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手をつなぐ理由  作者: リンダ


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夏休み前夜



第26話


夏休み前夜


 夏休みの前というのは、不思議な時間だ。


 教室の空気が少し浮つく。

 扇風機の回る音がいつもより大きく聞こえる。

 配られたプリントの端が汗ばんだ指にくっつく。

 終業式が近づいてくるだけで、生徒たちはそれぞれ勝手に未来の予定を頭の中で膨らませ始める。


 だが、その“浮つき”の色は、学年や教室ごとに微妙に違う。


 二年二組の夏休み前は、去年までとはまるで違っていた。


 前のような雑で軽い空気は、もう戻ってこない。

 でも、重苦しいだけでもない。


 むしろ、いろいろなことがあったからこそ、今この教室にある静けさや笑いが、以前よりちゃんと輪郭を持って見える。


 夏休み前夜みたいな数日間の中で、それぞれが少しずつ、自分の“次”を持ち始めていた。



1.書き始める


 海の日のあと、三浦隆の机の上にはノートが二冊並ぶようになった。


 一冊は学校の宿題用。

 もう一冊は、ひなたの話を書きとめたノートをもとに、実際に小説を書き起こしていくためのものだった。


 最初の一行を書くまでが、一番長かった。


 机に向かう。

 ノートを開く。

 ペンを持つ。

 でも、いざ書こうとすると、ただ“白石ひなた”という名前だけでごまかすわけにはいかないと思ってしまう。


 海の日に聞いた話があまりにも生きていたからだ。


 木の役をやらされて悔しかったこと。

 雨の日の図書室の匂いが好きだったこと。

 幼い頃、祖母の庭で見た花の色。

 そして、卑怯なままでいたくないと思ったあの日の自分。


 それをただ並べるだけでは、小説にはならない。

 でも、並べなければ失うものもある。


 隆は、何度も書いては消し、消しては考えた。


 最終的に、最初の一文はこうなった。


 その子は、自分が木の役だったことを、いまだに少し悔しそうに笑う。


 そこまで書いた瞬間、ふっと息が抜けた。


 書けた。

 ようやく一行、書けた。


 たった一行。

 でもその一行は、少し前まで教室へ行くだけで精一杯だった自分が、今は誰かの人生を受け止めて書こうとしている、という証拠みたいにも思えた。


 その夜、ひなたへ短いメッセージを送る。


 書き始めた。木の役の話、最初に入れた。


 少しして、すぐ返ってくる。


 なんでそこからなんだや!

 でも、ちょっと嬉しい。


 隆は、その文面を見て自然に笑った。


 また返す。


 一番ひなたっぽかったがら


 既読がついて、少し間があく。

 それから返ってきたのは、


 ……そういうごど、急に言うなや


 という一文だった。


 画面の向こうで、ひなたが少し顔を赤くしているのが見える気がして、隆もまた、自分の頬がじわっと熱くなるのを感じた。



2.モデルにされる側


 ひなたの方もまた、この数日、妙に落ち着かなかった。


 自分が小説のモデルになる。

 しかも、ただ顔立ちや雰囲気を借りるのではなく、幼い頃の記憶や言葉、考え方まで、隆の中で“物語”へ変わっていく。


 それはうれしい。

 かなりうれしい。


 でも同時に、ものすごく照れくさい。


 放課後、結菜にその話をぽろっとしたら、すぐににやにやされた。


「へぇー、もう書ぎ始めだんだ」


「うん」


「ひなた、めっちゃ嬉しそうだの」


「そ、そんなんでね」


「顔見れば分がる」


「やめろや」


 結菜は机に頬杖をついて笑う。


「なんかいいのぉ。自分ばモデルに小説書いでもらうって」


「言い方が大げさだって」


「ほんでも、特別だべ」


 ひなたはそこを否定できなかった。


 特別。

 たぶん、そうなのだと思う。


 教室の中では、まだ全部が完全に整理されたわけではない。

 それでも、いろんなことを越えて、今こうして“自分をモデルに書いてほしい”と伝え、それを“書き始めた”と返される関係になっている。


 そのことが、たまらなく不思議で、うれしかった。


 でも、それを全部顔に出すのは悔しい。


 だからひなたは、次にメッセージが来た時も、できるだけ平静を装って返す。


 変なふうに書ぐなよ


 すると隆から、


 そこは信用しろ


 と返ってくる。


 その短いやり取りだけで、ひなたはまた少し笑ってしまうのだった。



3.終業式前の教室


 終業式の前の数日、二年二組は不思議なくらい落ち着いていた。


 もちろん、何もなかったわけではない。

 気まずさはまだある。

 黒川と隆の間にも、相原と周囲の間にも、ひなたと宮原の間にも、完全に言葉にできないものは残っている。


 でも、その気まずさは前みたいな“誰か一人を押しつぶすための空気”ではなくなっていた。


 それぞれがそれぞれの温度を抱えながらも、同じ教室で過ごすことを少しずつ覚え始めている。


 高石正美も、その変化を感じていた。


 授業中のちょっとした笑いは戻ってきた。

 でも、それが誰か一人を狙ったものではない。

 注意の回数も明らかに減った。

 何より、三浦隆の表情が、前より教室の中で固まらなくなっている。


 それが一番大きかった。


 ある日、国語の授業で短い意見交換の時間があったとき、隆は自分から二文だけ発言した。

 たったそれだけのこと。

 でも、高石にとっては、春先からの流れを思えばかなり大きな変化だった。


 黒川は、その発言のあと、前みたいに妙な顔もしなかった。

 相原も何も言わない。

 周囲も、それをただの一発言として受け止めていた。


 普通のこと。

 けれど、この教室では、その“普通”を取り戻すのにずいぶん時間がかかった。



4.黒川と相原の夏休み前


 黒川大河は、夏休みを前にして、自分の中の“終わっていないもの”をきちんと分かっていた。


 謝罪した。

 それは本心だった。

 でも、それで過去が消えたわけではない。


 夏休みに入って、学校が一度切れてしまえば、かえってそのことを考える時間が増えるのかもしれないと、黒川は思っていた。


 何もしないまま、時間だけが経つのも嫌だった。

 けれど、だからといって急に三浦と親しくなろうとするのも違う。


 謝罪のあとに生まれた距離を、どう持っていればいいのか。

 それを考えながら夏に入ることになるのだろうと、なんとなく覚悟していた。


 一方、相原圭吾の夏休み前はもっと複雑だった。


 謝った。

 泣いてしまった。

 夢を見た。

 母親の過去を知った。

 天庄屋に投稿し、番組でも紹介された。


 そこまで来ても、まだ自分が“変わった”と言い切る勇気はなかった。


 少し油断すれば、また自分の中の幼い苛立ちが顔を出すことも知っている。

 だから相原は、以前よりずっと静かになった。


 その静けさは、反省しているようにも、元気がないようにも見える。

 実際、その両方だった。


 夏休みは、誰かと騒ぐ時間になるのか、それとも自分がやったことをもう一度考え直す時間になるのか。

 相原にはまだ分からなかった。



5.カラオケ


 そんな中、浅井結菜は約束どおり柴田蓮斗をカラオケに誘った。


 休日の午後。

 駅前のカラオケ店。

 柴田は内心、少しだけ期待していた。


 友達から。

 そう言われたのは覚えている。

 でも、それでもどこかで、二人で行くのではないかという淡い期待はあったのだ。


 ところが待ち合わせ場所へ行くと、結菜の隣には女子が二人立っていた。


「お待たせー」


 結菜が手を振る。


 柴田は一瞬止まる。


「……あ、ああ」


 その顔を見て、結菜がすぐに笑う。


「二人で行ぐと思ったやろ」


「いや、別に」


「思った顔してる」


 隣にいた女子の一人が、にやっと笑う。


「この人が柴田くん?」


「んだ。紹介するって言ったべ」


「へぇー」


 もう一人も、興味津々という顔で柴田を見る。


 その瞬間、柴田は悟った。

 これはただのカラオケではない。

 結菜の“友達へのお披露目”だ。


 個室に入るなり、質問が飛ぶ。


「結菜のどこが好きなの?」

「いつから?」

「どういうきっかけ?」

「え、でも最初から結菜にバレでだんでね?」


 柴田は、歌う前に腹筋が痛くなり始めていた。


「いや、ちょ、待で」


「待だね」


「順番に頼む」


「じゃあ順番に聞ぐがら」


「意味一緒だって!」


 結菜は横で笑っているだけだ。

 助ける気があるのかないのか分からない。


「柴田って、普段こんな感じなんだ」


「もっと静かな人だと思ってだ」


「今は追い詰められでるがら」


「追い詰めたのお前らだべ!」


 そのやり取りだけで、もう笑いすぎて腹筋が痛い。


 ようやく最初の曲を入れる段になって、柴田は「じゃあ俺から」と勢いでデンモクを取った。

 緊張をごまかしたかったのだろう。


 そして選んだのが、なぜかX JAPANのSilent Jealousyだった。


 結菜が目を丸くする。


「え、そこ行ぐ?」


「いや、なんとなぐ」


「なんとなぐで行ぐ曲でねぇって」


 ところが、歌い始めると柴田は意外にも上手かった。

 いや、上手いというより、やたら本気だった。


 高音で少しひっくり返りそうになりながらも、全力で歌う。

 歌い終わった頃には、自分でもどこまで力を入れていたのか分からないくらい消耗していた。


 最後の音が切れたあと、柴田はマイクを持ったまま、しばらく天井を見ていた。


 放心状態。


 結菜が、笑いをこらえながら顔をのぞきこむ。


「おーい」


 返事がない。


「大丈夫け?」


 柴田はようやく、ゆっくりと顔を向けた。


「……今、もう腹筋も喉も全部終わった」


 結菜の友達二人が一斉に吹き出す。


「なにその感想!」

「めっちゃ本気で歌ってだじゃん!」


 結菜もとうとう笑い出した。


「柴田、最初っからクライマックスすぎるって!」


「だって、なんかもう、流れ的に……!」


「どういう流れだや」


「分がんねぇけど、とにかく分がんねぇ!」


 そのぐだぐだしたやり取りの中で、結菜はふと思った。


 友達から。

 そう言ったのは本当だ。

 でも、こうやって自分の友達に柴田を見せて、一緒に笑っている時間は、思っていたよりずっと自然で、悪くなかった。


 柴田もまた、丸裸にされて腹筋が痛くなり、歌い終わって放心しながら、結菜が自分をちゃんと友達の輪の中へ入れようとしてくれていることに気づいていた。


 それだけで、来てよかったと思えた。



6.夏休み前夜


 終業式前最後の数日。

 二年二組は、ようやく“夏休みに入る教室”の顔をし始めていた。


 まだ全部がきれいに片づいたわけではない。

 でも、だからといって前のままでもない。


 隆は、家で少しずつひなたの小説を書き進めている。

 ひなたは、モデルにされることを照れながらも楽しみにしている。

 黒川は、謝罪のあとを生きるしかないと知っている。

 相原は、まだ揺れながらも、自分のしたことの“その後”から逃げないようにしている。

 結菜と柴田は、笑いながら少しずつ距離を作り始めている。

 なぎさは相変わらず無双している。


 夏休み前の学校というのは、本来ならただ浮ついて終わるものかもしれない。

 でも今年の二年二組にとっては、もう少し違う意味を持っていた。


 ここまでのことを、いったんそれぞれの家へ持ち帰る季節。

 教室の外で、自分の言葉や行動を抱え直す時間。

 そして、戻ってきた時に“少し違う自分”でいられるかを試される季節。


 その入口に、彼らはようやく立っていた。



次はこのまま

**第27話「終業式の日」**として、


* 一学期最後の教室の空気

* 高石と佐伯がこの学期をどう見ているか

* 隆が一学期を終える時の実感

* ひなたとの海の日の余韻と、夏休みの約束の続き


まで、自然につなげられる。

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