その23 君がいない世界へ
『どこにいるの?』
「......ぁ、もしか、して」
その言葉の意味をはき違えていたかもしれない。
ふと、そんな気がした。
「ソアンは、どこに」
もしも、ソアンがリアルな世界でそばにいるとしたら。
いや、
可能性は0(ゼロ)に近いことだとわかっているけれど、でも、万が一そばにいるとしたら。
ヨンファは、流れる映像に目に向けた。
ソアンが言わんとしているのは、『今、記憶の中のどのあたりにいるのか』ということではないか、と。
「ここは」
途端に、胸がきゅっと痛んだ。
-----もう、こんなところまで。
目の前の映像。
そこには、
ソアンがまだカイジの彼女ではなかった頃の、ソアンとヨンファ。二人の姿があった。
2015年3月の半ば。
夜から未明にかけて、流星群が見られるとニュースで言っていた。
もともと、山や海、湖が好きなソアンのことだ、きっと流星群にも興味があるだろう、と。
「え?行けるの?連れて行ってくれるの?」
「あぁ、お前次第。仕事は?」
「大丈夫。もう絶対に大丈夫」
ソアンが目をくるくるさせてそう答えた。
この日、仕事帰りに、ソアンが働くカフェに顔を出した。
いつものように、
「寒くてもアイスコーヒー」
「え?ホットにしなよぉ、淹れたて飲めるのにっ」
「いや、アイスで」
「え-----゛」
そうやって、確認しなくてもいいオーダーを確認しに来ては、丸いトレイを胸のところに抱いたまま、「はいはい」と笑ってカウンターへ戻っていく。
数分後、氷の多めに入ったアイスコーヒーのグラスがテーブルに置かれたと同時に、流星群の話しを切り出したんだ。
「えっと、何を持っていったらいいの?私、初めてなんだ。そういうのっ」
-----リュックに荷物入れ込んで踏切前に午前2時?
真面目な顔してそんなことを問うソアンに、
「バカかお前っ。スタンドバイミーじゃあるまいし」
「ちがっ。ヨンファ、あれは行方不明の男の子を探しにいく話しでしょ!」
映画が好きだというだけあって、ソアンはそう突っ込んできた。
「はいはい。で、俺の車で行くし、今度の彗星は明るいらしいから、肉眼でも見えるって言ってた。ま、一応双眼鏡は持っていくけどな」
「持ってるの?」
「うん」
「すご-----い」
「寒くない格好してこいよ。いい?」
「うん」
「ちゃんとアパートのしたで待ってろ。そこまで行くから」
「うん」
「一番の見頃は、今夜0時から2時にかけて、って。さっきTVでそう言ってた」
車でアパートの前まで行くと、部屋の窓から通りを覗いていたんだろう。
ほとんど待ち時間もなく、階段を駆けおりてくるソアンの姿があった。
そうして、僅かに息のあがったソアンが助手席のシートに滑り込む。
「あ、そだ。こちら、特製ホット、コーヒーです」
わざとらしくそう言った。
「え?ホットぉ-----?」
そんなソアンの語り口調に合わせるように、ヨンファもわざとらしく驚いて見せる。
「あったり前でしょ?寒いのにアイスなんて飲んでらんないわよっ」
膝に乗せたままのバスケットから覗いている薄緑のポット。
それをポンポンっと叩いたソアンが誇らしげに笑っている。
----こういう笑顔がソアンらしい。
「まぁな、バリスタ修行中のソアンさんの腕前を一度確認してみたかったところだ。今夜のコーヒーはホットで勘弁してやる。じゃ、出発するぞ、いい?シートベルトは?」
「OKですっ。で、今夜はどこで見るの?」
「ん?」
市内のソウル大公園も今夜は遅くまで開放されていると聞いた。
そこでもよかったのだけれど、
「うわっ、懐かしいかも」
「来たことある?」
「......うん」
「ソアン?」
----懐かしいかも、そう言った最初の反応と違って、最後は。
「どうした?」
「え?あ、何が?」
「ぁ、いや」
ちょうど曲がり角に差し掛かり、ハンドルを切っていたこともあってそれ以上は訊かなかった。
ただ、
たまにソアンはこんな風に、昔の思い出に触れる話題にはあまりいい反応を示さない時があった。ずっと気になっていて。
いつか機会があれば、小さな頃の思い出も訊いてみよう、とそう思っていた。
「ここ、ドラマのロケ地になったこともあるんだって?俺、ドラマとか見ないから知らないけど」
「あぁ----そうそう、確かここだった」
「俺は初めてなんだ、ここ」
ソウルの森、と呼ばれる広い公園。
高台にあって、星を眺めるにはうってつけの場所だった。
「え?そうなの?」
「うん。釜山出身だし。大人になってソウルに住み始めたから、なかなか来ないだろ、ここまで」
「そっか、うん。そうだよね」
「......」
-----結局、ソアンには訊けないままだったな。
目の前の映像を目にしながら、ヨンファは心の中でそう呟いた。
ソアンの幼い頃の話しを一度でもいいから聞いておきたかった。
「可愛かったんだろうな、お前」
映像の中のソアンは、暗い車内でもわかるぐらい、屈託のない笑みを浮かべている。
『ヨンファ?』
再び、闇の中のソアンが語りかけてきた。
「ソアン?」
『ヨンファ?今、どこにいるの?』
「......お前と流星群を身に来た」
『ね、ヨンファ』
そばにいるとしても、
ソアンには声が届かない。
それは承知の上、ヨンファはソアンの問いに答えていった。
『今、どのあたりにいるのかわからないけど』
『その記憶も消えてしまうの』
「.......」
ソアンのその一言が、ヨンファを現実に引き戻した。
そうだ。
昔を懐かしんでいる場合じゃない。
このままでは、この思い出も。
「ソアンと、二人だけの思い出なんて」
----数少ないものなのに。
「これも、消える?」
「ねぇ、ヨン.......っ、くしゅん」
目の前の映像の中のソアンが、
小さなくしゃみをした。
今、目の前のソアンは、
アパートから持ってきた毛布にくるまって。
「はぁ-----」
「寒くないか?」
「う----ん、ヨンファは?」
「う----ん」
「もぉ、ほら、ここ、ここ入ってっ」
一枚の毛布しか持ってこなかったのは、狙いでも何でもない。
うちには一枚しかなかったんだ、と。
言い訳じみたことを呟くヨンファに、困ったような笑みを浮かべながら、毛布の端をめくって見せるソアン。
「まぁ、こうやってくっつくとあったかいしね」
「だろ?」
そう言って笑い合っている。
『ヨンファ?』
暗闇の中からソアンの声がした。
「なぁ、ソアン?これも、消えるんだよな」
『ヨンファ、お願い逃げて』
「え?」
ソアンはただ、独り言のようにそう呟くだけ。
ただ、その言葉はヨンファの思考を停止させた。
----逃げる?
「どうやって?」
『ヨンファ、お願い』
「だからどうやって?」
『私のいない世界へ』
「----ぇ?」
「ソアンがいない、世界?」
漸くその意味がわかったのは、
「.......ソアン」
ヨンファの肩に頭をもたげ、星空を見上げていたソアンの横顔が、砂嵐のように消えて行こうとした瞬間だった。
「そうか」
「ソアンの記憶を辿って、ソアンの記憶が消えていく。
だったら、
ソアンのいない記憶の世界に隠れたら..........」
「ソアン」
「ソアンっ」
芝生の上にシートを敷いて、毛布に包まったままのソアンの肩から下はもう消えている。
「俺の隣の」
ソアンだけが消えていく。
ザザ----っ と、
音を立てながら消えていく----ソアンの記憶。
「ソアンっ」
----必ず、
「必ず戻ってくるからっ」
そう叫んで、ヨンファは映し出された映像に向かって走り出した。




