8 相合傘優先権
私の家の前を通り過ぎて、前に莉里ちゃんと遊んだ公園へ向かう。
滑り台を滑ったり、ブランコをしたりと楽しんでいる子どもたちのはしゃいだ声を聞きながら、私たちは無言で公園の中を横切って、あまり人気の無い、隅っこのベンチに腰を下ろした。
「なんか、飲みますか?」
近くの自販機にちらりと視線を遣って、伊月くんがそう尋ねてくれる。
「大丈夫。喉、乾いてない」
恐怖の名残と、今はそれを上回る安堵で胸がいっぱいで、何か飲みたい、なんて気持ちは沸いてこなかった。
「じゃあ、水買ってきます。ここで待ってて下さい」
そう言って、立ち上がりながらごく自然に伊月くんが離そうとした手を、私はぎゅっと掴んでしまった。
「え?」
驚いたような、少し戸惑ったような声を上げて、伊月くんが私を見下ろしてくる。
「あっ、えっと、あ……、や、やっぱり私も、自販機、見に行こうかなあって」
めちゃくちゃ不自然に吃りながら、私も慌てて立ち上がる。
伊月くんは何か言いたげな様子で私を見下ろしていたけれど、特に何も言わず、そのまま自販機の方へ歩き出した。
繋いだ手をそのままにされたことに、ほっとする。
できたら、このままもう死ぬまで、この手を掴んでいたい。
離したくない。
そんなことを思ってから、自分でその思考回路にドン引きする。
怖すぎるし、重すぎる。
結局、自販機で伊月くんがココアを買ってくれた。伊月くんはメロンソーダを買って、私たちはそれぞれ缶を片手に持って、ベンチに戻った。
やっぱり、メロンソーダ好きなのかな。
なんだか可愛いな、なんて思ってしまう。
ベンチに戻ったら、また手を離されるかと思ったけど、伊月くんは離さないでいてくれた。
手を離さないと、缶のプルタブを開けられない。
私、めっちゃ迷惑なやつだ。
そうと分かっていて、でも、自分から手を離すのがあまりにも惜しくて、離せない。
そのまま暫く黙っていたら、伊月くんが、ふいに口を開いた。
「さっきの人は、知り合い……なんですよね?」
ちょっと逡巡する様子を見せながら、そう問い掛けられる。
「う、ん。知り合いというか……私のバイト先の先輩の、大学のサークルの人なんだけど。私も、今日はそのサークルの集まりに参加させてもらってて……」
私の知り合いではないんだけど、赤の他人とも言えなくて、ごにょごにょと言い訳するみたいに説明する。
「……。人の趣味に口出すのもどうかと思うけど、流石に……。もうちょっと選んだ方がいいと思います」
心なしか、いつもより少し冷ややかな声が、隣から降ってきた。
人の趣味とか、選ぶとか、なんのこと?
そんな風に思ったのは、ほんの一瞬だった。
私がさっきの人のことを、いいなって思ってた、って勘違いされてるってこと!?
流石にそれは我慢ならなくて、私は慌てて口を開いた。
「選んでないよ!」
「じゃあ、無視できなくて困ってただけですか?」
図星だったので、返事に困ってしまう。
言葉に詰まった私を見下ろして、伊月くんは小さく息を吐いた。
「どうするつもりだったんですか? あのまま誰も通り掛からなかったら、大人のデートとやらに行く流れになってた気がしますけど」
「行かないよ! 断ってた!」
もし伊月くんが通り掛からなくても、私はなんとか頑張ってお断りしたはずだ。絶対に、テコでもついていくつもりなんてなかった。
「携帯会社のセールスも断れないのに?」
ほんの少し、突き放すような言い方で問い掛けられる。
さっきから、伊月くんの声音がいつになく冷たい気がして、心がきゅうっと痛くなる。
確かに、あの時も助けて貰ったけど、でも。
だけど……なんで伊月くんに、こんなこと言われなきゃならないんだろう。
助けてくれて嬉しかったし、やっぱり私は伊月くんが好きだ。
でも。
伊月くんには、関係ないはずだ。
——他に好きな人がいて、振り向いてくれない人なのに。
知らない女の子と親しげに帰っていた姿を思い出して、はっとして繋いだ手を離す。
伊月くんの片思いなのか、恋人同士になっているのかは分からないけど、もし彼女がいるのだとしたら、他の女と手なんか繋いじゃ駄目だ。
いくら縋られたとしても、それは優しいの範疇を超えていると思う。
ふ、と顔を上げたら、滲んだ視界の中で、伊月くんが驚いたような表情で私を見下ろしていた。
いつの間にか瞳から零れ落ちた涙が、ぽろぽろと頬を伝って落ちていく。
助けて貰って、こんなこと思うの絶対間違ってるけど、でも。
その気も無いのに、こんな風に手を繋いで、連れ出してくれて。
私が震えていたからって、手を繋いだままでいてくれて。
思わせ振りで酷いのは、伊月くんの方なのに。
さっきから何を責められているのか、分からない。
「長渡、さん」
伊月くんは、掠れた声で私の名前を呼んで、それから、少し気まずそうに視線を落とした。
肩紐を回して、前に持ってきたメッセンジャーバッグからハンカチを取り出すと、私の頬にそっと押し当ててくれる。
慣れた手つきで頬を拭われて、余計に涙が溢れ出した。きっと、いつも莉里ちゃんにしてあげるみたいに、してくれているんだろう。
「……ごめん。怖い思いしたのに説教みたいなこと言って」
重い息を吐きながら、伊月くんは静かな声でそう言った。
泣き止まなきゃって思うけど、溢れ出した涙が止まらなくて、伊月くんのハンカチはあっと言う間にびしょびしょになってしまった。
「う、うう……っ」
喋ろうとしても嗚咽が溢れて、言葉にならない。
こんなにしゃくりあげるほど泣いてたら、幼児みたいな扱いされても、文句なんて言えない。
優しくしないでって言いたいのに、頬を拭ってくれる手を振り払えない。
さっきみたいにそっけなくされるのは嫌だ。でも、やっぱりその方がいい。だってこんな風に優しくされたら、余計に苦しくなる。
伊月くんは、何故か傷付いたような表情を浮かべて、小さく息を吐いた。目元を拭ってくれていた手が、諦めたように離される。
そうだよね、こんなにぼろぼろに泣いてたらもう拭いても無駄だって、呆れられても仕方がない。
そう思った瞬間、そっと抱き寄せられた。背中に腕を回されて、大きな手のひらで、ぽんぽんと背中を叩かれる。
「……こわかったね。大丈夫、大丈夫」
小さい子をあやすみたいなその手つきも、声も、あまりに優しい。
優し過ぎて、胸が痛い。
まるで幼子みたいな扱いをされているのに、それが嫌じゃなくて、伊月くんの腕のあたたかさにほっとしてしまう。
こわかったから泣いてるんじゃない。
そうじゃないのにって思うけど、そんなことも言えないくらい、もう涙が溢れて止まらない。
ボロボロ泣いてるこんな幼児みたいな女、絶対好きになるわけない。
でもこんな風に優しくされたら、こっちは好きになるに決まってる。
もうこれ以上無いくらい、苦しいくらいに好きなのに。これ以上なんて無理なのに。
抱え切れなくなった想いがぶわっと溢れ出して、余計に涙が止まらなくなる。大粒の涙が頬を伝っていった。
「うう……、好き」
気付いたら、ぽつりとそう口にしていた。
「え?」
「やっぱり……、わたし、伊月くんが……すき」
ぼろぼろ零れ落ちる涙と嗚咽と一緒に、気持ちが溢れて止まらない。
ぐちゃぐちゃになった頬を手の甲で拭おうとするけれど、正直追いつかないくらいの勢いで、どんどん涙が溢れてくる。
「諦められなくなるから……あんまり、優しくしないで。これ以上好きになったら、困る……」
いつの間にか、背中を優しく叩いてくれていた手は離されていた。
少し身を離した伊月くんが、呆気に取られたような顔で私を見ている。
「は? ……え?」
ただただ戸惑っているような、困惑しているような声が降ってくる。
「え? 俺のこと……を、好きなんですか?」
その声は本当に驚いて、戸惑っているようにしか聞こえない。
もしかして、気付いていなかったの? と驚きが込み上げてきた。
だったら、振られたと思ったのは……あの時の好きな人に向けた言葉は、私への牽制なんかじゃ、無かったのかな。
「うん。すき」
こくりと頷いたら、伊月くんは狼狽する様子を見せながら、いつもより少し低い声で言った。
「だ……ったら……、なんであんな変な男とカラオケとか行ってんの……?」
ほんの一瞬何故か、責められたような気持ちになってひやりとしたけれど、よく考えたら、私は叱られるようなことはしていない……はずだ。
「振られたから、他に好きな人を作ろうと思って」
私の言葉に、伊月くんは少し眉根を寄せる。
「振られたって、誰に?」
「伊月くんに……」
まさか、自覚が無い?
もしかして、本当に私の好意に気付いていなくて、あの時はただ純粋に自分の好きな人の話をしただけだったの?
驚きで私の涙も止まってしまった。
伊月くんが、そんなにも鈍感な人だなんて思わなかった。
私の好意なんて、バレバレだと思ってたのに。
「……全然心当たりが無いんですけど」
伊月くんはちょっと顔を顰めて、思い出そうとするみたいに、片手の指先を側頭に当てる。
「パンケーキ食べに行った時に……好きなタイプ聞いたら、凄い具体的な答えをくれたでしょ? あの時に、誰か、思い浮かべてる人がいるんだなって思ったんだけど……」
遠回しに振っているつもりは無かったってこと、なのかな。内心パニックになりつつ、しどろもどろに説明する。涙は完全に引っ込んでしまって、私は目尻に溜まった涙を指先で拭った。
伊月くんはそんな私を見て、呆気に取られたような表情を浮かべている。
そして一瞬の後、はあー……、と聞いたこともないような大きなため息を吐いた。
「……流石に、鈍すぎませんか」
何にかは分からないけれど、凄く呆れられていることだけは、わかる。
なんだか、理不尽だ。
私は戸惑いながらも、口を開いた。
「に、鈍いのは伊月くんじゃない? 女の子に、二人でお出掛けしようって誘われて、好きなタイプ聞かれても、こいつ俺のこと好きなんだなって気付かなかったんでしょ?」
鈍いと言われたのが腑に落ちなくて思わずそう反論したら、伊月くんはちょっとだけ居心地悪そうに、唇を引き結んだ。
「いや、流石に……もしかしたらそうなのかな、とは思ってましたよ」
「え?!」
予想とは違う返答に、素っ頓狂な声を上げてしまう。
「だから、俺も……長渡さんの好きなところを伝えたつもりなんですけど」
「は……い? え……?」
今度は、私が困惑する番だった。
私の、好きなところ?
「ふわふわの砂糖菓子みたいな、儚げで守ってあげたくなる年下の女の子……に、何一つ掠ってなくない?」
あまりにも納得がいかなくて、そう声を上げたら、伊月くんは怪訝そうな表情を浮かべた。
「砂糖菓子……? え、俺そんなこと言った? いや、絶対言ってないですよね?」
伊月くんは頭に添えたままだった指先で、ぐりぐりとこめかみの辺りを押している。
この状況で、そんな仕草もかっこいい、とか思ってしまう空気を読まない私の恋心、本当にどうにかして欲しい。
なんて言ってたか、なんて。
そんなの、ショックすぎて全部ちゃんと覚えてる。
「小さくて、ふわふわしてて。いつも楽しそうだけど、ちょっとおっちょこちょいで、手を引いて……」
「復唱しなくていいです!!」
いつになく大きな声で、伊月くんが私の言葉を遮った。
「でも、ほら。砂糖菓子なんて誰も言ってない」
「小さい……は、年齢の話かと思って。身長の話なら、確かに私も小さい……けど、でも、ふわふわはしてないよね?」
ふわふわって、もっとおっとりした可愛らしい女の子のイメージだ。
「いや、ふわふわしてると思いますけど。ちょっと目を離したら、すぐ飛んでってしまいそうっていうか。常に空中をスキップしながら歩いてる感じっていうか……」
「えっ!?」
なにそれ、落ち着きがないってこと?!
糸が切れた凧みたいな、地に足がついてないみたいな、そういうふわふわってこと!?
褒められてないし、それに何より、思ってたのと違いすぎる。そんなの、わかるわけない!
確かに、”背が低くて落ち着きがなくて、いつも楽しそうだけど鈍臭くて、伊月くんに手を引いてもらっている人間”に言い換えれるんだとしたら、それはもしかしたら私かも、て思うかもしれない。
可愛いかどうかは、主観なのでさておくとして——。
え、いや待って、可愛い?
あの時の可愛い、って、私に向けられた言葉だったってこと……!?
待って待って。伊月くんも、私のことを——好きってこと?
少し遅れて、漸くそう思い至った瞬間、一気に鼓動が早鐘を打ち始めた。
「え? ええ……!? 私……!?!?」
そんなに私に都合の良いことがあるんだろうか。にわかには信じられないのに、心臓だけはばっくんばっくんとうるさく鳴り響いている。
「あの後長渡さんが、露骨にショック受けた顔して謝って帰っちゃったから、長渡さんにはそういうつもりは無かったのか、って思ってたんですけど……」
「あっ、あります!!」
頭の中は大混乱だったけど、とりあえず凄い勢いで言葉を遮るように、片手を上げた。
「あります! というか、そういうつもりしかないです! 伊月くんが好き! 大好きです!! 誰より好きな自信があります!」
大きな声で宣言したら、伊月くんはちょっとびっくりしたみたいに動きを止めた。
それから——みるみるうちに、伊月くんの頬が赤く染まっていく。
「伊月くん?」
思わず顔を覗き込もうとしたら、まるでそれを封じるように、唐突に腕を引き寄せられて。
そのままぎゅうっと、強い力で抱き締められた。
「わっ」
さっき、背中をぽんぽんしてくれたときみたいな、優しい抱擁とは全然違う。
隙間が無くなるくらいに強く抱き締められて、一瞬、混乱して頭の中が真っ白になる。
「俺も、好きです。……気付いたら、意味わかんないくらい」
触れ合った身体から、少し低めの涼やかな声が響いてくる。大好きな声が紡いだ、その言葉の意味を理解した瞬間に、ぶわっと一気に顔に熱が上った。
さっき、伊月くんの顔が赤い、なんて思ってしまったけど、多分今は私の方がもっとずっと真っ赤になっているだろう。自分でもそうと分かるくらいに、頬が発火しそうなくらいに熱い。
「回りくどい言い方しないで、ちゃんと言えば良かった。ごめん」
その声があまりにも優しくて、一度止まったはずの涙が、ぶわっと溢れてきた。
嘘みたい。
痛いくらいに抱き締めてくれる腕の力とか、触れている体温の熱さが、夢じゃなくて現実だって証明してくれているのに、全然実感が湧かなくて、なんか夢でも見てるみたいに、ぼんやりしてしまう。
現実があまりに現実離れしている。こんなのって、初めてだ。
「ほんとに? 本当に私のこと? 誰かと間違えてない?」
感情が昂って、問い掛ける声は少し震えてしまった。
正直、好きな人の話が私のことだったって聞いても、あんまりにもピンと来ていない。
落ち着きがなくて、手を離したらどこかへ飛んでいきそうな、糸の切れた凧みたいな女。さらに言えば、スカートは砂まみれにするし、鼻水まで垂らしてボロボロ泣き出す、幼児みたいな年上の女。
そんな女のどこがいいの? って感じだし、理解できない。
私だったら絶対嫌だ。
「どうやって間違えるんですか」
頭上から、少し笑い混じりの呆れたような声が降ってくる。
「ちゃんと長渡さんが……、ひまりが好き、だよ」
ふいうちの名前呼びに、胸がきゅうっとなる。
伊月くんの優しい声、録音して毎朝再生したい。そんな変態みたいなことを思いながら、私はおそるおそる伊月くんの背中に手を回して、そうっと抱き締め返した。
「うう。伊月くん、趣味、へんだよ」
めちゃくちゃ嬉しいのに、流石に理解できなくて、思わず、そんな可愛げのない言葉が溢れる。
伊月くんがふっと笑った吐息が、耳に落ちてきてくすぐったい。
「変じゃないです」
こんな私でもいいと言うのなら、伊月くんの好みが変だということに感謝するしかない。
「嬉しい。もう、諦めなくていい? 伊月くんのこと好きなままでいていいの?」
「そうしてくれないと困ります。もう、合コンとか行かないで下さいね」
やきもちを焼いてくれているみたいに聞こえて、嬉しくて、私はぶんぶんと力強く頷いた。
「行かない、一生行かない! 伊月くんも行っちゃ駄目だよ?」
「行きません。そもそも、中学生の周囲にそんなものないです」
少し笑い混じりに、冷静な返答が返ってきて言葉に詰まる。
「うう、合コンじゃ無くても、クラスの女の子とあんまり仲良くしすぎないでね」
「え?」
ちょっと不思議そうな声が返ってきて、私ははたと我に返った。
いやいやいや、流石に。流石にそれは束縛が過ぎる。
自分でもちょっと引く。
「な、なんでもない。今の無しね」
「クラスの女子と仲良くしてたら嫌なんですか?」
いつもなら、私がなんでもないって言ったら、誤魔化されてくれるのに。
何故か今日に限って聞こえなかったみたいに、そっと背中に回されていた腕を離される。
涙と鼻水でボロボロ……なのは、今更かもしれないけど。
絶対今、恥ずかしくて真っ赤になっている顔を見られたくないのに、伊月くんは少しだけ身体を離して、小首を傾げて顔を覗き込んでくる。
さっきは赤く見えた頬は、何事も無かったかのように落ち着いて見える。
ずるい。
こっちはもう、発火するんじゃないかって不安になるくらい、顔どころか全身が熱いのに。
「なんでもないって、言ったのに」
慌てて顔を逸らしたら、小さく笑われた気配がした。
「そんな心配しなくても、仲良い女子とかいないんで」
そう言われて、脳裏に、数日前の雨の日のことが過ぎる。
女の子と、相合傘してたじゃん。
仲良さそうに、はいはいって、おざなりな相槌を打って——。
もしかして、あれくらいのことは、伊月くんにとっては仲良いの範疇に入らない?
なんだか、急に不安になってきた。
「伊月くんにとっての、仲良い、の範疇が分かんないけど、私は、他の女の子と相合傘とかされるのも、本当は……やだな」
我儘なことを言っている自覚はある。
大雨の日に傘を持っていなかったとして、誰かが入れてくれようとしたのに——それを断って、びしょ濡れになって欲しいなんて、非道なことを思っているわけじゃない。
ふと顔を上げたら、伊月くんは少し驚いたみたいに目を丸くして私を見下ろしていた。
しまった。本当に面倒臭いことを言ってしまった。
私は恥ずかしくなって、慌ててぶんぶんと頭を横に振る。
「うう、本当に今の無し」
「えっと……すみません。今思い出したんですけど、もしかして、この前帰りに会った時のこと言ってますか?」
伊月くんも、あの日のことだと気がついたみたいだ。
私はうう、と言葉にならないくぐもった声を発しながらも、言い逃れできずに、こくりと頷いた。
「あれは、上の妹です」
「え?」
予想外の言葉が降ってきて、私はぽかんとして伊月くんを見上げてしまった。
「たまたま帰りに会ったから入れてくれただけですよ」
「い、もうと……さん」
そういえば、莉里ちゃんの他にも妹さんと弟さんがいるのだと言っていたっけ……。すっかり忘れてしまっていたし、全然思い至らなかった。
「小さくて、髪の毛とかもふわふわ、だったから……好きな子かと、思って」
「まだ一年生なんで、確かに小さいですけど。……え、もしかしてそれで、俺の顔見て逃げちゃったんですか?」
時間差で、やきもちを暴かれるの勘弁してもらいたい。
しかも相手が妹さんだったとか最悪オブ最悪だ。
私はもう羞恥に耐えられなくて、両手で顔を覆った。
「うう、通りで、親しげだなあと思った!」
呻くような声を上げていたら、楽しそうな笑い声が降ってくる。
恥ずかしい。
まあ、ドン引きしないで笑ってくれているだけ、良かったけど。
「やだ、もう、恥ずかしい。伊月くん、笑わないで」
「すみません。今後は、相合傘はしないようにします」
伊月くんは笑いながらそう言ってくれたけど、私はふるふると頭を振った。それから、そっと手のひらを退けて、おそるおそる伊月くんを見上げる。
「やっぱり、それは忘れて。びしょ濡れになって欲しい訳じゃないし、びしょ濡れで困ってる女子を見捨てて欲しい訳でもないから。でも、ただ——」
「ただ?」
伊月くんが、不思議そうに小首を傾げる。
うう、可愛い。
そうやってふいに可愛さ出してくるのやめて欲しい。
「もし、他の人と傘入ってるときに、私が通りがかったら、絶対こっちに来て欲しい。相合傘優先権を主張します。えっと、その……彼女、として」
私は右手を挙げつつ、そう宣言した。
これからは伊月くんの彼女なんだって思っていいんだ……よね?
そう思いつつも、自分で口にするのは恥ずかしくて、最後の方はごにょごにょと小さな声になってしまった。
けれど、ちゃんと聞こえたみたいで、伊月くんはふっと目元を緩めて笑ってくれた。
「なんですか、それ。かわい」
不意打ちのかわい、に胸がぎゅんとなって、私は身悶えした。
もはやきゅん、なんて可愛いものじゃない。心臓を素手で掴まれたみたいなぎゅん、である。
好きすぎてもう、息が苦しい。ときめき死したらどうしよう。
「分かりました。じゃあ、長渡さんも俺に優先権下さいね」
「うん、勿論!!」
私は力強く頷いた。
それから、ずっと気になってたことを、おそるおそる口にした。
「あっ、あと、敬語もやめにしません……か」
「なんで逆にそっちが敬語になってるんですか?」
ちょっと笑いながらそう言いつつ、伊月くんは了承してくれた。
たまにふいうちで出るタメ語も好きだったけど、ずっと敬語だと距離を感じるから、やっぱりタメ語で話して欲しい。
そんな風に少しぎこちなく、ぽつぽつと会話していたら、やがて防災無線から夕方の五時を報せる音楽が響いてきた。
「……そろそろ帰ろっか」
気付いたら、夕日は傾き始めていて、公園で遊んでいた子どもたちもいつの間にかいなくなっていた。そういえば、ここ、公園なんだった。
めっちゃボロボロ泣いたり、抱き締められたりしちゃったけど、誰かに見られていた可能性もあるんだってことに今更ながらに気が付いて、少し恥ずかしくなってくる。
「う、うん」
ベンチから立ち上がった伊月くんが、ごく自然に私の手を握ってくれる。私はその手を握り返しながら、やっぱり慣れているよなあ、と思ってしまった。
でもこれも、彼女のエスコートじゃなくて、幼児扱いなのでは、と少し疑心暗鬼になってしまうけれど、それよりも嬉しい気持ちの方が勝る。
私は立ち上がりながら、ベンチに置いたまま、結局一口も飲んでいないココアの缶を手に取って、鞄にしまった。家に帰って冷やしてから、大事に飲もう。
手を繋いで歩く帰り道は、あっという間だった。
当然のように、公園から反対方向の我が家まで送ってくれる伊月くんの横顔を見上げて、胸がきゅうっとなる。
「どうかした?」
じっと見上げていたら、不思議そうに小首を傾げて問い掛けられる。まだ聞き慣れない気安い喋り方にときめきながら、私はふるふると頭を振った。
「好きだなあって思ってた」
「え?」
ふいを突かれたみたいに、少し驚いたように目を丸くしている。
ちょっと幼く見えるそんな表情も、可愛い。
ほんの少しだけ目尻の上がった、一見クールに見える切れ長の瞳も。
笑ったり驚いたりしたときに、少し幼く見えるところも。
面倒見の良い優しいところも、低くて涼やかな声も。
優しい笑い方も、たまにちょっと意地悪なところさえも。
全部全部、好きすぎて、困る。
好きが溢れて止まらない。
今までどうして、この気持ちを口にせずに過ごして来られたんだろう?
「好きすぎて困る」
思わずそう呟いたら、伊月くんはぱちぱちと瞳を瞬いて、それからすいっと視線を逸らされた。
「俺の方がよっぽど困ってる」
「いや、どこが?」
冷静な声音で返ってきた言葉に、思わずツッコミを入れてしまう。
全然困ってるように、見えないですけど!?
なんか、私ばっかりいっぱいいっぱいになってて、伊月くんってちょっと落ち着いてるというか余裕じゃない?
やっぱり……慣れてる? 過去にお付き合いしてた人とか、いるのかな。
「ねえ、伊月くんって彼女何人いる?」
「……はあ?」
思わず問い掛けた言葉に怪訝そうな、呆れたような声が返ってきて、少し懐かしいような気持ちになる。
そういえば、前にも同じ間違いをしてしまった。
いや、これ懐かしむところじゃないな。
流石に馬鹿すぎて、ちょっと恥ずかしい。
「間違えました。元カノは何人いますか」
「……びっくりした。どこから二股疑惑出てきたのかと思った。元カノとか、いないよ」
「一人も?」
びっくりして問い返したら、私の勢いに戸惑う様子を見せながらもこくりと頷かれる。
「え、じゃあなんでそんな慣れてるの? めっちゃ落ち着いてるの?」
「全然落ち着いてないけど」
伊月くんは唐突に、繋いだ手を持ち上げて、自分の胸に私の手を押し当てた。
押し当てられた手のひらに、ドッドッドッ、と少し早い鼓動の音が伝わってくる。
「ほら」
確かに早い。早いけど。
私よりはゆっくりに感じるのは、気のせい?
「でも、私の方が全然早いよ」
謎に張り合って、今度は伊月くんの手を引っ張って、私の胸に押し当てる。
心音がちゃんと聞こえるように、ぎゅっと押し当てたら、伊月くんは飛び上がるようにして手を離した。
「うわっ、な、なにしてんの!?」
みるみるうちに伊月くんの顔が真っ赤になっていく。
何って、同じことやり返しただけなのに——、一瞬そう思ってから、漸く伊月くんが真っ赤になっている意味を理解して、私は慌てて両手を上げた。
恥ずかしい!!
とんだ痴女じゃん!!
「ちっ、違う、違うの! 私の方がドキドキしてるよって伝えたかっただけなの!! そういうつもりじゃなくて!!」
あわあわする私を見下ろして、伊月くんはちょっと赤い顔のまま、呆れたような表情を浮かべる。
「なんか、長渡さんのそういうとこ、ちょっと不安になるんだけど。俺にもだけど、他の人にもそういうことしないでね」
「しっ、しない! しないよ! そもそも伊月くんにしかドキドキしないし! 心音聞いてもらう必要ないし!」
結局また私が一人で、騒いで慌てている。
う、うう。私ばっかり一人で騒いでるみたいで、なんだか恥ずかしい。
「年上なのに……全然大人のお姉さんっぽいとこ見せれてない……」
思わず、嘆きながら肩を落とす。力なく落とした右手に指を絡めるようにして、伊月くんがまた手を繋ぎ直してくれた。
「長渡さんに……、ひまりに、そういうの求めてないから、大丈夫」
ぐ、ぐぬぬ。
悔しい。めちゃくちゃ悔しいけど、でもちょっと安堵してしまって言葉に詰まる。
「今のままの、大人のお姉さんとは正反対なひまりが好き」
立ち止まった伊月くんに、ぐい、と繋いだ手を引かれて、足を止める。
伊月くんが、優しい声でそう言ってくれた。
好きって言ってくれるのが嬉しくて、一瞬頬が緩みかけたけれど、大人のお姉さんとは正反対って、なんか、ディスられてない?
年上の私としては、流石にその評価はちょっぴり不服で、小さく頬を膨らませる。
「ねえ、伊月くんってちょっと私のこと、子ども扱いしてるよね? 私、幼児じゃなくて、高校生だからね」
そうしたら、伊月くんがそっと身を屈めてきて、ちゅ、と頬にキスを落とされた。
「〜〜〜〜〜!!!」
頬に触れた柔らかいぬくもりにびっくりして、声にならない声を上げながら、頬に手を添えて伊月くんを見上げる。
伊月くんは私の顔を覗き込んだ姿勢のままで、小さく笑った。
「分かってます」




