6 本当は私を、好きになって欲しかった
その日の晩御飯を食べる気になれなかったのは、パンケーキが思っていたよりも、大きかったからだと思う。母に、明日の夜食べるから冷蔵庫に入れておいてとお願いして、私は早々にベッドに潜り込んだ。
スマホを手に取ると、未央からのメッセージ通知が一件入っていた。
『今日、どうだった?』
未央の方から聞いてくれるなんて珍しい。
今日デートに行くんだってことは伝えていたし、どうなったのか気にしてくれていたのかな。
既読をつけて、そのまま返信を打ち込もうとして——指が止まる。
本当は、未央に話を聞いて欲しい。
何があったのか、いつもみたいに全部話して相談したい。でも、振られちゃったなんて送ったら、未央はどう思うだろう。
心配してくれるだろうとは思う。
伊月くんとは、そんなに話さないって言っていたし、伊月くんも同じことを言っていた。そんなに仲が良いわけじゃないみたいだから、どうして振ったのか——とか、聞きに行ったりしないよね?
とは、思うけど。
伊月くんには好きな人がいるみたい、って、内緒にしているかもしれないことを伝えるのは躊躇われる。
でも、振られたことを伝えたら、どういう流れでそうなったのかって話になるよね?
考えていたらどう伝えるべきなのかわからなくなってきて、とりあえず、一旦伊月くんのことには触れないことにした。
『うん。楽しかった! 明日、また話すね。パンケーキ、新作も増えてたからまた食べに行こ!』
もう、どうしたらいいのか考える気力がなくて、明日の私に丸投げだ。
明日になればもう少し冷静になっていて、今は思い付かない言葉が見つかるかもしれないし。
了解、というスタンプが返ってきたのを確認して、私はスマホを枕元に置く。
ただ失恋しただけなのに、こんなにも打ちひしがれて、この世の終わりみたいな気分になっているのって、きっと他の人からみたら滑稽なんだろうな。
どこか冷静な自分が、現実逃避みたいにそんなことを考えている。
でも、失恋がこんなに辛いものだってこと、知らなかった。
やっぱりあれって、振られちゃったってことなんだよね?
振られてしまった以上は、もう諦めるしかない。
そうと分かっていても、やっぱり胸が痛い。
本当は——伊月くんにも、私のことを好きになってもらいたかった。
気持ちを伝えることもできずに終わってしまうなら、早すぎるかな? なんて思わないで、もっと早く告白したらよかった。もしかしたら、そうしたらちゃんと諦めもついたかもしれないのに。
ごそごそと身体を横向きにして、掛け布団を抱え込むようにしながら、小さく身体を丸める。
元々、私と伊月くんには所属先などの共通点があるわけじゃない。私が何かしらの行動を起こさなければ、もう伊月くんとは会うことはないんだろう。そして——迷惑だって暗に示された可能性がある以上、今後の連絡は控えた方がいいに決まっている。
そう考えたら、あんまりにも寂しくて、悲しくて。
じわり、と溢れた涙が枕に染み込んでいった。
◆
翌朝、学校に着くなり、未央が駆け寄って来た。いつも駆け寄って行くのは私の側だから、未央から来てくれるなんて珍しい。
「未央、おはよう」
へらりと笑いかけたけど、未央は笑ってくれなくて、なんだかちょっと気遣わしげな表情を浮かべていた。
「おはよ。ねえ昨日、なんかあったの?」
私の前の席に後ろ向きに腰掛けて、いつもよりちょっとだけ低い声で、そう問い掛けられる。
「え?」
「だって、いつもなら今日の伊月がどうだったああだったって長い日記送ってくるのに、昨日は全然無かったし」
揶揄うようなそぶりもなく長い日記と評されて、少し恥ずかしくなった。
メッセージのラリーだけで気付かれてしまうほど、一昨日までの私は初めての恋に浮かれていた、というか、浮かれすぎていたのだと思う。
「うん……えっとね、伊月くんのことを好きなの、やめることにした」
「え?」
遠回しに振られたこと——彼に好きな人がいることを伝えてしまって良いのか分からなくて、とりあえず自分の気持ちだけを伝えることにする。
やめることにした、というか、やめなければならなくなった、んだけども。
未央はびっくりしたように目を見開いた。
「なんで? なんか冷めるようなことあったの?」
私は慌てて頭をぶんぶんと左右に振ってから、いやいやじゃあなんでだよって話になるよなあ、と思い至る。
「そういうわけじゃないんだけど、方向性の違いで、みたいな……」
伊月くんを好きな私と、他の女の子が好きな伊月くんは、進みたい方向が交わりようもないので…...的な……。
「なにそれ、いつからバンド組んでたわけ?」
ちょっと呆れたようにそう言って、未央が私の机に身を乗り出してくる。
「なんか嫌なこと言われたり、不快なことされたりしたの?」
少し声を顰めるように、気遣わしげに問い掛けられて、私は慌てて頭を振った。伊月くんは何も悪くないのに、とんだ風評被害だ。
「そんなわけないでしょ、伊月くんだよ!?」
そんな勘違いをされるくらいなら、本当のことを言った方がいいんだろうか。なんだかもう考えすぎて、よく分からなくなってきた。
ただでさえ明け方まで寝られなかったから、寝不足で頭が働いていない。
「全肯定botなのは変わらずなんだ……」
未央はちょっとだけ安堵したようにそう言って、それから小さく嘆息した。
「伊月くんが素晴らしい人なのは変わりないけど、好きでいるのはやめることになった、みたいな感じ」
「いや、だからそこを聞きたいんだけど。なんでやめんの?」
鋭い追求が飛んできて、うう、と言葉に詰まる。
元々嘘は得意じゃないし、いっぱい話を聞いてくれた未央に対して、こんな風に曖昧に濁すのは不誠実な気もする。
でも、伊月くんに好きな人がいること、実の姉である未央に勝手に話してしまうのは、それはそれで不誠実ではないだろうか、なんて。
そんな風に、暫くぐるぐると考えてみたけれど、やっぱり、未央には振られたことを打ち明けることにした。
何も、伊月くんに他に好きな人がいる話をする必要はないのだ。私が振られたってことだけ、伝えればいいんだから。
そのことにすぐに気付けなかったあたり、やっぱり頭が回っていなかったんだろう。
「つまりね、伊月くんには振られちゃった」
「は? え、振られた!? 昨日告ったの?」
驚いたみたいに目をぱちぱちと瞬く未央に、私はこくこくと頷いた。
「うん。だからもう、諦めることにした」
厳密には告白した、とは言えないかもしれないけど、振られてしまったのだから同じことだ。
告ってはない、なんて言ったら、伊月くんに他に好きな子がいるってこと話さなきゃいけなくなっちゃうし。
「ねえ、本当に好きですって言って、ごめんなさいってはっきり振られたの? ひまが何か誤解してる可能性はない? ひまって結構そそっかしいし早とちりするでしょ」
未央は、何故か振られたという事実に納得できないようで、訝しげに問い掛けられる。
なんて失礼な言い分なんだ、と思うけれど、そんなことはないと否定しきれないのが悲しい。
でも、今回の件に関しては間違いの余地がないと思う。
好きな子のことを思い浮かべていたのか、珍しく少し恥ずかしそうだった様子を思い出して、胸がちくりとする。
「うん、はっきり振られたの。私ももう、諦めて他の恋を探すことにする。だから、伊月くんになんで振ったの? とか、私の話したりしないでね」
まあ、あんまり会話しないって言ってたし、そんな風に釘を刺さなくても、聞いたりしないだろうけど……。
伊月くんは、ただでさえ、罪悪感を感じてくれていそうだから、これ以上私のことで煩わせたくない。
「……まあ、ひまが納得してるんなら、それでいいけど」
未央は暫く私の顔をじっと見ていたけれど、嘆息するように小さく息を吐いて、それから、私を抱き寄せるようにして、ぽんぽん、と私の背中を叩いてくれた。
「昨日泣いてたんでしょ? めっちゃ目赤いし。伊月になんか言われたんなら殴ってやろうと思ったんだけど。本当に、酷いことは言われてない?」
朝起きた時、ちょっと腫れてるなと思ったけど、本当にちょっとだけだったからバレないと思っていた。
それなのに、そんな些細なことに気付くくらい私の様子を見てくれていたのが、胸がきゅっとするくらい嬉しい。
「伊月くんは、何も悪くないよ。振り方も優しかった、と思う」
私がはっきり告白する前に、遠回しに他に好きな人がいることを教えてくれたのは、優しさだったんだと思う。
「ていうか、未央からくっついてくれるの、珍しくない? やばい、きゅんきゅんしちゃう。次の恋が始まっちゃいそう」
背中からじんわりと伝わってくる手のひらの温もりがあまりにも優しくて、油断したら涙が溢れそうになる。
心配かけたくないし、絶対に泣くまい、とふざけた言葉を口にしたら、未央が笑った。
「始まりません」
あたたかい手つきとは裏腹に、いつも通りのちょっとクールなその返答が、未央らしくて嬉しかった。
◆
そうこうしているうちに、中間考査の時期がやってきた。
制服のリボンを結びながら、朝の星占いを見る。最近は、いつもこれを見終わってから学校に行くのが日課になっている。
二位までの発表が終わって、うお座はまだ出ていない。一位か、あるいは十二位か。ドキドキしながら待っていたら、画面には十二位うお座、の文字がばーんと表示された。
「今日の十二位は、ごめんなさい。うお座のあなたです! 知りたくないことを知ったり、見たくないものを見たりして、気分が落ち込みそう。今日はどこにも寄り道せず、まっすぐ帰って。ラッキーアイテムは、牛乳です」
ガーン、と画面を見て固まっている私を見て、母がおかしそうに笑いながらキッチンの方へ歩いて行った。
「あーあ。久しぶりに十二位なっちゃったねえ。……って、牛乳無いわ。ごめーん、買うの忘れてた」
冷蔵庫を開けた母が、中を覗いてあっけらかんと言う。
「ええ!」
ラッキーアイテムが無いことにショックを受けていると、まあまあ、あとでスーパーで買っとくから、と宥められる。
「そんなの、当たらないと思うけど」
「いやわかんないじゃん。とりあえず、今日は寄り道しないでまっすぐ帰ってくるから」
「いつも寄り道なんかしてないでしょ」
笑いながらそう言われて、確かに、と思いながら靴を履く。
学校の購買の自販機に、牛乳があったはず。それを買おうと考えつつ、私は「行って来まーす」と母に声を掛けて家を出た。
学校に着いてすぐ、向かった購買の自販機の前で、私はしょんぼりと肩を落とした。
パックの牛乳の下には、売り切れの文字が光っている。
「えー、売り切れることあるんだ」
ついて来てくれた未央が、心底意外そうにそう言った。
「もしかして、うちの学校にはうお座の生徒が多いのかな……」
「いやさすがに、みんながみんな星占い見て買いに来てる訳じゃないと思うけど。まあ、フルーツオレとかならあるし、それ買っといたら?」
未央がそう提案してくれたけど、フルーツオレはフルーツオレであって、牛乳ではないのだ。
とはいえ半分くらいの効果ならあるかもしれない、とか言いながら、フルーツオレのボタンを押す。
「ねー、ひま。あれから伊月に連絡してないの?」
自販機から取り出したフルーツオレにストローを挿していたら、未央がそう問い掛けてきた。
久し振りに伊月くんの話題が出て、どきりとする。
もう諦めたって言ってるのに。
しつこく連絡してたら、それこそストーカーになってしまう。
「してないよ。振られたのに連絡してたらおかしいじゃん。ねえ、伊月くんに何も言ってないよね?」
流石に、なんで振ったの、とか聞かれたところで、伊月くんだって自分で誤魔化すだろうけど……。
でも、伊月くんからしたら、振ったのに尚しつこくされても困ってしまうだろう。それも、姉に様子を探らせて来ている、とか絶対思われたくない。
「何も言ってないよ。今のところはね」
「今のところはじゃなくて、もう今後もずっと私の話はしないでよ。私ももう吹っ切れたし、大丈夫」
「吹っ切れたって、本当に?」
ちょっとびっくりしたみたいにそう返される。
本当は全然吹っ切れてなんてないけど、でも、それを言って何になるんだろう。
こうやって未央に心配を掛けているのも心苦しいし、何より自分がしんどい。
本当は早く伊月くんのことを忘れたい。
「本当本当。もし伊月くんに彼女とか出来て二人で目の前歩いてても、お幸せにー! ってクラッカー鳴らしちゃえるくらいには、もう吹っ切れたよ」
そんな風に虚勢を張って、私はへらりと笑ったけど、未央は複雑な表情を浮かべて黙って私を見ていた。多分虚勢だってことはバレバレだったんだろうけど、未央はもう何も言わなかった。
中間考査前日だったその日は、午前中で授業が終わった。未央はいつも彼氏と登下校しているので、登下校はバラバラだ。先に教室を出ていく未央に手を振って、私もさっさと帰ろう、と立ち上がりかけたところで、担任教師に声を掛けられた。
「長渡ー、悪いけどこれ運ぶの手伝ってくれ」
教卓には、今日回収したノートの束が置いてある。
本当は早く帰りたかったけど、職員室まで運んで戻るだけならそう時間は掛からないだろう。私は渋々、先生の元へ向かった。
ノートを運び終えた後、お駄賃と称してもらった飴玉を口に放り込みながら、私は昇降口を出た。
口の中に、苺の酸っぱさと、甘いミルクの味がふんわりと広がる。
あ、これおいしい。
ちゃんと見ていなかったパッケージを見ようと、ポケットに放り込んだ小袋のゴミを取り出す。
そこには練乳苺味と書いてあって、それを見ただけで胸がつきんと痛んだ。私は慌ててそのゴミをポケットに戻す。
あれから、もう一週間も経つのに。
練乳苺、のワードだけであの日のことを思い出している私は、まだまだ全然失恋を吹っ切れてなんていなかった。
未央にあんな大口を叩いておいて、笑えるけど。
あの日から、伊月くんには一度も連絡していない。もちろん、向こうからも連絡は来なかった。
今朝、未央が伊月くんの話をしてきたのも、振られたことを伝えた日以来だ。あれからお互いに伊月くんの話はしていなかったから、急に名前を出されてひやりとした。
振られたって言ってるのに、いまだに気に掛けてくれているのはどうしてなんだろう。
私はまだ、落ち込んでいるように見えるのかな。
最初こそ、同じ家に住んでいるので、なんで振ったのかとか聞きに行っちゃったらどうしようってヒヤヒヤしたけど……今のところ、伊月くんには何も言わないでっていう私の話を、未央は聞いてくれているんだと思う。たぶん。
ぼんやりしながら家路を歩いていたら、ぽた、ぽたと雨が降ってきた。そういえば今日は午後から雨の予報だったな、と思い出して、鞄から水玉模様の折り畳み傘を取り出す。
雨の日特有の土っぽいにおいが、伊月くんと相合傘して帰った日のことを思い出させて、少し胸がちくりとする。
何を見ても、感じても、伊月くんのこと思い出している自分が、あまりにも未練がましくてちょっと怖い。
思い出したってもう、悲しくなるだけなのに。
傘を差して少し憂鬱な気持ちで歩いていたら、少し前を学ラン姿の男の子が歩いていることに気付いた。
伊月くんと同じ中学の制服だ、とそう思ってから、心臓が小さく跳ねる。
後ろ姿だから、確証はないけれど。
あれは、伊月くん本人ではないだろうか。
彼は何故か傘も差さず、けれど走ることもせずに、ゆっくりと歩いている。小雨ではあるけれど、あのペースでずっと歩いていたら、きっと家に帰る頃には全身びしょびしょになってしまっているだろう。
傘に入れてあげた方がいいのかな。
でも、私が声をかけるのは迷惑じゃないだろうか。
今日は、傘も小さいし。
それに、もし違う人だった場合、知らない人に傘を差し掛けるのもどうなんだろう。相手からしたらちょっと怖いよね……?
伊月くんだとしても、そうでないとしても。結局、どちらにしてもありがた迷惑になるだけかもしれない。そう思って、少し悩む。
でもやっぱり、このままだと身体にも悪いのは確かだ。風邪を引いてしまうかもしれないし。
そう思って、意を決して足を踏み出し掛けた瞬間——私の隣を軽やかな足音が通り過ぎて行った。
足元にパシャパシャと小さな水を撥ねさせながら、通り過ぎて行ったのはセーラー服姿の女の子だ。伊月くんと同じ、中学の子だと思う。
思わず、踏み出し掛けた足が止まる。
彼女は前を歩いていた少年の隣に並ぶと、差していた傘をぱっと差し掛けた。
女の子が、にこにこ笑って何か話し掛けている。返事をしようとしたのか、隣に視線を向けた少年の横顔が、私の視界に飛び込んでくる。
——ああ、やっぱり、伊月くんだった。
伊月くんは穏やかな表情で何かを話しているけれど、雨の音が二人の声をかき消して、こちらには何も聞こえない。
歩くの、遅いなあ。
追い付かないように、ゆっくり歩いているつもりなのに、二人が全然進まないから、どんどん距離が近付いていく。
すぐに、声が聞こえる距離まで近付いてしまった。
「——てか、持ってよ。普通にしんどいわ」
女の子が、そう言いながら傘を伊月くんに押し付ける。伊月くんははいはい、と苦笑するみたいなおざなりな返事をしつつ、それを受け取った。
気安い仲なのだろうと分かる、少し雑なその相槌を、羨ましいとすら感じてしまう。
誰だろう。
もしかして——この子が、伊月くんの好きな人、なのかな。
私よりも低い身長は、伊月くんの鎖骨の辺りまでしかなくて。
緩やかに波打つ黒髪は、歩くたびに軽やかに揺れている。
——小さくて、“ふわふわ”、だ。
ずきんずきん、と胸が痛みを訴えてくる。
二人が、何か楽しそうに話している声が、私の耳を滑っていく。
会話の内容は、頭に入って来ない。ただ、女の子はにこにこしていて、伊月くんも、穏やかな表情をしているように見える。
そうして伊月くんは、ごく自然に彼女の肩を反対側に押しやって、自分が道路側を歩き始めた。
私にしてくれたみたいに、他の女の子に、優しくしている。
当たり前だ。
あの時、慣れているなって思った通り、慣れていることを自然にやっているだけなんだろう。
なにも批判されるようなことじゃない。ただ女の子に優しくしてるだけで、むしろ素敵なことなのに。
でもやっぱり——、その優しさが他の人に向けられているのを見ると、胸が痛い。
私は、伊月くんにとっての何者でもない。
強いて言うなら、姉の友人、という肩書きがあるだけ。
だから、そんな風に嫉妬する権利なんて、当然無いのに。
他の子に優しくしないで。触らないで。
私を、嫌いにならないで。
——本当は私を、好きになって欲しかった。
醜い感情がぐちゃぐちゃと心を乱して、ぽたり、と瞳から落ちた涙が、地面に落ちて雨と混ざる。
ふと、何の前触れもなく伊月くんが振り返った。
ぱちり、と目が合う。
一瞬の後、伊月くんが驚いたように、かすかに目を見開いた。
「あっ……」
何か言おうとしたのか、伊月くんの唇が小さく開かれる。
私は咄嗟に、傘をぎゅっと倒して、顔が見えないようにすると、小走りで伊月くんたちの隣を通り過ぎた。
そのまま、パシャパシャと小さな水の飛沫を立てながら、家路を急ぐ。
悲しくて、苦しくて、涙は次々と溢れ出してきた。
傘なんて持って来なければよかった。
そうしたら、走って帰ってきっと伊月くんには気付かなかったし、それに——泣いたって、雨なのか涙なのか、わからなくなったはずなのに。
伊月くんと女の子は、勿論追い掛けてなんて来なかった。
『——本当本当。もし伊月くんに彼女とか出来て二人で目の前歩いてても、お幸せに! ってクラッカー鳴らしちゃえるくらいには、もう吹っ切れたよ』
朝の私が口にした、精一杯の虚勢のなんと薄っぺらいことか。
現実には、まともに目を合わせることさえできなかった。
全然まだまだ、伊月くんのことを好きな気持ちは消えてなんてくれなくて、気持ちはボロボロで、心が苦しい。
もう忘れたいのに。
伊月くんと出会う前の、恋なんか知らなかった私に戻りたい。




