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その29   かわした約束


「あ、ありがとうございます」

「大丈夫?」

「はい。すみませんでした」

彼女が、カンバスとイーゼルを桟橋に設置しようとした、その時だった。


「.....っ」

「え?」


桟橋の上は雪というより凍っていて。

イーゼルをキャッチした時、足が横滑りしたのを覚えている。

このままじゃ、イーゼルもろとも倒れてしまう、と。

咄嗟に、倒れ掛かったイーゼルの足の部分を掴んだものの、つなぎ目の金具が皮膚にくい込んだ。

ピっと引っ張られた瞬間に、切れてしまったらしい。

人差し指の爪の横に、僅かながら赤く血が滲んでいたのだ。

「あっ、血が出てる」

「.....あぁ、いやこれぐらい」

「ダメです」


ちょっと待っててください、と。

彼女が椅子の横に置いていた大きなバッグの中をゴソゴソと、何かを探し始めた。

「あった!」

そう言って手にしていたものは、




「大げさだな、これ」

「だ、だって」

不器用でごめんなさい。

呟くように彼女が言うものだから、つい、

「ブッ」

「え?」

「あ、ごめん。いや、えっと」

「......」


人差し指の先がほんの少し傷ついただけ。

僅かに滲んだ血を見て、彼女がバッグから取り出したのは、普通の傷テープだったのだが。

どうやら、指のサイズと合わなかったのか一枚を傷口に貼り付けた上から斜めにもう一枚。

そうやって、頑丈にコーティングされたヨンファの人差し指が出来上がったのだ。

「ばい菌とか入ったらいけないかな、って」

「あぁ、うん」

「でも、ごめんなさい。あんまり格好よくないですよね、それ」

「.......」

彼女が言うとおり、けっしてスマートな仕上がりではないけれど。


少しだけ、感動していた。


こんな風に、ちょっとした怪我で誰かに心配してもらうとか、----あぁ、そう。高校の頃バスケをやっていて転んで膝を擦りむいた時以来かもしれない。あの時確か、女の子のマネージャーがこんな風に傷テープを貼ってくれたっけ。

そんな、甘酸っぱい思い出と同じぐらいに甘酸っぱい感動。


しかし、

さっき、つい笑ってしまったせいか、彼女の表情は曇っていた。


「ありがとう」

「え?」

「あぁ、ほら、これ」

ヨンファが人差し指をピッと立てて見せると、困ったように笑う。

----いや、その顔じゃなくってさ。

ふと、そんな言葉が浮かんだ。

初めて会ったばかりだというのに、何だろう。

彼女はきっとすごくいい笑顔を持っているような気がしたんだ。

困ったような、こんな笑みじゃなくて、もっと、もっと違う。


「何描いてたの?」

「え?あ、えっと湖」

「.......」

話題をすり替えたくて、そう問いかけた。

彼女は相変わらず困ったような表情のまま。けれども、ヨンファの問いかけに答えてくれて。

二人して、カンバスを覗き込んだんだ。





-----あの絵、仕上がりは見せてくれなかったんだよな。


スクリーンの中の二人を見つめながら、ヨンファはポツリと呟いた。

「どんな絵に仕上がったんだろう」


「ソアン?」


-----あの日、あの場所で出会った偶然。その偶然に、俺はあの後何度感謝したか。

「ソアン、お前に会えてよかった」

-----なぁ、お前はどう思ってた?消したいぐらいに、嫌な思い出でしかなかったのか?

「俺たち、わかったふりして、何もわかっちゃいなかったんだな」


聞きたいことも、

言いたいこともたくさんあったくせに。いつも......。



『ヨンファ?』


その声は、まるでヨンファの問いかけが聞こえていたかのようで。

「ソアン?」

思わずそう声をかけたけれど。


そこには暗闇しかなかった。





「........」




どのタイミングで消えていくのか。

きっともうしばらくすれば、目の前のソアンもいなくなってしまう。

まるで、そこには前から誰もいなかったかのように。




『ヨンファ........もうすぐ、消えちゃうわ』

「.......」

『あのね、私、ヨンファに伝えたいことがあったの』

「ソアン?」


ソアンは知っているんだろうか。

ソアンの言葉がすべて、こうやって耳に届いているってことを。

「あぁ、ちゃんと聞こえてる。で、伝えたいって----」『あのね、ヨンファ』

あぁやっぱりか、と。ヨンファは苦く笑った。

ヨンファの呟きは届いていないようだ。その証拠に、時折、ちょうど今みたいに、ヨンファの言葉にかぶるようにしてソアンの言葉が暗闇の向こうから落ちてくる。

けれど、今となってはそんなことどうでもよかった。今はこうやって最後にソアンの声が聞けるのなら、それで。

『私、ヨンファが好き』

「え?」

『私、本当はヨンファが好きだった』


「......ソ....アン?」



バカだな、と。

本当にそう思う。


真っ暗な天を見上げて、目の奥がどんどん熱くなっていくのを感じていた。


本当に、

-----俺たちは、言葉を持っていたはずなのに。






「あははっ」「ちょっと、もぉ!」

大きな笑い声が聞こえ、横目で確かめた。

そこには、

スクリーンの中で大きな口を開けて笑い合う男女がいた。


-----あぁ、そうだ。この顔。この笑顔が。



「俺もソアンが好きだ」

しかし今は、その笑顔すら歪んで見える。

ヨンファは再び顔を上に向けると、しばらく目を閉じていた。



「ソアン?」


ズズッと一度鼻をすすって、僅かに微笑みながら真っ暗な天に向かってこう言った。

「もしも、俺と付き合いたいって思うんなら、次は」


「次は、俺だけの女で待ってろよ」

『ヨンファ』

「お前に消されても、俺はやっぱりお前が好きらしい。女々しいけどな、これが......俺だ」

『覚えてて。私のこと』

「ソアン」



『.......多分、もう』

「消えるのか?」


「だったら」




----だったら、最後に楽しもう。






「ね!氷の上って歩いたことある?」

「それってスケートのことか?」

「ううん。そうじゃなくて、普通に歩くの」

「ない」

「ないの?」

「ないよ、普通しないだろ。そんな危ないこと」

「えぇ-----」


あなたはそこに山があっても登らないタイプでしょ!

と、彼女がヨンファを指してそう言った。

君は?と、ヨンファが問えば、

「私は。うーん、私は.......」

「私は?」

返事に困る彼女に、ヨンファは笑みを見せる。


----そう。彼女は俺と似てるところがあるんだ。


「行こう」

「え?」

「行きたいんだろっ?ほら、行くぞっ」

「あ、ちょ、ちょっと」


彼女-----ソアンの手を取って、桟橋を走って湖の辺へ戻ると細道を歩いた。そうして、


「ね、ゆっくりよ、ゆっくり」

「わかってるって。ちょっと黙ってろってば」

「だって、きゃぁ」

「おおおおお、っと、今」

繋いだ右手に思わずぎゅっと力が入った。

「聞こえたっ!ミシって、ミシって氷の音っ」

彼女の空いた左手が、ヨンファのコートの左肘あたりを掴む。

よろよろと揺れる彼女の体。

咄嗟に、ヨンファは腕を回して彼女の腰を支えてやった。


「も、戻るぞっ」 「う、うんっ....きゃぁ」



あの日やらなかったことをやっておこう。

あの日と違う思い出を作っておこう。



「はぁ------スリリングっ」

「だめだ、もう二度とやらないぞ、俺は」

湖の辺の細道に戻り、

そう言って、二人して笑いあった。



「ね、名前は?」

「え?」

「俺は、ヨンファ」

「......私は、ソアン」

「ソアン?」


「そう」


繋いだ右手は、まだ、そのままだった。


「もう一度、ここで会わないか?」

「え?」

「ここで、また、いつか」

「いつか?」

「うん」



「......ふふっ。うん。わかった」




-----ここで、また、いつか。








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