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手をつなぐ理由  作者: リンダ


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放課後の約束

 第22話

 放課後の約束


 教室の空気が少し変わり始めたあと、最初にやって来るのは平穏ではない。


 むしろ逆だ。


 これまで曖昧にしてきたものが、少しずつ輪郭を持ち始める。

 誰が何をしたのか。

 誰が黙っていたのか。

 誰が笑っていたのか。

 そして、誰がその空気に乗って、自分は安全な場所にいるつもりでいたのか。


 前へ進むためには、その曖昧さをもう一度ほぐさなければならない。


 二年二組は、相原圭吾が涙を流して謝った翌日から、表面だけ見ればほんの少し落ち着いていた。


 露骨な一言は減った。

 小さな囁きや、誰か一人を見物するような笑いも、前よりは薄くなった。


 でも、それで全部が片づいたわけではない。


 むしろ、“自分たちは中心じゃなかった”と思っていた者たちの中に、別の反発が静かに溜まり始めていた。


 1.隆とひなた


 白石ひなたに告白されてから最初の朝、隆は家を出る直前まで落ち着かなかった。


 いや、正確には、落ち着かないのに、それが嫌な感じではないことに余計戸惑っていた。


 私、隆くんのこと、本当に好きだから。

 私のことをモデルに、小説書いてほしいなって。


 昨日の帰り道、ひなたがそう言った時の顔が、頭から離れない。

 強くて、まっすぐで、でも最後の方だけ少し照れていた顔。


 それを思い出すたび、胸の奥がくすぐったくなる。

 同時に、“どうすればいいんだ”という戸惑いも押し寄せる。


 なぎさはそんな兄の様子を、朝から面白がる気満々だった。


「お兄ちゃん、顔ちがう」


「何が」


「なんか、ちがう」


「うるせえよ」


「ひなたさんのこと考えでだんでね?」


 隆は味噌汁を吹きそうになった。


 実里が「なぎさ」と軽くたしなめるが、声の端には笑いが混じっている。

 正康だけは新聞を読んでいたが、その向こうで口元が少しだけ動いた。


「放っとけよ」


 そう言った隆の声は、前みたいな尖った声ではなかった。

 それが自分でも分かって、少しだけ照れくさくなる。


 学校へ向かう途中も、ひなたと会ったらどういう顔をすればいいのか、よく分からなかった。

 前みたいに普通に話せるのか。

 向こうはどういう顔をしてくるのか。


 けれど教室で顔が合ったとき、ひなたはほんの少しだけ頬を赤くして、それでも先に小さく「おはよう」と言った。


「……おはよう」


 隆も返す。


 それだけ。

 でも、その“それだけ”の中に、昨日までとは違う柔らかい空気が混じっていた。


 すぐに何かが決まるわけじゃない。

 でも、二人のあいだには、もう前にはなかった約束みたいなものが生まれていた。


 ちゃんと言葉にしたこと。

 ちゃんと受け取ったこと。

 それをなかったことにはしない、という約束だ。


 2.相原の謝罪のあと


 相原が謝ってから、教室は確かに少し落ち着いた。


 中心にいた二人――黒川と相原――が、自分のしたことを認めたことで、“やっていた側”の空気は前みたいにもう広がらない。

 そこがかなり大きかった。


 黒川は以前よりもはっきりと、余計な笑いを切るようになった。


「それ、もうやめろ」


 誰かがまた半端に三浦のことを話題にしようとしたとき、黒川が低くそう言う。

 それだけで、男子の輪は前より簡単に止まる。


 相原も、まだ完全に自然ではないが、少なくとも“前へ戻す側”には立たなくなった。

 むしろ、その話題が出ると明らかに顔をしかめる。


 柴田蓮斗は、そこへさらに別の温度を足していた。


 彼はもう、ただ止めるだけではない。

 空気が妙な方向へ流れそうになると、別の話題を入れたり、誰かを軽く笑いものにする流れ自体を断ち切るようになった。


 男子側は、前までの“悪ノリの共犯関係”から、ずいぶん違うものへ変わり始めていた。


 ただ、それで終わるほど簡単ではなかった。


 これまで囃し立てたり、煽ったり、笑って乗ったりしていた側の何人かは、逆にどこか不満そうだった。


 自分たちは別に中心じゃなかった。

 ちょっと笑っただけ。

 雰囲気に乗っただけ。

 なんで今さら、自分たちまで何か言われなければならないのか。


 その気分が、少しずつ表へ出始める。


 3.女子側の新しい関係


 女子の方も、ただ“ひなた派”と“宮原派”みたいに単純に割れているわけではなくなっていた。


 むしろ、対立の角が少しずつ取れて、違う距離で新しく関係を結び直し始めている。


 白石ひなたと浅井結菜は、以前より自然に一緒にいる時間が増えた。

 でも、べったりくっつくわけではない。

 そこが二人らしかった。


 昼休みにノートを見せ合う。

 掃除当番の場所を一緒に確認する。

 帰り際に「また明日ね」と声をかけ合う。


 そういう小さい積み重ねが、教室の空気の別の核になっていく。


 坂本紗良も、以前よりはっきり二人へ近づくようになっていた。


「ひなた、それ今日の提出?」


「うん」


「結菜も?」


「出す」


 そんな会話の輪に、紗良が自然に混ざる。

 前なら、そこへ軽い茶化しが入る余地があった。

 でも今は、その輪がもう“ただの普通の会話”として教室へ存在し始めている。


 香月結衣はまだ少し揺れていた。

 宮原彩乃も、完全にひなたたちと打ち解けるところまでは来ていない。


 けれど、以前みたいに“ひなたが空気を壊した側”として一方的に扱うことも、もう難しくなっていた。


 なぜなら、言葉を持って立ったのはひなただけではなくなっていたからだ。


 結菜も。

 柴田も。

 そして、謝った黒川と相原さえ。


 そうなると、“あいつだけ変わった”とは言えない。

 教室全体の方が変わり始めているのだと、誰もが少しずつ認めざるをえなくなる。


 4.責任の外側にいたい者たち


 問題は、その“少しずつ変わる”流れの外で、まだ自分たちは関係ないと思っている者たちだった。


 昼休みの終わり、教室の後ろで何人かが小さく言い合っていた。


「でもさ」


 男子の一人が、不満そうに言う。


「囃し立ててた側も、ちゃんと責任取るようにって先生ら言ってるけど、俺ら別に嫌味とか嫌がらせとかしてねえし?」


 その言葉に、別の男子が頷く。


「だよな。俺ら別に、あだ名つけたわけでもないし」


 女子の方からも声が出る。


「私たちだって、何かやったわけじゃないし。関係ないじゃん」


「なんで私たちまで責任取る必要あるの?」


 その言い方には、かなり率直な本音が出ていた。


 自分は中心ではない。

 自分は直接傷つけたわけじゃない。

 だから、自分まで責任を問われるのはおかしい。


 それは、いまの二年二組にまだかなり広く残っている感覚でもあった。


 教室の中が、少しざわつく。


 その時、相原圭吾が立ち上がった。


 急に、という感じだった。

 本人も勢いがなければ動けなかったのかもしれない。


「……それ」


 声は少し低く、でもはっきりしていた。


「違う」


 全員がそちらを見る。


 相原はスマホを手にしていた。

 少しだけ震えているようにも見える。


「俺、昨日の夜、見たんだよ」


「何を」


 誰かが聞く。


 相原は答える。


「いじめ被害者の体験談」


 その一言で、教室の空気がまた少し変わる。


 相原はスマホ画面を見ながら、言葉を探すように続けた。


「娘や息子を失った親の話とか、兄弟姉妹を失った兄弟の話とか……いっぱい載ってた」


 だれも口を挟まない。


「守れなかった苦しみとか、悲しみとか、加害者への怒りとか、恨みとか……そういうの、びっしり書いてあった」


 相原の喉が、小さく上下する。


「裁判になって、多額の賠償金払うことになって、家族が崩壊した事例もあった」


 教室の空気は、そこでかなり重くなった。


 さっきまで「別に俺ら関係ないし」と言っていた男子も、言葉を失っている。


「そこに」


 相原はスマホを握りしめたまま言う。


「囃し立てて煽ってた側の責任とか、見て見ぬふりして、自分に火の粉がかからないようにしてた側の責任も、いっぱい書いてあった」


 その言葉は、彼自身の中でもかなり大きな意味を持っていた。

 自分もそこにいたからだ。

 中心だった。

 でも同時に、“周りで面白がるだけの側”もどれだけ加害の空気を作るのかを、初めて他人の痛みの文章の中で見た。


「だから」


 相原は、顔を上げる。


「“俺ら別に何もしてないし”で済まねえんだよ」


 教室が静まり返る。


 それは、つい数日前まで“みんな正義ぶるな”と荒れていた相原の口から出た言葉だった。

 だからこそ、余計に重い。


「笑ったやつも、煽ったやつも、見て見ぬふりしたやつも、全部空気作ってたんだよ」


 相原は、そこで一度息を飲む。


「俺も含めて」


 その最後の一言で、言葉に逃げがなくなった。


 自分だけが外から正論を言っているのではない。

 自分もその中にいた、とちゃんと含めている。


 それを聞いて、黒川が初めて強く頷いた。


「……そうだな」


 短い一言だった。

 でも、それだけで教室のあちこちに、言い逃れできない空気が広がる。


 ひなたは、そのやり取りを見ながら、思わず小さく息を吐いた。

 結菜も同じだった。


 相原がここまで言えるようになるとは、正直思っていなかった。


 隆は、その場でしばらく何も言えなかった。

 自分の声が外へ届き、外の言葉が戻ってきて、そして今、相原の口から、ここまでの言葉になっている。


 その流れがあまりにも大きくて、まだ自分の中で処理しきれない。


 5.放課後の約束


 その日の放課後、ひなたはまた隆へ声をかけた。


「今日、少しだけ一緒に帰れる?」


 隆は前ほど驚かなかった。

 でも、少しだけ照れたように「うん」と答える。


 校門を出て、並んで歩く。


 前みたいに、“ここでは言いにくいから外で話す”という重さではなく、今日はもっと自然な沈黙だった。


 しばらく歩いたあと、ひなたが言う。


「今日の相原、ちょっとびっくりした」


「俺も」


「でも……前よりちゃんと見てる感じした」


 隆は頷く。


「うん」


 前なら、ひなたと並んでこういう話をすること自体、考えられなかった。

 今はそれが自然になり始めている。


 ひなたは少しだけ笑って言う。


「前、小説書いてほしいって言ったじゃん」


「言ったな」


「ちょっとだけ、今なら本当に書ける気しない?」


 隆は思わず笑った。


「何それ」


「だって、教室の中のこと、前よりちゃんと見えるようになってきたでしょ」


 その言葉に、隆は少しだけ考えてから頷いた。


 見えている。

 ただ苦しいだけじゃなく、誰がどう変わろうとしているのか。

 誰がまだ揺れているのか。

 教室がどんな温度差で成り立っているのか。


 それは、以前の自分には見えなかったものだった。


 6.少しずつ変わる景色の中で


 帰り道の別の場所では、柴田蓮斗が結菜と並んで歩いていた。


 まだ“友達からね”のままだ。

 でも、その距離は不自然ではなかった。


「今日の相原、どう思った?」


 結菜が聞く。


「正直、驚いた」


「うん」


「でも……ああいうの、誰か一人が全部悪かったって話じゃなくなってきたなって思う」


 結菜はその言葉に、やわらかく頷いた。


「うん。だから、逆に難しいんだけどね」


 それは本音だった。


 悪者が一人なら、そこを切れば終わる。

 でも、教室の空気はもっと広い。

 だからこそ、変えるのには時間がかかる。


 それでも、時間をかけて変えるしかないのだと、二人とも少しずつ分かり始めていた。


 その夜、二年二組のそれぞれの家で、それぞれの温度のまま時間が流れていた。


 黒川は、謝ったあとの距離の取り方をまだ考えている。

 相原は、被害者の体験談を読んだ重さをまだ胸に抱えている。

 ひなたは、告白してしまったあとの照れと、それでも後悔していない気持ちを抱えている。

 結菜は、怒ったことと、友達から始める約束のあたたかさを持っている。

 柴田は、自分がもう曖昧な側へは戻れないと知っている。

 隆は、前よりましな時間が教室に本当に生まれ始めていることを、ようやく少しずつ実感している。


 景色は一気には変わらない。

 でも、少しずつ変わる景色の中で、人は自分の立ち位置を選び直していく。


 二年二組は、いまようやく、その選び直しを始めていた。

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