その21 はじまり
声だけでなく、吐息や、体温を感じる。
不思議なくらいに。
まだ、ソアンに記憶が残っていて、ソアンがカイジの彼女だった頃。
あの頃ですら、こんなに近くに感じたことはなかったのに。
「.......こういうの、何って言うんだろう。.....あぁ、そう」
そこに置いてきぼりにした気持ち。
執着心、とでも言えばいいのか。
ソアン----きっと、彼女への今も尚、抱いている恋心がこうやって錯覚まで引き起こすんだろう。
『ねぇ、ヨンファ』
時折囁くように自分の名を呼ぶその声を耳にしながら、いつしかヨンファは自身の口元に笑みが浮かんでいることに気がついた。
すごく不思議な気持ちだった。
こうやって、ソアンの記憶を消そうとしているのに、そのソアンの声をこんなに近くに感じるなんて。
もしかして、ここまで決心した自分自身へ、神様が最後のご褒美をくださったのか。
----まさかな
そう心で呟いて、小さく笑う。
『ごめんね、ヨンファ』
「ソアン?」
どうして謝るんだろう。
目の前では、相変わらずカイジが連れてきた女の子のことで、カイジと言い合うヨンファ自身がいる。
映像の中のソアンは、その女の子と二人、少し離れたところにいて何やら話しをしているようにも見えるのだ。
ヨンファは、映像を目にしながらも、暗闇の向こうから落ちてくるソアンの声に耳を傾けていた。
『本当に、ごめんね、ヨンファ』
「ソアン?」
右の頬と、右腕に温もりを感じる。
ふと、そこにソアンがいる気がして、ヨンファは右斜め上をみつめてその名を呼んだ。
しかし、その呼びかけに返事はない。
----そうか、そうだよな。
こっちの問いかけは聞こえないんだった。
さっきも散々やってみたばかりじゃないか、と。
目を閉じて、小さく頭を振る。
と、同時に、
「え?」
ふと、脳裏に、記憶削除の作業を始めた瞬間のことが浮かんだ。
あの時、博士と助手の会話が聞こえていなかったか。
「ソアン?」
耳を澄ますが、さっきまでの声は聞こえない。
----やっぱり、
『私、ずっと言えなかった』
「え?」
「まさか、だよな」
恐る恐る、ヨンファは自身の右腕に触れた。
そこにソアンの温もりを感じるが、手に触れるのは、「いないのに、いる?」
もしかして、そこにソアンがいるのかもしれない。
いや、いるはずなんかないのに、でも。
言葉にはできない不思議な気持ちを抱えたまま。
「........ぁ」
気がつけばまた、一つの記憶が消されていった。
・・・・・・
・・・・・・
背後では、バタバタと二人の男性が行き来している。
一人は何度も誰かに電話をし、その度に、「信じられない」を連発している。
信じられない光景はここにもあるっていうのに。
ソアンは心の中でそう呟きながら、時折目の前で眠ったままのヨンファに問いかけた。
「ヨンファ、ごめんね」
今更謝っても、どうにもならないとはわかっている。
どんな理由があったにせよ、今、ヨンファの中のソアン自身は消されようとしているのだ。
人は生きていく中で、その立場になって漸くわかることがある。
「私、ひどいことしたよね。本当にごめんね」
好きだったのに、好きだと言えずにいたことも。
好きな男の親友と呼ばれる男と付き合ったことも。
その男をずっと裏切っていたことも。
その上、
「なにも悪いことしてないヨンファとカイジを、忘れようだなんて」
----消しさられるべきは、私だったのに。
「でも」
----消えるのは、いや。
「やだよ、ヨンファ」
目頭が熱くなる。
こんな場所で、今更、と思うけれど。
「.......」
ソアンは、背後の二人に悟られないように、そっとヨンファの右腕のそばに顔を埋めた。
額に、ヨンファの体温を感じる。
もう二度と、もう二度と思い出すことがないのならば、せめて。
「私ね」
ソアンは顔を埋めたまま、独り言のように呟いた。
「私、本当はずっとヨンファが好きだった。初めて会った日のこと、覚えてる?雪の積もった湖。.....凍ってて、すごく寒かった。私はちょっと前に来てて、絵を書いてたの。湖の絵。それをヨンファが褒めてくれて」
「嬉しかった」
一度は消し去った思い出が、また蘇る。
本当に、あの日、ヨンファに出会えたことは奇跡。
「ヨンファは知らない、よね?あの絵の仕上がり。見てないもんね」
「ね、ヨンファ?」
「この前、クリスマスのイブの夜。私のアパートの前にいたのは、ヨンファだった?
----ごめんね、気がつかなくって。
あのね」
そこまで話して、唇をギュッと噛んだ。
記憶を削除していたこと、ヨンファは知っているんだろう。
どこでどう耳にしたのかはわからない。でも、きっと。
ただ、
それを肯定するような言葉を口にすることができなかった。
「あのね」
けれども、これだけは知っていてほしい。
「あの時の、店長とは何の関係もないんだよ。私、あの人とはなにも。
それだけは信じて」
すごく言い訳じみたことを言っていると、自分でも笑えたけれど。
最後にそこだけは話しておきたかった。
「ヨンファ?」
----今、どこにいるの?今、どこに
「今、いつの記憶を........」
背後が静かになっていた。
「......いない?」
振り返れば、ついさっきまでバタバタと動き回っていた博士と例の助手だという男性。その姿がなかった。
どうやら二人してアパートの外に出ていったらしい。
ただ、すぐ隣に置かれた機器は、ウィーンと鈍い音を響かせているところを見れば、またこの部屋へ戻ってくるつもりだろう。
「これって」
パソコンの画面に目を向ければ、複雑な文字の羅列とともに、地下鉄の路線図がもっと複雑になったような絵が表示されていた。
「これって、確か」
この記憶図に沿って消去していくのではなかったか。
説明を受けたものの、難しすぎて理解不能だった。
「でも確かにそう言ってた。あ、ここ!」
丸くて赤い印がついている。そこが記憶という名の駅とすれば、駅と駅を結ぶ線は記憶をつなぐ線路。
点滅している赤い印はきっと、「そこに、ヨンファがいるってこと?」
この図だけでは、どの時期の記憶まで消されたのかはわからない。
ただ、ジリジリと、記憶図が焼き消されていっているのは確かだ。
「あ、また、今度はここが点滅して」
「ヨンファ.....」
ベッドに横たわるヨンファの胸は、規則正しく上下している。
ソアンは再び画面に目を戻した。
「この点と点。ここまで、としたら、あと」
画面の赤い印を追うようにして、指で辿る。
そうやって、点滅していない赤い印を数えた。
「あと、6つ」
----あと6つしか残っていない
「でも、私のときはもっと他のことも書いたよね」
そう。
カイジとヨンファが姿を現す場面を確認するために、その前後のこともツラツラと話しをした記憶がある。
「それは、どこ?」
「もしか、して」
ベッドに横たわるヨンファの横顔を見つめながら、
この時、
ソアンは心の中である一つの考えが浮かんだ。




