海の日、午前十時
第25話
海の日、午前十時
海の日の朝は、思っていたよりずっと明るかった。
目が覚めた瞬間、カーテンの隙間から差し込んでくる光が白く強くて、隆は一度だけ布団の中で目を細めた。
起きなければならない時間より少し早かったが、二度寝する気にはなれなかった。
今日は十時に迎えに行く。
海の日。
ひなたが家に来る日。
その事実が、目を覚ました瞬間から胸の奥にあった。
枕元の時計を見る。
まだ七時台。
早すぎる。
そう思うのに、もう眠れない。
布団を出て顔を洗い、鏡の前に立つ。
寝癖を直して、髪を整える。
一度離れて、また鏡を見る。
その様子を、ちょうど廊下を通ったなぎさが見逃すはずもなかった。
「お兄ちゃん、朝がら気合い入りすぎだっけ」
「うるせぇ」
「まだ七時だよ?」
「知ってる」
「ひなたさん来るがらって、髪いじりすぎでね?」
「いじってねぇし」
「今、三回目だろ」
「見でんじゃねぇよ」
なぎさは、兄をからかうとき特有の、妙に勝ち誇った笑みを浮かべた。
「今日、絶対面白ぐなるのぉ」
「お前は静がにしてろ」
「やだ」
「やだじゃねぇ」
「だって、ひなたさんも来るし、わだしも混ざるし」
そこへ、台所から実里の声が飛んできた。
「なぎさ、朝ご飯運ぶの手伝って」
「はーい」
返事はしたものの、なぎさは兄の顔をもう一度見て、にやっとした。
「迎え行ぐ前に、顔真っ赤になって倒れんなよ」
「なるが!」
なぎさは笑いながら台所へ走っていった。
朝食の席でも、隆はどこか落ち着かなかった。
味噌汁の湯気の向こうで、実里はその様子を面白がり半分、心配半分で見ている。
正康は新聞を読みながらも、時々ちらりと息子の顔を見ていた。
「十時に迎えだっけ?」
正康が聞く。
「ん」
「余裕持って行げよ」
「分がってる」
実里が笑う。
「余裕持ちすぎで、今がらもう落ち着がねんだべ」
「……そうでもねぇし」
「そうでもある」
なぎさが即座に被せる。
「今日はひなたさん来るがら、わだし、おやつ何出すがもう決めでる」
「お前の会じゃねぇがらな」
「うるさい。今日はわだしも主催者みでぇなもんだ」
「何の主催だや」
「ひなたさん歓迎会」
「勝手に作んな」
そんなふうに騒ぎながらも、家の空気はやわらかかった。
少し前まで、朝の食卓には重たい沈黙ばかりが残っていた。
それを思うと、このどうでもいい言い合いがどれだけありがたいか、隆は心のどこかでちゃんと分かっていた。
九時四十五分。
隆は家を出た。
夏の入口の空気はもうはっきりしていて、日差しは強いが、真夏ほど重たくはない。風がまだ少し残っている。
駅前へ向かう道を歩きながら、隆は何度も心の中で確認する。
変に気取らない。
普通に迎えに行く。
今日は取材の日。
小説のために、ひなたのことを聞く日。
そう思っていても、待ち合わせ場所に立つひなたを見つけた瞬間、全部が少しだけ飛んだ。
白い半袖のブラウスに、薄い水色のスカート。
髪は肩のあたりでやわらかく揺れていて、制服姿の時よりずっと涼しげだった。
日差しの中にいるひなたは、教室の中で見るのとはまた違う輪郭を持っていた。
ひなたの方が先に気づいて、手を小さく振る。
「おはよう」
「……おはよう」
近づいていきながら、隆は自分の声が少しだけ遅れたことに気づいた。
「何だや、その顔」
ひなたが笑う。
「別に」
「別にじゃねぇ顔だっけ」
「うるせぇな」
「迎え、ちゃんと来たのぉ」
「来るっつったべ」
「偉い偉い」
「子ども扱いすんな」
ひなたは楽しそうに笑った。
それだけで、隆の緊張は少しだけほどけた。
二人で並んで歩く。
ひなたは道すがら、駅前に新しくできたパン屋の話や、昨日見たテレビのどうでもいい話をした。
その話し方が自然で、隆も少しずつ“今日は特別な日すぎるわけじゃなく、ちゃんと今日という日だ”と思えるようになった。
家の前まで来ると、玄関のドアが勢いよく開いた。
「ひなたさーん!」
なぎさだった。
「来でけでありがどー!」
「なぎさちゃん、おはよう」
「おはよう! ささ、入って入って!」
「おい、家主より前出んな」
「うるさい、今日はわだしが副主催だがら」
「副主催って何だや」
ひなたはもう笑いをこらえきれていない。
玄関を上がるなり、実里が顔を出した。
「いらっしゃい、ひなたちゃん」
「お邪魔します」
「今日はゆっくりしてっての」
「ありがとうございます」
家の中へ入ると、なぎさはもう完全にひなたの隣を自分の定位置に決めていた。
麦茶を出す。
座布団を持ってくる。
隆が言わなくてもいいことまで勝手に言う。
「ひなたさん、今日はお兄ちゃんの小説の資料の日なんだげど、わだしも補足説明できるがら」
「お前に何の資料があんだや」
「お兄ちゃんの恥ずかしい過去」
「それは資料じゃねぇ!」
「でも、幼少期の情報は大事だべ?」
ひなたが横で大きく頷く。
「大事だの」
「お前まで!」
なぎさとひなたは、もう最初から同盟でも組んだみたいな呼吸で笑い合っていた。
最初の一時間は、ほとんど取材というより、なぎさの乱入込みの雑談だった。
ひなたの家族のこと。
幼い頃に好きだった絵本。
祖母の家の夏祭り。
小学校低学年のころ、雨の日に長靴の中までびしょ濡れになって怒られたこと。
最初に「文学」とか「物語」という言葉に惹かれたきっかけ。
図書室の匂いが好きだったこと。
隆はノートを取りながら、その話の奥にある“ひなたらしさ”を探っていた。
ひなたは話すのがうまかった。
大きな事件のように話さなくても、ひとつひとつの記憶にちゃんと温度がある。
「小学校の二年の時な」
「うん」
「学芸会で、わだし木の役やったんだ」
「木?」
「んだ。しかもセリフ一つもね」
「それ、どうやって覚えてんだよ」
「悔しかったがらだべ」
「悔しいのかよ」
「悔しいよ、木だよ?」
そこでなぎさが割って入る。
「木でも主役級の木もあるよ」
「どんな木だや」
「風で揺れるたびに感情表現する木」
「うるせぇ」
ひなたは腹を抱えて笑う。
そして、笑いが落ち着いてから、ふと真面目な顔になる。
「でもその時にね、先生が“木でもそこに立ってる意味あるんだよ”って言ってくれたんだ」
隆の手が止まる。
ひなたは続ける。
「その時は意味分がんなかったけど、今思えば、ああいう言葉って残るんだなぁって」
その一言に、隆は静かに頷いた。
残る言葉。
人を支える言葉。
この教室のことを書こうとするなら、その逆側にあるもの――人を生かす言葉――も、ちゃんと書かなければいけない。
そんな感覚が、ノートの上で少しずつ形になっていった。
昼を過ぎても、取材は終わらなかった。
実里が昼食を作ってくれ、四人で食べる。
なぎさは途中から完全に“ひなたのお気に入りポジション”を確保し、隣に座って何かと世話を焼いていた。
「ひなたさん、トマト食べる?」
「食べるー」
「お兄ちゃん、ひなたさんのコップ空いでる!」
「お前が気づいだならお前が入れろや」
「わだし忙しいがら」
「何が忙しいだや」
「ひなたさん係」
「勝手に係つくんな」
食後、なぎさが持ってきたのは、今度は自分の持ち物だった。
アクセサリーの箱。ヘアピン。リップクリーム。雑誌の切り抜き。
「ひなたさん、見で。これ、今度友達どブラ買いいぐ時の候補」
隆はノートを書きながら、最初その言葉を聞き流しかけた。
「……何会?」
「ブラ会」
「……は?」
ひなたが普通に答える。
「ブラ見に行ぐ会だっけ」
なぎさも当然の顔で頷く。
「んだ。成長期だがら大事なんだよ」
その瞬間、隆の頭の中で、よくない想像が勝手に走った。
女同士。
下着売り場。
なぎさとひなた。
妙に具体的な映像が、ほんの一瞬で脳内に流れ込んでくる。
「……っ」
思わず変な咳が出る。
ひなたがぴたりと動きを止めて、隆を見る。
「隆くん」
「な、なに」
「なんか今、変なごど想像してたやろ?」
「してねぇし!」
なぎさも、兄の顔を見て、即座に言う。
「うん、あれはかなりやばいごど考えでる目だ」
「してねぇって!」
「してる」
ひなたが笑いをこらえながら追い打ちをかける。
「顔、真っ赤だよ?」
「暑いがらだ!」
「急に?」
「夏だがら!」
「海の日だがら?」
「そうだよ!」
なぎさは、もう耐えきれずに床を叩いて笑い始めた。
「ひなたさん、見だ!? 今の!」
「見だ見だ、めっちゃ分がりやすい!」
二人の笑い声が部屋に響く。
隆は耳まで真っ赤になりながら、ノートを閉じて背を向けた。
「……もう取材やめる」
「だめー」
なぎさが即答する。
「作家先生、資料不足で終わるよ?」
ひなたも笑いながら言う。
「そうだよ。モデルの人生、まだ全然半分も話してねぇ」
「お前らなぁ……」
口ではそう言っても、隆自身、久しぶりにこんなふうに家の中で大笑いする空気の真ん中にいることが、どこか信じられないくらいだった。
少し前まで、この家の中には重たい沈黙ばかりがあった。
今は、なぎさとひなたが組んで、容赦なく自分をからかっている。
そして、自分もそれに本気で傷ついてはいない。
そういう笑いが、ちゃんと家の中へ戻ってきている。
午後の光が傾き始めても、取材は終わらなかった。
隆のノートはかなりのページ数になっていた。
幼い頃の思い出。
家族との距離感。
好きな本。
嫌いだったこと。
悔しかった記憶。
誰かの一言で救われたこと。
自分が怒った時、どういう顔になるか。
泣く時は人前で泣きたくないこと。
小さな負けず嫌い。
そして、教室であの日立ち上がった時の、自分でも知らなかった強さ。
「その時、何考えでだ?」
隆が聞く。
ひなたは、少しだけ考えてから答えた。
「卑怯なままでいたぐねぇって、それだけだった」
その言葉を、隆は丸ごとノートに写した。
それは、たぶんこの小説の芯になる言葉だった。
気づけば夕方が近かった。
窓の外の光が柔らかくなり、部屋の空気も昼間の熱から少しずつ落ち着いていく。
実里が「そろそろひなたちゃんのお家も心配する時間だよ」と言って、ようやく取材の一区切りがついた。
ひなたは、少し伸びをして言う。
「いやー、喋ったのぉ」
「ほんとだ」
隆はノートの束を見ながら、小さく息を吐く。
「こんなに聞けると思わねがった」
「わだしもこんなに喋ると思わねがった」
なぎさがすぐに口を挟む。
「わだしの貢献度もかなり高いよの」
「高すぎてうるさかった」
「褒め言葉だな」
「褒めでねぇ」
ひなたが笑う。
「でも、なぎさちゃん居でよがったよ」
「ほれ見ろ!」
「お前、完全に調子乗るな」
なぎさは得意げに胸を張った。
「ひなたさん、今度ほんとにブラ会つきあっての」
「いいよー」
「やった!」
「……行ぐんだ」
思わず漏れた隆の声に、二人が同時に振り向く。
「なにその顔」
「また変なごど想像したべ」
「してねぇって!」
「顔見れば分がる」
「分がらねぇよ!」
二人はまた大爆笑した。
その笑いを聞きながら、隆はもう反論する気力もなく、ただ顔を赤くしたまま苦笑いするしかなかった。
帰り際、玄関まで見送った時、ひなたは小さな声で言った。
「今日、すごく楽しかった」
「……俺も」
「小説、楽しみにしてる」
「ちゃんと書ぐ」
「うん。ひなちゃんモデルでな」
最後だけ、わざと確認するみたいに言う。
隆は、少し照れながら言った。
「……ひなちゃん、な」
ひなたは嬉しそうに笑ってから、手を振って帰っていった。
その背中を見送りながら、隆はノートを抱えたまま思った。
今日一日で、ひなたの輪郭は前よりずっと深く、自分の中へ入ってきた。
教室で強く立つ彼女だけじゃない。
幼い頃の記憶を笑って話すひなた。
木の役が悔しかったと本気で言うひなた。
なぎさと一緒になって自分をからかって笑うひなた。
そういう全部を知ったからこそ、書けるものがある気がした。
夏はまだ始まったばかりだ。
でも、その入口で、隆はようやくひとつ、自分の手で何かを作り始められるところまで来ていた。
火曜、学校へ行けば、また教室がある。
でも、海の日の一日を挟んだあとでは、その教室も少し違って見えるかもしれなかった。
人は、苦しい場所だけで生きているわけではない。
笑える場所や、約束のある時間や、誰かの人生を丁寧に聞く午後があるから、また戻っていける。
そのことを、隆はこの海の日に、ようやく身体で知ったのだった。




