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思わせ振りな彼女(伊月視点)

※本編伊月視点(長いです)

 初めて会った時、彼女は勧誘がしつこいせいで誰も受け取らなくなっていたポケットティッシュを受け取って、そのまま勧誘に捕まっておろおろしていた。

 

 上手くあしらえないなら受け取らなければいいのに。

 そうは思ったけど、困りきったように眉尻を下げて途方に暮れる姿になんだか気の毒になって、つい近寄って声を掛けてしまった。


「……姉ちゃん、何してんの?」


 姉ちゃん、だなんてあんまりスマートな声の掛け方じゃなかったし、彼女は明らかに戸惑っていたけど、黙ってついてきてくれた。

 あなたのお姉さんじゃないですよ? と言われた時は、さすがにずっこけそうになったけど。


 姉と同じ高校のブレザーを着ているということは年上なんだろうけど、ぱっちりとした大きな瞳のせいか、あるいは情けない表情のせいなのか、少し幼く見える。

 明らかに年下の俺に説教めいたことを言われても、しゅんとしている姿が気の毒で、少し可愛い。そう思ってから、そんな感想を抱いた自分に驚いた。

 

 あと、まるでみかじめ料か何かのように、両手で遠慮がちにティッシュを差し出してきたのはちょっと面白かった。

 可愛らしいけど、変な人。

 俺の長渡さんへの第一印象は、そんな感じだった。


 

 数日後の下校途中、突然降り出してきた雨の中、声を掛けられた時は心底びっくりした。正直もう彼女のことは忘れかけていたので、この前のお礼と言って傘を差し掛けられても、なんのことだか分からなくて戸惑った。でもまあ、すぐに思い出せたし、有り難くお言葉に甘えて傘に入れて貰うことにした。

 

 可愛らしい容姿には不似合いな、大きな男物の傘。そのおかげで俺もずぶ濡れにならずに済んだわけだけど、星占いでラッキーアイテムだったから父親のを拝借してきた、と誇らしげに語る姿を見て、正直、やっぱりちょっと変な人だなと思った。

 

 彼女が何人いるかとか、大人のお姉さんに興味あるかとか、意味のわからない質問を連発しては、真っ赤になって慌てている彼女は、変な人だけどちょっと面白かった。

 大人のお姉さんらしさ皆無なのに、私のことなんだけど、と言い出した時は、流石に何言ってんだろこの人、とは思ったけど。

 

 連絡先を聞かれたけど、メッセージアプリのIDを覚えていなかったこともあり、軽い気持ちで断ってしまった。でも、明らかにしょんぼりした顔をして、意気消沈する彼女を見ていたらなんだか申し訳なくなってくる。

 鞄を探ったら油性ペンがあったので、彼女のIDを聞いてみたら、めちゃくちゃ嬉しそうな笑顔が返ってきた。

 なんで連絡先交換するだけで、そんなに嬉しそうなんだろう。

 全力でぶんぶんと尻尾を振る大型犬みたいに愛嬌があって、そんな彼女のことを、やっぱり可愛いと思った。



 傘を返しに行こうとしたら出がけに莉里に見つかって、りりもにいにとお出掛けする! と騒がれてしまい、どうしようかと思ったけど……まあ、莉里がいた方が気まずくないかと思って、軽い気持ちで連れて行った。

 ギンガムチェックのワンピースを着て、ちょっとそわそわしながら門の前に立っていた長渡さんは、俺に気づくと満面の笑みでぶんぶんと手を振ってくれて——、正直、めちゃくちゃ可愛かった。


 傘を返して、じゃあ帰るかってなった時、莉里が公園に行きたいって言い出したのはまあ想定内だったから、少し遊んでから帰ることにしたけど——そこに、ついて行ってもいい? と尋ねられたのは想定外だった。

 思わずなんで? って聞いちゃったけど、久し振りに公園行きたいなと思って、と少し恥ずかしそうにごにょごにょと答える姿を見て、流石に。

 この人、もしかしたら俺に気があるのかな、って思ってしまった。


 いやでも、俺、中学生だし。

 年齢は聞いてないけど、高校の制服を着ていた彼女よりは確実に年下だ。

 自意識過剰なだけかもしれない。

 

 実際、長渡さんは公園に着くと莉里と同じようにはしゃいで遊び回っていて、本当に公園に来たかっただけなのかもしれない、と思った。

 

 遊ぶのに夢中になりすぎて、砂場にお尻をつけてしまったせいで、彼女が立ち上がった時にはお尻が砂まみれになっていた。思わず笑いながら、莉里にするみたいにその砂を叩いてしまった。彼女が、真っ赤になって潤んだ瞳で俺を見下ろしてきて——。

 俺は何故かどきりとして、慌てて彼女から離れた。


 天真爛漫で、考えていることが全部顔に出て、可愛くて、でもやっぱりちょっと変な人。

 そんな長渡さんのことを、なぜか気付いたらちょっと好きになっていた。


 

 借りていた傘を返してしまって、連絡を取る用事も無くなってしまった。

 せっかく連絡先を教えてもらったのだから、何か連絡をするべきか、と思いつつも、元々メールとかまめな方じゃ無いから、何を送っていいのかも分からない。

 そんな風に思って、特に連絡も取らずにいた二日後に——帰宅して、スマホを見たら彼女からメッセージが入っていた。

 

 びっくりしつつもそのメッセージを開き、文章を読もうとした瞬間に電話がかかってきて、スマホを取り落としそうになった。

 発信者の名前は、ひまり。

 つまり、彼女からの電話だ。

 何故? ドキドキしながら電話に出たら、姉と同級生だ、という衝撃の事実を聞かされた。ついでに姉に揶揄われたらしく、変な写真が届いているはずだから消して欲しい、と半泣きの声で懇願された。

 

 けれど、姉からのメッセージは届いていない。ちょっとだけ残念に思いながら正直に伝えたら、長渡さんがあまりにもほっとしたような声を出すものだから、つい揶揄いたくなって、本当は届いてますよって嘘をついてしまった。

 

 慌てる彼女の声に、電話越しでも相当焦っている姿が脳裏に浮かんでしまって、俺は耐えきれなくて笑った。

 姉に聞いたら見せてくれるかな、なんて、実際に姉にそんなこと聞くわけないのに。電話の向こうの長渡さんは相当慌てている様子で、ぶんぶんと風を切る音みたいなのまで聞こえてくる。焦って意味も無く腕でも振ってるんだろうか。長渡さんならあり得るな。

 年上なんて思えないくらい、揶揄いがいもあって、可愛くて面白い人。

 

 正直、姉の未央と友人だという話を最初に聞いた時、あんまりピンと来なかった。どちらかというとクールなタイプの姉が、長渡さんみたいに落ち着きのない人と仲良くしている姿は、イメージできなさすぎる。

 でもまあ、姉はあまり喋るタイプでもないから、学校でも長渡さんがずっとよく分からないことを喋って、姉はちょっと呆れながらも相槌を打っているのかもしれない。そう思ったら、ちょっと納得できてしまった。


 パンケーキ食べに行こ、って、電話越しでもわかるくらいにもじもじしながら誘われた時、流石にやっぱり俺の自意識過剰じゃないよな、と思った。

 この可愛らしくてちょっと変で落ち着きのない女子高生は、何故だか分からないけど俺のことが好き、っぽい。

 

 バイト先に見に行ったら、恥ずかしそうにしていた姿はめちゃくちゃ可愛かったし、正直見られたくない、と騒いでいた制服姿も可愛かった。小学校の給食当番みたいで。とか言ったら怒られそうだったから、流石に言わなかったけど。

 

 見ないで、早く行って、と拗ねたように追い払われたのも新鮮だったし、なによりそう言った後で酷いことを言ってしまった、みたいな焦った顔で見上げてきたのがあまりにもずるかった。周りに見えないように、カウンターに隠れるくらいの高さでこっそり手を振ってくれたのが、可愛すぎて。

 でも、バイトとかしてる姿を見ると、やっぱり年上なんだなって思う。分かってたことなんだけど。

 

 店に向かう途中で、長渡さんが階段を踏み外しそうになった時は、正直肝が冷えた。間一髪のところで掴んだ腕を引き上げて、数段上に立つ俺の腹にぽふ、と後頭部を押し付けた彼女は、不思議そうに上を見上げて、目が合った瞬間、大きな瞳をまん丸に見開いて慌てていた。

 

 焦って俺から離れていく彼女から、ふわっとシュークリームの甘い匂いがして——思わずそれを口に出しそうになって、慌てて止めた。

 シュークリームの匂いしますね、って、変態みたいなことを口走るところだった。

 目の前の可愛い人から、ふんわりと甘い匂いが漂ってくるの、正直大分ドキドキした。


 店に着いた後は、こっちのパンケーキを、凄くキラキラした目で見ていたのがあまりにも可愛らしくて。

 ついつい一口差し出してしまった後で、長渡さんの戸惑ったような表情で我に返った。

 莉里にいつもあげていたみたいなノリで、差し出してしまった。流石にこれはおかしい。

 でも、我に返った俺が手を引くより前に、彼女はなぜか身を乗り出して、フォークを口に咥えていた。

 戸惑いながらも手を引くと、彼女は小動物のように頬を動かして、幸せそうにパンケーキを咀嚼して、それから、とろけるように笑った。


「これ、めっちゃおいしいよ!」


 破顔して、嬉しそうに報告してくる長渡さんはめちゃくちゃ可愛かった。

 その後で、私高校生だよって拗ねていたのも可愛かった。差し出されたフォークに飛びついておいて、それは流石に説得力が無い。なんだそれ。可愛すぎる。 


 でも、絶対に両思いだよなって思っていた俺の考えは、どうやら自意識過剰だったらしい。

 好きなタイプを聞かれた時点で、もう絶対にそうだと思っていた俺は、彼女の好きなところを伝えて、なんならそのまま勢いで告白してしまってもいいかとすら思っていたのに——彼女の顔色は、明らかに段々悪くなっていった。

 自分のことを言われているのだと察したらしき彼女は、なぜかショックを受けたような表情で言葉に詰まってしまった。

 ——そうして。

 そうなんだ、よく分かった。ごめんね。と謝られた時に、全部俺の勘違いだったのか、って思った。

 

 いや、正直全然意味わかんないし、納得できないんだけど。

 連絡先聞かれて答えなかった時にあんなにしょんぼりしてたのも、公園までついて来たのも、変顔写真見られたくなくて慌てて電話して来たのも、休みの日にパンケーキ食おうって誘ってきたのも、全部ただの思わせ振りだったってこと?


 何のために?

 パンケーキだって、友達が一人もいないならまだわかるけど、姉と仲が良いなら姉と行けば良かった話だ。わざわざ俺を誘ってきた意味がわからない。

 奢るつもりだったと言っていたし、本当にただ、世話になったお礼、とやらがしたかっただけなんだろうか。

 

 唖然としながらも、寄るところがあるからと一緒に帰ることすら拒否されて、ああ本当に俺の勘違いだったんだ、って思った。

 彼女の振る舞いを思わせ振りだって感じるのは、俺に恋愛経験がなさすぎるせいなんだろうか。いや、明らかに思わせ振りだったよな?

 そんな風に悶々としながらも、ただ、これって振られたんだよな、ということだけははっきりしていた。

 

 振られた以上は、連絡を取ることも憚られるし、そもそも、元々メールとかまめな方じゃないから、送るような内容も思い浮かばない。

 結局、それから連絡を取ることはなかったし、彼女から連絡が来ることもなかった。


 

 振られた次の日、学校から帰ってきた時にリビングで姉にばったりと会って、姉に凄い嫌な顔で見つめられた。


「何?」


 思わずそう声をかけたら、別に、と素っ気無い声が返って来て、そのまま姉は階段を登って自室へ戻ってしまった。

 

 それから何度か、ちょっと嫌な顔で見つめられたけど、何か言いたいことがあるなら言えば、と言ったら、いややっぱり、無いわ。と意味不明なことを言われて、それきり何も言ってこなかった。


 

 そうこうしているうちにテスト期間が始まった。正直、失恋のダメージで勉強なんか手につきそうにないけど、受験生なのでそんなことも言っていられない。

 午前中だけの授業を終えて、帰ったら勉強しないとな、と思いながらぼんやり歩いていたら、雨が降ってきた。

 鞄の底に、折り畳み傘が入っているはず。そう思ったけど、傘を広げるのも面倒くさい。そんなに遠くない距離だし、と思ってそのまま傘も差さずに歩いていたら、たまたま通り掛かった(あずさ)——二つ下の妹が、傘に入れてくれた。


「おにい、傘持ってないの?」

「あるけど、出すのめんどい」

「え、信じらんない。風邪引いたらどうすんの?」


 梓はちょっとびっくりしたみたいにそう言って、それから傘を俺に押し付けてきた。


「おにい。てか、持ってよ。普通にしんどいわ」


 確かに背の低い妹との間には身長差があるので、俺が持ってしかるべきだろう。

 文句を言いながら傘を押し付けられて、はいはい、とおざなりな返事を返して傘の中棒を握る。

 梓を左側に追いやりながら、俺は小さくため息を吐いた。

 

 こんな雨の日に傘を差して歩いていたら、前に、この道を長渡さんと一緒に帰った時のことを思い出してしまう。

 妹よりは背が高いはずの彼女は、めいっぱい背伸びして、俺に傘が当たらないように必死に腕を伸ばしてくれていた。

 その姿が可愛かったことを思い出して、胸がちくりと痛む。

 俺って結構、未練がましい人間だったんだ。なんて。

 

「ねー、おにい、最近なんかテンション低くない? 落ち込んでる? ねえねが、どうせ自業自得だろうから放っとけって言ってたけど」

「なんだよそれ」


 姉には何も話していないのに、ひどい言われようだ。

 あの人から——長渡さんから、何か聞いたんだろうか。もしそうだとして、彼女は何をどのように話したんだろう。

 正直、自業自得、と言われる心当たりは何もない。


「落ち込んでても、傘はちゃんと差した方がいいよ」

「あー、うん」

 

 二つ下の妹に諭されて、俺は曖昧に頷きながら、ふと何気無く振り返った。

 すぐ後ろを、長渡さんが歩いていた。

 彼女は、目が合った瞬間、はっとしたようにその大きな瞳を見開いた。

 何故か、今にも泣きそうな、ひどく傷ついた表情を浮かべて。


「あっ……」


 思わず、口を開いていた。何を言おうとしたのか、自分でも分からない。

 でも彼女は次の瞬間には傘を前に倒して、顔を隠すようにして、そのまま走り去ってしまった。


 雨の中、バシャバシャと浅い水面を踏む足音が遠ざかっていく。


「知ってる人?」

「ん……、姉ちゃんの友達」

「ねえねの?」


 ちょっと不思議そうにしている妹に、それ以上伝えられる言葉なんてなくて、そのまま黙って、家に帰った。




 なんとか中間テストを終え、久し振りの部活で遅くなった日の夜。風呂上がりに頭を拭きながらリビングへ向かったら、ソファで梓とアイスを食べていた姉が俺を振り返った。


「伊月。ひま、明日大学生と合コン行くんだって」


 珍しく話し掛けてきた姉から、唐突に向けられたその言葉に、一瞬思考が止まる。

 ひまって……長渡さんのことか。

 ひまって呼んでるんだ。

 刹那、姉に対して嫉妬にも似たしょうもない感情が湧き上がった。

 思えば姉から、長渡さんの話題を振られたのは初めてだった。

 

 それからやっと言葉の意味を理解して、一気にざわついた気持ちを落ち着けようと、はあ、と息を吐く。

 合コンって、何。

 高校生って、そんなの行くの? 早くない?

 二歳の差を突然突きつけられたみたいで、胸の中にじわりと不快感が広がっていく。

 

 ていうか、そもそもそれを俺に伝えてどうするつもりなんだ。

 長渡さんは、姉に俺を振った話は、していないんだろうか。

 

「別に、俺に関係ないし」

 

 素気無くそう答えて、キッチンの冷蔵庫を開ける。姉は、わざとらしくため息を吐いた。

 

「何があったか知らないけどさ、ちゃんと告ったら? あんた、ひまのこと好きなんじゃないの?」

 

 麦茶を出して、冷蔵庫を閉めようとしていた手が一瞬止まった。

 なぜか姉に気持ちを知られている羞恥が一瞬沸き起こって、それから、何があったか知らないけど、という言葉の違和感に気づく。


「長渡さんから何も聞いてないの?」

「……方向性の違いで解散したとかなんとか」

 

 姉はアイスを食べ終えて、棒のゴミを持ってキッチンにやってくる。

 方向性の違い、ってなんだよ。バンドかよ。

 それは、なんだ? つまり、長渡さんは俺と恋人じゃなくて、お友達になりたかったってこと?

 

「じゃあもう答え出てるじゃん」


 ため息を吐いて、グラスに麦茶を注ぐ。

 ぽい、とアイスの棒を生ゴミ入れに入れた姉が、今俺が注いだばかりのグラスをひょいと奪って、麦茶をごくごくと飲み干した。


「っはー。あんたがそれでいいならいいけど。かっこいい大学生の彼氏とか出来ても、私知らないから。私はひまの味方だからね」


 姉は言いたいことだけ言うと、グラスを流しに置き、梓に声を掛けてそのままリビングを出て行ってしまった。

 

 俺は無言で食器棚を開けて、別のグラスを取り出す。

 姉の言いたいことがさっぱり分からなくて、名状し難い苛立ちを感じる。

 ちゃんと告ったら、って何? もう既に振られてんだよこっちは。


「にいに、もしかしてねえねの友達のこと好きなの? え、それってこの前会った人?!」

 

 視線を感じて顔を上げたら、ソファの背もたれに身を乗り出した梓が興味津々と言った様子で俺を見ていた。なんだよ、その謎の鋭さは。


「そういうんじゃないよ」


 いや、()()()()()でしかないけどな。

 謎の強がりでそう言って、俺も一気に麦茶を飲み干すと、髪を乾かすために洗面所に戻った。

 


 

 次の日、仲の良い同級生に、テスト終わったしカラオケでも行こうと誘われて、俺は友人四人と駅前のカラオケにいた。

 思いっきり歌って、ふざけてタンバリンとか振りまくってる時はまあ楽しいけど、ちょっとトイレに行こうと部屋を出て歩いていたら、テンションが落ちてくる。


 今日、合コン行くって言ってたよな。

 高校生ってどんなとこ行くんだろう。全然想像できなくて、たった二つの年齢差が本当にもどかしい。

 

 トイレに着くと、トイレ前の狭い廊下に、大学生くらいの男が一人で壁にもたれて立っていた。

 何してんだろ、と思いながらも、さして気には留めずにトイレに入る。

 

 用を済ませて手を洗っていたら、トイレの外から何か会話する声が聞こえてきた。

 どうやら手洗い場の上の吹き抜けが風の通り道になっているようで、水音にかき消されずに外の声が響いてくる。


「あ、はは〜、親が結構、厳しくて」

「そうなんだ。でも、ひまりちゃんだってもう大人なんだから、そうやって過保護にされるのもしんどいでしょ? たまには反抗してみたら?」

 

 明らかに困っているような、女の子の愛想笑いの声。それに続けて、へらへらした男の声が聞こえてくる。

 ひまりちゃん、という名前の響きに一瞬どきっとしたものの、たまたま同じ名前なだけだろう。そうは思ったけど、気のせいか声が似ていたようにも感じてしまう。気になった俺は慌てて手の水気を払い、置いてあったペーパータオルで手を拭いた。


「門限がそんな時間ってことは、子どもみたいなデートしかしたことないんでしょ? 俺が大人のデートに連れてってあげるよ」


 正直、聞いているだけで鳥肌が立ちそうだった。大人のデートってなんだよ、絶対碌でもないこと考えてるだろ。気持ち悪すぎる。

 聞いている限り、『ひまりさん』の方は困っているみたいだし、誰か呼んできた方がいいのかもしれない。でも、こういうのって店員に言ってどうにかしてくれるものなんだろうか?

 戸惑いつつ、トイレを出て通路の様子を伺う。


「俺、ひまりちゃん可愛いなって気になってたんだよね」

 

 へらへらした声でそう言っているのは、さっき壁にもたれるようにして立っていた男だ。もしかして、女性のトイレを出待ちしていたんだろうか。ちょっとぞわっとしながら、男の奥にいるのであろう女性の姿を見ようとして——そこで、一瞬息が止まった。

 

 公園に行った日に着ていた、可愛らしいギンガムチェックのワンピースを着た長渡さんが、途方に暮れたような顔で、目の前の男を見上げていた。

 声が似ている、と思ったのは、気のせいじゃなかった。

 

()()()?」


 店員を呼ぼうか、なんて考えていたことは頭から吹っ飛んで、思わず声を掛けてしまった。それも、しょうもない対抗心で、彼女の下の名前を呼んで。

 はっとしたように顔を上げた長渡さんが、まん丸な瞳を大きく見開いた後で、へにゃりと眉尻を下げて、泣きそうな表情を浮かべた。

 まるで、俺を見て安心したみたいなその態度に、心臓をきゅっと掴まれたような気持ちになる。


「誰だよ」

「知り合い?」

 

 怪訝そうに振り返った男の声を無視して、長渡さんに問い掛けた。困っているように見えたけど、一応、知り合いの可能性もある。

 そもそも、俺にだって散々思わせ振りにしていたんだから——目の前のこの男にだって、そうしたんじゃないかっていう疑惑も、正直拭えない。


「あの、えっと」


 長渡さんは言葉を探しているのに見つからないような、そんなもどかしい様子で視線を泳がせて、それから、胸の前できゅうっと手のひらを握り締めた。

 泣きそうな顔で、上目遣いに俺を見上げてくる。

 少し潤んだ、今にも泣き出しそうな心細そうな瞳。

 顔に、置いていかないで、と書いてある。


 ずるい。

 何が何だかわからないのに、そんな顔されたら、置いていくことなんて出来ない。

 俺は意を決して、足を踏み出した。


「いや、だからお前誰だよ? ひまりちゃんと話してるのは俺なんだけど」


 男が不機嫌そうに口を挟んでくる。明らかに年上の人だけど、近寄ってみると背は低くて、ほんの少しだけ肩の力が抜ける。

 

「行きたいんですか? 大人のデート、だっけ」


 助けてあげたいと思うのに、彼女への疑念を捨てきれなくて、少しだけ意地悪な問いを投げてしまった。

 彼女は頭が取れそうな勢いで首を左右に振って、行きたくない、行かない、と大きな声で宣言した。そのことに、ほっとしてしまう。


「……うん。じゃあ、送ります」


 そう言って、ここから連れ出そうと握った彼女の手は、小さく震えていた。

 本気で、怖かったんだろう。

 そう思って、意地悪なことを言ったことを後悔した。


 彼女の手を引いて、この場を離れようとしたけれど、長渡さんに絡んでいた男は黙って見送ってはくれなくて、後ろから声を張り上げてきた。


「おい! お前、スカしやがって、無視してんなよ」


 長渡さんがびくっと肩を揺らしたのを見て、俺は反射的に、彼女を前に押しやった。

 長渡さんと男の間に入り込むようにして、男を振り返る。

 背が低いとはいえ、相手は多分大学生だ。どんな人間かもわからないし、正直、怖かった。

 でも、ここで震えてる長渡さんを置いていく、なんて選択肢は、絶対にあり得ない。

 だったら、怖がってる様子なんか見せられないし、追い返すしかない。


「嫌がられてるのにしつこくするの、やめた方がいいと思いますけど……警察呼びますか?」


 殴りかかって来たらどうしようかと思ったけど、男は警察と聞いて、ようやく自分のやっていることに気付いたようだった。はっとしたような顔をして舌打ちすると、俺たちの横を早足で通り過ぎて行く。

 長渡さんが肩を縮こまらせているのを見て、反射的に肩を引き寄せる。

 男が角を曲がって見えなくなってから、俺はもう一度長渡さんの手を取って、歩き出した。

 手のひらに、緊張でべったり汗をかいている。かっこ悪い。そう思ったけど、長渡さんはきゅっと握り返してくれた。


「荷物はそれで全部? まだ部屋にありますか?」


 振り返りながらそう問い掛けたら、長渡さんは首を横に振ったので、俺の部屋に荷物だけ取りに行かせてもらうことにした。

 部屋の前で待ってて貰おうと、手を離そうとしたら、まるで縋るようにぎゅっと握られる。置いていかれまい、と縋ってくるそのいじらしい手を、振り払えるはずもなく。俺は左手を彼女に預けたまま、扉を開け、友人に詫びを入れて鞄を取ってもらった。



 店を出て、彼女の手を引いて、家への道のりを歩く。

 その道中で、彼女はおずおずと礼を口にした。


「あ、あの、助けてくれて、ありがとう」


 その間も、繋いだ手はぎゅうっと握られたまま。

 怖かったから、知っているやつがいて安心したっていう、ただそれだけのことなのかもしれない。

 そう思うけど、でも、言葉にできないモヤモヤが胸の中を埋め尽くしていく。


「……ちょっと、公園寄りませんか」


 断られたらそれはそれでいい、と投げやりな気持ちで問い掛けたら、長渡さんはどこか嬉しそうに、うん、と即答してくれた。


 もう店から大分離れたし、手を離したって構わないだろうと思ったのに——飲み物を買いに行こうとしたら、手をきゅっと掴んだまま、俺の後をついてきて。ベンチに戻った後も、手を離そうとしない。

 せっかく買ったココアの、プルタブ開けられないのに。そう思うけど、彼女が離そうとしないのをいいことに、俺も彼女の手を握ったままだ。

 

 正直、さっきの男との関係を聞きたい。

 今日参加すると聞いていた、合コンの相手……なんだろうか。

 嫌がっているように見えたけど、どこか煮え切らない態度を取っていたようにも見えて、正直長渡さんの考えていることが、よくわからない。


「さっきの人は、知り合い……なんですよね?」

「う、ん。知り合いというか……私のバイト先の先輩の、大学のサークルの人なんだけど。私も、今日はそのサークルの集まりに参加させてもらってて……」


 だから私の知り合いではないんだけど、赤の他人とも言えないというか……、と、ごにょごにょと要領を得ない説明が返ってくる。

 結局のところ、彼女はあの男を、少しはいいな、と思っていたのだろうか?

 

 脈があると思ったから、あの男はトイレの前で待ちぶせをしていたんだろう。

 もしかしたら、俺にしたみたいに、思わせ振りにしていたのかもしれない。そう思ったら、少し胸がモヤモヤした。


「……。人の趣味に口出すのもどうかと思うけど、流石に、もうちょっと選んだ方がいいと思います」


 あんな風に、人気のない場所で、抜け出そうとか——大人のデートがどうこうとか言ってくる男、絶対に碌でもない男に決まっている。


「選んでないよ!」


 長渡さんは、心外だとでも言うように、そう反論してきた。そのことに少しだけほっとしながらも、けれど言葉にできない胸のモヤモヤは消えてくれない。

 

「じゃあ、無視できなくて困ってただけですか?」


 彼女は図星だとでも言うように、言葉に詰まった様子で唇をきゅっと引き結ぶ。

 

「どうするつもりだったんですか? あのまま誰も通り掛からなかったら、大人のデートとやらに行く流れになってた気がしますけど」


 言いながら、断り切れなくて、嫌々連れて行かれる長渡さんの姿を想像してゾッとした。

  

「行かないよ! 断ってた!」


 本人は強気な口調でそう言ってくるけど、さっきまであんなにおろおろして、愛想笑いとか浮かべてたくせに、って思ったら、その危機感のなさにも少し苛立ちを感じる。

 

「携帯会社のセールスも断れないのに?」

  

 駅前の、ティッシュ配りのセールストークすら、振り切れなくて途方に暮れていたくせに。

 つい、突き放すような口調になってしまった。

 怖い目に遭った直後なのに、まるで八つ当たりみたいなことして、最低だ。

 俺がそう思った瞬間、彼女は繋いだままだった手を強く振り払ってきた。

 彼女の瞳から、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちて、俺は驚いて言葉を失う。


「長渡、さん」


 本当に、最低だ。

 傷つけたくなかったから、護りたいと思ったから、ここまで手を引いて来たのに。

 俺が泣かせて、どうするんだよ。


「……ごめん。怖い思いしたのに説教みたいなこと言って」


 慌てて取り出したハンカチで、彼女の涙を拭う。でも、堰を切ったように溢れ出した涙が止まらない様子で、拭っても拭っても大粒の涙が零れ落ちてくる。


「う、うう……っ」


 大きな瞳を真っ赤にして、しゃくりあげるようにして泣いている姿があまりにも痛ましくて。

 結局俺は、この人を傷付けたくない。

 思わせ振りで、小悪魔みたいな人だとしても。

 幼児みたいな、くしゃくしゃの泣き顔を見せられると辛い。

 泣かせたくない。


「……こわかったね。大丈夫、大丈夫」

 

 背中に腕を回して、そっと抱き寄せたら、彼女は大人しく俺に身を預けてきた。

 ぽんぽん、と莉里にするみたいに背中を叩いてやると、まるで安心したみたいに、身を寄せてくる。

 長渡さんは俺の腕の中でぽろぽろ泣きながら、うう、と唸るような声を上げた。


「好き」

「え?」

 

 何を言っているのかよくわからなくて聞き返したら、信じられない言葉が耳に飛び込んできた。


「やっぱり……わたし、伊月くんが……すき」


 あまりにも予想外だったから、一瞬、息をするのも忘れてしまった。

 俺はびっくりして、思わず背中に回していた腕を離して、長渡さんを見下ろす。

 長渡さんは、止まらない涙をなんとか止めようと、必死に手の甲で頬を拭っていた。


「諦められなくなるから……あんまり、優しくしないで。これ以上好きになったら、困る……」


 そんなことを言って、泣き腫らした瞳を潤ませて、真っ赤な顔で見上げてくる。

 あまりにも予想外な言葉の、あまりにも高い攻撃力のせいで、俺はただ、呆けたような声を上げることしかできなかった。

 

「は? ……え?」


 理解が追いつかない。

 え? この人今、なんて言った? 


「え? 俺のこと……を、好きなんですか?」


 流石に何かの聞き間違いではないだろうか。そう思って問い返したら、長渡さんはちょっとだけきょとんとしたような、あどけない顔で、こくんと頷いた。


「うん、すき」

 

 飾り気のない好き、というたったその二文字の言葉の、あまりの破壊力に、頭がくらくらしそうになる。

 いや、でも、流石に意味が分からない。

 彼女の言動の全てがもはや、理解できない。


「だ……ったら……、なんであんな変な男とカラオケとか行ってんの……?」 


 俺のことが好きだと言うなら、何故振ったのか。

 なんで合コンなんかに参加していたのか。

 何もかも、意味が分からなかった。




 

「——振られたから、他に好きな人を作ろうと思って」

 

 彼女の、想像をはるかに超える鈍感さに驚かされて。

 最初から、はっきり告白すれば良かったんだ、って後悔した。

 

 思わせ振りな人だってずっと被害者ヅラしてたけど、よく考えたら、こんなにも考えてることが顔に出てしまう人なのに。思わせ振り、なんて高度な芸当、彼女に出来るわけが無かった。

 

 姉がどこまで知っていたのか分からないけど、ちゃんと告ったら? というアドバイスは、意外と的を射ていたわけだ。

 俺がちゃんと好きだって最初から、鈍い彼女にも伝わるように伝えていたら、済んだ話だったのか。

 

 俺が好きだとボロボロに泣いてくれる姿が嬉しくなかったと言えば嘘になるけど、それ以上に、こんな風に泣かせてしまったことが辛かった。

 

 これからは、言わなくても分かりそうなことだって、恥ずかしいとか思わずに、全部ちゃんと言葉にしよう。

 俺がそう思ったのと同じように、彼女もそう思ったのか……はわからないけど、一度口にしてしまえば同じとばかりに、両思いだと分かった途端、彼女は『好き』を連発し始めた。

 

 なんだろう、これ夢か? って不安になるくらい、長渡さんが——ひまりが、ずっと可愛すぎて怖い。

 彼女は、好きすぎて困る、とかわけわからないことを言っているけど、正直俺の方が困ってるし、怖い。


 女の子と傘に入ることにやきもちを焼いてくれるだけでも可愛いのに、それを我慢して、相合傘優先権なる謎の権利を主張するひまりは意味がわからないくらいに可愛い。これが全部計算なんだったら怖すぎて人間不信になりそう。なんて思うけど、彼女は多分全部素だ。


 あんないたいけな泣き顔は、もう見たくない。

 もう絶対に傷つけない。泣かせたりしない。

 そう心の中で誓って、真っ赤になっている彼女の頬に、そっと唇で触れた。

 

 慣れてる、やっぱりなんか慣れてる、とわめている彼女は、俺の顔だってきっと赤くなっているだろうに、そんなことには気付きもしなくて——。

 そういうところがまた可愛く思えて、頬が緩んだ。

 

 

 二歳の差は正直、結構でかくて、ちょっと背伸びが必要な時もある。


 怖いのを隠して、手のひらに汗をかきながら、彼女の手を引くときも。

 自分だって恥ずかしいのに、なんてことないような顔して、彼女を揶揄うときも。

 俺がくだらない見栄を張っている時に、てんで気付かない彼女の無垢さが、愛らしくて好きだ。


 いつも笑っていて欲しい。誰にも傷つけさせたくない。そんな純粋な彼女が傷つけられないように、これからはちゃんと、爪先立ちしたって俺が護るから。彼女の手を握る役目は、他の誰にも絶対に譲りたくない。

 だから、俺の精一杯の背伸びには気付かないで、俺にだけは騙されていて欲しい。

 

 そんな勝手なことを思いながら、恥ずかしがってむくれるひまりの小さな手を、ぎゅっと握り締めた。

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