その19 届け、この声
------彼は、あなたの記憶を消してしまいたいと。そう決意したんですよ
その言葉が頭の中をぐるぐるとまわる。
「ヨンファ、が?」
----ぁ、やだ、どうしよう。
自身が発した言葉を耳にして、そんな思いがよぎった。
絞り出したその声が、ソアン自身のものとは思えないほどくぐもっていたのだ。
----耳っ、変になって。
咄嗟に両手で耳をふさぐと、何度か圧をかけてみる。
「どうしたんです?」
「......」
そう問うた博士の声も、ソアンの耳にはぼんやりとしか聞こえない。
ずっと昔もそうだった。
両親のことで悩んでいた頃、たまに感じていた耳の異変。
まるで耳の中が詰まったように、すべての音がぼんやりと響いて聞こえていたことを思い出した。
----あの頃は、
喧嘩ばかり繰り返す両親に、自分の耳がおかしくなっているとは相談できず。
放っておけばいつか良くなるだろうと思っていたが、
そのうち、二人の会話を耳にするのが嫌で、部屋に一人、こもったきりになっていた。
----治ったと思ったのに。
「ソアンさん?」
その声に顔を上げれば、怪訝な表情の博士と目があった。
「ぁ、いいえ、大丈夫です」
「......」
博士は一度小さく頷くと、話しを続けた。
「もうすでに作業は始まっていますし、
順調に行けば、あと二時間ほどで終了です」
「....もう、そんな」
「はい、今朝から始めていますからね」
「今朝?」
----私との記憶が、いったいどれぐらいあっただろう。
出会ってからまだ、ほんの一年しか経っていないというのに。
あっという間に、すべて消去されてしまうんじゃないか。
「......」
まるで貧血のように、全身の力が抜けていくのを感じる。
ソアンは両手で自分自身を抱きしめるようにして、腕をぎゅっと掴んだ。
「さて、こちらもお話したんですから、ソアンさんも。
どうして記憶が戻ったのか、説明してもらえませんか?」
そんなソアンの心情を知ってか知らずか。
博士は淡々とソアンに話しかけてくる。
ただ、その言葉にソアンは疑問を感じた。
----知らない?
さっきも。
ここへ姿を現したことにひどく驚いてはいなかったか。
それに、
あの手紙。個人としてのお詫びの言葉はあったにせよ、会社を代表してお詫びをするという文面ではなかったような気がするのだ。
そもそも、会社が患者に詫びるという状態にありながら、一方では施術を施すなんてことは。
ということは、-----もしかして。
「会社の代表者と名乗る人から、手紙が届いたんです」
「代表者?」
ソアンの言葉に、博士の顔色が変わった。
「えぇ、-------チェ・ソンヨンと書かれていました」
「まさか」
「いいえ、確かに会社の代表者の名前が書かれていました。あの....何か思い当たることがありますか?」
「え?」
「いきなり手紙なんかもらって、私もびっくりしたんです。何しろ、まったく覚えていなかったから」
「私が----記憶操作をしてたなんて」
人間が感じた驚きは、一瞬にして喜びに変わり笑みにかわるものもあるが。
目の前のこの男性(博士)にとってのソレは違っていたらしい。
驚きが、
一瞬にして恐れになり、そして怒りに変わった。
ソアンの言葉を耳にして、僅かに顎を引いた博士ではあったが、
すぐにその口元は引き締まり、
まるで歯ぎしりでもするかのように、ギリギリと鈍い音をさせ始めたのだ。
----やっぱり、この男性は知らなかったんだ。
この時、ソアンは確信した。
もしかして、この情報をうまく利用すれば、
彼の記憶操作の作業を止められるのではないか、と。
「え?」
「無理なんです」
一部始終を告白し終えると、博士は助手だという若い男に何かを命じていた。
ソンヨン、という名が漏れたところからすれば、
おおかた、例の代表者に事情を確認しろ、とでも言ったのだろう。
その証拠に、一瞬外へ出て行ったその男が、数分後には慌てたように部屋に戻り、こう言った。
「この女が言ってることは本当です。
今、電話したら、事務局のスタッフがものすごく慌ててました。今朝、僕らが会社を出たあとから、もうひっきりなしに電話が鳴っているそうです。博士の携帯にも電話したけど、出ないからって文句言ってました」
フンっと、博士が鼻であしらう。
「社長は?」
「それが、行方不明だそうで」
「行方不明?」
「社長は一昨日から会社には出てきてないんだそうです。今日も来てないし、マンションにもいないって。あぁ、車はなくなってるらしいです。それに........」
「それに?」
その若い男が、ちらっとソアンを見た。
「.....?」
「その女が言うように、.......どうやら、今まで処置したクライエントの情報、会社のデータが」
「消えてるのか?」
「はい。持ち出された形跡があるって」
「まったく!あいつは何、バカなことを!」
博士が手にしていた紙をぐしゃっと握りつぶした。
そうして、一度大きな息を吐くと、ソアンに視線を向ける。
「あなたの情報もきっと社長が持ち出したデータの中から吸い上げたものでしょう」
博士がソアンに向かって言った。
「はい、きっと」
「で、あなたは同封されていたDVDを順番に見ていったんですね?」
「はい。そうです」
「-----なんてことを」
腹の底から絞り出すような、怒りの含まれた声だった。
けれど、不思議とソアンはそんな博士の態度を怖い、とは感じなかった。
それよりも寧ろ、
「あの.....話はまた元に戻りますが。
彼の、ヨンファの作業を止めることは、本当に」
ついさっき、一度訊いたことをもう一度。
「えぇ、無理です。
始まってしまった作業を途中で停止するのは、できることはできますが、非常に危険を伴います。あなたも一度は同意したことがあるんだ。目にしたでしょう?あの同意書の中に記載されていた事項を」
「......でも、今、会社の代表がその事業は失敗だった、って。やってはいけないことだった、って。そう認めて、そう認めたからこそ、私のところに謝罪状まで届いたんでしょ?だったら」
「彼は記憶を削除したいと希望したんですよ」
博士がベッドの上のヨンファに視線を投げてそう言った。
-----っ、ソアンの気持ちが一瞬揺らぐ。
「でもっ」
「それにここで止めれば、彼の今後がどうなるか保証できません」
「このまま記憶を削除して、その後、どうするかは彼が決めることです。
もしもあなたとどこかで偶然出会ったとして、もしも、それがきっかけで何かに気がついたとしても。
その時どうするかは彼が決めることです」
「でも」
「あなたの人生ではないし、あなたの記憶でもない」
「.....っ」
「それにあなたも一度は記憶を、----彼を忘れようとなさったのでしょう?」
「そ、れは」
----ぁ、まさか。ヨンファはそれを知って?
「では」
「......」
「では、せめて。
せめて、作業が終わるまで、ここにいてもいいですか?」
「は?ソアンさん?」
「作業が終わって、目覚める前に、ここを出ていけば問題はないんでしょ?」
すがるような気持ちでそう口にした。
確かに同意書の中にもそうした類のことが書かれていた。
作業完了後、記憶が整理されるまでの数時間、家族はもとより他人には接触しないことが望ましい、と。
それであれば、記憶分散図に記されていた本人がそばにいることは絶対に避けたほうがいいに決まっている。
「それなら、まぁいいでしょう」
「博士っ!いいんですか?この女は」
「君は黙っていなさい」「......ぅっ、は、はい」
博士に促されて、ヨンファのそばへ一歩、また一歩。
「.......ヨンファ?」
漸く出会えたというのに。
ソアンの前に姿を現したヨンファは、
ただ、
規則正しく息をしながら眠り続ける、ヨンファだった。
「ね、ヨンファ?」
-------聞こえてる?




