その28 湖の記憶
「どうやら彼は逃亡を始めたようです」
博士の声が耳の中で木霊のように響いている。
-----すべて見透かされている。きっとあの男性は全部わかった上で。
パタンっという小さな音がした。
見れば、博士がトイレの中に姿を消したあとだった。
-----今しかないっ
「......ヨンファっ。逃げて、お願いどこか探せない場所まで逃げて」
「このままじゃ......見つかって消されちゃう」
『このままじゃ......見つかって消されちゃう』
「ソアン」
その声は、ヨンファにも届いていた。
「やっぱり.......」
ついさっき、車で逃亡していたヨンファの隣にいたはずのソアンが砂嵐と共に姿を消した。
「どこに逃げても見つかっちまうのか?」
ソアンを無理やり店から連れ出し、あの日の記憶とは違う場所へ逃げたはずだったのに。
改ざんした記憶だけでなく、
ふと気がつけば、元の記憶も形をなくしていた。
ソアンの姿は消去されてしまったのだ。
「何をやっても無理なのか?」
絶望........いや、虚しさ。
「どうしてこんな」
偶然ポストに入っていた記憶管理会社のチラシ。
あのチラシを目にしなかったら、こんなこと、考えつくことすらなかっただろう。
-----忘れたい、とは思ってみても、本当に忘れられるなんて。
「運命ってやつ、か?」
あぁ、きっとそうだ。
「逃げきれない、......逆らえない、のか?」
元はといえば、己が求めたことではあるけれど、今になってなんてバカなことをしたんだと、後悔しか残っていない。
絶望とか、虚しさとか。
そんなものを消してしまうはずだったのに。
今、感じるのはあの時よりもっと強い、
記憶の欠片が消えたあとの、ぽっかり穴が空いたような空虚な......。
その穴を、生まれ変わった新しい自分自身の記憶で埋めていけばいい、なんて。
そんな身勝手なことを考えていたけれど、
「ソアンじゃなきゃ埋まらないんだ、ソアンが消えたあとの穴は」
そんなことを、今更気が付くなんて。
「ソアン」
闇の中から落ちてくる彼女の声も途切れがちになってしまった。
ただ、
すぐそばに本物のソアンがいる、と。
それだけは確信がもてる。
不思議なぐらいに彼女の温もりを感じるのだ。
そしてもう一つ。
「ソアン?さっきの.....俺を失いたくないって言葉は」
好きだとか、愛してるとか。
そんな言葉を交わしたわけでもないのに。
「俺と同じ気持ちでいるって、そう思ってても、いいか?」
もしも、そうだとすれば。
今度こそ、正直な気持ちを伝えたい。
「ソアン。.........俺は、お前のことが好きだ。.......ずっと.....今も」
真っ暗だった闇の世界にぼんやり光がさし、静かなこの場所に、走り去る車の音が響いた。
背後でまた一つ、映像が流れ始めたのだ。
もう目にしなくてもわかる。
「あと二つ、って言ってたよな。だったら」
ソアンの忘れ物を持って、店に足を運んだあの日のこと。
そして、それが消えてしまえば残る最後の一つは。
「......ダメだ。やっぱりダメだ」
じわりと熱いものがこみ上げる。
ヨンファはスクリーンに向かって叫んだ。
「逃げろっ、どこでもいい。お前が好きな場所にソアンを連れて行くんだっ。はやく行けっ」
『記憶のずっとずっと奥に......隠してっ』
「.......っ」
叫び声にかぶるようにして、ヨンファの耳に届いたのは、
確かに。
「泣いてるのか?」
鼻にかかったような、震える声だった。
「ソアン」
・・・・・・
・・・・・・
南怡島
2月のこの湖は、雪で真っ白な世界。
白い雪をかぶったメタセコイアの裸樹の風景は、ドラマのロケ地としても有名だった。
「........」
スキーもやるしスノボも得意なヨンファにとって、このぐらいの雪はなんともないが。
恋人と行くはずだったバレンタインスキーの予約はとっくの昔にキャンセルし、かと言って休暇申請をしていたこの連休を返上して仕事をする気にもなれず。
「で、ここに来るとか、観光客かよ、俺」
ソウルから片道二時間、車を飛ばし。ついさっき、船着場でチケットを買って船に乗り込んだ。
船内は海外からの女性観光客のグループと、カップルで賑わっていて、南怡島は失恋した男が一人で訪れる場所ではないということを今更ながら教えてくれた。
「はぁ」
失恋、とはいうものの。
ヨンファ自身の中では、へんな別れ方をしたせいで別れたその日の思い出を引きずっているだけのこと、と。そんな風に考えることはできている。
だからこそ、ここへ来て忘れていた「失恋」の古傷を引っ張り出されるような気がして嫌な気分になったのだ。
「ったく、バカだよ俺」
たった7分だったけれど、窮屈な思いをしながらの短い船旅。
ヨンファは船を降りると、例のメタセコイアの並木道へと向かう人の波と逆に歩き始めた。
せっかく来たんだ。
クヨクヨしたって始まらない。どうせなら楽しんで帰ろう、と。
-----ソアンだ。
スクリーンに映し出された女性の姿を目にして、ヨンファは心の中で呟いた。
それは、
ヨンファがソアンと出会った日の映像だった。
「これが最後......」
結局は、なにも、どうすることもできず。
目の前の、「出会い」の記憶が消えていくのを待つしかないんだろうか。
もしも、そうならば。
船着場で船を降り、
ポケットに手を突っ込んだまま、湖の辺を歩いた。
どのくらい歩いただろう。
手漕ぎボートを繋いだ桟橋が見えてきた。
「........」
その近くに、小さな緑色の折りたたみ椅子を置いて、腰掛けている女性の姿が目に入ったのだ。
絵を描いているらしい。
イーゼルには小さめのカンバスが立てかけられている。
観光客とは違う。
-----こんな場所に、一人で。
ニット帽から見える栗色のふわふわした髪が邪魔して横顔がよく見えないが。
「......ひゃぁ」
「あっ」
いきなりの強風に煽られイーゼルが倒れそうになった。
「うわぁぁ」「おっと」
ヨンファが雪の上を走る。
立ち上がって腕を伸ばしたその女性の栗色の髪が揺れて、そこから覗く丸い瞳に吸い寄せられた。
「あ、ありがとうございます」
「あ、はい。えっと、大丈夫?」
彼女は落ちそうになったカンバスを無事、キャッチして。
一緒に倒れそうになったイーゼルをキャッチしたのは、ヨンファだった。
それが、二人の出会いだったんだ。




