第8話「カメラとピクニックと野菜の祟り」
川へ続く田んぼ道をひたすら歩く。
遠くに見える山々が延々と連なり、この小さな町を飲み込まんばかりに包み込んでいる。
市内では見られる事のない光景に、僕はいつだって感動していた。
この町の人しか知らないような名もない川に辿り着いた僕達は全く手入れのされていない河原を降りて川の中にある、平たくて水面から頭を出している大きな石を慎重に踏みながら反対側の岸へと渡った。
渡り終えて、安堵の息を吐き出すと、僕達は川の中に手を入れて指先が痺れるようなひんやり感を楽しんだ。
「勇人君、この川のお水、冷たくて気持ち良いね!
あっ、小さい魚が泳いでる!めだかかな?」
「ううん、多分どじょうだよ。
めだかにしては巨大すぎるよ。」
「えー、そうなの?私、めだか好きなのになあ。」
僕はしばらく川の中を見回したけど、どじょうしかいなかった。
めだかを探してる間に美菜ちゃんが両手一杯に汲んだ水をかけてきた。
僕の顔はたちまち水でびしょ濡れになり、メガネの淵から入り込んできた水滴が目に入って目を開けられなかった。
美菜ちゃんは笑いながら河原を登り始めたけど、僕がメガネを外して顔を拭いているのを見て申し訳なくなったのか、再び戻ってきた。
「ご …ごめんね。ちょっとかけすぎちゃった。」
苦笑いしながらも何も答えない僕に段々泣きそうになる美菜ちゃんにすかさず僕はカメラを向け、シャッターボタンを押した。
美菜ちゃんは最初、きょとんとした顔で見ていたけど、からかわれたとわかってから、急に態度を変えて怒って近付いてきた。
「もう!酷いよ!フィルム出して!」
「み、美菜ちゃんが悪いんじゃないか!フィルムは渡さないよ!」
「いじわるー!出しなさい!出しなさいったら!」
美菜ちゃんは、僕が背中に回して持っているカメラを取り上げようと手を伸ばしてきた。
僕は更に手を後ろへ回してカメラ取られないように守備をした。
そのうちに美菜ちゃんの反対側の手も伸びてきた。
美菜ちゃんは僕より、ほんの少し背が高い。
当然、手足だって僕より長い。
僕は必死でカメラを取り上げられないように必死で守った。
最初は二人とも冗談半分でやっていた。
でも、そのうちこの攻防戦に熱が入ってきて気が付けば二人共真剣になりすぎていて、僕は後ろに下がりながらカメラを守っていたのだけど、石につまずいて背中から倒れこんでしまった。
倒れる瞬間、目をつぶっていた僕は地面に倒れても痛くない事に気付き、ゆっくり目をあ開けた。
目の前には、ふわりとした優しく柔らかい香りがして、倒れているはずなのに空が全く見えなかった。
空を隠していたのは美菜ちゃんの髪の毛だった。
僕には一瞬、何が起こっているのかわからなかった。
僕の頭と背中には美菜ちゃんの腕が回されていて、カメラは右手でしっかりと握ったまま守られていたので、傷一つなく無事だった。
だけど、今はカメラの心配なんて頭の片隅にもないくらいで、この超近距離にいる美菜ちゃんの事で頭の大部分が占められていた。
少し震えぎみで僕の体を守り、カメラの攻防戦で大分息も上がり鼓動も速い。
それにつられてなのか、僕の鼓動も速さを増していき、息苦しさすら感じ始めていた。
「み…みぃ…美菜ちゃ…ん、だ…大丈夫?」
「あ…あぁ!私ったら、ごめんなさい。ほんとごめんね!すぐ離れるから!ほんとごめんね。」
「ぼ…僕は大丈夫だから謝らないで大丈夫だから。それより美菜ちゃんは平気?」
「うん。私も平気だよ。ほら傷ないでしょ?」
「う…うん…そうだね。怪我がなくて良かったよ。」
僕達はなぜかお互いの姿を見る事も出来ず、川原を登り小山を登り始めた。
山の上に辿り着くまで一言も会話をしなかった。
「うわー!!綺麗!この町全体が見渡せるんだね。ほら、私達がいつも待ち合わせする場所とか、牧場とか堰まで、全部見えるよ!」
最初に口を開いたのは美菜ちゃんの方だった。
大して高くはない山だけど、このあたり全てが見渡せて、田んぼも、家々も皆小さく見えた。
そして、美菜ちゃんがこんなに喜んでくれるのがとても嬉しかった。
「凄いね!でも、その驚きぶりからすると…やっぱり、ここも見覚えは…。」
「うん…。もしかしたら来ているのかもしれないんだけど、やっぱり、記憶にはないみたい…。せっかくここまで連れてきてくれたのに…ごめんね。」
「ううん。いいんだよ。ここへはお弁当を食べに来たんだし。じゃ、早速だけど、ご飯食べようか。」
「そっか、そうだよね。うん!じゃあご飯食べよぅ!」
僕達は丁度良い日陰を探して周辺を歩いた。
僕達が登った川側には草しか生えておらず、遠くからでも山の頂上を見る事が出来た。
しかし、裏側は全く様子が違い、木が鬱蒼と生い茂っている。
僕達は二人が入れる木陰を見つけて、そこにレジャーシートを敷いて腰をおろした。
お弁当を開けると、とても美味しそうな香りが漂ってきた。
「わぁ!美味しそう!どれから食べようかなぁ。」
嬉しそうな美菜ちゃんを見ているとつい僕が作ったというのを言ってしまうところだった。
美菜ちゃんが全部食べるまでは気を使わせないように黙っている事に決めていた。
僕の作ったおかずがもしも美菜ちゃんの口に合わなかったらどうしようという不安をよそにほくほくの笑顔で頬張っていた。
だから、食べ終わってからの美菜ちゃんの驚きはそれはもう尋常でないくらいの驚いた顔をしていた。
美菜ちゃん
はずっと僕を褒めてくれて、僕は料理をして負った数多の傷の痛みも忘れ、ずっと鼻の下を伸ばしていた。
こちらの山の上から見下ろすと、田畑が広がっている。
その先に高台があり、そこには神社があった。
「ねぇ、あそこに神社があるのわかる?
あそこの神社では毎年お盆の時期にお祭りがあるんだ。
色んな出店が出たり、花火も打ち上がるんだよ。」
「へぇ、お祭りかぁ。楽しそう…あっ!」
「どうしたの!?」
「あれ…今何か思い出したような気がする!」
「えっ!?どんな事思い出したの?」
「うーん、ハッキリとじゃないんだけど、お祭りで私、何かを見ているところ…。」
「ど、ど、ど、どんな物?」
「ごめん。そこまでは思い出せない…。」
その後しばらく、美菜ちゃんは考え込んだままだったけど、結局その他は何も思い出せず、美菜ちゃんは俯いてしまった。
僕は美菜ちゃんを元気付けたくて、思い切った提案をしてみた。
「ねぇ、じゃ今度あの神社のお祭りに行ってみない?何かまた思い出せるかもしれないよ。」
「うん。そうだね。私も行ってみたいなぁ、勇人君と。」
今から既に楽しそうな美菜ちゃんを僕はカメラに収めた。
「えっ?ちょっと、今何撮ったの?」
「あ、今凄く良い表情だったから、つい…、ごめん…。」
「ううん。別にいいよ。ねぇ、私にも撮らせて?」
僕はカメラを美菜ちゃんに渡した。
美菜ちゃんは不思議そうにカメラを色々な角度から探るように見た後レンズの中を覗いた。
「凄い!この町が小さく見える!わぁ!拡大も出来るんだ。こんなの見た事ないよ。」
このカメラは真帆ちゃんさんの物で、高性能な家庭用カメラだった。
僕もそんなに詳しくはないけど、割りと新しい物だ。
きっと、美菜ちゃんが生きていた頃はこんなカメラがまだ出ていなかったのかもしrない。
僕は気の済むまでカメラを使わせてあげる事にして、遠くに薄っすらと見える僕の普段住んでいる町を探していた。
その時、僕にどこかから視線を感じた直後シャッターを切る音が聞こえてきた。
「えっ?何撮ったの?」
「へへへ、さっきのお返しぃ。」
僕は写真を撮られるのが苦手だったので美菜ちゃんからカメラを取り返した。
美菜ちゃんは仕返しが出来た事に満足したのか、奥の方へ走っていった。
「あ!綺麗なお花。ねぇ、そこから撮って!」
美菜ちゃんは僕に向けて満面の笑みを僕に向け、胸のあたりに右手でピースサインを作った。
僕は美菜ちゃんとお花がうまく写るようにレンズを向け、シャッターボタンを押した。
「どう?うまく撮れた?」
美菜ちゃんはワクワクしながら僕に質問をしてきた。
撮られるのが嬉しいのか、美菜ちゃんは別の位置に移り、さっきとは別のポーズをとった。
僕も何だか今までに感じた事のないカメラ小僧の血が騒いできた。
カメラを向ける度に美菜ちゃんも色々なポーズをとってくれた。
僕の頭は何だかボーっとして、思考が止まってきた。
妙に良い香りもする。
この香りはとても不思議で、嗅げば嗅ぐ程この匂いが気になって仕方なくなってきた。
そのうち写真を撮るのも忘れ、この匂いの元を探し始めた。
僕達のいる側とは反対の方からこの香りが漂ってきている気がした。
だから僕は美菜ちゃんに背中を向けて、この香りがする方へ歩いていった。
段々と意識が朦朧としてきた。
頭がぼんやりとして、何も考えられない。
ただひたすらにこの匂いの元へと向かっていく。
そんな時、弱々しく頼りないのにしっかりとした何かが僕の服を引っ張った。
「駄目!そっちに行っちゃ駄目!」
「え?」
僕の歩みを止めたのは美菜ちゃんだった。
「ど、どうしたの?」
ふらつく頭で美菜ちゃんにどうしたのか聞いてみた。
美菜ちゃんはいつになく真剣な表情で僕の腕を掴んだ。
「よくわからないんだけど、絶対あっちに行かないで。何か良くない気がするの。」
「う…うん。わかったよ。でも…何でだろう?こんなにふらつくんだ。」
僕はしばらくその場に倒れ込み、眠ってしまった。
僕はどのくらい眠っていたのか。よくわからないけど、太陽がの位置がさほど変わっていない事からそんなに時間が経っていないみたいだった。
美菜ちゃんは近くで心配そうにこちらを見ていた。
「大丈夫?」
「ご、ごめん。何か頭がぼんやりしちゃって、何も考えられなくて…。」
「大丈夫なら良かった。」
僕は起き上がって、一息入れた後、下に降りる事にした。
斜面が急なのでゆっくりと慎重に降りていく。
「体は大丈夫?」
「うん。もう大丈夫だよ。体はさっきよりも軽いんだよ。」
美菜ちゃんは僕の事を気にかけてくれながら降りていく。
川原まで降りると僕達はまた河原で遊んだ。
上まで登ったからか、無性に足を水に入れたくなる。
最初に川の中に足を付けたのは美菜ちゃんの方だった。
元々スカートだったので、靴と靴下を脱いだらすぐに入る事が出来た。
それにしても、山に登るって言ったのにスカートで来た時はびっくりした。
山に登っている途中、何度もスカートの中が見えそうになった。
僕は必死で見ないように心がけた。
「わぁ!すっごい気持ち良いよぉ。勇人君も入りなよ。」
僕も汗をかいていたのでたまらなくなって靴を脱いでズボンを膝までまくり川の中にカメラを濡らさないよう気をつけながら入った。
火照った足先から足首に浸かっていく時の、あまりの気持ち良さに思わず声が溢れた。
「あぁぁぁぁ、気持ち良いぃぃぃ。」
「勇人君おじさんみたーい。」
水に浸りながら優しく笑う美菜ちゃんを見ていると、僕まで幸せな気持ちになってくる。
もっと美菜ちゃんの笑顔を見ていたい。
もっと美菜ちゃんとずっと一緒にいたい。
そう思いながら、僕は無意識に美菜ちゃんへカメラのレンズを向けていた。
沢山笑っている美菜ちゃんも好きだけど、優しく微笑む表情もまた可愛くて、僕の脳は夏の暑さと冷たい水の気持ち良さも混じり、どんどんとろけていくのを感じた。
「あっ!今度こそめだかだよ!ほらここ。」
「本当だ!これは間違いなくめだかだよ!凄いね、美菜ちゃん目が良いんだね。」
誇らしげに笑いながらなぜか美菜ちゃんは足で水しぶきを僕にかけてきた。
「わっ、冷たいよ。カメラが濡れちゃう!やめてよ。」
「やめないよぉ。」
いたずらっぽい笑みを浮かべて僕に水をかけてくる美菜ちゃんは、本当に楽しそうで僕も笑いながらカメラが濡れないようにして応戦した。
一通り、服が濡れてきたところで美菜ちゃんはスカートの裾を濡れないよう少しだけ上げながら、僕に声をかけた。
「ねぇ!写真撮って!」
僕は川に浸かり水がしたたっている美菜ちゃんを写真に納めた。
その時、カメラから変な音がした。
「あっ、フィルムがなくなちゃった。もう取れないや。」
「そっかぁ、残念。でも楽しかったなぁ、山登り。あれ、ところでどうして山に登ったんだっけ?」
僕は笑いながら川を上って大きい岩に腰を下ろして足の水分を払っていた。
遊び疲れた僕達は家の方に戻り、そのまま解散した。
夜は眠りそうになりながらご飯を食べた。
意識が遠のきながら、僕は真帆ちゃんさんに何度も肩を揺さぶられていた気がする。
「ほら、起きなさい!行儀悪いわよ。ちゃんと全部食べてから寝なさい!…起きろっつってんだろ!鼻の穴から焼き飯食らわすぞ!!あっ、これ極道ドラマで言ってたの使ってみたくてぇ…。」
僕はそんな声も聞かずに意識が遠のいていった。
眠りに落ちる間際、真帆ちゃんさんから何か聞こえてきたような気がした。
「お客さん、終点だよ!もうこんなに呑んだくれて、困ったお客さんだねぇ。」
どうやら一人でコントをしているようだった。
「ほら、起きなさいったら!起きないと食卓にいる野菜達からの呪いが…。」
最後までは聞き取れなかった。
朝起きると真帆ちゃんさんは僕の顔を見てくすくす笑っている。
不思議になって洗面台にある鏡を覗き込んででみると、そこには僕の額に『野菜』とマジックで書かれていた。
僕は真帆ちゃんさんにあんまりですよ!と怒鳴りこんだ。でも真帆ちゃんさんは涼しい顔をして、
「野菜のお化けからの祟りだから。」
と言うばかりだった。
僕はそれ以上は何も言わなかった。
それは昨日の夜に気付いた出来事があったからだった。
夜、早くに寝てしまったからか僕は夜中に目が覚めた。
テーブルで寝てしまったのだけど、起きたら布団の中にいた。
だから僕は心の中で真帆ちゃんさんに感謝をしながら、頭を切り替えて今日の出来事を思い出していた。
カメラの奪い合いをふざけてしている時、二人で倒れこんだ。
美菜ちゃんは僕をかばって倒れたけど、全くの無傷だった。
地面には沢山の小石があって、あれだけ大きく倒れたら、擦りむいたり、打ち付けたりして痛みや出血をしていても不思議ではないはずなのに…。
僕はあの時、しばらく忘れていた事を嫌でも思い出させられた。
多分、忘れていたのではない。
考えないようにしようと忘れる事に必死になっていたのだった。
どんなに笑顔が可愛くて、いつも髪型が違ってドキドキさせられてしまっていても、美菜ちゃんが幽霊である事に変わりはない。
その現実だけは常に僕の心へと傷を作り続けていた。