戻れない場所から
第21話
戻れない場所から
元の場所に戻れないと知ることは、必ずしも不幸なことではない。
戻れないからこそ、前とは違う形を探さなければならなくなる。
前みたいに笑えない。
前みたいにごまかせない。
前みたいに、空気に流されているだけでは済まない。
そういう場所まで来たとき、人はようやく、自分がどこへ立つのかを選ばなければならなくなる。
二年二組は、いままさにそこにいた。
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1.相原が向かう場所
相原圭吾は、その朝、教室のドアの前で一度立ち止まった。
これまでなら、遅刻しかけでもない限り、そこまで意識したことはない。
だが今日は違った。
昨日の夜、天庄屋の番組で、自分の投稿が匿名で読まれた。
自分がしたこと。
その怖さに気づいたこと。
“本当に俺はなんでバカなことをしたのかと思う”という一文まで。
名前は出ていない。
でも、自分の中ではもう隠れていない。
そして今日、三浦隆の顔を見たら、謝らなければならない。
そのことが分かっていた。
喉が乾く。
逃げたい。
でも、逃げたらまた同じところへ戻る。
いや、もう戻る場所さえない。
相原は深く息を吸って、教室のドアを開けた。
中の空気は、前より静かだった。
だが、緊張はある。
みんなそれぞれに、自分の立ち位置を持ち始めている空気。
黒川が先に相原へ気づいた。
一瞬だけ目が合う。
前なら、その目だけでなんとなく“今日もこっち側”みたいな合図が通じていた。
でも今、その合図はない。
ただ、黒川の目には“逃げるな”に近いものがあった。
責めるのでもなく、かばうのでもない。
自分も謝った者として、次はお前の番だと言っているような目だった。
相原は席へ着く。
心臓の音がやけに大きい。
隆は窓際の席でノートを出していた。
その横顔は、以前より少しだけ顔を上げる時間が増えているように見えた。
でも、それでもまだ完全に安心している顔ではない。
その顔を見た瞬間、夢で見た“自分が隆の側に立たされた教室”が一瞬、頭をよぎった。
あの息苦しさ。
何も悪いことをしていないのに、空気だけで悪い側に決めつけられていく怖さ。
相原は、机の下で手を握った。
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2.黒川と相原
一時間目が始まる前、黒川が机を少し寄せてきた。
「……今日、言うのか」
小さい声だった。
相原は、すぐには答えられなかった。
でも、目を逸らしたまま、低く言う。
「言う」
黒川は一度だけ頷いた。
「逃げんなよ」
その言い方は、きついようでいて、どこか自分にも向けている感じがあった。
相原は、それに対して少しだけ苦い顔をした。
「分かってる」
もう二人は、前みたいに軽口だけでつながってはいられなかった。
あの頃の自分たちは、同じ笑いでつながっていた。
だれかをからかって、その反応を面白がって、空気を読んでいるつもりで一緒にいた。
でも、その空気が壊れた今、二人の関係もまた、別の形を探さなければならなくなっていた。
黒川はもう、自分がやったことの重さを完全ではなくても見始めている。
相原は、ようやくその入口へ来た。
同じ場所へ戻れないのは、三浦だけではなかった。
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3.女子側の再構成
女子側の空気も、少しずつ変わっていた。
宮原彩乃は、もう以前みたいに教室の空気を一方向へまとめることが難しくなっていると感じていた。
白石ひなたが立った。
浅井結菜が賛成を示した。
それだけなら、まだ“二人が変わっただけ”と見なせたかもしれない。
でも、紗良や香月でさえ、前ほど簡単には笑いへ乗らなくなっている。
それはつまり、女子の輪そのものが少しずつ組み替わっているということだった。
宮原はそれを、面白くないと思う瞬間もある。
けれど同時に、ここで意地になって前の空気を守ろうとしても、もうたぶん無理なのだとも分かっていた。
香月結衣は、最近、自分の発言のあとに一拍置くようになっていた。
前なら軽く流せた冗談が、いまは流しにくい。
それは、天庄屋の講話のせいでもあり、ひなたの言葉のせいでもあるし、何より“だれかが本気で傷ついていた”事実がもう消せなくなったからでもあった。
坂本紗良は、ある意味いちばん素直に変わっていた。
「ねえ」
昼休み、紗良はひなたへ近づいて、少し気まずそうに言う。
「この前は……なんか、ちゃんと何も言えなくてごめん」
ひなたは少し驚いた顔をしたあと、小さく首を振った。
「ううん」
それだけの会話。
でも、前なら絶対になかった種類の会話だった。
女子側の空気は、対立だけではなく、少しずつ“どうやって関係を作り直すか”の方向へも動き始めていた。
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4.相原の謝罪
その日の放課後。
教室にはまだ何人か残っていた。
部活前の準備。
日直の黒板消し。
提出物の整理。
完全な二人きりではない。
でも、だからこそ、相原にはかえって逃げ場がなかった。
隆は鞄へノートをしまっていた。
指先が少し止まる。
気配で分かる。
相原が近づいてきた。
教室の空気が、また少しだけ静まる。
「三浦」
相原の声は、今までにないくらい低かった。
隆はゆっくり顔を上げる。
目が合う。
相原はその目を見て、喉がひりつくのを感じた。
ここで逃げたら、一生たぶん自分が嫌になる。
「……この前」
言葉がつかえる。
白石ひなたが少し離れた席で手を止めた。
結菜も、柴田も、黒川も、何も言わないまま空気を見ている。
相原は、机のふちを掴む手に力を入れて、やっと続けた。
「チクっただろ、とか……大したことじゃないのに、とか……ああいうこと言ったの、ほんとに悪かった」
教室は静かだった。
笑いもない。
茶化しもない。
ただ、その場にいる全員が、その言葉の重さを受け止めている静けさ。
相原はさらに言う。
「最初、俺、ほんとにそこまでのことだと思ってなかった」
その一文には、黒川の謝罪と似ているところもあった。
でも、相原の場合、それはもっと遅れて来た本音だった。
「でも……夢見たんだ」
相原は自分でも、そこまで言うつもりだったのか分からなかった。
だが、もう止まらなかった。
「俺が、お前の立場になる夢」
隆の目が、わずかに動く。
「何も悪いことしてないのに、教室の空気だけで悪いって決められて、何言っても笑われて、親に言ったら今度はチクったって言われて」
相原の声が少し震える。
「そこで、やっと分かった。俺……取り返しのつかないことをする一歩手前だったんだって」
教室の中の誰かが、小さく息を呑んだ。
「ほんとに、怖くなった」
相原は、そこで一度強く唇を噛んだ。
「なんであんな馬鹿なことしたのか、自分でも分かんねえ。……でも、したことはしたから」
そこで相原は頭を下げた。
「ごめん」
それだけ言った瞬間、声が崩れた。
「ごめん……ほんとに」
相原の肩が、小さく震える。
そして次の瞬間、ぽたりと涙が落ちた。
教室はしんとしていた。
だれも笑わない。
だれも軽く流さない。
相原圭吾が人前で泣くところなど、たぶん多くの生徒が初めて見た。
それは格好悪いというより、むしろ今までの軽さを全部脱がされて、初めて中身だけになった姿のように見えた。
隆は、しばらく何も言えなかった。
黒川の謝罪の時とはまた違う。
相原は、ここまで来るのにもっと遠回りをして、もっと見苦しく揺れて、それでようやくここに立っている。
そのことが分かるから、簡単な言葉が出てこない。
しばらくして、隆はゆっくり言った。
「……もう、終わりにしようぜ」
相原は顔を上げないまま、肩を震わせている。
「いつまでもこのままだと」
隆は続けた。
「大人になって、絶対後悔すると思うから」
その言葉は、赦しではなかった。
全部が消えたわけでもない。
でも、“このまま互いに引きずり続ける側へは行かない”という意思ではあった。
相原は、涙の混じった声で言った。
「……うん」
もうそれ以上、言葉は要らなかった。
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5.ひなたと隆
その日の帰り際、白石ひなたはずっとタイミングを見ていた。
今日、言う。
そう決めていたわけではない。
でも、相原の謝罪も、教室のあの空気も見たあとで、自分の気持ちをまた曖昧なままにはしておけない気がした。
昇降口を出て、校門を抜け、少しだけ人通りが減ったところで、ひなたはようやく声をかけた。
「隆くん」
隆が振り向く。
「今日、一緒に帰らん?」
「え?」
少し驚いた顔。
「いいけど、どうした?」
ひなたは、一瞬だけ言葉を飲み込んだ。
学校の中では言いにくい。
ここでもまだ、人がいる。
「……ここでは言いにくいから、学校出てから話すね」
隆は少し不思議そうにしながらも、「うん」と答えた。
二人は並んで歩き出す。
春の手前の風がまだ少し冷たい。
道の端には、冬を越えた草の色がくすんで残っている。
しばらく黙って歩いたあと、ひなたが口を開いた。
「前にさ」
「うん」
「隆くんのこと好きなんじゃないかって揶揄われた時、私、“好きだけど何が悪い?”って言ったじゃん?」
隆は、少しだけ目を丸くする。
「……言ったな」
「私の気持ちっていうか、思いを伝えておきたくて」
ひなたの声は、意外なくらい落ち着いていた。
でも、手は少しだけ強く鞄の紐を握っている。
「私、隆くんのこと、本当に好きだから」
その言葉は、風の音の中でもはっきり届いた。
隆は立ち止まりかけて、なんとか歩幅を保った。
びっくりした、という顔がそのまま出る。
ひなたは少しだけ笑った。
「そんなに驚く?」
「……いや、驚くだろ」
「だよね」
「え、ほんとに?」
「ほんとに」
ひなたは前を向いたまま続ける。
「前、文学作家になりたいって言ってたじゃん」
隆の胸の中で、その古い会話がふっと浮かぶ。
たしか図書室の帰りだった。
まだ、こんなことになる前。
「……言った」
「私のことをモデルに、小説書いてほしいなって」
そう言って、ひなたは少しだけ照れたように笑った。
その笑い方が、教室で見せる強い顔とも、誰かに言い返す時の顔とも違っていて、隆はまた言葉を失った。
胸の奥が、熱いのか、くすぐったいのか、自分でも分からない感覚になる。
「すぐ返事ほしいとかじゃないよ」
ひなたは言う。
「ただ、ちゃんと伝えたかっただけ」
隆は、しばらく黙ってから、ようやく言った。
「……ありがと」
それ以上は、まだ言えなかった。
でも、その“ありがとう”は、驚きと、照れと、嬉しさが全部混ざった、本物の声だった。
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6.柴田と結菜
一方その頃、少し離れた帰り道で、柴田蓮斗もまた、自分の中の言葉を抱えきれなくなっていた。
結菜が一人で校門を出たのを見て、思わず声をかける。
「浅井」
結菜が振り向く。
「ん?」
「一緒に帰らね?」
それだけでも、柴田にはかなり勇気が要った。
結菜は少し驚いた顔をしたが、「いいよ」と答えた。
並んで歩く。
気まずい沈黙。
でも、前みたいな悪い空気じゃない。
しばらくして、柴田が突然言った。
「……俺さ」
「うん」
「前から、結菜のこと気になってた」
結菜が足を少しだけ止める。
「え?」
柴田は耳まで赤くなっていた。
でも、ここで引いたら一生言えないと思ったのだろう。
「いや、だから、その……好きとか、そういう方向で」
結菜は目をぱちぱちさせたあと、やがてふっと笑った。
「ほんとに急だね」
「分かってる」
「でも、ありがと」
その言い方はやわらかかった。
柴田は、そこで一瞬だけ期待した。
でも、結菜はちゃんと続けた。
「じゃあまずは、友達からね」
優しく微笑みながら、そう言う。
柴田は、少しだけ肩の力を抜いて笑った。
「……だよな」
「うん。だって、いまの教室でいきなりそんな器用なことできないし」
それは正直な答えだった。
でも、拒絶ではなかった。
柴田にとって、その“友達から”は、思っていたよりずっと嬉しい言葉だった。
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7.少しずつ変わる景色
その日、二年二組の景色は、ほんの少しだけ変わっていた。
黒川は、謝罪のあとにしか作れない距離で立っていた。
相原は、涙を流してようやく謝った。
白石ひなたは、自分の想いを隠さず伝えた。
浅井結菜は、怒りもやさしさも、自分の言葉で出せるようになり始めていた。
柴田は、曖昧さの陰へ戻らずに、気持ちを言葉にした。
そして隆は、その全部を前にして、ようやく少しずつ思い始めていた。
自分が声を上げたこと。
家族に話したこと。
天庄屋へ投稿したこと。
そのどれもが、ただ“助けを求めた”だけで終わってはいないのかもしれない。
自分の声が、だれかを変えた。
少なくとも、変わるきっかけの一部にはなった。
そう思うことは、どこか怖くもあった。
大げさすぎる気もする。
でも、目の前で起きている変化を見れば、それを完全に否定することももうできなかった。
景色は一気には変わらない。
でも、少しずつ変わる景色の中で、人はようやく自分がどこに立っているのかを知る。
港北中学校二年二組は、いま、戻れない場所から、少しずつ別の場所へ向かい始めていた。




