その30 南怡島(ナミソム)
凍った湖の上をほんの少し歩いて。
氷の軋んだ音を耳にした二人は、手を繋いだまま慌てて細道へ戻ると
彼女と顔を見合わせて笑い出す。
ヨンファは、そんな自分に驚いていた。
「.......」
いつの間にか、スクリーンの中の『俺』と同化しているヨンファがいたのだ。
「どこに住んでる?ソウル?」
「うん。新盤浦駅(シンバンポ駅)の近く」
「あぁ、そこなら、新盤浦3次アパートに俺の友達が住んでる」
「え?すごく近いっ。私、新浦住公だもん」
本当に警戒心がないっていうか。
もちろん部屋番号まではいかないまでも、
住んでいる場所を聞き出すことがあまりにも容易すぎて、ヨンファは苦笑いを浮かべた。
「で、どうするの?これから」
「うーん」
記憶のままなら、
彼女をアパートの近くまで送っていくはずだったのに。
絵をもう少し描いてから帰る、というソアンに手を振った。
「またいつか」
「うん。またね」
正直いえば、
どんなに足掻いても消えてしまうというのならば、隣にいるソアンが徐々に消えていく光景は目にしたくなかった。
-----次に消えてしまえば、すべてなくなる。
そんな光景を目にしながら、その現実を受け止める勇気がなかった。
ここまで来て、まだ逃げるのか、と。
もう一人のヨンファが女々しいヨンファに問いかけるけれど。
「.......」
少しずつ、少しずつ彼女が遠くなる。
目の奥がどんどん熱くなっていくのを感じて、ぐっと唇を噛んだ。
「あ、あのねっ」
「......っ」
ソアンが大きな声で呼び止めた。
振り返れば、
呼び止めたもののどうしようかと、思案顔のソアンが立っている。
-----ソアン?
「....どうした?」
少しばかり声が震えていたかもしれない。
「あ、えっと。あの......私、バリスタ修行中なの」
「バリスタ?バリスタって、あのコーヒーの?」
「うんっ。あ、あなた、コーヒー好き?」
返事のかわりに一度頷いた。
「そっか。よかった」
多分、そう呟いたんだろう。はっきりとは聞き取れなかったけれど。
僅かに首を傾げたヨンファに、彼女はまた大声でこう言った。
「あ、あのね、支庁駅の近くのロースタリー&カフェ ROSETTAってお店で働いてるの。もし、もしもコーヒーとか嫌いじゃなかったら」
----ソアン?何慌てて早口になってんだ?
そんなソアンが愛おしい。
「うん。冬でもアイスコーヒーだけど」
そう答えながら、ヨンファの胸の鼓動も速くなる。
「えぇっ?あ、でも、うん。.....よかったら来て。アイスコーヒーも淹れてあげるから」
「.......」
また会う約束を、その理由を作ろうとしてくれている。
そのことが嬉しい反面、もう次はないんだ、という気持ちもあって、
その言葉に、彼女の顔をじっと見つめ返すしかなかった。
返事を待っている彼女の表情が少しずつ曇っていく。
-----ソアン
もどかしさに、強く手を握り締めた。
ソアンはもう一度会うきっかけをくれようとしているのに。
思案顔のソアンから逃げるように、視線をそらそうとした時、
『ヨンファ』
-----ぇ?ソアン?
「ごめんね、無理に、とは」 「あ、いや。わかった」 「え?」
まるで背中を押すような、ソアンの声が聞こえたんだ。
「その店知ってる。会社の近くなんだ」
「え?じゃぁ!」 「うん」
-----ソアン? これで、いいのか?
どんなに記憶をすげ替えようとしても。
彼女の名前や住んでいる場所、働いている店の名前。
初めて会った日に聞き出した情報は、自然と話題になっていて、それが-----やっぱりこの運命は変えられないのかと、再びそんな気持ちにさせる。
それでも、さっきの声が。
最後に、最後だからこそ、
次の約束をして別れよう。ちゃんとさよならって言って別れよう。と、そう言っているような気がして。
『もう一回会いましょ。----南怡島で』
-----ソアン?
再び、遠くでソアンが囁く声が聞こえた。
「.......ここで」
-----あぁ、そうか。
そろそろなのかもしれない。
また、いつか。
うん。お店にも、来てね。
そんな約束とも言えない約束を交わして、もう一度手を振った。
ただ、さっきのソアンの声が耳に残っていて。
「あのさ」
今度はヨンファが声をかけた。
「え?あ、何?」
手を振っておきながら、なかなか帰れない。
これじゃぁまるで、恋愛初心者のティーンエイジャーみたいじゃないか、と。苦く笑いながらも、
彼女が消えてしまう前に、ちゃんと伝えておきたい。
「-----また、ここで。今度は一緒にここに来ないか?いつか、南怡島に」
彼女の、ソアンの顔が明るくなった。
「........うんっ」
そうして、何度目かのさよならと手を振って。
どれぐらい歩いたか、
強い向かい風が吹いて、裸樹の細い枝が嫌な音を立てた瞬間、
ゾクリとするものを感じた。
「........っ」
振り返ればもうそこに彼女の姿はなかった。
「........」
ずっと低い唸りをあげていた機材の音が小さくなり、
やがてすべての音が消えた。
「削除終了です」
「.......」
博士の声が、記憶削除の全工程が無事に終了したことを告げた。
しかし、ソアンは椅子から立ち上がることもできず、
ただじっと、
ヨンファの手を握り締めていた。
「ソアンさん」
「ソアンさん」
----ソアンさん
「ぁ、はい」
博士の手がソアンの肩をポンっと叩く。----そろそろ、出て行ってもらえませんか?と。
玄関から廊下へ出て、階段へ向かう。
ふと、振り返れば、ドアはもう閉まっていて。そこには誰の姿もなかった。
何度かカイジと二人で訪れたあの部屋。
帰りはいつも、ドアのところで見送ってくれたヨンファの姿もない。
「.......終わっちゃっ....た」
階段をゆっくりと降りながら、
ポツっ ポツっ まるで雪のように丸い雫が階段の手すりに落ちる。
それがとめどない雨の雫に変わったのは、帰りのバスの中だった。
「ただいま」
誰の返事もないことはわかっていたのに、今日はどうしてもその言葉を使いたかった。
「.....ただい、ま」
いつもと変わらない部屋。
いつもと変わらない時間。
「でも」
そうやって、
すべてが終わってしまった。
ヨンファには届いていただろうか。
私の言葉。
「.......ぁ、そうだ」
ソアンは部屋へ戻ると玄関で靴を脱ぎ捨て、クローゼットへと向かった。
泣きながらバスに揺られている間に、探そうと決めたのだ。
-----残っているのかはわからない。捨ててしまったかもしれない。
けれど、
「あ、あった!」
クローゼットの隅から出てきたのは、あの日、湖で描いていた絵。
途端に涸れてしまったと思っていた涙が溢れ出す。
「あった.....よかった」
ソアンはその絵を胸に抱きながら、もう一度呟いた。
もう一回会いましょ。----南怡島で。
・・・・・・
・・・・・・
「さぁ-------むっ」
思わずぶるぶるっと肩を震わせた。
そんなヨンファにクスッと笑って見せた女。
しかし、彼女の口元から出る息も、真っ白な霧になって消えていく。
「今更何言ってるの?2月のソウルが寒いのは、当たり前のことだしっ」
「いや、それはそうだけどさ。今年の冬は異常だろ」
「っていうか、こんな寒い2月の夜に、こんな場所にいるのが間違いじゃ?」
真っ白な息を吐きつつ、女がマフラーに顔をうずめた。
「は?こんな場所って、ったく。それはこっちのセリフだろ」
「え?」
そう。
その通りだ。
-----南怡島
休みが取れて、スキー場に行こうと思っていたのに。ここに来たのは誰のせいだ?
チラリとヨンファは隣に立つ女の横顔を見た。
いや、違う。
ヒッチハイクしてる女のことなんていつものヨンファならスルーしてしまうはずなのに。
いちいち反応してしまった自分がいけない、と。それはわかっている。
「はぁ---」
さんざんな一日だった。
彼女----拾った時もおかしな具合だったけれど、送り届けた時もまた、おかしな感じだった。
部屋に戻り熱いシャワー浴びてホット一息つくと同時に、ため息が漏れた。
南怡島は相性が悪いのか。
去年は確か、恋人と別れたあと、あの湖に行ったんじゃなかったか。
「あぁ、悲しいこと思い出すな、ヨンファっ」
と言いながらも、一年ほど前の記憶が蘇る。
そうだ。
去年の今頃はバレンタインのお泊りデートなんて洒落た計画を練って、とあるスキー場にあるロッジに泊まろうと計画をした。
それが、年末に恋人と別れすべてをキャンセルしたあと、失恋の痛手を癒そうとあの湖に一人で行ったんだ。
「それなのにどうしてまたあの湖に行くかな、俺」
----どれだけ南怡島が好きなんだ?
「いや.....」
違う。
何だろう。あの子の顔を見ていたら、何となくあの場所が浮かんだんだ。
本当に面倒な女を拾った。
何なんだ、あの子。
「マジ、俺じゃなけりゃ今頃やばいだろ。今頃、海でやられてポイだぞ」
----ソアンっていったっけ?
「初めて会った男にあそこまで無防備になれるか?」
ブツブツ言いながら、日記を開く。
『2016年2月16日』
『スキーに行こうと思ったけれど、変なヒッチハイカーの女を拾ってしまい、結局は家に戻ってきた』
『南怡島の湖は冷たく暗い色をしていた』
そう書き記して閉じた日記。
しかし、数分後、
『名前はソアン』
『明るくて可愛い子だったけどおっちょこちょい』
『忘れていった帽子を明日届けてやろう』
その文字を追加で書いた。
「----ぁっ」
店の外に佇んだままのヨンファに向かって、彼女の唇がそう動いた。
バタバタと店の出入り口に向かって走る姿を目にして、ヨンファは思わず笑みを浮かべた。
「え?あ、もしかして来てくれたのっ?」
通りに飛び出してきた彼女の目がまん丸になっている。
「コレ」
「え?あぁ-----!」
さっき目にした光景。
別にこの子が誰といちゃいちゃしていようが関係ないのだろうが。何故だかムカついたのだ。
だから、
内心、覚えていたんだ、と。どこかホッとしながらも無愛想に手にしたニット帽を差し出した。
「どこに落としちゃったかと思ったら」
「車の中に落ちてた」
他人が二人のこの会話だけを耳にしたら、きっと勘違いするんだろうな。
「ありがとう」
両手で帽子を受け取って、胸の前でぎゅっと。
「.......」
さっき、店内の彼女の姿を目で追っていた時に感じた苛立ちが蘇って、思わず視線をそらした。
「どうしたの?」
「え?あ、あぁ----いや、別に」
パリッとした白いシャツに、黒いバリスタエプロン。
体の線を強調するような服を着た女なんて見慣れているはずなのに。いや、この子よりよっぽどどぎつい格好の女だって知ってるのに。
「.......」
制服なんだろうが、昨夜とあまりにも違い過ぎる格好に、ドギマギしている自分を罵った。
「ねぇ?」
「あ?」
「........怒ってる?」
「え?」
「だって」
「........」
「ソアンちゃん?」
店のドアが開いて、中から怪訝な表情の『男』が顔を覗かせた。
「あ、店長」
「店長?」
「そう。お店の.....店長なの」
そう言った彼女の顔は、顰めっ面をしていた。
「ふぅ----ん」
彼女の顔からその『男』へ視線を投げれば、途端、男は視線をそらす。
-----嫌な感じの男だよな。
「彼氏?」
「え?」
その男に視線を向けたまま、すぐそばにいる彼女に訊いた。
「と、とんでもないっ」
大げさに手を振ってそう言う。
-----まるっきりタイプじゃありません。
その言葉はドアのところにいるその男を意識してか、囁きに変わったけれど。
「店長.....わけあって、今日でこの店やめちゃうの」
「ふ---ん」
「ね?」
彼女が声をかけてきた。
「ん?」
「仕事は?平日なのに、その格好」
「-----聞く?........休みとってたんだけど、誰かさんのせいで昨日スキー場に行きそびれた」
「えっ?それって」
視界の隅で店のドアが閉まる気配がした。
例の男も、どうやら諦めて店に戻ったらしい。
「何?それって、のあとは?」
妙に胸がドキドキしていた。
「あ、えっとね。........私も、明日は休み、なの」
「........」
「で、今日は何時まで?店」
「え?あ、えっと」
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
内容が内容なだけに、時系列で書いたらおもしろくないし。かと言って、あっちいったりこっちいったりでわけわかんないだろうな、と思いつつ。
最終回のこの30話も、1話~3話ぐらいを読み直していただければ、「あぁ」と思っていただける、かも?←めんどくさ汗っ
Daisyの花は、赤や白、他にも色がありますが。
赤の花は「無意識」 白は「無邪気」という花言葉があります。
もとは、「day'seye」、太陽の眼、という語源があるらしく、太陽の光がさすと花を開き、かわいい花芯を見せますが、曇空には花をすぼめるんだそうです。
光がさすと花を咲かせる。
女の子が本当の恋をしたら、美しくなる。そんな感じかな?と。
ソアンもきっと。
読み方によってはわがままでバカな女の子、ですが。(汗)
そしてヨンファも。
臆病で女々しい男、でしたが(笑)。でも、きっと少し変わる、かな?




