7 世界中探しても
伊月くんのことばっかり考えていたせいで、正直中間試験の結果は散々だった。まあ、期末試験を頑張ろう……と自分を慰めつつ、エプロンの紐を結んで、衛生帽子を被る。
試験最終日の午後。
試験が終わったので、久し振りにバイトのシフトを入れていた。
金曜——つまり平日なので、お客さんもそんなに多くなくて平和だ。
私が洗い物をしていると、先輩が隣にやってきて、乾いたトレイなんかを片付け始めた。
「そういえば長渡ちゃん、あれからなんか進展あったのー?」
ふと思い出したようにそう訊ねられて、一瞬言葉に詰まる。
そういえば、先輩には伊月くんが買い物に来たのを見られて、片思いしてますって、伝えちゃったんだった……。
「実は、振られちゃいました」
寸胴にこびりついた生地を擦って落としながら、なんてことないようにそう伝える。先輩はびっくりしたように、大きなトレイを持ち上げかけていた手を止めた。
「えっ、そうなの!? ご、ごめん……」
「いえ、もう、吹っ切れたので。大丈夫です。初恋って叶わないって、言いますもんね」
気を遣わせないように、へらりと笑ってそう告げれば、先輩はちょっとほっとしたように目元を緩めた。
「そうだね。うん。あんな思わせぶりな感じしといて振ってくるような男、絶対ロクでもないから、よかったと思うよ」
「思わせぶり、でしたか?」
びっくりしてそう問い返したら、え、うん、と真顔で頷かれる。
「この子、絶対長渡ちゃんのこと好きなんだろうなって思った」
「……それが、残念ながら他に好きな子がいまして。全然、ダメでした」
「他に好きな子いてあの対応なの? 最悪じゃん、魔性の男だよそれは」
もしかしたら、って思っていた私の自意識過剰を、誰でも勘違いするよって認めてもらえたような気がして、少しだけ気持ちが楽になる。
魔性の男、ってなんか伊月くんに似合わない響きすぎて面白い。
でも実際、よく考えたら先輩の言う通りだよね?
好きでもない女に思わせぶり——だったということにしておく——にしていた伊月くんって、魔性の男なのかもしれない。
「世の中には星の数ほどの男がいるからね。長渡ちゃんまだ若いし、他に良い出会いがあるよ」
先輩はそう言って私の肩をぽんぽんと叩きながら、あっ、と何か思い出したように声を上げた。
「そういえば明日、私の友達とかサークルの知り合いとか何人かで遊ぶんだけど、ちょうど一人来れなくなった子がいてね。長渡ちゃん来ない?」
「え。私がですか?」
予想外のお誘いに、寸胴を取り落としそうになった。慌てて持ち上げて、食洗機に伏せる。
「そう。全員大学生だけど、全員知り合い同士ってわけじゃないから、そこまで浮いたりする心配はないと思うよ。全部で十人くらいかな? お昼間だし、一年生ばっかりだからお酒とかも無いし。ちょっとゆるい合コンみたいな感じ」
途中まで、全員女性だと思って聞いていたけれど、合コンみたいなということは、多分男の人も来るんだろう。
どんな感じの集まりになるのか、大学生の知り合いも先輩しかいないから、未知の世界だ。
そんなの絶対人見知りするし、楽しめる気がしない。
あと、普通に知らない人ばっかりのところに行くのってちょっと怖い。先輩のことは信頼しているし尊敬しているけれど、だからと言って他の人たちも信頼できる人だとは限らないし……なんて思うのは、失礼かもしれないけど。
「無理にとは言わないけど、失恋の辛さを忘れるには、やっぱり新しい恋が一番だよー」
お礼だけ言って断ろう、と口を開き掛けていた私は、その言葉に動きを止めた。
……本当に?
いまはまだ、全然イメージなんてできないけど。もし、他に好きな人ができたら、この辛い気持ちは全部、どこかに行ってくれるのかな。
実際に誰かを好きになれるのかは別にしても、行動くらいは起こしてみてもいいのかな。
「行って、みたい……です」
勇気を出してそう呟いたら、先輩は一瞬意外そうに目を見開いた後で、にこっと笑ってくれた。
「うんうん、行こ行こ! 良い出会いがあるかもだし、無くても気分転換にはなると思うし」
◆
『先輩に合コン?に誘われて、急遽行くことになった! 前向きに新しい出会い探してくるね!』
伊月くんのことはもう本当に吹っ切れたんだから、心配しなくていいんだからね、ってことを未央に伝えたくて。
家に帰った後、ぽちぽちとスマホで未央にメッセージを打ったら、すぐに返事が返ってきた。
『え、本気で!? ていうかそれは、信頼できる集まりなの?』
先輩のことは信頼しているから、そう変な人は来ないだろう……って思っているんだけど、正直私もちょっとだけ不安だったりする。
実はちょっとだけ、勢いで参加します、って手を挙げてしまったことを、じわじわ後悔し始めていた。
でも、引きこもってても新しい出会いなんてないし。
自分から前向きに新しい恋を探していかないと、いつまでも伊月くんのことを引きずってしまいそうで怖い。
未央が心配してくれるのが嬉しくて、心がほわんと温かくなる。
『尊敬してる先輩の大学のサークルとかの人みたい。もし合わないなって思ったら途中で帰っても大丈夫だからねって言ってくれてるし、大丈夫だと思う! 月曜に結果報告するね!』
『そっか、楽しんできて』
未央からはシンプルな返事が返ってきて、それでやりとりは終わった。
◆
翌日の午後、私はお気に入りのギンガムチェックのワンピースに、春らしいパステルグリーンのパンプスを履いて、駅前のカラオケルームの隅っこに、所在なく座っていた。
そう、開催地はまさかのカラオケだった。
先輩も知らなかったみたいで、当日聞かされて、カラオケー?! と戸惑っていたくらいだ。
先輩は、歌いたくなかったら無理に歌わなくていいからね、と気を遣ってくれて、実際隣に座ってきた男の人に、何か歌ってよと言われて困っていた時も、間に入ってきて代わりに歌ってくれた。
先輩から聞いていた通り、参加者は私を入れて十人だった。先輩以外の女性も三人とも良い人で、何故か参加している女子高生に対してもとっても優しく声をかけてくれて有り難かったけれど、私は早くも疲れ始めていた。
「ひまりちゃん、本当に歌わないの? 一人で歌うの嫌なんだったら、なんかデュエットでもする?」
隣に座ってきた男性が、そう言って至近距離から顔を覗き込んできて、私は反射的に背中を仰け反らせた。この人は、さっきから何気なく移動しても何度も隣に座ってくるので、正直どうしたら良いのか分からなくて困っていた。
ちょっと気に入られているのかな、なんて思ってしまうのは、自意識過剰なのかもしれない。でも、そんな風に思ってしまうくらいには、私にばかり話し掛けてくる。
とはいえもしかしたら、上手く馴染めない私に気を遣ってくれているだけなのかもしれない。そう思うと、あまりそっけない対応も取りづらい。
「あ、いえ。大丈夫ですので、気にせず、お好きな曲を歌って下さい」
壁際にさりげなく詰めつつ、私は愛想笑いを返す。
別に嫌な人じゃないのかもしれないけど、さっきからずっとじっと見られていて、少し居心地が悪い。
他の人たちは、それぞれ会話したり、歌ったりしているけど、高校生の私には共通の話題もなく、かつ会話上手でもないので、会話も盛り上げられないし、何を歌えば良いのかもわからないし、正直もう帰りたい。
先輩はちょこちょこ私の様子を気にかけてくれてありがたいのだけれど、それもまた申し訳ない。
今は、斜め向かいに座る先輩は隣に座っている男の人と、仲良さそうに話している。どうやら同じサークルの顔見知りの人だったみたいで、彼と話している時の先輩はとても顔が緩んでいて、きらきらしていてめちゃくちゃ可愛い。
多分、彼のことが好きなんだろうな、と勝手に思っている。
せっかくのチャンスだから、私のことなんて気にせずに、自分の恋を頑張って欲しい。せっかく誘ってくれたのに申し訳ないけど、私はタイミングを見て抜けさせてもらおう。
そんなことを思いつつ、入り口側にいた女性にトイレ行ってきます、と小さな声で話し掛けてから、自分の小さな鞄を持って、トイレに向かう。
用を済ませて、手を洗ってトイレを出たら、すぐそばの壁にさっきまで隣に座っていた男の人が立っていた。
ぱちっと目が合うなり、私の方へと一歩近寄って来る。
「え」
まるで待ち伏せされていたみたいでびっくりして、思わず足が一歩後ずさった。
「ねえ、ひまりちゃん。カラオケ楽しめてる? つまんないんじゃない?」
へらへらと笑いながらそう問い掛けられて、どきりとする。
確かに、つまらない。全然楽しめていない。
でも、空気を悪くするつもりなんてないし、露骨に態度には出していないつもりだ。
「正直、俺もそんなにカラオケって好きじゃなくてさ。一緒に抜けない?」
いやいや、さっきまでノリノリで歌っていたのに好きじゃないって、どういうこと?
と、思わず脳内でツッコミを入れつつ、私は慌てて頭を振った。
「あ、いえ。ごめんなさい。門限もあるし、そろそろ帰るので……」
早く帰りたいな、とは思っていたけど、この人と二人で、なんて絶対に嫌だ。一緒に出てすぐに解散するならまだしも、このあと二人で遊びに行こうってことだよね? 絶対考えられない。
「門限って。流石に早すぎるでしょ。箱入りなの?」
確かに、午後三時にもうすぐ門限なので、は盛りすぎたかもしれない。
でも、なんて言って断るのが正しいのか分からない。
変な断り方をしたら逆上されないかな、なんて思うのは、過剰に怖がりすぎなんだろうか?
正直、ここに二人きりで立っているだけでなんだか妙に心細くて、とりあえず部屋に戻りたい。でも、トイレ前の狭い通路で、目の前に立って道を塞がれているような状況だ。途方に暮れながら、私は乾いた愛想笑いを浮かべた。
「あ、はは〜親が結構、厳しくて……」
「そうなんだ。でも、ひまりちゃんだってもう大人なんだから、そうやって過保護にされるのもしんどいでしょ? たまには反抗してみたら?」
もう大人……って、まだ高校生なんですけど。
「門限がそんな時間ってことは、子どもみたいなデートしかしたことないんでしょ? 俺が大人のデートに連れてってあげるよ」
大人のデートってなに? まったく惹かれないどころか、なぜかぞわっと鳥肌が立ってしまった。
「俺、ひまりちゃん可愛いなって気になってたんだよね」
嬉しいでしょ? とでも言うような得意げな顔で笑いかけられたけど、正直、全然嬉しくなんてない。
失礼かもしれないけど、なんだかずっと背筋がぞわぞわしている。
怖い。
誰か、トイレに来ないかな。先輩、気付いてくれないかな。
そんな風に思った瞬間、男の人の向こう側から、声が掛けられた。
「ひまり?」
聞き覚えのある涼やかな声に、はっと顔を上げる。
通路の先に、伊月くんが立っていた。
その顔を見た瞬間、急激な安堵が押し寄せてきて、何故だか泣きそうになった。
「誰だよ」
「知り合い?」
男の人の胡乱げな問いを完全に無視して、伊月くんはちょっと素っ気ない声音で言った。私は返答に詰まる。
だって、なんて説明すればいいのか分からない。
知り合いじゃないけど、今日の集まりに来ると決めたのは私なので、知らない人だ、と無関係かのように答えるのは正しくない気がして。
「あの、えっと」
返すべき言葉が見つからなくて、しどろもどろになってしまう。
そもそも、私が恐怖を感じているような状況なのに、年下の中学生の男の子を、巻き込んで良い訳がない。
知り合いだから大丈夫だよーって言って、それから、自分でどうにか切り抜けるのが正しい方法なんだと思う。
でも。
見捨てないで、ここに置いていかないで、って、思ってしまう。
無意識のうちに、縋るような目で伊月くんを見上げてしまった。
伊月くんはほんの一瞬、わずかに戸惑ったような様子を見せた後、私たちの方へと近寄って来た。
「いや、だからお前誰だよ? ひまりちゃんと話してるのは俺なんだけど」
目の前の男の人が、近寄って来た伊月くんを見上げる。伊月くんの方が背が高いのだ、と私はそこではじめて気がついた。
伊月くんは無表情に男の人を見下ろして、それから、私に視線を移した。
「行きたいんですか? 大人のデート、だっけ」
さっきの話、聞こえていたんだ。
私は、頭が取れるんじゃないか、と思う勢いで、ぶんぶんと横に振った。
「行きたくない。行かない」
「……うん。じゃあ、送ります」
伊月くんは冷静な声でそう言って、それから、私の手をそっと握ってくれた。それから私の手を引くように、その場を離れようとする。
「おい! お前、スカしやがって。無視してんなよ」
背中に掛けられた怒声に、私はびくりと肩を震わせた。伊月くんは私の腕を引いて、私を前に押しやると、男の人を振り返った。
「嫌がられてるのにしつこくするの、やめた方がいいと思いますけど……警察呼びますか?」
そんなことを言って、馬鹿にされたと余計に怒り出さないか不安になったけれど——、男の人ははっと我に返ったような表情になって、そのまま舌打ちすると、私たちの横を足早に通り過ぎて行った。
横を通り過ぎて行く時に、まるで守るみたいに伊月くんが肩をそっと引き寄せてくれて、色んな意味で心臓が飛び出しそうになる。
男の人が去って行くと、伊月くんは何事も無かったかのように、私の手を取って再び歩き出した。
繋いだ手のひらは、緊張のせいですっかり汗ばんでいる。多分、全部私の汗だ。
恥ずかしいけど、でも、絶対に離したくなかった。
「荷物はそれで全部? まだ部屋にありますか?」
ちら、と振り返りながら問い掛けられて、私は首を左右に振る。
「ううん、これだけ」
「じゃあ、ちょっと俺の鞄だけ取らせてください」
伊月くんはそう言って、さっきまでいたのであろう部屋に向かうと、その扉を少し開けた。軽く身を乗り出すようにして、中にいる人と何か話している。扉のすぐ隣に立って待っている私の手を握ったままなのは、多分、私が一瞬でも一人にされるのが怖くて、縋るように手を握ってしまったせいだ。
そんなことにまで気付いてくれるのは、どうしてなの?
優しすぎる。
優しすぎて、困る。
この人より好きになれる人なんて、絶対、世界中探してもいない。
「——ん、ありがと。後で払うから。ごめん」
鞄を受け取ったらしき伊月くんがそう言って、会話を終わらせて扉を閉める。
私はその声を聞いて、私も帰るなら先輩に連絡しなきゃいけないのか、とか、お金もまだ払ってなかった、とか、色んなことに気がついた。
本当に、私ってなんでこうなんだろう。
でも、今更部屋に戻るのは怖い。申し訳ないけれど、先輩にはメッセージアプリで連絡を入れさせてもらうことにして、少し震える手で、短いメッセージを打ち込んで送る。
それから、伊月くんに手を引かれるまま、店を出た。
伊月くんは私の手を引いたまま、無言で歩みを進めていく。
歩幅は合わせてくれているのか、店を出てからはゆるやかな速度だ。いつの間にか、私たちは並んで歩いていた。
やっと、少しだけ恐怖が薄れてきて、伊月くんと手を繋いで歩いている、という状況に、心臓がドキドキし始めた。伊月くんの顔を見上げることはできなくて、私は地面に視線を落とす。
怖い思いをした直後なのに、なんて現金な……って、自分でも思うけれど。
「あ、あの。助けてくれて、ありがとう」
駅前を離れて、少し人通りが少なくなったところでそう声を掛けたら、伊月くんが小さく息を吐く気配がした。
顔を上げられなかったので、伊月くんがどんな顔をしているのかはわからない。
「……ちょっと、公園寄りませんか」
静かな声だった。
伊月くんと一秒だって長く一緒にいたい私に、断る理由なんてあるはずもない。私はうん、と頷いた。




