その24 記憶の中の自分
「お願い」
-----逃げて。とにかく、私のそばから、
「二人でいれば絶対に記憶は消えちゃう」
ソアンは、ベッドの隣に置かれた椅子に腰掛け、
眠り続けるヨンファの肩口で、祈るようにそう呟いた。
いや、実際に、ベッドの端に両肘をついて指を組み、祈っていたのだ。
----どうか無事に逃げ果せて欲しい、と。
「......ヨンファ」
その囁きのような、
祈りのようなソアンの声はヨンファの耳にも届いていた。
だからこそ、ソアンの言わんとしていることを実行しようとして、目の前のスクリーンに向かって走り始めたものの。
「.......ぁ、でも」
ヨンファの足が止まった。
ソアンが言うように、
記憶図は、ヨンファの頭の中の「ソアンとの記憶」をもとに作られたものだ。
作ったのは、例の会社の例の博士と呼ばれるあの男だが、。
その記憶の欠片を提供したのはヨンファ自身。
「確か、順番どおりに消えていくって、そう言ってたよな」
そのことは、記憶を削除した経験のあるソアンならばわかっていて当たり前のこと。
ソアンも。今の己と同じように、記憶が一つひとつ消えていくのを目にしていたんだ。
「.....っ」
いらぬことは考えるな、と。
ヨンファは頭を振った。
そう。
ソアンも同じ体験をした。
だからこそ、
その場に二人が揃っていなければ、消えることはないんじゃないか、と。
「そこから逃げろって、-------そういうことだよな?」
「でも」
「それじゃ」
-----あの湖で出会ったことも、カフェで待ち伏せしてドライブしたことも。
「ソアンがそこにいなけりゃ」
----たとえ、その記憶が残っていても
「そこにソアンがいなけりゃ、消えていったのと同じことだろ?」
記憶が消されないにしても、そこにソアンがいなければ。
「それに、どうやったらそれができる?」
目の前のソアンに触れたくて。
ソアンを捕まえたくて。
行けども、行けども。どれほど手を伸ばしても。
目の前のスクリーンとの距離は縮まらない。
そうだ、さっきだって、ソアンに触れようとしても、その手は空を切るだけだったじゃないか。
「.....無理だ」
所詮、そんなこと自体。
『逃げて』
それなのに、ソアンの声はまだ逃げろと告げるのだ。
「無理だ、ソアン」
そう返すしかない自分自身が悲しかった。
きっとソアンはそばにいる。
そばにいるのに、こうやって交わす言葉は、ただ一方的な。
「ごめん、ソアン」
『お願い。あの人たちが帰ってくる前に、お願いどこかみつからない場所に』
「.....あの人たち?」
「.......ぁ」
まさか、あの男たち、博士と助手が、
「いないのか?」
そういえば、ソアンの声しかしない。
----じゃぁ
「止められないか?その機材の、どこかにストップするスイッチはないのか?な、ソアンっ」
『お願い、ヨンファ』
冷めかけた熱が、消えかけた炎が再び活気を取り戻すように、ヨンファの胸の奥が再び熱くなった。
「探してくれ、ソアンっ」
----俺も、そっちの世界に戻りたい。記憶を、今あるものだけでも持ってお前に会いたい。
「ソアンっ!」
思わず怒鳴るように大声をあげた。
しかし、その問いに答えは来ない。
ヨンファは頭を振った。
「何をすればいい?」
------冷静になれ、落ち着いて考えるんだ、ヨンファっ。
ザザッ
微かな音。
その音にヨンファが顔をあげると、
次の映像が、スクリーンに映し出された。
刹那、
ヨンファの胸がズキっと痛む。
----あと何個、残っているんだろう。
そこにいるのは、
カフェの仕事帰りを狙って、食事でもどうか、と。
そう誘うために、店の外で待っているヨンファ自身だった。
建物の壁にもたれかかるようにして、時間つぶしにスマホをいじる。
それに飽きると、店の前の通りをウロウロと。
「ったく、終わる時間聞いとけばよかった」
そんなことをブツブツ呟いている。
もう何度、カフェの二軒隣にある本屋の軒下に並んでいる雑誌を手にとったことだろう。
三度目、いや、四度目の本屋の軒下。
さすがに変だと思ったのか、店主のご婦人が出てきてじろりと睨まれた。
そうして、しまいには、少し離れた場所から窓越しに店の中を覗いては、イライラしたように片方のつま先を小刻みに動かす。
「.........はぁ」
そうしながらも、頭の中ではあぁでもない、こうでもないと。
前日の夜遅くまで練った計画を復習する男の姿が、そこにあったのだ。
「.......もしか、して」
そんな不甲斐ないとも思える自分の姿を目にしながら、ヨンファには別の考えが浮かんでいた。
ソアンは、二人が揃っていなければいいんだ、と。そう言っていたが。
「あの、スクリーンの中の俺が。あの時の俺自身がソアンを連れて逃げれば?」
「......そうだ」
「記憶図にない場所に、ソアンを連れて逃げれば?」
記憶図を作る時、かき集めた記憶。
あの中には、ソアンとの思い出ではないものもあった。
「それは、あの記憶図には、載ってない?」
そこにソアンと逃げ込めば、
----そうすれば、みつからない?
「ソアン?」
できるかどうかなんて知らない。
失敗したらどうなるかなんて、そんなことも考えていられない。
「バカだよな」
いや、そもそもソアンを消してしまおうなんて。
「それがバカだ」
胸の鼓動がどんどんスピードをあげる。
なぁ、
お前なら、できるよな?
スクリーンの中の己自身に問いかけた。
「俺自身なら、お前ならできるだろっ?」
目の前のスクリーンには、いよいよ店のドアのところで中に入るかどうか悩み始めたヨンファがいた。
その後ろ姿に向かって大声をあげる。
「頼むっ」
「な、こっちを見ろっ!」
「.........っ」
---------何だろう。この感覚。
一瞬、時が止まったような気がして。
気がつけば、
スクリーンの中の『ヨンファ』が、暗闇の中の『ヨンファ』をじっと、じっと見つめている。
「.......聞こえるのか?」
店の前の通りに突っ立ったままのヨンファが、キョロキョロと辺りを覗った。
それはまるで、聞こえている声の主を探すかのように。
「聞こえてるんだな?」
ヨンファの目の動きが止まって、再びこちらを凝視する。
見えてはいないはずだけれど、見えているかのように、
ヨンファが小さく頷いた。
「よかった。お前は役にたついいやつだよ」
そう呟くと、スクリーンの中のヨンファが片方の口角をクイっとあげて小さく笑う。
----で、何?
そう言わんばかりに笑みを浮かべたままこっちを見つめるそいつに、こう言った。
「今すぐソアンを連れて逃げろ」




