少しずつ変わる景色
第20話
少しずつ変わる景色
景色が変わるとき、それはたいてい、大きな音を立てない。
教室の窓が急に広くなるわけでも、机の配置が魔法みたいに変わるわけでもない。
むしろ、変わるのはもっと細いところだ。
だれかが言いかけた言葉を飲み込む。
前なら笑っていた場面で、笑わない者がいる。
視線の向きが、ほんの少し変わる。
話しかける言葉の端から、棘が一つ減る。
そういう小さな変化の積み重ねを、人はあとから振り返って、あのころから景色が変わり始めていたのだと知る。
二年二組はいま、そういう時間の中にいた。
1.相原圭吾が向かう方
相原圭吾は、天庄屋から返ってきたメッセージを、夜のあいだに何度も読み返していた。
そこに気づけたなら、もう大丈夫。
あとは自分が素直になれるか、相手に謝罪を心を込めてできるか。
その一文は、あまりにもまっすぐだった。
大丈夫、と言われても、すぐにそうは思えない。
自分がやってきたことが消えるわけじゃないし、三浦が受けたものが軽くなるわけでもない。
でも、あの文には、逃げ道ではなく“行き先”があった。
素直になる。
謝罪する。
心を込めて。
簡単そうでいて、一番難しいことだった。
朝、相原は制服のボタンを留めながら、胸の奥がずっと落ち着かなかった。
母親の過去を知った夜から、自分の中で何かが変わっている。
それでも、教室へ行けばまた相原圭吾として見られる。昨日までの相原として。
謝るなら、たぶん今日だ。
でも、本当に言えるのか。
みんなの前でか。
それとも、二人きりの時か。
謝ったところで、三浦が許す保証なんてない。
それでも行かなければならない。
朝食の席で、母親は何も言わなかった。
ただ、「行ってらっしゃい」と言う声が、昨日までより少しだけ静かで、それがかえって相原には堪えた。
玄関を出るとき、父親が後ろから言った。
「逃げるなよ」
短い一言だった。
相原は振り返らなかった。
でも、その言葉を背中で受け止めた。
2.黒川と隆のあいだ
黒川大河と隆の距離は、まだやはり微妙だった。
謝罪はした。
でも、それで二人が急に話せるようになるほど、心は器用じゃない。
朝、教室で顔を合わせる。
視線が合う。
どちらからともなく、少しだけ目を逸らす。
前なら、その目線のズレには、からかいか、警戒か、どちらかがあった。
今あるのは、もっと違うものだった。
気まずさ。
後悔。
まだ整理できていない感情。
そして、無理に前みたいにしようとしない慎重さ。
その日、数学の授業でプリントが配られたとき、列の後ろから順に回す形になった。
黒川が自分の前の席からプリントを受け取り、後ろへ回す。
隆の机の上に置く、その一瞬だけ、黒川は小さく言った。
「……これ」
それだけ。
でも、以前のように雑には置かなかった。
机の端にきちんと揃えて置く。
隆は「ん」とだけ答えた。
それだけのやり取り。
でも、それは“謝罪のあとに生まれた新しい距離感”だった。
前のようには戻れない。
でも、だからといって全部が切れたわけでもない。
赦しの前には、こういう無言の不器用さがあるのだと、二人とも少しずつ覚え始めていた。
3.白石・結菜・柴田
白石ひなた、浅井結菜、柴田蓮斗の三人もまた、少しずつ変わっていた。
彼らはもう“ただ味方をする側”ではなくなりつつあった。
教室の中で、空気をどう扱うかを考える側へ移っていた。
たとえば昼休み。
前なら、男子の輪と女子の輪は、なんとなく決まった温度のまま別々に浮いていた。
今は、そのあいだに少しだけ別の流れができ始めている。
ひなたがノートを見ているところへ、結菜が普通に近づく。
柴田は少し離れた席で、それを変に茶化したりしない。
むしろ、周りが何か余計なことを言いそうになると、それより早く別の話題を振る。
「次の理科の班さ、持ってく道具なんだっけ」
たったそれだけでも、教室の空気は変わる。
空気というのは、悪い流れを止めるだけでなく、別の流れを作ることで変わることもあるのだと、この三人は無意識に始めていた。
ひなたは、以前より少し肩の力を抜いて話せるようになっていた。
「結菜、それ三ページじゃなくて四ページ」
「うわ、ほんとだ」
「柴田、昨日の英語のノート見せて」
「字きったねえぞ」
「読めればいい」
そういう他愛ない会話が、前より自然に教室へ混ざる。
それは決して“仲良しグループができた”という話ではない。
もっと静かな変化だ。
だれかを中心に面白がるのではなく、普通のやり取りが普通に流れる時間が、少しずつ戻ってきている。
4.隆が持った“前よりましな時間”
その日、隆は昼休みに弁当を開いてから、ふと気づいた。
今日はまだ、一度も胃がひっくり返るような瞬間が来ていない。
もちろん、完全に安心しているわけじゃない。
教室のどこかにまだ緊張はある。
相原がどう動くかも分からない。
でも、前みたいに最初から最後まで全身が強ばっている感じでもない。
弁当の蓋を開ける。
卵焼き。唐揚げ。ほうれん草のおひたし。
前なら味なんて分からなかったこともあったのに、今日はちゃんと甘さと塩気が分かる。
そのことに、自分でも少し驚いた。
窓の外では風が吹いていて、校庭の隅の木が揺れている。
教室の中では、ひなたと結菜が小声で何か話し、柴田が後ろで原口と別の話題をしている。
高石は今日は廊下に出ているが、その不在が前みたいにすぐ怖さへ変わるわけでもない。
隆は、弁当を一口食べてから、心の中で言った。
今日は、前よりましだ。
それはとても小さな実感だった。
でも、ここまで来るのに、どれだけ時間がかかったかを思うと、その“小ささ”がものすごく大きかった。
5.電話
放課後、相原は結局、その日中には三浦へ声をかけられなかった。
謝ると決めたのに。
言わなければと思っていたのに。
黒川が先に謝ったこともあって、余計に自分のタイミングがつかめなくなっていた。
情けない。
でも、口を開くと喉が固まる。
教室で謝るには、まだ自分の中がぐちゃぐちゃすぎた。
帰宅して部屋へ入ると、スマホが震えた。
知らない番号。
けれど、見覚えがある気がした。
昨日の夜、番組のスタッフ経由でやり取りした番号に近い。
相原は少し迷ってから出た。
「……はい」
向こうから、明るい声が飛んできた。
「もしもしー! 天庄屋の佐々木ひよりです!」
相原は思わず、え、と声を漏らした。
すぐに、少し落ち着いた声が続く。
「秋元逸美です。突然ごめんね」
相原はベッドの端に腰を下ろした。
心臓がやけに速い。
「昨日の投稿、読ませてもらって」
ひよりが言う。
「もし本人が嫌じゃなければ、番組で紹介したいなって思ってるんだよね」
相原は、一瞬言葉を失った。
「……俺の、あれをですか」
「うん」
逸美がやわらかく続ける。
「もちろん匿名で。名前も学校も何も出さない」
ひよりが被せる。
「今さ、全国、いや世界中に、いじめとか暴力とか、そういうので苦しんでる人いっぱいいるじゃん」
その言い方はラジオのテンポに近いのに、内容は軽くなかった。
「で、苦しんでる人の多くは、“加害する側が、あとから気づく”なんてこと、たぶん信じらんないと思うんだよね」
相原は、受話器の向こうの言葉を黙って聞いていた。
「だから」
逸美が言う。
「“自分がしてしまったことの怖さに気づいた側の声”って、すごく意味があると思うの」
「もちろん」
ひよりが続ける。
「番組的に面白がるとか、そんなんじゃないよ。ちゃんと、“言葉の使い方を間違えた側でも、気づけることがある”ってメッセージとして届けたい」
相原は、しばらく何も言えなかった。
自分のしたことは、褒められるようなものじゃない。
まして、ラジオで取り上げてもらうなんて、どこか場違いな気もする。
でも、その一方で、昨日の自分みたいに“遊びだった”“大したことじゃない”と思い込んでいるだれかへ、この感覚が少しでも届くなら、と思う気持ちもあった。
「……匿名なら」
ようやく言う。
「いいです」
ひよりがすぐに明るく返した。
「ありがと!」
逸美も続ける。
「大事に扱うからね」
相原は小さく息を吐いた。
「……お願いします」
電話を切ったあと、しばらくベッドの上で動けなかった。
自分の投稿が、番組で紹介される。
それは、恥でもあり、怖さでもあり、でもどこかで“逃げずに引き受ける”ことの一つでもある気がした。
6.番組の中で
その土曜日の夜八時。
『ウィークエンド爆笑イブニング』はいつも通り明るく始まった。
楽天戦の裏話。
庄内弁と北海道弁がぶつかる方言コント。
リスナーからの投稿に、ひよりが勢いよくツッコミ、逸美が落ち着いて返す。
その笑いの流れの中で、番組後半、お便り紹介のコーナーに入る。
ひよりが一枚、少しだけ丁寧に紙を持つ。
「ここからは、ちょっと真面目なお便りも読ませてください」
逸美も声の温度を少し落とす。
「匿名でいただいてるんだけど、すごく大事な話なので」
そして、相原の投稿が紹介された。
学校で自分がしてしまったこと。
最初は軽いからかいのつもりだったこと。
でも、母親の過去を知り、夢を見て、自分が取り返しのつかない一歩手前まで行っていたのかもしれないと初めて気づいたこと。
そして、本当に俺はなんでバカなことをしたのかと思うという一文。
読み終わったあと、少しだけ間があく。
ひよりが最初に言った。
「これ、すごく大事な投稿だと思う」
その声は、笑いの時よりずっと低かった。
「やってしまった側が、自分のしたことを“馬鹿なことだった”って認めるの、ほんと苦しいと思うんだよね」
逸美が続ける。
「でも、そこに気づけたなら、まだ間に合うこともある。もちろん、やられた側の傷がすぐ消えるわけじゃないし、謝って終わりでもない。でも、“気づかないまま”進むよりずっといい」
ひよりが言う。
「言葉ってさ、人を笑わせるのにも使えるし、追い詰めるのにも使えちゃう。だから、使ったあとで“そんなつもりじゃなかった”じゃ済まないことがある」
逸美も頷くように言う。
「もし今、同じように“ちょっといじっただけ”“みんなやってるし”って思ってる人がいたら、一回立ち止まってほしい。その先に何があるか、ちゃんと想像してほしい」
ラジオの向こうで、相原はその声をじっと聞いていた。
名前は出ていない。
だが、これは確かに自分の言葉だった。
そしてその言葉が、自分だけでなく、どこかのだれかへ届いていく。
不思議な気持ちだった。
怖さもある。
でも、それ以上に、“気づいたこと”をなかったことにしないで済んだ気がした。
7.少しずつ変わる景色
週が明けて、二年二組はまた同じ教室に集まる。
でも、その景色は少しずつ変わっていた。
黒川は以前みたいな軽さを失ったまま、それでも逃げない距離にいる。
相原はまだ揺れている。
だが、もう“遊びだった”だけへ戻ることはできない。
白石・結菜・柴田は、空気の中でただ立つだけではなく、少しずつ別の流れを作り始めている。
隆は、今日も怖い。
でも、前よりましな時間を知ってしまったから、そこを目指して教室へ入れる。
景色は、一気には変わらない。
でも、変わり始めた景色は、前のままには戻らない。
それぞれが違う温度を抱えたまま、同じ教室で少しずつ生き方を選び直していく。
その時間が、二年二組にはようやく流れ始めていた。




