その20 期待と不安
「姉さん?どこにいるの?」
イングは携帯を耳にあてたまま、電話の向こうにいる姉に向かってそう問うた。
「ねぇ、どこにいるのかって訊いてるんだよっ」
母はわりと綺麗なヒトだったけれどヒステリックだった。一方、父親は温和な性格で、見た目も普通。どちらかと言えば目立たない分類に入るだろう。
僕たち姉弟は、父親の見た目と、母親の性格を受け継いだ。
姉は頭がよかったこともあって、大学に進学し、その頃はまだ手付かずだった脳科学の世界に足を踏み入れた。
ただ、見た目のコンプレックスは続いていたらしく、大学卒業とともに整形して驚く程の美人になった。
美人で、頭もいい。
しかも、今ではとある会社の代表をつとめるほどになっている。
姉は、完璧な人生を手に入れたんだ。
恋人も-----いるという話しを聞いたけど、今はどうなんだろう。
とはいえ、そうやって、このヒトは僕を置いていった。
たった一人の弟だっていうのに。
「姉さん?」
「......お願いだから、しばらくそっとしててよ」
「そっと、って。ね?姉さんの会社、どうなってんの?」
「.......」
「姉さん?ちょっと聞いてる?ね、ねえさ」「もうおしまいなのよ」
「は?」
-----おしまい
姉はそう言って、黙り込んだ。
「おしまいってどういうこと?」
「.......」
「おしまいって、まさか。
-----ね、姉さん?まさかだけど、あの子の記憶がきちんと削除できてなかった、とか、ある日突然記憶が蘇ったなんてそういう事故が起こった、とか。----そんなこと?」
僕は、姉のことなんかどうでもいい。
ただ一つ、姉に訊きたかったのは、
「.....違うわ」
「........」
「仕事は、あの作業工程そのものは完璧よ」
姉は、今の仕事に関して僕に何か言われるのをひどく嫌う。
それがわかっていて僕はわざと訊いたんだ。そうすれば、何か教えてくれると知ってて。
案の定、自分を否定されたとでも思ったんだろう。
姉は、事の次第を語り始めた。
「え?」
電話を切った時には、スマホ全体が熱を持っていた。
公園の植え込みの端に腰掛けたまま、全身の力が抜けていくような気がした。
「どうしてだよ。どうしてそんな勝手なこと」
ついさっき、姉が、姉のチェ・ソンヨンが語った言葉が頭の中を駆け巡っている。
『私自身が記憶削除の操作の安全性については、一番理解してるわ。
私自身、体験者だもの』
『でもね、
やってはいけなかったって。今はひどく後悔してるの』
姉はそう言った。
けれど、たったそれだけの言葉では、その理由がわからない。
そう反論した僕に、姉は、
『きっとイングにはわからないわ。
私ね、記憶操作をしたのは、好きな人との記憶を消すためだった。
バカバカしいでしょ?そんな理由で記憶を消すなんて。
でもね、この理由、案外多いのよ。失恋とか、必要とされてない、とか。ひどい暴力を受けたとか。.....好きな人との思い出が、いつしかひどく悲しものになっていく。それが嫌で。そうなってしまうぐらいなら、消してしまえ!って。
そう思う人が多いの。
....私も、そうだった。
どんなに綺麗に着飾っても、所詮は.......どんなに好きだって言われても、やっぱり奥さんや子供が一番なのよ。
彼がいるからやっていける会社。私は社長だけれど、会社にとって必要なのは、実際にその技術を開発した彼のほうだわ。
結局は、私の必要性はどこにもない。
恋愛感情を抜きにして接することができれば、もっと楽かも。そう思って記憶を削除してみたけれど、なにも変わらないの。記憶が消えてまったく違うチェ・ソンヨンになったつもりでも、心は変わらないわ。結局、毎日顔を合わせる彼のことをいつしか好きになってしまった。
それなら前のほうがマシだったの。
前は体だけでも繋がっていられたもの。その時だけはあの人の女でいられたもの。
女社長と、技術者のトップ、博士と呼ばれる男。
そういう立場的なことじゃなくて、もっと人間として繋がっていられたもの。
でも、私はそれすら耐えられなくて、弱くって、記憶を消したわ。彼に罰を与えたくて、愛してた彼に記憶を操作させたわ。
「あなたのせいよ!あなたのせいで、私は苦しんでるの!」って。
........ひどいでしょ?
そうよ。ひどいの。どちらか一方だけが記憶をなくすってことは、記憶を残したまま生きる人にとってはすごく残酷。
でも、彼は。
記憶を削除してくれた本人は、そのまま記憶を残してるのに。私のこと全部知ってるのに。
知らないふりして、気がつかないフリして。毎日彼は家に帰るわ。私には見向きもしないで。
結局.......余計辛くって。居場所がないのは、変わらなくって。だからもとに戻したの。こっそり、自分の記憶をもとに戻したの。
私は、やってはいけないことをやったのよ。他の人たちも同じ思いをしてしまうわ。だから』
-----だから、全員に記憶を取り戻す方法を書いた手紙を出したわ
姉はそう言って電話を切った。
「記憶を、取り戻す方法?」
-----だから?だから彼女は。
「勝手なこと.....なんて勝手なこと」
せっかく、
せっかく、もう少しでこの手に出来ると思ったのに。
彼女が僕を見る目の色が変わったのは、
「姉さんのせいだっ」
・・・・・・・
「ね、ヨンファ?」
その声が聞こえたのは、ちょうどソアンとカイジ、カイジが連れてきた女の子の四人で遊園地に行った時の映像を観ていた時だった。
----この歳で、今更遊園地はないだろ?
そう言ってこの計画をやめさせようとしたことが記憶に残っている。
けれど、カイジは
「あの子が遊園地を希望してきたんだぜ。一回ぐらい希望を叶えてやれよ」
そう言って、計画を無理やり実行したんだ。
あの子、と呼ばれているのは、たまにカイジと二人で会社帰りに立ち寄るバーで働いている女性のことだった。
どこでどうそんな情報を仕入れたのか、「あの子、ヨンファのことが好きらしいぞ」と。
高校を卒業して、色々な職につきながら、今ではバーテンダーの修行中らしい。
3つ年下の女性だった。
栗色の長い髪は、いつも後ろで一つに束ねられていて。スラリとした肢体、年齢よりわりと上に見える顔。
目の前には、あの日、カイジと言い合っている自分自身の姿が映し出されている。
そんな時、
『ね、ヨンファ?』
その声は、
「ソアン?」
『ね。聞こえてる?聞こえてる、よね?』
「ソアン」
遠くで懐かしい声がした。
ソアンの声。
あぁ、聞こえている。
でも、どうして?
ソアン?
まさか、
「そこにいるのか?」
「ソアン?」
-----何だろう。
『聞こえてるって、信じてるから』
そう囁くように言ったソアンの声。
それは、たった今、ヨンファが発した問いへの答えではない。
ソアンの呟きにも似た。
けれども、確かに聞こえていた。
と同時に、肩口に感じる温もり。
すぐそばに、
まるで今、ソアンと二人して暗闇の中に立っているような、そんな錯覚。
そう。
それは錯覚だということはわかっている。
だって、ここには。
この暗闇は、誰のものでもなく、自分自身の記憶の闇なんだから。
けれども、
『ヨンファ.........』
もう一度、耳に届く優しい声。
「.........っ」
頬に、柔らかな、唇の感触。
-----ソアン?
ソアンが、そこにいた。




