その25 脱線
ガタッ バタン
いきなり開いた開いたドアが閉まる音と共に、
誰かの足音がした。
「ん?......これは」
その声の主は『博士』と呼ばれる男性。
パソコンのディスプレイを確認したんだろう。唸るような声が聞こえた。
------何かに気がついたのかもしれない。
その「何か」について、ソアンは十分すぎるほど理解できていたけれど、
殊更ゆっくりと振り返り、
「何か、あったんですか?」
囁くようにそう訊いた。
「あ、あぁ、いや」
そこにソアンがいたことに驚いたように、メガネの奥の目が丸くなった。
「博士?」
その姿は、同一人物とは思えないほどに狼狽している。
ソアンにはこの男が慌てふためく理由はわかっていた。
何度施術に関わったのかは知らないが、これまでこんなに緊迫した情勢に陥ったことはなかったのだろう。
少しぐらいなら大丈夫とでも思っていたか。
そうでもなければ、助手と二人して施術中の部屋から姿を消すなんてことはないだろうから。
------傲慢、いや、過信?
そう長い時間、席を外していたわけではない。
しかし、その僅かな間に、事態は大きく変化していたのだ。
「あの、博士?」
ソアンは静かにヨンファのそばを離れ、博士が目にしている画面に目を向けた。
実を言えば不安もあった。
今、ヨンファの記憶図がどんな反応を示しているのか。
大きな変化が現れていたら、それはそれで困るのだ。じっくりゆるゆるとした変化が好ましい。そうでなければすぐにバレてしまう。
だからこそ、一度目にしておきたかった。
「何か問題でも?」
そう問うた途端、博士の目が細くなる。
-----ぁ
わざとらしかっただろうか。
あのまま、知らんぷりしていればよかっただろうか。
ふと、
ついさっき手にした資料の数々が気になった。
すべて元通りに戻したから、その資料の山に手を触れた形跡は残っていないはずだ。
それでも不安でチラっとそこに目を向ける。
------大丈夫。
隣に立った博士の手が、その資料の一冊を手にしたものの、その表情には何の疑いの色もない。パラパラと資料をめくり、中を確認すると、その目は画面に戻された。博士が小さく首をひねったのは、今、画面に映し出されている状況の原因がわからないからに違いない。
ソアンはほっと胸をなでおろしながら、博士が凝視している画面に目を向けた。
点滅する箇所。
そこがソアンの予想通り、記憶の駅だとすれば、点滅した箇所までは、すでに記憶が消去されている、と思えばいいのだろう。
いや、もしくは、ヨンファがそこにいて、今まさにその記憶が消されようとしている、と。
-----でも、違う。
きっとヨンファは今頃、その場所から離れ、どこかに姿を隠そうとしているはずなのだ。
それが、この記憶図にない場所ならば。
「.......」
博士の横顔に目を向ければ、眉間に深いシワが寄っていることが見て取れた。
さっきの唸りのような声。
何か気がついてしまったのだろうか。
その点滅の箇所が、随分長い間動いていないことに。
点滅の箇所が動かないということは、記憶の消去がある一定の場所で止まっているということ。
それは、
ヨンファが、記憶の駅と駅をつなぐ線路から脱線した、ということ。
ソアンは下唇をぎゅっと噛み締めた。
------どうか、うまくいきますように。
とにかく今は、少しでも時間が欲しい。
ヨンファが逃げ果せるだけの時間。その余裕が欲しい。
「あの、博士?」
再び資料をめくり始めたその手の動きを止めようと、ソアンは博士に呼びかけた。
と、同時に、
バタンっ 「博士っ!」
例の若い男性が慌てたようにドアを開け、乱暴に靴を脱ぎ捨て上がり込んできた。
「どうした?何かわかったか?」
博士は資料のファイルを閉じ、助手に目をやった。
ソアンは二度ほっとした。これで少し時間稼ぎができるだろう。
「博士、あ、えっと」
助手の男性がソアンに視線をやる。
「あ、向こうにいましょうか?」
「.......あぁそうですね。ここは何の問題もありませんので、どうぞ、彼のそばに。
で、どうした?何がわかったんだ?」
助手と名乗るその男性の視線を感じつつ、
ソアンは博士の言葉通り、その場を離れ、ヨンファの枕元に置いたままの椅子に腰掛けた。
ただ、
二人の会話に聞き耳を立てたまま。
-----行方不明になっていた社長がみつかったらしいんです。
-----どこにいたんだ?
-----それが、
「え?私の、家に?」
ソアンの肩がピクっと揺れる。
-----は、博士っ。声が。
-----っ
助手の男性に戒められ、博士の声が低くなる。
-----どうして、そこに?
その声に、思わずソアンも振り返ってしまい、助手の男性と視線があった。
しかし、博士は構わず会話を続けた。
「どうして私の家に?......あいつは、ソンヨンは何を考えて」
「博士っ」
ソアンの視線に気まずさを感じたのか、助手の男性が博士の言葉を遮るように呼びかける。
ソアンは再び二人に背を向けた。
僅かな間があったものの、再びこそこそと二人の会話が漏れ聞こえてきた。
「どうやら博士の奥様に」
「......妻?......彼女に何を?」
「奥様に手渡ししたそうです。社長の記憶図のDVDを」
「な、んだと」
手紙をよこしてきた代表者が、自分の記憶図のDVDを博士の家族に送りつけた、と。
確かにそう聞こえた。
ソアンは、眠るヨンファの横顔を見つめた。
------何がどうなっているのか。
「まさかっ。あいつは何を考えて!」
博士のどなり声が部屋中に響く。
「それは誰にもわかりませんっ。ですが、どうやら社長は実の弟のイングって男にも同じように情報を流していたらしく」
------え?




