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Hello hopeless world

 涼しい風が肌を撫でた。乾いている。畳の湿った空気がない。


 その風に違和感を感じて、僕は目を覚ました。微睡(まどろみ)の残る視界に、淡い(あお)の光が差した。


 なんの光だ?


 また静かな風が通る。風に流されて髪が目にかかった。


 ……風?


 しっかりと戸締りをした記憶があった僕は、ようやくそこで状況がおかしいことに気付いた。


「どういう……」


 ゆっくりと体を起こして辺りを見回す。


 本来なら、昔ながらの日本様式の和室があった景色。それがなぜか、灰の積もった砂漠のような光景に変わっていた。


 まだ状況が分からない。立ち上がった僕は一旦記憶を整理する。


 昨日か、まだ今日か。父と母の葬儀を終えた僕と妹の小春は、疲れてそのまま座敷で寝落ちした。そこまでは覚えている。


 なら、この景色はなんだ?


 周りは灰の大地に囲まれ、見上げれば薄暗い空に一点、蒼く光る月がある。漂うひんやりとした空気はどこか澄んでいて、まるで夜の砂漠に来たみたいだった。


 夢にしてはリアルすぎる光景を前に呆然としていると、何かが僕の横で動いた。


「ん……にい……さま……?」

「小春……」


 見れば、灰に横たわっていたらしい小春がむくっと体を起こしていた。


「家、ですよね?」

「……見えるか?」


 小春が寝ぼけ眼を擦りながら、辺りを見回す。


「え……」


 やっと事の深刻さを悟ったらしく、緊張した様子で息を呑んでいた。無意識なのか、周りに目を向けたまま僕の喪服の裾をキュッと掴んでいる。


 不安はもっともだ。日本なのかすら分からない曖昧な場所で、なんの持ち物もなく二人きり。


 正直僕も不安で仕方がない。今にも吐きそうだ。だけど、それに耐えなければいけない理由がある。


 僕はしゃがみ込んで、小春の頭を撫でる。


「大丈夫だ。僕がついてる」


 絞り出した空元気。それがバレてしまわないか緊張したが、小春は意外にも小さく頷いた。


「頼もしいです……」


 それほどまでに僕を信頼してくれているのか。なんてめでたい勘違いはしない。

 賢い子だ。僕の不安も焦燥も全て見透かした上で、そう答えたのだろう。


 僕は、腕を引いて小春を立ち上がらせた。そして深呼吸の(のち)、今一度辺りを見回す。


 見える景色は……切り立った灰の岸壁が連なる峡谷地帯。それと、今僕たちが立っている灰の積もる砂漠だ。

 積もった灰に、ちらほら大きな彫刻が埋まっているのが見える。

 彫られているのは翼の生えた修道女のようだ。彼女の両手には神器として語られる、美しく弧を描く刃のハルパーが握られている。


 しばらくして、灰の砂漠の方が危険が少なそうだと僕は判断した。峡谷地帯とは反対側に歩を進める。


「それにしても静かだ……」

「そうですね。びっくりするほど音がありません……」


 お互いの息遣いと、灰を踏む音だけが空虚に鳴る。

 一面の灰と空から降る蒼い月光のせいもあって、その場所は不気味さを極めていた。


「なあ小春。地球にこんな場所、あったか?」


 蒼い月。広大な灰の大地。そこに埋まる彫刻のような女の彫刻。その景色のどれを取っても、地球のそれと重なるものはないように思う。少なくとも僕の記憶の引き出しには存在しない。


「月が青く見える、ブルームーンという天体現象が、地球ではごく稀に起こると聞いたことがあります」


 熟考の末、小春が天を仰いでそう口にした。


 小春は知識が豊富だ。こうして投げかけているのもそういう理由。


「これがそのブルームーンてことになるのか?」

「あるいは……そうかもしれないです。でも、その他の現象には説明がつきません。寝て起きたらテレポートしていたり、灰が山ほど積もっていたり。小春は聞いたことありません」

「なら、地球じゃない……としたら?」


 あり得ないと自覚しながらも、聞かずにはいられなかった。


「考えられるとすれば仮想現実か地獄か。後はそうですね……異世界、とか?」


 小春は冗談交じりに答えた。最後のだけは無いと思ったんだろう。


 でも、異世界と聞いて、その解釈が一番納得できた自分がいた。


「それだったらいっそのこと。二人でやり直すとするか」


 軽口が漏れる。

 すると、小春が横から僕を覗き込んできた。サラサラとしなやかな黒髪が零れ落ちていく。


「小春はどこまでも兄様について行きますよ。そういう約束ですから」


 新妻のような言葉。


「……小春はきっと良いお嫁さんになるな」

「プロポーズですか?」

「実の兄に何を求めているんだ……」


 僕が呆れた視線を向けると、小春は楽しそうにコロコロと笑っていた。



 それから十分ほど歩いた頃、僕たちは彫刻の台座に腰を下ろしていた。


「これは……きついな……」


 体力の限界。それが訪れるのは意外と早かった。

 この積もり積もった灰の砂漠、思っていた以上に移動が大変だ。抵抗なく足が沈むのはいいが、持ち上げるのが一苦労。それに日頃の運動不足も重なって、体力の持っていかれ方が尋常じゃない。あと靴も欲しい。ずっと靴下のままなんだ。


「いつになったらここを抜けられるんでしょう」

「考えたくもないな……」


 一向に新しい景色は見えない。あるのは灰と彫刻のみ。

 途方もなく続く灰色の砂漠に大きくため息が漏れた。


 その時、ズズンと大きな震えが下ろした腰に伝わった。


「なんだ?」


 僕は五メートルはある彫刻を見上げる。するとなぜか目が合った。

 天を仰ぎ、両腕両翼を広げていたはずの女像と……だ。


 嫌な予感が頭をよぎる。


「兄様この彫刻……」


 ズズンとさらに大きな振動。彫刻の首が僅かに動く。


「……逃げるぞ」


 言い終わる前に、ハルパーが落ちた。空気が裂けて灰が爆ぜる。


 僕は小春を抱えて転がった。


「キャハハハッ!」


 後ろで笑い声。


 裂けるほど口角を上げた彫刻は腕を振り上げていた。


 またあれがくる!


 たまらず僕は小春の腕を取り、灰を蹴った。


 ドバンッと後ろで破裂音。振り向くと、蒼く輝く月光を背に修道女の像は羽を広げてこちらを追いかけてきていた。滑らかに、生き物のように。


「チィッ!」


 小春の手を引いてさらに速度を上げる。だが、それはすぐに咎められた。つんのめって体がのけ反る。


「小春っ!?」

「にいっさまっ……!すみ…ません……」


 小春は灰に膝をついて座り込み、真っ青な顔になって呼吸を荒くしている。

 その原因はすぐに分かった。血が、灰を黒く染めていた。その血は真っ直ぐ小春へと続いている。


「……当たってたのかよ」


 避けたと思っていた彫刻のハルパー。しかしそれは小春の背を薙いで、致命傷を負わせていた。


「ヒャハッ!!」

「ヒャヒヒッ!」

「ヒャァアア!」


 背後で、笑い声が増える。


 一体じゃない。五体だ。


 灰の中から、次々と起き上がっている。


「はは……最高かよ」


 小春を抱き上げて、僕はまた走り出す。足が重い。嗚咽が漏れる。

 笑い声はもうすぐそこ。距離は十メートルもないだろう。


「にい……さ、ま……」


 不意に、小春の手が頬に触れた。


 雪のように冷たい指先。もうそれは人の体温などとうに……。


 小春はか細くなった声で続ける。


「小春は兄様の声が好きです。顔が好きです。どこか切ない瞳も小春にだけ見せる可愛らしい笑顔も。そして人を……小春を捨てきれない底抜けの優しさも。でも、小春はそんな大好きな兄様の重荷になりたくありません……」

「何を言ってるかさっぱりだ……」


 小春の顔を見ずに、僕は会話を終わらせる。そのまま話を続けていれば、小春がどこかへ行ってしまいそうな気がした。


 小春の手が僕の頬から離れた。


「小春……?」


 見下ろすと、小春は抱えていたものを全て吐き終わったかのように微笑んでいた。

 ふと嫌な予感。背筋に悪寒が一気に(はし)った。その、瞬間だった。小春が僕の肩を乱暴に掴み、身を投げた。


「なっ!?」


 地面を転がる小春に僕は足を止める。だが、彼女が転がった先は……彫刻の足元だった。そいつらは灰に項垂れる小春を見下ろして、ひどく醜悪な笑顔を見せる。


「小春っ!!」


 一体が他の彫刻を押しのけ、小春を持ち上げた。


 急激に頭に血が昇る。


「やめろ!うっ……!」


 勢いのまま小春の元へ駆け寄るが、灰に足を取られ体勢を崩した。


 弾くように顔を上げる。

 彫刻が宝石を光に透かすかのように、小春を月に(かざ)していた。


「こは……る……」

「にい、様……」


 彫刻の手の中で、小春はこちらを見て何かを言っていた。聞こえはしなかった。でも、口の動きから僕は理解する。


(に・げ・て)


「ダメだ……置いて行けない……小春……」


 届くはずのない小春に手を伸ばして……すがるように口から漏れた言葉。

 それを察したのか、世話のかかる子供を相手するように小春は笑った。だがその笑顔を最後に、小春は僕の視界の中で弾けた。


 グチャッ。


 不快な音がした。柘榴を踏んづけてしまった時も、こんな音がした気がする。


 赤い雨が降っている。果汁に紛れて、たまに大きな果肉が灰に落ちる。ほんのりと鉄の香り。


 不意に赤い雨が頬に触れた。それを触ると、温かかった。


「あ……え……?」


 ゆっくりと彫刻を見上げる。小春を握っていたはずの手から滴り落ちる、赤色の液体。それを彫刻は指で舐め取り恍惚の表情を浮かべていた。


 あの赤い液体はなんだ?小春はどこへ消えた?分からない分からない分からない。


 コツンとつま先に何かが当たる。僕は視線を落とした。


 足元にピンポン玉のような影。目を凝らすとそこにあったのは、


「眼球?」


 ドクンと心臓が鳴る。


 見覚えのある瞳。何度も僕を映した瞳。


「嘘だ……嘘だ嘘だ嘘だ……」


 そんなわけがない。さっきまで僕に笑いかけてくれてたんだ。この腕の中にいたんだ。まだ覚えてる。息遣いも体温も笑い声も。全部覚えている……。


「キヤァァァァァァァァ!!」

「キャハハハハハハハハ!!」


 空気を揺らす耳障りな音。見れば、小春の肉片を求めて彫刻同士が争っていた。

 腕を落とし、足を捥ぎ、翼を(むし)る地獄絵図。


 逃げなきゃ。


 僕は咄嗟に走り出した。まだ、何が起こったのか分かっていない。でも、ここから離れなければいけないことだけは理解した。


 風が強くなってきた。灰が宙を舞っている。体がぐらついて上手く灰を踏めない。


「はぁっはぁっ。ああ……あああああああああああああああああああああああああ!」


 だんだんと脳の熱が引いていくのが分かる。明瞭になっていく思考が現実を伝え始める。僕は膝をついて絶叫した。


 守れなかった守れなかった守れなかった守れなかった。


 最初行く方向を間違っていなければ。彫刻の下でなんて休まなければ。もっと早く危険に気付いていれば。小春の行動を読めていれば。そんな後悔が押し寄せてくる。


「なんで助けた……!」


 小春はもういない。でも訴えずにはいられなかった。


「どこまでも付いてきてくれるはずだろ、なんで逃げろなんて言った……!」


 返事はない。


「一緒にいれないなら……二人で死ねば、よかったじゃないか……」


 大粒の涙が、ボロボロとこぼれる。歯止めが効かない。


「君が死んだら、僕はどうやって生きていけばいいんだ……小春」


 嵐の中、空虚に僕の言葉が鳴る。その時、ふと小春の言葉を思い出した。


(その時は、相手の分もどちらかが生きましょう。生きて二人……いや四人分、世界を楽しむんです。約束ですよ)


「四人分なんて、無茶言うなよ……」


 僕は立ち上がる。足はまだ震えている。それでも僕は灰の上を歩む。


(やっぱ大変そうだから、死ぬ時は二人一緒がいいな)

(ふふ、意気地なし)


「悪かったな、意気地なしで」


 思い出がビデオテープのように頭に流れ続ける。声、姿形、温度に至るまで全て、鮮明に。


(紡ぎ合いや)


「うるさい。勝手にやってろ」


(素敵な言葉ももらいました。紡ぎ合いですって)


「紡いで、何になるって言うんだ」


 小春の願い、それを叶えたところで彼女はもういない。


(これで逃げたらバチが当たってしまいそうですね)


「……」


 逃げたら、小春に怒られるだろうか。それは嫌だな。あいつ、怒ると怖いから。


「四人分、背負ってみるか……」


 気は乗らないままだ。でも、小春に怒られるよりは何倍もマシに思えた。 


「まずは生き残らないとな」


 体はとっくに限界だ。酷使し続けた足はプルプル震えているし、心臓も大太鼓のようにうるさい。走ろうにも、体が動いてくれない。しばらく休まないといけないだろう。そう思った矢先、


「キャハハハッ!!」


 後ろから笑い声が聞こえた。


「お前、しつこいんだよ」


 振り返らずとも正体はわかっていたが、僕は振り返った。


 灰色の嵐の中、赤い小さな光が二つ。現れたのは、片翼片腕を失った彫刻だ。争いの中を勝ち残った個体だろう。


 逃げようと灰を力強く踏むが、


「くそっ……!」


 うまく力が入らず、あえなく倒れ込んでしまう。


 ニヤっと彫刻の顔が歪んだ。 


 彫刻の掲げたハルパーが蒼く光る月に影を作る。


 脂汗がブワッと吹き出る。終わり。そんな言葉がよぎった。


「ヒャアッ!!」


 ハルパーが振り下ろされる。

 その瞬間、彫刻の上半身が消えた。まるで抉り取られたような跡がある。


「────ッ!?」


 彫刻の背後で巨大な影が揺れた。

 見えたのは筒のような体を持つワーム。そいつの螺旋状の牙が並んだ口に、彫刻の体が吸い込まれていっていた。


 それを見て僕は、なるほど。と理解が及ばないながらに納得した。


 あいつの彫刻の姿。あれは擬態だ。自らより強大で、格上の捕食者(バケモノ)から逃れるための隠れ蓑だったんだ。


 なぜだか自分でも驚くほどに冷静でいられた。それは一時的に脅威がなくなった安心感からでもあるし、抗いようのないこのクソッタレな世界の現実を受け入れたからでもあると思う。


 僕は後ろに手をついて「はぁ」と小さく息をこぼす。


「四人分、背負えなかった。こりゃ、怒られるな」


 目の前で大口を開く巨大なワームを見上げて、ただ……


「でも……そうだな、そうなったら許してくれるまで一緒にいよう。時間は……たくさんあるはずだ」


 一人、言葉を吐き終わり。運命に身を委ねて、僕は目を閉じた。


 だけど、しばらくしても痛みが訪れることはなかった。


「?」


 恐る恐る眼を開くと、ワームは興味を無くしたようにくるりと方向を変え、砂漠に潜った。


「見逃……されたのか……?」


 『生き延びた』その事実に体が脱力する。


 だが、まだ嵐は止んでいない。このままではいずれ死んでしまう。


 僕は立ちあがろうと脚に力を入れる。


「はや……くど……こかへ────」


 あれ……?何で体が横たわって────


 立ちあがろうとする体が傾き、自分が灰に埋もれたのに、僕は遅れて気づいた。再度起き上がる気力なんてものは、とうに使い果たしていた。


 意識が微睡んでいく。うるさかったはずの嵐も、今は遠い。ゆっくりと降りる瞼、それに委ねてはダメだと分かってる。分かっているが────、もう……眠い……。


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