第1話「初めての」
僕の身体は相当に弱い。
どれくらい弱いのかというと、車のエアコンに当たっただけでその日はしばらく動けなくなってしまうくらいだ。
だが、百歩譲ってそれだけならまだいい。良しとしたい。
困っているのはそのエアコンを止めて、とすら言えない自分の心の弱さだ。
それも肉親である父さんにすらこの状況なのだから、自分で自分が嫌になる程だった。
小学六年にもなれば自分の感情や考えを他人に言えて当然なのに…。
同級生の中には親に反抗している人だって結構いる…らしい。
こんな弱い僕だから友達も出来ず、宿題もすぐに大体が終わってしまうので、同級生の知り合いがいない僕の母さんの実家へ行って夏休みを丸々のんびり過ごすのがここ数年の僕の楽しみだった。
しかし、この小学校最後の夏休みだけは例年と違っていた。
とてつもなく違っていた。
母さんの実家に住んでいる僕の祖父が屋根裏の階段から転げ落ち、両足を骨折してしまったのだ。
幸いにも命に別状はないし、訓練すればまた歩けるようになるので心配はしなくてよいとの事だったのだが、問題は実家で面倒を見れる人が誰もいないという事だった。
父さんは仕事が忙しくてお盆も休めないくらいだし、母さんも僕がいない分、東京や大阪支社へ出張を入れていて、実家で面倒を見るのが難しいというのだった。
そんな時、祖父の三軒隣の東暖家のおばさんが夏休みの間、僕を預かってくれる事になった。
何でもその昔、東暖家のおばさんは僕の曽祖父に大変お世話になったそうだ。
僕は曽祖父の事を殆ど知らないので、その話を聞いてみたいと思ったし、何より嫌だとは言えない自分はそのまま首を縦に振ったのだった。
「…大丈夫か?」
「へ、平気。」
僕は完全に乗り物酔いになっていた。
田舎道を走るガタガタとした道を走った上に窓も開けず、ただひたすらにエアコンの風に当たり続けた結果だった。
「いいか?おばさんに会ったらきちんと挨拶しろよ?」
「うん…。」
「あと失礼のないようにな。」
「うん…。」
僕は意識が朦朧としながら、これ以上何かを言うと胃の中の消化物が全部出てきてしまいそうだったので、最小限の言葉で対応していた。
だから、車が目的地に着いた時はそこがまるで天国のようで、気が抜けそうになり、危うく第一印象を最悪にしてしまうところだった。
そこは、まるで別世界だった。
東暖家の門をくぐり、車酔いでガンガンする頭を抑えながら、助手席側のドアを開けて車を下りると、そこだけ時間が何十年も止まっているかのような、静かで濃厚な空気に包まれていき、自分達があまりに場違いな場所へきてしまったのではないかと劣等感を味わうくらいに立派な日本家屋を前して
ほんの数十秒ただただ立ちすくんでいた。
対して、さほど場所も変わらないのに僕の祖父の家とはまるでえらく違っていた。
呆然としていた僕達は玄関ではなく裏の戸から人影が見えてハッと我に返る。
僕はもう何が何だがわからなかった。
父さんからは、「少し年配の女性」だと聞いていた。
でも、どう見ても僕の母さんより若い。
母さんだってそこそこ良い年だと以前に父さんが言っていた。
大人は皆一緒に見えるのに何が良い年なのかわからない僕ではあったが、それでもこの人だけは何かが違う、と直感した。
その着物を着た女性はゆったりとした動作でこちらに近付き、とても穏やかな笑顔で挨拶をしてくれた。
「いらっしゃい。お待ちしてましたよ。」
「真帆さん、お久しぶりです!いやぁ、相変わらずお綺麗ですね。うちの家内とは大違いだ。」
「やめてくださいな。お子さんのいる前でぇ。」
その着物を着た女性は袖で口元を隠しながら笑う。それがまた僕の母にはない上品さを醸し出していた。
二人は穏やかに笑い合った後、祖父の怪我について話していた。
しばらく二人での会話が一段落すると、
「本当に今回はご迷惑をおかけします。」
「いいえ。また子育てが始まるみたいでたのしみ。」
と、挨拶を交わし、父さんは大きい包みに入った菓子折りを渡した。
着物女性はそれを驚きながら見つめ、
「まぁ、大した身代金ね。」
と、ちょっとわかりづらい事を言いながら嬉しそうに受け取っていた。
「それではこれから仕事なので。」
と父さんは僕の荷物を車の後ろにあるトランクから軽々と持ち上げ、玄関まで運んでから帰っていった。
父さんを見送った後、改めて挨拶をしようとするもまだ酔いが醒めず、もごもごと挨拶をしてしまった。
東暖のおばさんは優しい目線でこちらを見ながら、「ちょっと待ってて。」と一旦家の中に戻っていった。
間も無く出てくると、手にはみかんを持っていて、
「乗り物酔い大丈夫?これ食べたら元気になるわよ。」
とみかんを差し出してくれた。
僕は驚いていた。
父さんは僕の事をこんなにもまじまじと見て、自分の事を気にかけてくれただろうか。
「ど、どうして僕が乗り物に弱いのわかったんですか?」
「そんなの見ればわかるわよ。顔青白いもの。お水飲む?」
「い、いえ、大丈夫です。」
僕はしばらくみかんを手に持ったまま動かなかった。
「どうしたの?みかん嫌い?」
僕は半分意識が飛んでいたようだった。
それもそのはずで、こんな風に優しく気遣ってもらえた事なんて今までに数える程しかなかった。
それを、目の前の女性は初対面であるにも関わらず、いとも簡単にやってのけたのだった。感動しすぎて、この時は何を考えていたのか全く覚えていなかった。
いつもはその日中、車酔いに悩まされていたのに、みかんのおかげか、東暖のおばさんの優しい気遣いのおかげなのか、酔いが段々と収まってきているようだった。
そして、ようやくおばさんから心配してかけてくれた言葉に答えられまでに回復した。
「い、いえ僕…その…あの…嬉しいです。(みかん)大好きです…。」
その瞬間、東暖さんは顔を赤くして、僕に大きな声でわめきだした。
「しょ、初対面からいきなり告白するなんて…こんな年の差もものともしないなんて…あなたもとんだ大物ね!そ、そんな事言っても全然なびかないんだからね!」
すぐさま東暖さんは玄関に向かって「瀧く~ん!」と、叫びながら入っていった。
確か、ここは一人住いだと聞いたけど、と思っていると奥から仏壇の鈴を何回も鳴らす音が響いてきた。
僕はしばらく呆然としながら思い出したようにみかんを食べ、玄関に向かった。玄関に置いてある荷物をどこに運び入れればいいのかわからず、おろおろしていると奥から東暖さんが出てきた。
東暖さんは荷物を置く場所を指で指し示した後、僕の顔をまじまじと見ながら感心して言った。
「それにしてもあなた、おじさんに似てないわねぇ。似てなさすぎて逆に心配よ。おじさんは『アレ』だったけど、でも人徳はあったしねぇ。あなた、人とうまくやっていけてるの?」
心の中にある一番痛い部分を突かれてしまった。
僕は愛想笑いを浮かべながらその場をごまかし、話を逸らす事にした。
「東暖さんから見て僕のひいお爺さんはどんな人だったんですか?」
東暖さんは少し怪訝そうな顔をしながら、
「聞きたい?後悔するかもしれないけど…。」
と、意味深な発言をした。
僕は以前、ふと気になってこの質問を母さんにもした事がある。
その途端、母は大粒の涙を流し始め、台所で膝から崩れ落ちて泣いた。
その日の食事は全て外食となったの言うまでもない。
後にも先にもこんなに不安定な母さんを見たのは初めてだった。
だから、家族の前では曽祖父の話は絶対禁止となった。だからこそ知りたいというのもあるが、知らない方が良いのかもしれないとも思っていた。
だから僕は、
「わかりました東暖さん、また今度時間のある時に…。」
と言いかけると、東暖さんはムッとした顔をして、
「ちょっと!さっきから東 暖さんて何なの?私には『真帆』って名前があるのに、ちゃんと名前で呼んで!」
と怒りだした。
あまりに突然で無茶な命令にとまどい、年上の人にそんな事は言えない、と説明すると、
「じゃあ、『真帆ちゃん』でいいわよ。」
と東暖さん。
「じゃあ、…真帆ちゃんさんで…。」
と呼んでみる事にした。
真帆ちゃんさんは、
「まぁ、それでもいいけど。」
と、少し不満そうに言っていたが、しばらくするとそう言われるのが意外と心地良いらしく、鼻歌まで歌い出した。
僕はうちの母さんと違って、わかりやすい人で助かる、と心の中でホッとしていた。
荷物を置いた後、真帆ちゃんさんは家の中を案内してくれた。
僕の夜寝る部屋、食事場所、トイレやお風呂等、真帆ちゃんさんの寝室以外は全部教えてくれた。
真帆ちゃんさんの話では寝室に男の人が入ろうとするとギロチンが落ちてくるので入ってはダメ、という説明だった。
しかし、僕が見る限り、そんな仕掛けはないし、誰かと一緒に寝たいという年頃でもない
ので、なぜそんな嘘をつくのか理解出来 なかった。
最後に真帆ちゃんさんは、庭を案内してくれた。そして、裏山の麓にある小さな祠へと
やってきた。
「いい?今日からあなたは新入りなんだから、あなたにしてもらいたい事…いいえ、しなきゃいけない事があるの。」
そういうと、真帆ちゃんさんは僕にバケツとホウキを渡してきた。
「えっ?これは…。」
「はい、新入り。まずはここの掃除から。」
「えっ…。」
「これから新入りはここの祠の掃除を毎日する事。わかった?新入り?」
なぜか、僕のあだ名は「新入り」になったようだった。
僕はしぶしぶ掃除をした。ホウキで周りを掃き、濡れ雑巾で祠を綺麗に拭いた。
ようやく終わると真帆ちゃんさんは笑顔で手に持っていた物を差し出した。
「えっ…ワックスかけるんですか?祠にに!?」
真帆ちゃんさんは微動だにせず、ただワックスと乾いた雑巾を差し出した。
使い方はよくわからなかったけど、新品のワックスを開けて、以前に父さんの洗車を手伝った時の事を思い出し、ひとまずやってみた。
どことなくムラを感じるが、それでも多少は祠の屋根がキラキラ輝いていた。
全ての作業が終わると、真帆ちゃんさんはみかんを持ってきた。差し入れに一瞬喜んだ僕であったが、渡す相手は僕ではなく、祠へのお供えだった。
僕は心底ガッカリした。そして、しばらくしたらお供えしたのを食べてしまおうと考えた。
しかし、後で見てみると、みかんはなくなっていた。全部なかったのではなく、みかんの皮だけが綺麗に剥かれ置いてあった。
僕は真帆ちゃんさんに言って外出をした。
毎年の恒例で、この町に来たらまずは周りを散歩して、変わった所がないか、観察するのが楽しみだった。
家を出て大通りの方に向かう途中、大きな公園があった。そこでは自分と同じくらいの年の子達がサッカーをしていた。
僕はこの子達を知っている。
低学年の頃はよく一緒に遊んでいたが、運動神経がなく、その上人見知りな性格なもので中々その子達と打ち解けられず、次の年からは一緒に遊ばなくなった。
多分、彼らは僕の事を忘れている。
でも、僕の方はなんだが気まずい気がして彼らとは会いづらく、引き戻して別の場所へ向かい始めた。
僕はもう一つの場所へ向かった。
普段、この時間なら暑くてあまり行きたいとは思わないのだけど、他に適当な場所もないのでそこへ向かう事にした。
そこは小高い岡で上の方には誰かが作ったであろう手作り感のあるベンチと、その目の前に木の柵がついていた。
そこから町の眺めを見渡すのがとても好きだった。
だけど、そこにはこの時間、全く日陰がなく、直射日光が照りつける暑さの厳しい場所だった。
だから僕は驚いて衝撃を受け、ただ呆然とそちらの方向だけを見つめた。
僕はその場所に一人の少女がいる事に気付いた。
帽子も被らず、日光を全身に浴びながら、時折吹き付ける風に長い髪をなびかせて気持ちの良さそうな表情をしていた。
どのくらいだろうか。あろうことか、僕は彼女の方をずっと見つめてしまっていた。
名前もどこに住んでいるかもわからないし、僕と同じくらいの年であろうその子から目を放す事が出来ずにいた。
しばらくすると、彼女はこちらに気付き、目が合う。彼女も最初は驚いた顔をしていたのだが、すぐににっこりと笑顔になり微笑んだ顔を見せてくれた。
よくわからない。僕には何が起こったのかよくわからなかった。
ただ、胸が急にドキドキしてきて息苦しくなり、気持ちがふわふわと軽くなっていくのを感じた。
その感覚と同時に強く、雷に打たれたような衝撃も感じていた。




