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手をつなぐ理由  作者: リンダ


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夏の入口

第24話

夏の入口


 夏は、急に始まるわけではない。


 ある朝いきなり空が真夏の青になるわけでも、教室の窓から吹いてくる風が一瞬で変わるわけでもない。

 ただ、少しずつ日差しの色が変わり、夕方が長くなり、制服の襟もとに入る空気の温度がゆるんでいく。


 気がつけば、もう次の季節がすぐそこまで来ている。


 二年二組もまた、そんなふうに少しずつ変わっていた。


 劇的にすべてがよくなったわけではない。

 まだ、気まずさは残る。

 謝った者と謝られた者の距離。

 声を上げた者と、黙っていた者のあいだの温度差。

 そして、自分のしたことの“あと”をどう生きればいいか分からない者たちの沈黙。


 けれど、その沈黙は、もう前のような冷たさだけではなかった。


 誰かを削るための空気ではなく、

 それぞれが、どう次の季節へ進むのかを探っている空気へ変わり始めていた。


1.海の日の約束へ


 海の日まで、あと数日。


 約束をしたその日から、隆は妙に落ち着かなかった。


 教室ではなるべく普通にしている。

 ひなたも同じだった。

 「おはよう」と言う。

 休み時間に少し話す。

 帰り道が一緒になる日もある。


 でも、その普通の会話の奥に、確かに“海の日”がある。


 ひなたが家に来る。

 自分が迎えに行く。

 小説のために、幼い頃の話を聞く。

 ――いや、たぶんそれだけでは済まない。


 そう思うたびに、胸の奥が少しだけそわついた。


 ひなたの方も、平気そうに見えて、やはり時々ふっと照れたような顔をした。

 それがまた隆を落ち着かなくさせる。


 金曜の放課後、校門を出たところで、ひなたが言った。


「海の日、ほんと迎え来るんだよの?」


「行ぐっつったべ」


「寝坊すんなよ」


「しねぇよ」


「怪しいのぉ」


「お前なぁ」


 ひなたはくすっと笑って、少しだけ肩を寄せるように歩いた。


「ほんでも、楽しみだの」


 その一言が、隆には思いのほかまっすぐ入った。


「……俺も」


 そう返すと、ひなたは少しだけ目を丸くしてから、うれしそうに笑った。


2.気まずさの残り方


 教室が少し落ち着いてくると、逆に見えてくるものもあった。


 前なら、ずっと張りつめた恐怖の中に埋もれて見えなかった細かな感情。

 今は、それが少しずつ輪郭を持ち始める。


 黒川大河は、相変わらず以前のような軽さでは話しかけてこない。

 だが、完全に避けるわけでもない。


 プリントを回すとき。

 班で器具を動かすとき。

 必要な場面でだけ、短く、余計なことを言わずに関わる。


「これ、そっち置ぐ」


「……ん」


「ノート、先生持ってけってよ」


「わがった」


 それだけのやり取り。

 でもその中には、前までの乱暴さはない。


 隆にとっては、その変化がありがたくもあり、同時に少し居心地悪くもあった。


 やさしくされたからすぐ平気になるわけじゃない。

 でも、前のように刺されないことに、身体の方がほっとしてしまう。


 その“ほっとしてしまう自分”に対して、少しだけ後ろめたさを感じる瞬間もある。


 黒川の方もまた、ぎこちなかった。


 謝った。

 でも、だからといって“じゃあ普通に戻ろう”とはとても言えない。

 前みたいに笑えない。

 前みたいに気軽に話せない。

 それでも同じ教室で過ごさなければならない。


 それは、謝罪のあとにしかない種類の気まずさだった。


 相原圭吾も同じだった。


 彼は以前より静かになった。

 教室で声を荒げることも、誰かを半端に煽ることも、ほとんどなくなった。


 でも、その静けさは平穏というより、“どう生きればいいかまだ分からない静けさ”に近かった。


 自分のしたことの重さに気づいた。

 母親の過去も知った。

 被害者家族の体験談も読んだ。

 天庄屋へ投稿し、言葉を返された。


 それでも、だからどう明日から振る舞えばいいのかは、まだ完全には分からない。


 そういう時間を、相原は一人で抱え始めていた。


3.その後のやさしさ


 けれど、落ち着いてきた教室には、前にはなかったやさしさも少しずつ戻ってきていた。


 それは大げさなものではない。

 わざとらしい仲直りでもない。


 ただ、誰かが困っていたら、すぐにそこを笑いに変えない。

 誰かが話しているとき、その言葉を最後まで聞く。

 それだけのことだ。


 たとえば、音楽の授業で歌のパート分けがあったとき、以前なら声変わりをからかうような笑いがどこかで起きていたかもしれない。

 でもその日は、だれもそんな方へ流れなかった。


 体育の時間、走るのが遅れた女子がいても、前なら誰かが半分面白がるように声をかけていたかもしれない。

 でも今は、「だいじょうぶ?」の方が先に出る。


 そんな小さな変化が、教室の中へ少しずつ戻ってきていた。


 それは、高石と佐伯がずっと願っていた“普通のやさしさ”だった。


 何か立派なことをしろというのではない。

 ただ、人を消費する方へ流れないこと。

 笑いに変えて終わらせないこと。


 教室の空気は、それだけで少しずつ変わる。


4.なぎさ無双


 そして海の日の朝。


 隆は本当に九時半には家を出る準備を終えていた。

 これには自分でも少し驚いた。


 鏡の前で髪を整えていると、背後からなぎさが現れる。


「お兄ちゃん、気合い入りすぎでね?」


「うるせぇ」


「その髪、三回目だろ」


「見でんじゃねぇよ」


「見えるもん」


 なぎさはにやにやしながら、兄の顔をのぞきこむ。


「ひなたさん来るがらって、朝がらそわそわしすぎだっけ」


「してね」


「してる」


 そこへ実里が台所から声を飛ばす。


「隆ー、迎え行ぐなら水筒持ってげー。暑ぐなるがら」


「んー」


 なぎさがすぐに続ける。


「あと、ひなたさん来だら、わだしも一緒にいっぺしゃべるがらの」


「お前はしゃべらねぐていい」


「やだ」


「やだじゃねぇ」


 なぎさは得意げに胸を張る。


「女同士で面白いごどあるがもしれねって、ひなたさんも言ってだがら」


 その一言に、隆は言い返せなくなった。


「……あれ本気にしてだのかよ」


「当たり前だろ」


「最悪だ……」


 けれど、その“最悪”の中に、本気の嫌さはほとんど混じっていない。

 それが今の三浦家らしかった。


 十時少し前、隆は家を出て、ひなたを迎えに行った。


 待ち合わせ場所へ着くと、ひなたはもう来ていた。

 白っぽいブラウスに、夏らしい軽いスカート。制服姿しか見慣れていなかった隆は、一瞬だけ本当に言葉を失った。


「……早ぇな」


 ひなたが笑う。


「迎え来るって言ったがら、こっちも遅れらんねべ」


「……そだな」


「何、その顔」


「いや、別に」


「別にじゃねぇ顔だっけ」


 ひなたは楽しそうに笑う。

 その笑い方を見て、隆もようやく少し落ち着いた。


 並んで家へ向かう途中、ひなたが言う。


「なんか緊張してる?」


「してね」


「してる」


「お前となぎさで今日はたぶん騒がしぐなるがら、それ思ってだだけ」


「なにそれ、もうあきらめでるの?」


「半分ぐらいな」


「正解だの」


 そう言って笑うひなたに、隆も少しだけ笑った。


 家に着くと、予想通り、なぎさが玄関まで飛び出してきた。


「ひなたさーん!」


「なぎさちゃん、こんにちは」


「来でけでありがどー!」


「いやいや、こっちこそだよ」


 その瞬間から、完全になぎさ無双が始まった。


 ひなたを居間へ引っ張る。

 冷たい麦茶を自分が出すと言い張る。

 アルバムを持ってくる。

 「隆のちっちゃい頃の写真見る?」と勝手に言い出す。


「おい、やめろ!」


「なんでだや、資料だろ資料」


「資料じゃねぇ!」


 ひなたはソファで笑い転げる。


「見たい見たい」


「ひなたまで乗るな!」


「だって、小説のモデル取材なんでしょ?」


「そうだけど、そうでねぇ!」


 実里まで台所で笑っている。

 完全に、ひなたとなぎさが組んで、隆がいいようにされる構図が出来上がっていた。


 なぎさはアルバムを開きながら言う。


「これ、幼稚園の時。泣いでる」


「見せんな!」


「これ、小学校の運動会。転んでる」


「やめろって!」


「これ、七五三。顔、すましてで生意気」


 ひなたは腹を抱えて笑いながら言う。


「隆くん、昔っから隆くんだのぉ」


「どういう意味だや」


「なんとなぐ分がるべ?」


「分がんねぇよ!」


 そのやり取りの中で、家の中には久しぶりに素直な笑い声が長く残っていた。


 笑いは、誰かを落とすためのものじゃなくても、ちゃんと成立する。

 その当たり前のことが、今日は三浦家の中でひどくあたたかく感じられた。


5.小説のための時間


 一段落してから、ようやく本来の目的――ひなたをモデルにした小説のための話――が始まった。


 なぎさは最初「わだしも聞ぐ!」と主張したが、実里に「ちょっと買い物つきあって」と連れ出されて、しぶしぶ退場した。


 それでも去り際に、


「あとで内容教えでの!」


 としっかり言い残していった。


 居間が静かになる。


 さっきまであんなに騒がしかったぶん、その静けさに二人とも少しだけ照れた。


 ひなたが先に口を開く。


「……なんか、急に静かだの」


「だな」


「なぎさちゃん、すごい」


「すごすぎる」


 二人で少し笑う。


 それから、隆はノートを開いた。


「じゃあ……生まれた時がらでいい?」


「いいよ」


「最初の記憶って、なんかある?」


「うーん……」


 ひなたは少し考えてから、ぽつりぽつりと話し始めた。


 幼稚園のころ、冬に手袋を片方なくして泣いたこと。

 小学校一年のとき、発表会で緊張して声が出なくなりそうだったこと。

 祖母の家の庭で見た夏の花。

 雨の日の図書室の匂いが好きだったこと。


 話を聞きながら、隆はきちんとメモを取る。

 でも時々、メモを取るふりをしながら、ひなたの横顔を見てしまう。


 自分のことを“本当に好き”だと言った人が、今ここで、自分にだけ話している。

 その事実が、まだ少し現実離れしていた。


 ひなたが不意に笑う。


「なに」


「いや」


「いま、ちゃんとメモ取ってるふりして、ちょっとぼーっとしたべ」


「してねぇ」


「してた」


「うるせぇな」


「作家先生、集中してけろ」


 その言い方がやさしくて、隆は少しだけ照れ笑いを浮かべた。


6.土曜のラジオと月曜の道徳


 その土曜の夜も、二人はそれぞれ家で天庄屋のラジオを聴いた。


 『ウィークエンド爆笑イブニング』では、いつものように方言丸出しのやり取りが飛び交う。

 でも、その日のコーナーのひとつで、ひよりがぽつりと言った。


「笑いってさ、元気な時だけのもんでねんだよの」


 逸美が返す。


「んだな。苦しい時に、ちょっと呼吸できる場所になるのが、本物だと思う」


 さらにひよりが続ける。


「あと、人を笑わせる人って、結局、人をよぐ見でるんだよ。ばかにするためでなくて、“ここでこう言ったら楽になる”って方ば探してる」


 その言葉が、その週末のラジオ全体の芯みたいに残った。


 月曜日。


 高石は道徳の時間に、珍しく最初からラジオ番組の話を持ち出した。


「土曜日、天庄屋さんのラジオを聴いた人いますか」


 二年二組だけでなく、学年でもかなり手が挙がる。


 高石はうなずいた。


「今日は、“あの二人が大事にしているもの、大事にしていること、なぜあれだけの人気を保てるのか”を考える時間にします」


 教室が少しざわつく。

 だが、嫌なざわつきではない。


 高石は黒板に三つの言葉を書く。


 笑い

 言葉

 信頼


「この三つを手がかりに、考えてみてください」


 班ごとに小さく話し合いが始まる。


 結菜が言う。


「やっぱ、人をばかにしね笑いだがらだど思う」


 ひなたが頷く。


「んだ。方言も失敗談も、自分たちのこととして出してる」


 柴田が少し離れた男子の班で言う。


「あと、ちゃんと本気の話する時は本気だんだよな」


 黒川も、静かにそれに乗る。


「言葉に責任持ってる感じする」


 相原は少し黙ってから、低く言った。


「……人の痛みば、笑いに変えねからじゃね」


 その一言に、班の空気が止まる。

 でも、それを変に避ける者はもういなかった。


 高石が最後に全体へ聞く。


「なぜ人気を保てるのか」


 ひなたが手を挙げる。


「人を見下さねで、言葉ば大事にしてるがらだと思います」


 少し間を置いて、結菜も言う。


「苦しい時に聴いでも、置いでいがね感じするがらだと思います」


 さらに柴田。


「笑わせる側なのに、ちゃんと痛い話がら逃げねがら」


 そして、少し迷ったあと、相原が言った。


「……信頼できるがらだと思います。言葉ば、間違った方さ使わねって」


 教室は静かだった。

 でも、その静けさは、以前とは全く違っていた。


 誰か一人を見物する空気ではない。

 同じ言葉を、それぞれの立場で受け止めようとしている静けさだった。


7.次の季節へ


 海の日の約束。

 天庄屋のラジオ。

 道徳の時間の話し合い。

 少しずつ落ち着きを取り戻す教室。

 そしてまだ残っている、謝罪のあとのぎこちなさ。


 全部を抱えたまま、二年二組は夏休み前の空気へ近づいていた。


 前みたいな教室には戻らない。

 でも、戻らないからこそ見えてくるやさしさもある。

 気まずさも、後悔も、照れも、全部が次の季節の入口に立っている。


 隆は、放課後の窓の外を見ながら思った。


 夏休みは、ただ学校が休みになる時間じゃない。

 この教室が少しずつ変わってきたことを、自分たちがそれぞれ別の場所で抱え直す時間なのかもしれない。


 そして海の日には、ひなたが家に来る。

 約束した。

 朝十時に迎えに行くと。


 その約束が、いまはとても遠くて、でも確かに楽しみな未来として胸の中にあった。


 景色は、少しずつ変わる。

 それは教室の中だけじゃない。

 人の心の見え方も、言葉の重さも、少しずつ変わっていく。


 二年二組は、ようやく“次の季節”へ向かう入口に立っていた。

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