9 好きが溢れ出す(完)
送ってもらった後、お別れするのがちょっと寂しくなって、家の前で数分手を握ったまま、伊月くんを引き留めてしまった。
すぐ我に返って、慌てて手を離したけども。
付き合った初日から重たすぎる彼女になるところだった。
気を付けないと……!!
自室で部屋着に着替え、床にぺたんと座ったところで、スマホに先輩からの着信が入っていたことに気付いた。
慌てて折り返すと、すぐに出てくれた先輩は、開口一番に「大丈夫だった?!」と尋ねてくれた。
「トイレ行った長渡ちゃんの後追いかけてったって聞いて! 心配になって見に行こうとしたらあいつだけ帰ってきてさ。男が迎えに来たとか言ってて——、一体何があったの?」
心配をかけていたことを知って、呑気に浮かれていた自分が恥ずかしくなる。
先輩に心配をかけてしまったことを謝罪して、それから、トイレの前で待ち伏せされていたこと。二人で抜けようと言われたこと。困っていたら、前に話していた失恋相手の男の子が、たまたま通りがかって助けてくれたこと。そんな内容を、ぽつぽつと伝えた。
電話の向こうで、あいつ絶対シメる、と先輩が憤ってくれているのを、慌てて止める。怖かったけど実際に何かされた訳じゃないし、正直ちょっと変な人だと思ったから、先輩にも関わらないで欲しい。
そう伝えたら、先輩はなんだか落ち込んでしまった。
「私が誘ったから、嫌な思いさせてごめんね」
とんでもないです! って、慌てて強く否定する。
こんなタイミングで話すのもどうかと思っていたんだけど——そんな風に、優しい先輩を気に病ませてしまうくらいなら、と、私は伊月くんに振られたと思っていたのが誤解だったことと、付き合うことになったことをおずおずと伝えた。
そうしたら、先輩はすごく喜んでくれて。
人の幸せを自分のことのように喜んでくれて、本当に素敵な人だなって先輩のことがますます好きになった。
次にシフトが被った時に、立て替えてもらったカラオケのルーム代を払うってことと——先輩はいらないよって言ってくれたけど、流石にそういうわけにはいかないので絶対に払うつもりだ——、お互いの恋愛報告をしよう、ということを約束して、通話を切る。
詳しくはまだ聞けていないけど、先輩も親しげだった片思い相手の人と、付き合うことになったらしい。私もなんだかすごく嬉しくなってしまった。
先輩との通話が終わった後、私はまだどこか夢見心地なほわんとした気分のまま、転がっていたクッションをぎゅうっと抱き締めた。
伊月くんと、両思いになった。
伊月くんも、私のことが好き……らしい。
まだにわかには信じがたい現実を思い返して、クッションを抱き締めたままごろごろと床を転がる。
明後日学校に行ったら、絶対すぐ未央に報告しよう。
一瞬そう思ったけど、やっぱりそんなの待ちきれなくて、スマホを手に取って未央にメッセージを打つ。
『未央っっっ! 付き合えることになったの!! 月曜にまた詳しい話聞いて!!』
勢いのままにそれだけを送ったら、送信完了と同時くらいの勢いで電話が掛かってきた。
「うわわわわ未央、見るの早くない!?」
未央からの電話なんて珍しい。
あたふたしながら通話ボタンを押して耳に当てたら、スマホの向こうからいつもよりちょっと低い声が返ってきた。
「ねえどういうこと!? 今日知り合った大学生とってこと!? え、急展開すぎるでしょ、大丈夫? 変な人じゃない?」
未央が誤解して、凄く心配してくれていることに気付いて、私は慌てて口を開いた。
「うわわ、ごめん、違くて! 大学の人じゃなくて……えっと、伊月くんと付き合うことに……なりまし、た」
いざ口に出すとなんだか少し恥ずかしくて、最後の方は口の中でごにょごにょしてしまった。
「…………。は? え? ちょっと待って、今日は合コンに行ったんだよね? いつの間にそんな話に?」
電話の向こうで、未央が混乱しているのが伝わってくる。
私はとつとつと、ちょっとしつこく誘ってくる人がいたこと、困っていたら伊月くんがたまたま通り掛かって連れ出してくれたこと——勢い余って告白したら、伊月くんも私のこと好きだって言ってくれたことを伝えた。
勿論、恥ずかしいので、私が幼児みたいに泣いてしまったこととか、絶対に手を離すもんか妖怪になっていたこととかは、端折った。
「ちょっと待て、気になるところが多すぎて理解が追いつかない。え? なんで伊月がいんの? 同じ日の同じ時間に同じカラオケにいて? ひまが困ってるタイミングで? たまたま通り掛かったの? 何その確率」
「ね……!? 運命感じてもいい?? 手を引いて連れ出してくれた伊月くん、本当にかっこよくて、少女漫画のヒーローだったらみんな好きになってると思う」
「はい、はい。それで? その少女漫画の主人公さんは、前に振られたって言ってなかった?」
うっとりする私を適当にあしらって、未央がそう追求してくる。私はうう、と言葉に詰まった。
「どうせやっぱり、なんか勘違いして早とちりしてたんでしょ?」
何故かバレている。
うっ、そういえば振られたってことを伝えたとき、早とちりしてない? って聞かれたんだった。
なんなの、未央、実はエスパー?
「前に、好きなタイプ聞いたら、伊月くんが私とは全然違うタイプの女の子を挙げてきて、他に好きな子がいるって意味で、遠回しに振られたんだなって思ってたんだけど……」
「伊月がそんな器用なことするわけないでしょうが。で、そのひまとは全然違うタイプの女の子、っていうのはなんだったの?」
ちょっと呆れたように、未央がそう問い掛けてくる。
「なんか、その。私のことだったみたいで」
自分でそんなことを言うのは少し恥ずかしくて、ごにょごにょと説明する。
「なんだそりゃ。もー、どうせそんなことだろうと思ってたけど。話してくれたらよかったのに」
「だって、伊月くんは好きな人がいるってこと、もしかしたらお姉ちゃんには知られたくないかも、とか思ったら、未央に話していいのかわかんなくて」
しょんぼりしながらそう伝えたら、未央ははあ、と呆れたようにため息を吐いた。
「伊月に気とか遣わなくていいから。でも、まあ……良かったね」
「うん」
未央の声は、どこかホッとしたみたいに優しくて。
私はそのあたたかさが嬉しくて、顔を綻ばせた。
「あのね、伊月くん、本当に優しくて。私が怖がってたからって、自分の荷物取りに行く時も、手を繋いだままでいてくれてね。自販機でジュース買ってくれた後も、プルタブ開けれないのに、ずっと手を繋いだままでいてくれて」
あ。
嬉しすぎてついつい、手を離すもんか妖怪になっていた話、してしまった。
「あ〜、ひまが伊月と付き合うってことは、つまり、ひまの伊月大好き日記が再開されるということか」
未央は痒っ! とか言いながらも、なんだかんだそんなに嫌そうじゃない、気がする。いや、私の希望的観測かもしれないけど。
「ご愛読よろしくお願いいたします」
「いや、もうそれいっそ伊月に送りなよ。勝手にイチャイチャしとけ」
「なんでよ! 恥ずかしいじゃんか!」
「私に送るのは恥ずかしくないわけ?」
未央のつっこみに、むむむ、と唸る。
「まあ、いいけどさあ。昨日まであんなにぺちゃんこだったのに、幸せそうでなにより」
「うん、ありがと」
ぺちゃんこだった、と言われて、やっぱりしおしおになっているのはバレバレだったんだなあ……と、未央に心配かけていたことを、改めて申し訳なく思う。
「月曜日からは元気いっぱいで登校します」
「小学生か。……あ」
電話の向こうで、ガタガタと何か音がする。
「未央? どしたの?」
「んーん、なんでもない。えーっと、それで? 伊月のどこが好きなんだって?」
そんな話してたっけ? と思いつつ、未央の方から聞いてくれたのが嬉しくて、私はにこにこして答えた。
「えー、優しいとことー、かっこいいとことー、笑ったらかわいいとことー、お兄ちゃんなとことー、面倒見がいいとことー、すぐ気付いてくれるとことー、あとなんだろ、たまにちょっと意地悪なとこも好き」
「……だってさ。伊月全肯定botだよ。よかったね」
「え? 未央?」
だってさ、って、何?
なんか嫌な予感して、未央におそるおそる問い掛ける。
「ん、ちょうど伊月帰ってきたから、スピーカーにして聞かせてあげたよ」
「え?! いやなんで!!?!? やめてよ普通に恥ずかしい!!!」
「もっと恥ずかしいこと散々私に聞かせといて何言ってんだか。後はお若い二人で勝手にどうぞ」
未央はそっけない声で、でもちょっと最後笑い混じりにそう言うと、通話をぷつっと切られてしまった。
お若いってなんだよ。同い年なのに!
え、今の聞かれてたの? ほんとに? 冗談じゃなく?
いや、また揶揄われただけの可能性あるよね?
とか思って、通話の切れたスマホをしばし呆然と眺めていたら、伊月くんから電話が掛かってきた。
私はおそるおそるスマホを手に取って、通話ボタンを押す。
「は、い」
「……今、帰ってきたんだけど」
落ち着いた声が、耳朶に響く。
「お、おかえりなさい」
「うん、ただいま。……さっき、姉ちゃんに、話した?」
おかえりなさいって言ったら、ただいまって返ってきた。
いや普通の返しなんだけど、なんだか一気に親しくなれたような気がして、へへ、と頬が緩んでしまう。
姉ちゃんに話した、っていうのは……付き合うことになったこと、かな?
「うん。話しちゃった。駄目だった?」
「いや、駄目じゃない、けど……。あの、ちょっとびっくりした」
「なにが?」
「なんかめっちゃ褒めて? くれてたから」
「うう」
揶揄われたんじゃなかった。これ、本当に聞かれてたやつだ。
本人に聞かれたのは流石に恥ずかしくて、頬に熱が上る。
「恥ずかしい。忘れてください」
思わず敬語になってしまった。
「え、やだ。なんならもっかい言って」
「言わないよ!」
私はぱたぱたと手で顔に風を送りながら、慌ててそう答える。
やだ、ってなに。聞いたことない子どもみたいな反論、めっちゃ可愛い。
いや、でもいまそんなとこでときめいてる場合じゃない!
もー、未央の意地悪!
こっちは、本人に伝えるつもりで言ってないのに!
「もっと恥ずかしいこと散々聞かせといて、とか言ってたから、普段どんな話してたかめっちゃ気になったんだけど」
「い、いい、言わないよ?」
未央に散々全肯定botと揶揄された日々の発言など、伝えられるはずもない。
普通にドン引き事案だ。
いや、そんなドン引きされそうな話を実の姉にしている私もどうなんだ、って話なんだけど。
でもさ、もっと恥ずかしいこと、って言い方、なんかちょっと誤解を招かないか!?
私は別に変な話はしてない。そう思って、慌てて言い訳がましく口にする。
「そんな変な話してないからね。伊月くんのどういうとこが好きかとか、そういうこと言ってただけだからね」
「それを聞きたいんだけど」
「もうさっき言ったじゃん。きょ、今日の分はおしまいです」
「今日の分ってことは、明日になったら聞かせてくれるんだ」
「あ、いや、今のは言葉のあやというか……!」
おろおろする私をよそに、スマホの向こうからは小さく笑う気配がした。
か、揶揄われたのか!
そう気づいて、むむと口をへの字にする。
「……ごめん。今さっきまで一緒にいたのに。さっきの聞いたら、なんか、また話したくなって電話掛けちゃった」
ちょっと拗ねた気持ちになっていたのに、不意打ちでそんなことを言うものだから、嬉しくてきゅんきゅんして、胸の中がふわふわした幸せでいっぱいになる。
「ううん。私も声聞きたかったから、嬉しい」
ついさっきまで一緒にいたのにね。
へへ、て照れ隠しみたいに笑った。
「今日、送ってくれて……あと、助けてくれて、ありがとう」
「うん」
「また電話、してね。私も、していい?」
「うん、勿論」
いちいち優しい声で相槌を打ってくれるのが嬉しくて、頬がまたゆるゆるになってしまう。
なんかまだ、不思議な感じ。雲の上にいるみたいに、ずっとふわふわしている。
「へへ……あのね、好き」
まるで酸素を吸って、吐き出すみたいに、自然と気持ちが溢れてしまう。
多分、もう私の好きのタンクはぱんぱんになってて、溢れるたびに口から零していかないと洪水を起こしそうなんだと思う。
それくらい、人生で感じたことがないくらい、伊月くんのことが好きすぎて、困る。
「……俺も、好き」
ちょっとだけ躊躇ったあとで、伊月くんがそう答えてくれる。
私はますます頬が緩んでしまって、へにゃりと笑った。
◆
——そして。
それから、あっという間に四ヶ月が経った。
「——でね、受験生なんだし、大丈夫だよって言ってるんだけど、やっぱりいつもバイト終わりに迎えに来てくれるの」
申し訳ないし、本当にいいのにって思うけど、その優しさが嬉しくて、にまにましてしまう。
未央の言うところの「伊月大好き日記」を今日も今日とて未央に語っていた私は、でもさあ——、とぺしょんと教室の机に突っ伏した。
「なんだなんだ、ニヤニヤしてたかと思ったら急に」
「ねー、このままでいいのかな」
「何が?」
机に頬をくっつけたまま、上目遣いに未央を見上げる。
「この前の週末で、付き合ってもう四ヶ月になったんだけど」
「うん、聞いた聞いた。隣町の水族館行ったんでしょ?」
水族館デートのことを思い出して、一瞬幸せな気持ちでへにゃりと頬が緩む。
その後で、違う違う、と我に返って、体を起こしてぺしっと両頬を叩いた。
「何が不満なの? なに、やっぱり年上の男がいいなあとか思い始めた?」
「は? いやいやいやそんなわけないじゃん!?!? 違うよ、そういうんじゃなくて! なんかさ、私ばっかり好きになってない? って思うわけなんですよ」
「はあ」
未央はちょっとげんなりしたような顔をしつつ、適当な相槌を打ってくる。
「なんか、私ばっかり毎日毎日ときめいて、翻弄されてるというか、好きだなあって思うことばっかりで。私もたまには伊月くんをドキッとさせたいなって思うんだけど!」
残念ながら、その手が思いつかない。
いつも伊月くんから手を繋いでくれるのが嬉しかったから、思い切って私から繋いでみた時も、別ににこって微笑まれて終わったし。
一緒に帰る時とかに、バイバイする直前にぎゅうってハグしてみたりもしたけど、別に慌てたりとかはしてなかったし。抱き締め返してくれて、私がほわんほわんと幸せな気持ちになって終わった。
伊月くんがたまに頬にしてくれるキスも、私からしてみようかなって思ったけど、それは恥ずかしすぎて無理だった。あと、背が届かないし。
「生々しい話を私にするな、痒い! 弟と友達のイチャイチャを私に想像させるな」
「えーー、そう言わずに聞いてよー。あ、じゃあ、未央の彼氏さんはどういう時にときめいてくれるの?」
未央は、うーん、と唸った。
「私の彼氏の話はあてにならんでしょ。どっちかって言ったら犬みたいなあいつは、ひまと同種の人間だと思うし」
「う、うーん。あっ、じゃあ未央は? 未央は彼氏さんに何されたらキュンてする?」
「今更キュンとか無い、もう一年も付き合ってるんだから」
「えーー絶対嘘ーーー、あるでしょキュンとくる瞬間、教えてよ」
「あーもう、無いってば! 伊月に聞いてあげよっか? ひまが何したらきゅんきゅんしてくれるかって聞いてるって」
「いやいやいややめて?!」
結局未央は真剣に相談に乗ってくれなかったので、次のバイトの時に、先輩に相談することにした。
あのカラオケでの合コンの日以来、先輩とは前よりもずっと仲良くなって、会うたびにお互いの彼氏の惚気とか相談とかをしている。伊月くんが本当は中学生だってことも、振られたっていうのも私が勝手に誤解してただけだったってことも、全部打ち明け済みだ。
「あー、なるほど」
お客さんのいなくなった、閉店間際の時間帯。
並んで洗い物をこなしながら、思い切って相談してみたところ、先輩は少し考えるそぶりを見せた後で、さらりとこう言った。
「うーん、じゃあ自分からキスとかしてみたら?」
「きっ、キスぅ!?!? ほっぺにするやつですよね、何回か挑戦しようと思ったんですけど……」
「いや、そっちじゃなくて、こっち」
先輩が、細い指先で自分の唇をちょん、と触る。
え、く、唇に!?
ぶわわっと、おそらく真っ赤になっているであろう私の顔を見て、先輩はニヤニヤと笑った。
「まだだって言ってたもんねえ。大事にされてるよねえ。……そこ、年上らしくリードしてあげたら」
「く、くくく口に!? 私が!? 私から!?」
頬にするのすら躊躇して出来なかったのに、流石にハードルが高すぎる。突如現れたエベレスト級のミッションにわたわたする私を見て、先輩はおかしそうに笑った。
「長渡ちゃん、泡吹いて倒れちゃいそう。ハードル高いならまあ、頬でもいいかもしれないけど。不意打ちが大事よ」
ふ、不意打ち……。なるほど、不意打ち……。
「あ、ありがとうございます。頑張ります!」
がこん、と食洗機のレバーをおろして、拳を握り締めた私を、先輩は微笑ましそうな目で見守ってくれていた。
ちなみに同じ時期に付き合いだした先輩は、もうキスしたこともあるらしい。その話をしてる時、別に先輩は普通に教えてくれたのに、お、大人だ……!! って何故か私の方が照れてしまった。
片付けを終わらせて着替えた後、バイクで帰る先輩と別れて通用口へ向かう。従業員通用口を出て少し行ったところで、伊月くんが壁にもたれてスマホをいじっていた。
伊月くんは予定がない時、わざわざバイト終わりに迎えに来てくれる。なんだか申し訳ないし、いいよって言ってるんだけど、なんだかんだ殆ど毎回来てくれる。
「伊月くん!」
声を掛けて、小走りに駆け寄ったら、伊月くんはスマホに落としていた視線を上げて、それから私を見てかすかに口角を上げた。
「お疲れ様」
「お疲れ様……む、迎えに来てくれて、ありがとう」
「うん」
伊月くんはスマホをポケットにしまって、私の手を取ると、自然と道路側を歩き始めた。
身長が違うから、足の長さも全然違うけど、いつも歩幅を合わせてゆっくり歩いてくれている。そのことにも、最近になってやっと気付いた。
わざわざ迎えに来てくれるところも、道路側歩いてくれるところも、歩幅合わせてくれるところも——何もかも、好きすぎて、困る。
「今日は思いの外忙しくてね、閉店が近くなってから急遽シュー焼き足すことになって、大変だったよー」
「そうなんだ?」
他愛もないバイトの話をする私に、伊月くんが優しく相槌を打ってくれる。
ああ、駄目だ、いつものことなんだけど、これって保育園の帰りに親に話聞いてもらってる構図と一緒じゃない?
もっとカップルっぽい会話をしなきゃ!
……って思うけど、カップルっぽい会話ってなんだ?
ときめかせスキルのない私に、誰かどうか教えて欲しい。
「い、伊月くんは? 今日は何してた?」
結局、無難にそんなことを聞いてしまう。
「……学校行って、帰って飯食ってちょっと勉強して、だらだらして……今、かな」
ほんのちょっとだけ考える様子を見せてから、簡潔な説明が返ってくる。
視線を斜め上に逸らして、今日のことを思い出している姿もかっこいい。何しててもかっこいい。
芸能人か?
「あ、後、さっきアイス食いたくなってコンビニ行った」
「えっ!」
私は今、とあるアイスにおまけでついている、くまちゃんのステッカーシールを集めるのにハマっていたりする。
アイス、の言葉に思わず期待してしまったのが顔に出ていたのか、伊月くんは笑いながらポケットからシールを取り出した。
「あげる」
繋いでいない方の手を取って、手のひらにシールを乗せられる。
「わ! ありがとう!! えっ、なにこれ、可愛い!」
くりくりお目目でいつも可愛いくまちゃんに、見たことのない口髭が生えている。しかも腰に手を当てて、えらそうに踏ん反り返っている姿だ。なにこれ、偉そうで可愛い!
持っていない柄だったので、テンションが上がって思わずはしゃいでしまった。
「可愛い......のかな」
伊月くんはちょっと呆れ混じりの、不思議そうな声音で言った。
このくまちゃんのシリーズ、割とどの絵柄もシュールなポージングなんだけど、その可愛さがあんまり伊月くんにはピンと来ない様子だ。
伊月くんはアイスを買うたびにシールをくれるんだけど、毎回こういう微妙な反応だったりする。
「え、めっちゃ可愛いじゃん! 短いおててを腰に当てて、ふふん、て得意げな顔してるの可愛すぎ!! わー、やったあ、ありがとう!! 嬉しい」
伊月くんは私を見下ろして、ふっと笑ってくれた。
「気に入ったんなら良かった」
「でも、伊月くん最近このアイスばっか食べてない? 私に気を遣わないで好きなの食べてね?」
「うん。でもひまりが喜ぶだろうなって思うと、他の買う気にならないし」
しれっとそんなことを言う伊月くんに、私はちょっとそわそわしながらお礼を言いつつ、シールを鞄にしまう。
うう。
さらりとそういうこと言うの、嬉しいけどやめてほしい。
ほらまた、私ばっかりときめかされてるし!!
伊月くんは何しててもめっちゃかっこいいし、いつもうんと優しいし、私は毎日幸せだけど……正直、伊月くんはどうなんだろう。
この前、ピクニックデート行こう! て張り切ってお弁当を作ってみたけど、卵焼きが焦げてたりとか結構残念な出来になってしまった。伊月くんはおいしいって食べてくれたけど、まだまだ精進が足りないと反省した。
あれから週末のたびに卵を焼く練習してるので、そのうち料理上手になって伊月くんにときめいてもらえるようなお弁当を作るぞ!! って思ってるけど、正直今すぐには無理そう。
ならば年上のアドバンテージを生かそうと思って、受験勉強手伝うよ! て張り切って一緒に勉強した時は、伊月くんの志望校のレベルがうちよりも高くて、全然役に立てずに終わった。なんなら隣で宿題をやっていた私が、漢字をちょっと書き間違えていたのを指摘されてしまった。
ま、まあ、点が一個足りてなかっただけだけどね!?
思い返してもこんなことばかりで、全然、全然良いところを見せれてない!!
本当にこのままでいいんだろうか。
いや絶対よくないよね!?
毎日毎日、私ばっかり好きになっていく一方で、ある日急に、捨てられちゃったらどうしよう。
こんなに好きなのに。
伊月くんにも同じくらい、ドキドキしてきゅんきゅんして、私のこと好きー! て思ってもらいたいのに。
気持ちばっかり焦っているところに、先輩の言葉を思い出す。
『自分からキスとかしてみたら?』
……キス、キスか。えっと、どうやって?
恥ずかしいし、そもそも、背が高くて届かない、よね。
引っ張って、身を屈めてもらう?
うう、でも、ほっぺにすら恥ずかしくて出来なかったのに。いきなり口になんて、ハードル、やっぱり高すぎる。いきなりエベレストじゃなくて、まずは近所の小さな山から挑戦した方がいいよね。
「どうしたの? ……なんか今日、上の空じゃない?」
伊月くんがふいに立ち止まって、不思議そうに顔を覗き込んでくる。
な、なんで気付かれたの? ちゃんと会話できてたよね?!
そんな風に戸惑いつつ顔を見上げて、思いの外その距離が近いことに、小さく息を呑む。
不意打ちが大事だよ、という先輩の言葉がふいに蘇って——。
私はその瞬間、勢いのまま、エベレストに登る決意をした。
ぐっと背伸びをして、伊月くんの唇に、自分のそれを押し当てる。
伊月くんが、切れ長の瞳をまん丸に見開いているのが視界に映る。あ、意外と目の色茶色っぽいんだなとか、そんなことに気付いてしまうほどの距離に、近づいた自分が驚いてしまう。
途端に恥ずかしくなって、パッと離れた。
伊月くんが照れてるか、なんて、確認する余裕なかった。
無理、無理だ。
自分からやっといてこっちが恥ずかしくて死にそう。
慌てて顔を逸らそうとしたら、急に後頭部に手を添えられて。
ぐい、と少し強引に引き寄せられて、唇を重ねられた。
一度離れて、もう一度優しく触れてくる。
最後にふに、とかすかに唇をはまれて、その柔らかい感触に、びっくりして目を見開く。
薄く瞳を開いて、伏目がちにゆっくり離れていく伊月くんの顔が、いつもより大人びて見える。
ドキリと心臓が跳ねた。
「い、いい、いづきくん!?!?」
思わず名前を呼んで、でもそれから何も言葉にならなくて、はくはくと口を動かしてしまう。
脳内は勿論、大パニックだ。
な、なになになになになにいまの!?!?!?
私から一瞬触れて、離れて。
それで終わったはずだったのに。
急に後頭部に回された手のひらの力強さと、押し当てられた唇の柔らかさを思い出して、頭が沸騰したみたいに熱くなる。
後頭部に回されていた手が、するりと上に移動して、何故か少し乱暴に、頭を撫でてくれた。
「あーもう無理。突然なに? 殺す気?」
伊月くんはいつもより少し早口にそう言った。
いやそれこっちのセリフなんですけど!?!?!?
なに、いまのなに!? ちょっと現実に思考が追いついてないんですけど!?!?
真っ赤になって、相変わらず言葉も出てこなくて、ただただ口をはくはくさせている私を見下ろして、伊月くんは小さく笑った。
「かわい」
それから腕を引き寄せて、ぎゅっと抱き締めてくれた。
「う、ううう」
私の口からは、言葉にならないうめき声のようなものしか漏れてこない。
翻弄しようと思ったのに、しっかり翻弄されている。
いや、なんで?!
「ね、ねえ、おかしくない? 私ばっかりドキドキさせられてるの、おかしくない? たまには私もドキドキさせたいのに」
私が感じてるみたいに、伊月くんにもキュンキュンしてドキドキしてもらいたいのに。
思わずそうぼやいたら、伊月くんは身体を少し離して、呆気に取られたような顔で私を見下ろしてきた。
「いやどの口が言ってんの? どっちかっていうと振り回されてるの俺の方だと思うけど」
「う、うそだあ!」
顔を真っ赤にして抗議する私に、伊月くんは小さく笑う。
「触ってみて」
って、ふいに手を掴まれて、伊月くんの胸に押し当てられた。ドッドッドッ、と早い心臓の音を聞いて、案外早いその心拍音に、少しだけほっとした。
「ほら。十分ドキドキしてる」
少しだけ照れたように、素っ気なく向けられた伊月くんの言葉に、安堵とときめきで心があたたかくなる。
もしかしたら私と同じくらいかな? って、反対の手を自分の胸に当ててみる。
うーん。私の方が早い気がする。
「俺には聴かせてくれないの?」
伊月くんが、ちょっと意地悪な顔をしてそんなことを言うものだから、私は慌てて抗議した。
「聴かせないよ!!」
同じ失敗を何回もやらかすほど、馬鹿じゃない!
た、多分。
「でも、良かった。私ばっかり毎日ドキドキして、好きを更新していってるのかなって不安だった」
「そんなわけないじゃん。好きじゃなかったらバイト終わりに迎え来たりしてない。一秒でも会いたいから来てんのに」
しれっと向けられた言葉に、ぶわあっと一気に顔に熱が上る。
「うう、好き……」
結局またときめかされているのは私だ。
もう諦めたように、またタンクから溢れてしまった好きの気持ちを口に出す。
伊月くんが私の手を取って、指を絡めて握ってくれた。
「俺も。……ひまりが好き、大好き」
そう言って、優しく笑いかけてくれる伊月くんは、やっぱり私よりはずっと落ち着いて見える。
それでも、大好きって言ってくれたことが嬉しくて、単純な私の頬は、へにゃへにゃと緩んでいく。
「私の方が大好きだし」
いつもときめいてるし、毎日毎秒好きだって思っているし、絶対私の方が伊月くんのことを好きだっていう自信があるけど。
でも、伊月くんも十分すぎるくらいに、こんな私のことを好きでいてくれているのが分かって、頭の中にお花でも咲きそうなくらい、浮かれた気持ちになってしまう。
私は緩み切った表情のまま、へへ、と笑って伊月くんを見上げた。
——夜道で仰ぎ見る伊月くんの顔が、私に負けず劣らず赤いことには、ついぞ気付かないまま。




