閑職を押しつけられたので、その足で立ち入ります
「書庫に籠もってばかりの弟には、書庫の奥の役目がお似合いでしょう。――監察使はいかがです、陛下」
第二王子ディートリヒ兄上がそう言って笑うと、玉座の間に並んだ王族と大貴族も、合わせたように笑った。
今日は俺の成人の儀だ。グレンヴァルト王国の王子は、十六の秋に王から一つ役目をもらう。祭りの主、騎士団の名誉団長、外交の使節。どれも王家の誰かが代々務めてきた名誉職で、居並ぶ者が薦め、王が決める。
そして監察使は、二百年誰も就いていない役目だった。王宮では「飾りの印を預かるだけの閑職」として知られている。侍女上がりの側妃の子で、後ろ盾の一つもない第六王子には、たしかにお似合いの冗談だろう。
笑い声の中で、俺は頭を下げたまま、奥歯を噛んでいた。
顔に出したら、全部台無しになる。
俺には、前世の記憶がある。日本という国で、労働基準監督官をしていた。会社に立ち入って帳簿を見て、働かせすぎを止める仕事だ。それを長く続けて、最後は自分の働きすぎで、監督署の机の上で死んだ。人に「休め」と言い続けた男の死に方としては、たぶん一番みっともない。
その俺が、この国の古い勅を十年かけて読んで、ずっと欲しかった役目が、今、兄上の悪ふざけで目の前に転がってきた。
――天職だ。
「よかろう」
父上、国王ヴィルベルト三世が、短く言った。
宝物庫の役人が、埃をかぶった小箱を運んでくる。中には掌に収まるほどの銀の印章が一つ。印面には、開いた手のひらの紋が彫ってある。
父上はそれを俺の手に載せ、俺にしか聞こえない声で言った。
「印の重さを、量り違えるな」
顔を上げると、父上はもう玉座の奥を見ていた。何を考えているのか分からないと宮廷で言われる人だ。俺にも分からない。
広間がまた少し笑った。兄上が「おめでとう、セオドリク。書庫の守りは任せたよ」と言い、何人かがそれに乗る。
俺は銀印を鎖に通して首に下げ、深く礼をした。
◇
儀が終わると、王族は祝いの宴へ流れていく。俺は宴に出る気がなかった。早く書庫へ行って、勅の写しをもう一度読みたい。
玉座の間を出た回廊には、騎士が一列に並んでいた。儀式の警護だ。灰色の外套に胸当て、そして全員が女だった。
王国騎士団の第九中隊。女騎士ばかりを集めた中隊で、騎士団の中では「数合わせ」と呼ばれている。書庫の記録で名前だけは知っていた。
近くで見て、俺は足を止めた。
顔色が悪い。全員の目の下に、墨を塗ったような隈がある。背筋だけはまっすぐなのに、立っている脚が小刻みに揺れている。前世で、この顔を何度も見た。夜勤明けにそのまま日勤に入らされた人の顔だ。
後ろから、兄上と騎士団長のザイデル伯爵が、話しながら歩いてきた。
その時、列の端の小柄な見習いが、ふっと膝から崩れた。
立ったまま眠ったのだ。亜麻色のおさげが床に落ちる。
「立て」
ザイデル団長が、足も止めずに言った。
「騎士の名誉は、眠りより重い」
見習いの少女は「は、はい」と手をついて立とうとした。立てない。脚に力が入らない。そして、右の手首を左手で押さえて、声を殺した。
手首の誓約紋が、赤く光っていた。
この国で人に仕える者は、主と「誓約」を結ぶ。主の命に背けば、手首に浮いた銀の紋が焼ける。立てと命じられて立てない者は、命に背いたことになる。
少女は焼ける痛みに歯を食いしばり、それでも立とうとして、また崩れた。
俺は少女の横に膝をついた。
「最後に眠ったのはいつですか」
少女は答えられなかった。唇が震えて、言葉にならない。
代わりに、隣の大柄な赤毛の女騎士が言った。
「三晩前です。こいつ、三晩続けて夜番に立って、そのまま今朝の警護に回されました」
「カーヤ」
列の先頭で、銀に近い金髪の女騎士が低く止めた。隊長だろう。彼女は何か言いかけて、俺を見て、黙った。その目の下の隈が、隊の誰よりも濃かった。
眠らずに倒れた者に、立てと命じる。
前世なら、是正勧告で済む話じゃない。
俺は首から銀印を外し、少女の手首の紋に当てた。熱い。紋の熱が、銀を通して指に伝わってくる。
「監察使として申し立てます」
声が、思ったより落ち着いていた。
「この者は三晩眠っていません。眠らずに倒れた者に、立てと命じることは、仕える者の眠りと命を奪う使い方です。誓約の勅に背きます」
一瞬、何も起きなかった。
回廊の誰かが、鼻で笑う気配がした。
次の瞬間、掌の中で、銀印が熱を持った。
白い光が一度だけ紋の上を走り、少女の手首の赤い光が、すっと消えた。
少女が、自分の手首を見た。
押さえていた左手を、そっと離す。焼けていない。紋はそのまま、銀色の細い線が手首を巻いている。ただ、もう光っていない。
「……痛く、ない」
少女の目から、ぼろぼろと涙が落ちた。
列に並んでいた女騎士たちが、一斉に自分の手首を見た。何も変わっていないのを確かめて、それから、泣いている見習いと、俺の手の銀印を見た。赤毛の女騎士は、自分の手首と見習いの手首を見比べたまま固まっている。隊長は、拳を握ったまま動かない。
回廊の向こうで、宴へ向かっていた貴族たちが足を止めていた。
「今のは」
「閑職の印が、光ったぞ」
「誓約の焼けを止めた……?」
ざわめきが、回廊の天井に広がっていく。
兄上の顔から、笑みが一瞬だけ消えた。すぐに戻ったが、目は笑っていなかった。
ザイデル団長は、足を止めてこちらを振り返っていた。勲章を並べた黒い軍服の胸が、大きく上下している。
「……閑職の、印が」
それきり、団長は言葉を探すように口を動かした。
俺は立ち上がり、銀印を鎖に戻した。
「印が本物で、助かりました」
本当にそう思った。何年も読んできた勅が書庫の作り話だったら、俺はここで王宮一の笑いものになっていた。
それから、列の先頭の隊長に向き直った。
「この方を、どこかで横にしてあげてください。それと、もう一つ伺います。昨夜、眠っていない方はいますか」
隊長は答えなかった。
代わりに、赤毛のカーヤが黙って手を挙げた。その隣の、そばかすの若い女騎士が挙げた。一人、また一人と、灰色の外套の袖が上がっていく。列の半分を過ぎても、止まらない。
最後まで手を下ろしていたのは、隊長だけだった。
隊で一番濃い隈をした人が、一人だけ「眠った」と言っている。前世の現場で、こういう人を何人も見た。部下を守るために自分の分を削って、最後に一番先に倒れる人だ。
団長が、ようやく声を取り戻した。
「第六王子殿下。騎士団のことに、口を出されるおつもりか」
口を出すつもりかと聞かれたら、答えは一つしかない。働きすぎの誰かを見つけたら、その日のうちに行く。前世で一度、それを一週間遅らせて、取り返しのつかないことになった。
「監察使として、騎士団に立ち入ります」
俺は団長の目を見て言った。
「――今日のうちに」
お読みいただきありがとうございます。人の働きすぎを止めて、自分の働きすぎで死んだ元監督官が、今度は王子として立ち入ります。続きが気になったら、ブックマークと、下の☆での評価で応援してもらえると嬉しいです。




