だった。


 相原は、この一学期をどう終わらせたらいいのか、自分でもまだ分からなかった。


 謝った。

 それはした。

 でも、それで済んだわけじゃない。


 終業式の日の教室で、みんなが少しずつ前へ進んでいるのを見ると、自分もその中に入っていかなければならないのだと分かる。

 けれど、分かることと、ちゃんと生き方を変えられることは別だ。


 そんなことを考えながら歩いていると、前方の曲がり角のあたりで、小さな泣き声が聞こえた。


 最初、気のせいかと思った。

 でも、もう一度聞こえる。


 相原は足を止めた。


 道の脇の植え込みのそばに、低学年らしい男の子がしゃがみこんでいた。

 ランドセルがひどく乱れている。

 ふたが半分開き、中のノートがはみ出して、肩ベルトも片方ねじれている。


 男の子は、鼻をすすりながら、必死にそれを直そうとしていた。


 少し離れた前方では、二人の男子が走っていくのが見えた。

 振り返って何か言っている。笑っているようにも見える。


 前の自分なら、たぶんここで立ち止まらなかった。


 自分には関係ない。

 小学生の喧嘩だろ。

 そうやって通り過ぎていたかもしれない。


 だが、その日は体の方が先に動いた。


「おい!」


 自分でも驚くくらい大きな声が出た。


 走っていく二人の男子が、一瞬だけ振り向く。


「待で!」


 相原は男の子の方へ駆け寄るより先に、逃げる二人を追いかけた。


 自分でも、なぜそうしたのかはよく分からなかった。

 ただ、あのランドセルの乱れ方と泣き声を見た瞬間、何かが許せなかった。


 角を曲がったところで、一人の肩をつかまえる。


「っ、離せよ!」


「お前ら、あの子に何やったんだ!」


 二人とも小学生だ。

 でも、顔つきには妙な強がりがある。


「別に」


「別にじゃねぇべ!」


「遊んでただけだし」


 その一言で、相原の背筋に冷たいものが走る。


 遊んでただけ。


 自分も、何度その言葉に逃げようとしたか分からない。


「遊んでで、なんで泣いでんだよ」


 相原は低く言う。


「ちょい辛がっただけだし」


 片方の男子が、口を尖らせて言い返す。


「そしたらムキになって怒ってやんの」


 その言い方は、あまりにも聞き覚えがあった。


 自分の過去の言葉が、そのまま小学生の口から出ているようだった。


 相原は、その場でしばらく息が詰まった。

 怒鳴りたい。

 でもそれだけではだめだと、今は分かる。


「……聞げ」


 二人の肩を離し、相原は少しかがんで目線を合わせた。


「遊びのつもりでも、相手がいじめられだって感じだら、それはいじめなんだよ」


 小学生二人がきょとんとする。


 相原は続けた。


「“そんなんじゃねぇし”“ちょっとしただけだし”って思ってでも、相手が泣いで、苦しくなって、家さ帰っても引きずるなら、もうそれは遊びで済まねぇんだ」


 自分の声が少し震えているのが分かった。

 でも止まらない。


「曲がり間違えば、その“遊びのつもり”が、人ば傷つけで、大変な思いさせることになる」


 二人は黙った。

 相原はその沈黙を見て、さらに言う。


「俺、それ、ほんとに最近まで分がってなかった」


 風が少しだけ吹く。

 男の子の泣き声は、少し遠くでまだ聞こえている。


「だから言うけど、今のうちにやめろ。謝れ。まだ間に合ううちに」


 小学生たちは、さっきまでの強がりを半分失っていた。


 完全に理解したわけではないかもしれない。

 でも、目の前の中学生が、本気で何かを知っている顔をしていることだけは伝わったのだろう。


「……」


「行ぐぞ」


 相原がそう言うと、二人はしぶしぶ元の場所へ戻り始めた。


 泣いていた男の子は、まだランドセルのふたを押さえたまま、ぐしゃぐしゃの顔で立っていた。


 相原は、その姿を見た瞬間、また胸の奥がざわついた。

 少し前の自分なら、この景色の意味を正しく見られなかったかもしれない。


 けれど今は違う。


 言葉も、笑いも、見て見ぬふりも、全部がその先に何を作るのかを、少しだけ知ってしまった。



6.次の季節へ


 その夕方、二年二組の生徒たちは、それぞれ別々の家へ帰っていった。


 隆は、一学期をなんとか終えた自分の実感を持ちながら。

 ひなたは、海の日の余韻と夏の約束を胸に抱きながら。

 黒川は、謝罪のあとを生きる重さを持ちながら。

 相原は、小学生に向かって言った言葉が、そのまま少し前の自分に向いていたことを感じながら。

 結菜と柴田は、これから始まる夏のやわらかい距離を思いながら。


 終業式の日は、一学期の終わりだった。

 でも、それだけではない。


 ここまでの時間をいったん自分の中へ持ち帰り、

 夏という別の季節の中で、もう一度抱え直す入口でもあった。


 二年二組の景色は、まだ完成していない。

 けれど確かに、前とは違う輪郭で、次の季節へ進み始めていた。



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