その26 新しい記憶
あの女性の。
この会社の代表者の弟が、
「イング?」
ソアンのその呟きは、背後の二人には届いていなかった。
しかし、
「イング?イングって、あの店長か?」
しばらくの間消えていたはずの男性の声。
その声が遠くで聞こえていた。
と同時に、
ヨンファの耳にははっきりと、ソアンの呟きが届いていたのだ。
-----今、確かに
「女性?いや、代表者の弟がイングって....」
イングという名に思い当たる人物は、あの男しかいない。
「.....あっ」
ふと、
脳裏に、カイジと見紛うほどよく似た格好をしたあの店長の姿が浮かんだ。
それはいつのことだったか。
「.......っ、思い出せ、しっかりしろっ」
ヨンファは頭をブルブルと強く振った。
二人を見かけた記憶。しかし、もうすでにその姿は薄ぼんやりとしか浮かばない。
けれど、確かに、
顔も体格もまったく違うのに、まるでカイジがソアンのそばにいるように思えた日があった。
あれは......
-----あぁ、そうだ。
その一瞬だけがはっきりと思い出され、ヨンファは足を止めた。
「まさか」
あの店長が記憶管理会社の代表者と血縁関係にあるとすれば。
「情報が漏れてた?」
もしも、ソアンが記憶を操作したという事実を姉から聞き出していたら。誰の記憶を削除したのかということも、
------あいつは知っていた?
ヨンファの背中がゾクリとした。
全てを知った上で、ソアンのことを狙っていたとしたら。
「ソアン?」
------あの店長とは何の関係もない、と。ソアンはそう呟いてはいなかったか。
闇の向こうにいるであろうソアンの名前を呼ぶが、返事はこない。
わかってはいながらも、「......ちっ」
ヨンファは悪態をつくと目の前の映像に目を向けた。
「ちょ、ちょっとヨンファ?」
目の前のスクリーンでは、店から連れ出したソアンを車に乗せ、どこかへ向かうヨンファ自身の姿があった。
「ね、ヨンファ?あのね私はまだ仕事中でっ」
ヨンファに急げ、急げと急かされ、
ロッカーから持ち出すことができたものは、バッグひとつだったらしい。
着替えをする時間すら許されず、制服姿のまま店を飛び出したソアンが両手でバッグを握りしめ、助手席のシートに座っている。
「黙ってろ。つか、シートベルトっ」
「は?」
いきなり店に来たかと思えば手首を掴まれ、一緒に来いと引きずられたのだ。
しかも、そんなヨンファの態度に慌てたソアンは、その理由を聞くまもなく、とにかくロッカーで着替えてくるから待って欲しいとそう言った。
しかし、ヨンファが出した返事は『ダメだ』の一言。
「あのねっ、ヨンファ?いきなり連れ出しといて、どこへ行くとも言わず。ちょっとおかしいんじゃない?店のみんなもびっくりしてたでしょ?ね、一体どうしたって言うのよっ」
ヨンファは、チラっと助手席のソアンに目を向ける。
「.......」
「ヨンファっ!」
「そこ」
「は?」
「後部座席」
「後部座席?」
ヨンファがあごでそこ、と示した後部座席に目をやるが、「......何?」 ソアンにはヨンファが何を考えているのかさっぱり理解できなかった。
「コート置いてるから、着とけよ。寒いだろ、その格好じゃ」
「ぇ?」
再びヨンファがチラっと向けた視線。その視線がソアンの足元に動いた。
「.......ぁ、ちょ、エッチっ」
「ば、バカか?そんなんじゃないし」
ソアンは慌てて手を伸ばし、後部座席からカーキ色のコートを取り上げると、自身の足元にかけた。
店の制服のままだったこともあり、スカートから出た太股が丸見えだったのだ。
「上は?寒くないか?」
「......うん」
そう言いながらも、シートベルトを設置したあと、一度は膝に置いたバッグを再び胸の前でぎゅっと抱きしめた。
「........」
「........」
そうして、しばらく無言のまま車はソウルの街を走り続けた。
実を言えば、この時のヨンファ自身、どこへ向かっているのかわからなかった。
いや、それは、
「で、どこに行けばいい?」
スクリーンを見つめるヨンファにもわからないまま。
ヨンファはハンドルを握る記憶の中のヨンファに問いかける。
「はぁ、まいったな」
ただ、ひとつ言えることは、
-----今のこのシーンは、俺の記憶図にもないということ。
そう。
ソアンを店から連れ出したのは、仕事が終わってからだった。
今、ヨンファのそばにいるソアンは、現実の記憶とは異なるソアンなのだ。
「ってことは、このままどこか。例えば、新しい記憶を作ってしまえば」
-----ソアンとの記憶がまったくゼロになってしまうことも避けられるのか?
「もしかしてこれがうまくいけば、ソアンとの出会いの記憶も残せるかも、しれない?」
ソアンとの出会い。
あの日の湖の記憶が消えてしまえば、もう永遠に出会うことはなくなる。
『ヨンファっ』
-----ソアン?
思案に暮れていたヨンファの耳に、ソアンの囁くような声が届いた。
『お願い......隠れて』
「ソアン?」
『見つかっ......ちゃう』




