Hello hopeless world
「一体ここは……」
空は暗い。唯一の光源は、遥か上空でこちらを見下ろす蒼色の月だけ。気温はなく、少しばかり冷たい風が灰の大地に凪いでいる。
灰だらけの光景を前に呆然としていると、何かが僕の横で動いた。
「ん……にい……さま……?」
「小春!?君も来たのか!?」
灰に横たわっていたらしい小春が、むくっと体を起こす。
まさか僕だけじゃなかったなんて……。
「私たち斉場にいたはずでは……?」
寝ぼけ眼を擦りながら、小春は不思議そうにこぼす。
「ああ、だがどうやら……違うみたいだ」
「え……」
目の前に広がる景色を眺めて、僕は答える。すると小春は自体の深刻さを悟ったらしく、緊張した様子で息を呑んだ。
不安はもっともだ。地球かどうかすら分からない曖昧な場所で、なんの持ち物もなく二人きり。行くべき方向も分からず、人っこ一人見えないときた。
正直僕も不安で仕方がない。今にも吐きそうだ。だけど、それに耐えなければいけない理由がある。
僕はしゃがみ込んで、未だ緊張している様子の小春の頭を撫でながら告げた。
「大丈夫だ。僕がついてる」
絞り出した空元気。それがバレてしまわないか内心緊張するが、小春は意外にも小さく頷いた。
「頼もしいです」
それほどまでに僕を信頼してくれているのか。なんてめでたい勘違いはしない。
賢い子だ。僕の不安も焦燥も全て見透かした上で、そう答えたのだろう。
僕は、腕を引いて小春を立ち上がらせた。そして深呼吸の後、今一度辺りを見回す。
見える景色は────切り立った灰の岸壁が連なる、峡谷地帯。そして翼の生えた修道女の彫刻がいくつも埋まる、灰の砂漠。
どちらに行っても地獄だが……危険が少なそうなのは砂漠の方か……。
そのまま停滞していても埒が開かない。僕は意を決して、巨大な彫刻がいくつも埋まる砂漠の方向に歩を進め始めた。
「それにしても静かだ……」
「そうですね。びっくりするほど音がありません……」
お互いの息遣いと、革靴で灰を踏む音だけが広大な砂漠に空虚に鳴る。
一面の灰と空から降る蒼い月光のせいもあって、その灰の砂漠は不気味さを極めていた。
「なあ小春。一体、ここはどこなんだろうな」
だんだんと荒くなり始める息を吐いて僕は小春に問う。
「考えられるとすれば仮想現実か夢か……。後はそうですね……異世界、とか?」
熟考の末、小春は冗談交じりに答えた。
異世界か……。それもまあ、悪くない。
「それだったらいっそのこと。元の世界は忘れて二人でやり直すとするか」
半分冗談で半分本音だ。小春だけをお供に設定してニューゲームなんて何度願ったことか。まあそれも、こんなリスポーン地点でなければの話だが。
「そうですね。それがいいです。もしここで死ななければ、やり直すとしましょうか」
小春は小さく笑って答えた。
死ななければ。その前提が、ひどくハードに感じるのは気のせいではないだろう。
そして十分ほど歩いた頃、僕たちは天使像の下で腰を下ろしていた。
「これは……きついな……」
「革靴で歩くのにはかなり体力がいりますね……」
体力の限界。それが訪れるのは意外と早かった。
この灰の砂漠、思っていた以上に移動が大変だ。抵抗なく足が沈むのはいいが、持ち上げるのが一苦労。それに日頃の運動不足も重なって、体力の持っていかれ方が尋常じゃない。
「いつになったらここを抜けられるんでしょうか」
「考えたくもないな……」
途方もなく続く灰色の砂漠に、僕は大きくため息をつく。その時、大きな震えが下ろした腰に伝わった。
「ん?」
僕は五メートルはある天使を見上げる。するとなぜか目が合った。天を仰ぎ、両腕両翼を広げていたはずの彫刻と、だ。
嫌な疑念が頭をよぎる。
「まさか……な?」
「仁兄様この彫刻……」
ズズンとさらに大きな振動。その直後、天使を模した彫刻が動き出した。
腕を大きく振り上げ、手に持った柄の長いハルパーをこちら目がけて振り下ろしてくる。
「きゃっ────!」
「っぶね!」
小春を抱え、灰の砂漠にダイブし間一髪で回避に成功。たまらず僕は小春の腕を取り、また灰を蹴る。
危ない所だった!!というかどんな原理で動いてるんだ!?
「キャキャキャキャッ!」
後ろから不気味な笑い声。振り向くと、蒼く輝く月光を背に、死の天使は羽を広げてこちらを追いかけてきていた。
「チィッ!」
僕は小春の手を引いてさらに速度を上げる。だが、それはすぐに咎められた。つんのめって体がのけ反る。
「小春っ!?」
「にいっさまっ……!すみません……」
小春は灰に膝をついて座り込み、真っ青な顔になって呼吸を荒くしている。その時、僕は走ってきた道に血の痕跡が残っているのに気がついた。そしてそれは小春へと続いている。
あの時の攻撃────ッ!当たっていたのか!!
避けたと思っていた天使のハルパー。しかしそれは小春の背を薙いで、致命傷を負わせていた。
「ヒヒヒヒ────ヒャーッハハハ!!」
しかし際限なく血を流す小春の背後。割けんばかりに口の端を吊り上げた天使は、もうすぐそこに迫っていた。
「まじ……か……」
羽を打ち、迫り来る天使に僕は絶望を悟る。
即断即決しなければいけない。小春を抱え共に逃げるか、それとも────この手を離すか。
一瞬の逡巡。だが────
「唯一の生きがいなんだ。捨てられるわけ……ないだろぉぉぉぉぉぉ!」
愛を知らなかった僕に愛を教えてくれた。笑顔を知らなかった僕に唯一笑いかけてくれた。そんな妹を────世界で一人だけになってしまった家族を追いて行くことなど、僕には到底できなかった。
小春を抱き抱え、歯を食いしばりながら僕はまた走り出す。しかし────
「キャハハハハハ!!」
「キャハハハハハ!!」
「キャハハハハハ!!」
「キャハハハハハハハハハハハハ!!」
「キャハハハハハハハハハハハハハハハハ!!」
背後から迫る天使は一体だけではなかった。他に五体もの天使が、羽を打ってこちらに向かってきている。
まさか……砂漠に埋まる彫刻全部────!?
「は……ははっ……」
乾いた笑いがこぼれる。そしてギリっと音がなるほど歯を噛んで、俺はさらに速度を上げた。
「ああああああああああああああああああぁぁぁぁぁ!!」
脚にはとっくに限界が来ている。動かすたびに奔る痛みで意識が遠くなる。だが、そんな身体の悲鳴すら聞こえないと自分を誤魔化し、嗚咽を吐きながらもまた灰を蹴る。
「ああぁぁぁぁぁっ!」
「キャハハハ!」
「キャハハハハハ!!」
「キャハハハハハハ!!」
僕を追う彫刻の笑い声が近く聞こえる。その距離はもう十メートルもないだろう。
「にい……さ、ま……」
不意に、小春の手が頬に触れた。
雪のように冷たい指先。もうそれは人の体温などとうに……。
小春はか細くなった声で続ける。
「小春は仁兄様の声が好きです。顔が好きです。人を信じきれずに揺れる瞳も小春にだけ見せる悲しげな笑顔も。そして……人を、小春を捨てきれないその優しさも。だからこそ、そんな仁兄様の重荷に小春はなりたくありません……」
「何を言ってるかさっぱりだ……」
僕は小春の顔をチラリと見やって、彼女の言葉を一蹴した。そのまま話を続けていれば、小春がどこかへ行ってしまいそうな気がしたからだ。
だが、まるで言い残したことを全て吐き終わったかのように微笑んだ小春は、次の瞬間────。僕の肩を乱暴に掴み、身を投げた。
「小春っ!?」
地面を転がる小春に僕は足を止める。だが、彼女はもう……天使達の足元だった。
天使は灰に項垂れる小春を見下ろして、ひどく醜悪な笑顔を見せる。そしてそのうち一体が他の天使を押し除け、小春を握った。
「おいやめろ放せ!!うあっ……!」
僕は小春の元へ駆け寄るが灰に足を取られ、体勢を崩す。
たまらず見上げると、天使はまるで宝石を光に透かすように、瑠璃色に光る月へ小春を掲げた。その表情は恍惚に満ちている。
「こは……る……」
「にい様……」
天使の手の中。小春は僕の方を見て何かを言うそぶりを見せる。その口の動きから推測するに……。
(に・げ・て)
「ダメだ……追いて行けない……小春……」
届くはずのない小春に手を伸ばして……すがるように口から漏れた言葉。それを察したのか、世話のかかる子供を相手するように小春は笑って────天使の手の中で、握りつぶされた。小春の肉片が飛び散り、鮮血が頬に触れる。
「あ……え……?」
目の前の光景に脳が……僕自身が理解を拒む。
「嘘だ……嘘だ嘘だ嘘だ……」
そんなわけがない。さっきまで僕に笑いかけてくれてた。全てを許す優しい瞳で僕を映していたはずだ。まだ覚えてる。息遣いも体温も笑い声も。全部覚えている……。
呼吸が速くなる。思考がまとまらない。現実と幻想の境目が揺らいでいく────。
手から滴り落ちる小春の血。天使はそれを指で舐め取り恍惚の表情を浮かべている。途端、大きな衝撃音。見ると、それを寄越せとばかりに他の天使が襲いかかっていた。
「キヤァァァァァァァァ!!」
「キャハハハハハハハハ!!」
「キャヒャヒャヒャヒャ!!」
「キャハハハハハハハハ!!」
「キャハハハハハハハハ!!」
空気を揺らす耳障りな音。天使達は互いを攻撃し合っている。腕を落とし、足を捥ぎ、翼を毟るその光景をただ、僕は呆然と見ていた。
やがて、片腕片翼を無くした天使一体だけが残った。その天使と不意に目が合う。
「ひっ……!」
そしてそいつは次の狙いを定めるように、血のような赤い瞳で僕を凝視し……そして────
「キャハハハハハハハハハハハハハハハ────ッ!!」
おもちゃを見つけた童子のようにこちらに向かって片翼を広げた。
「────ッ!!」
恐怖。それだけが僕の心を支配した。
僕は咄嗟に走り出した。在らん限りの力を絞り出し、筋肉を動かす。
「あっ……!」
「ヒャアッ!!」
また灰に足を取られ、体勢を崩すが、それが運よくハルパーの横薙ぎを避ける結果になった。僕はまた走り出す。
血が……血が服に……。誰の血だ……?血……ああ…あああああああああ!!
脳の熱が引いていき、明瞭になった思考が現実を伝え始める。
小春が死んだ……!小春が!小春小春小春!!
「ああ────ああ……ああああああああああああああ!!!」
僕は叫んだ。小春が死んだ事実に。自らの無力さに。そしてこの残酷な世界を呪って。
だがそれすら許さないとばかりに、天使の振り下ろしたハルパーが僕の背を撫でた。
「キャヒャアァァァッ!!
「ぐあぁ────ッ!!」
彫刻らしからぬ光速の攻撃に、音と風が遅れて訪れる。
熱が集中し、痛みが背中を噛みつき始める。だが、僕はフラフラと屍のように灰の砂漠を歩み続けた。
ああくそ、痛い……。なんで……なんで……こんな理不尽が許される……!なんなんだこの世界は……!!なぜ……なんで僕たちなんだ!!
思えば運に見放され続けた人生だった。けど、そんな人生にも希望を見出せていたのは小春がいたからだ。どれだけ家族から蔑まれ暴力を振るわれようと、小春がいればあんなクソみたいな世界でも生きていたいと思えた。
だが……小春がいない今、僕はなんのために走っているんだ……?もう……頑張る必要なんて果たしてあるのか────?
ドクンッと胸がなる。
気付いてはいけなかった。気付いたらもう、走れなくなってしまうのは分かっていたはずなのに。
走る脚から力が抜け、段々とその動きを止める。もはや天を仰ぐことしかできなくなった僕は、やがて砂漠の真ん中で完全に停止した。
「ヒャヒャヒャヒャッ!」
立ち尽くす僕を嘲笑うような声が背後から聞こえる。
うるせぇよ……悪魔が。
僕は首をゆっくりと動かし、自分の運命を終わらせるであろう悪魔の顔に目を細めた。
「誰を恨めばいいんだ。クソッタレ……」
空虚に溢れた僕の呟き。だがその刹那────殺されたと思っていた、両翼を失った天使が目の前まで迫っていた天使を襲った。
「キャハハハハハハ!!」
「キヤァァァァァァァァァァァァ!!」
最後の足掻きとばかりの攻撃に、襲われた天使は怒りを露わにする。そして耳障りな殺し合いが目の前で再度繰り広げられる。もはや僕など奴らの眼中にない。
「これなら……」
僕は、自分の口から無意識に溢れた言葉に目を丸くした。
これなら……?これなら、なんだ?生きる理由なんてないはずだろ?七織仁?
その時ふと、小春の最後の言葉が頭をよぎった。
(逃げて。)
たった、それだけ。別れの挨拶にしてはあまりにも短い言葉。だがその一言のせいで……その一言のおかげで……僕はまだ────。
そうか────。
僕の脚がまた動き始める。
僕の全てを、君を失ってなお、まだ生きろというのか。小春……。
耳に残った小春の言葉が、絶望に塗られた小春の死の瞬間が、僕の頭でループする。
一緒に全てを忘れてやり直そうって言ったじゃないか。なんで先に死んだんだ。なんで僕を置いていく。なんで、なんで君はそんな望みを僕に託したんだ!!
一度捨てたはずの命。だが、まだ持っていろと突き返された現実に、僕は歯噛みして走る走る走る。
苦しい。辛い。会いたい。だが、託されてしまった。呪われてしまった。生きなさいと、言われてしまった……!!
呼吸が嗚咽に変わり、心臓が大太鼓のように胸を叩き続け、体中を痛みが這いずり回ってもなお、動き続ける自分自身にただ……全てを委ねて。
ああそうだ。それでいい。『逃げろ』そう託された彼女の願いに、ただ身を任せて。灰を駆けろ七織仁────!!
静かだったはずの灰の砂漠には、いつの間にか強烈な風が吹き荒れていた。灰が宙を舞い、絶えず体を殴る。だが僕は無心に走り続けた。
「────ヒャヒャヒャッ!!」
その時、またあの不気味な声が背に聞こえた。
「げほっ……!はぁはぁ────あっ……!」
脚を引きずり込もうとする灰に、僕は足を取られる。
重心が傾き、転んでしまう。
「キャヒャヒャヒャッ!!」
背後から、僕を天に誘わんと、天使が迫る。
くそくそくそくそ!!逃げないと!逃げないといけないんだ!!
後ろに手をついて、僕は後ずさる。
彫刻が眼前にまで迫る。そして天使とは思えぬ下卑た笑みを浮かべたそいつは、ハルパーを振り上げた。
「ヒャヒャヒャぁ────あぁっ!?」
振り下ろす瞬間だった。死にかけだが、確かにあったはずの天使の上半身が余すことなく全て、抉れて消えた。
「────!?」
天使像の背後。灰色の嵐の中で巨大な影が揺れる。
それを見て僕は、なるほど。と理解が及ばないながらに納得した。
あいつの彫刻の姿。あれは擬態だ。自らより強大で、格上の捕食者から逃れるための隠れ蓑だったんだ。
「はははっ……」
抗いようのない現実に。だが、目の前の欠けた彫刻を見て笑いが溢れた。
所詮この世も弱肉強食。強者が弱者を無慈悲に殺す単純で残酷な世界。
だが、なんだ、クソッタレ。天使も鶏側だったのかと、僕は笑わずにはいられなかった。
「ははははは……ははははははははは────────っ!!」
どこも同じだ。どの世界もそうやって廻っている。
散々笑い。このクソッタレの世界に中指を立てて。そして「はぁ」と小さく息をこぼす。
「十分やった。これなら小春も許してくれるだろ……」
目の前で大口を開く巨大なワームを見上げて、ただ……
「それでも怒られたら……そうだな、許してくれるまで一緒にいよう。時間は……たくさんあるはずだ」
誰に向けてかもわからない言葉を吐き終わり。運命に身を委ねて、僕は目を閉じた。
しかし、しばらくしても痛みが訪れることはなかった。
「……?」
眼を開くと、ワームがくるりと方向を変え、砂漠に潜っていくのが見えた。
「見逃……されたのか……?」
ワームが完全に灰の砂漠に消えていったのを見て、生き延びた。その事実に体が脱力する。
だが、まだ嵐は止んでいない。このままではいずれ死んでしまう。
僕は立ちあがろうと脚に力を入れる。
「はや……くど……こかへ────」
あれ……?何で体が横たわって────
立ちあがろうとする体が傾き、自分が灰に埋もれたのに、僕は遅れて気づいた。再度起き上がる気力なんてものは、とうに使い果たしていた。
意識が微睡んでいく。うるさかったはずの嵐も、今は遠い。ゆっくりと降りる瞼、それに委ねてはダメだと分かってる。分かっているが────、もう……眠い……。




