その27 博士という壁
「じゃぁ、頼んだぞ」
「はい。では、失礼します」
背後でコソコソと話し続けていた二人。
いつしかその会話は途切れ、
一人が部屋から出ていく気配と共に、残った一人が記憶図の確認を始めた。
カタカタ カタカタ カタカタカタカタ
キーボードを打ち込む音が一瞬止まるたびに、ソアンの心臓も止まりそうになる。
「違う......か、一体何が起こってるんだ」
カタカタ カタカタ
止まった音が再び部屋に響き渡る。
こうして作業音がしている間は、まだいいのだ。
-----まだ見つかっていない。
聞き耳を立てていたソアンが、ほっと息を吐いた。
こう近くにいられては、今までのように独り言すら漏らすこともできない。
悟られないように囁いてはみるものの。
-----ヨンファに届いているんだろうか。
眠り続けるヨンファの肩口で組んでいた指。
今はただ、白むほどに力を込めて、そうやって祈るしかなかった。
どれぐらい経っただろう。
資料の中から何か手がかりを見つけ出したのか、
しばらくの間、床に座り込むようにして資料を読み込んでいた博士が、立ち上がって、再び画面を覗き込みキーボードを打ち込見始めたのだ。
「様子はどうですか?」
「ぇ?」
それは唐突過ぎる問いかけだった。
「......ぁ、ヨンファの様子、ですか?」
顔をあげ、ヨンファの横顔を確認する。
「別段変わったところは....ないと思います」
「そうですか」
「はい」
そう答えて、振り返る。
博士はじっと画面の記憶図に見入ったままだった。
「あの、何かあったんですか?」
「は?」
メガネの奥の目がソアンに向けられた。
「さっきも色々と、あ、すみません。少し、聞こえていました」
その目はソアンを見つめているのか、それともソアンの考えを見透かそうとしているのか。
一瞬狼狽えたソアンが目を伏せる。
向こうで博士がため息をつく気配を感じた。
「彼の記憶図を焼き消していく作業を行っていることはご存知ですね?」
「.......」
その言葉に、顔をあげて、うん、と頷く。
「少しばかり時間がかかり過ぎているんです」
「時間が?」
ドキドキしながらもそう答えた。
それはソアンにとって、理想通りの状況だった。しかし、博士からすれば問題だと言う。
-----気がついてしまっただろうか。
「そうなんですよ。その原因を調べているんですがね」
腕組みをし、低い声で唸ると、博士は殊更念入りに画面を確認し始めた。
指先が画面の丸い印を伝っていく。その指が丸い印が赤く光る箇所で止まった。
「最初のうちは順調に、計算通り、もしくはやや遅いかな、といったスピードで処理されていたんです。まぁ、その時々の消去する記憶のデータ量によって速度の違いはありますからね。ただここへ来て、急激に処理速度が落ちています。それで、何かあったのかな、と彼の様子が気になったわけです」
「.......」
博士は、最後にチラリとソアンの顔を見た。メガネの奥の目が怪訝な色を含んでいる。けれども、機材に目を向けていたソアンはそのことに気がついてはいなかった。
-----時間を稼がなければ。
そのことで頭の中がいっぱいだったのだ。
ソアンが視線を移した時、博士はいつもの淡々とした表情に戻っていた。
「助手の、あの男性は?」
「あぁ、えぇ、おっしゃるとおり、ちょっとした手違いがありましてね、今会社の方へ戻らせました」
-----戻った?
「あ、では博士お一人で?」
「えぇ、まぁ」
「あ、あの、お疲れではありませんか?よかったらコーヒーでも淹れましょうか」
「......」
「私、バリスタなんです」
そう言って椅子から立ち上がると、小さなキッチンへ向かう。
博士の隣を通り過ぎる時に視線を感じたが、気がつかないフリをしてそのまま背を向け、僅かに震える手でコーヒー豆の缶を握った。
-----落ち着いて、落ち着くのよソアンっ。とにかく何か話して時間を稼ぐの。
コポコポ と、小さな音と共に部屋中に香ばしいコーヒーの香りが充満する。
-----マグカップは確かこの棚の中だったはず。
険しい表情で画面と資料を見比べていた博士の視線が、
「どうぞ」
そう言って差し出された白いマグカップに止まった。
「あぁ、どうも」「いいえ」
ソアンもその場に立ち止まり、カップを口に持っていきながらも画面に視線を向けた。
-----点滅は、動いていない。
「あぁ、そういえば」
「はい?」
「まだお聞きしていなかったんですが。.......ソアンさん、どうしてここに?」
「え?」
カップから上がる湯気で博士のメガネが白く曇っていた。
「あぁ、いや。
あなたは彼が消そうとした記憶の主です。カルテにも書かれていましたし、それに記憶図にも。.....確か.....あなたは彼の友人でありながら、彼にとってはただの友人では済まされない存在だった、ということではなかったですか?」
「.......」
「すみませんね。こんな立ち入ったことをお聞きして。クライエントの過去をほじくり返すようなことはしませんし、してはならないことですが。ただね、今回は別問題で。
もうあなたもご存知ですからお話しますが、うちの社長がクライエントの個人情報を盗み出したようです。その上」
「私に送りつけてきた」
どこかで話題をすり替えなければならない。
ソアンは博士の問いに答えるフリをしながら、必死でそのタイミングを探していた。
「......そう。そうですね。おっしゃるとおり、あなただけでなく、複数のクライエントに情報を提供しているらしい」
「らしい、ってことはまだ未確定、ですか?」
「........」
「あの」
「あぁ、いや。少し気になりましてね」
「気になる?」
「そうです。
あなたが、どうしてここにいらっしゃったのか。あなたは彼の、友人の恋人だった、と聞いています。それがなぜ、......記憶が戻ったとしたら、まず会いに行くのは恋人の方じゃないかな?と」
「.......」
心臓が止まりそうだった。
目の前の博士(男)は何かを勘付いているのかもしれない。
だからこんなことを。
だとすれば、どう答えればいいのか。
「......ぁ」
視界の隅で、赤いランプが点滅し始めた気配を感じ、ソアンが視線を動かした。その様子に博士も画面に目を向ける。
「あぁ、やっぱりそうでしたか」
「え?」
そう言った博士が、ふいに画面に向かって右手を伸ばした。
そうして、いくつかキーボードを叩くと最後にエンターキーを押す。
「あぁ、やっと動き始めましたね」
「......ぇ?」
------動いた?
ついさっき目視したランプの場所。
止まっていたはずの点滅箇所が、一つ先まで動いていたのだ。
------ヨンファ?
熱いコーヒーをすする音がした。
「どうしました?」
「え?........あ、あぁ、あ、熱くないですか?」
「はい。ちょうどいい休憩になりましたよ。これでまた順調に作業が進むでしょう」
「あの」
「はい?」
「処理の速度が戻ったんですか?」
「........」
「あ、すみません。出過ぎたことをお聞きしました」
「いいえ。
速度が戻った、というか」
博士がそう言って手にしていたカップを床に置いた。
かわりに、床に広げられたままだった資料のファイルを手にし、ソアンに差し出す。
「これは?」
-----ソアンがさっき目にしたデータだ。
ドクン
ソアンの心臓が音を立てた。
「どうやら彼は逃亡を始めたようです」
「と、うぼう?」
いけない。また耳が。
耳鳴りのような、耳がつまったような感触。博士の声がどんどん遠くなる。
「記憶図にない場所に逃げ込んで、削除を止めようとでもしているのかもしれませんね」
「......」
「ん?どうしました?ソアンさん」
「......ぁ、い、いいえ」
目の前が真っ暗になった気がした。
「あ、あの」
「はい?」
「あと、いくつ」
「.......」
「いくつぐらい残っているんでしょうか?」
-----ヨンファの記憶は、あといくつ
「あと......二つ、ですね」
「.......」




