その18 ドアの向こう
バス停からはそう離れていない白いアパート。
何度か訪れたことのあるその建物は、
記憶の通りソコにあった。
暖かなバスに揺られること小一時間。
バスを降りると、車の往来が途切れたところを見計らって、通りを横断する。
吐く息が白かった。
脱いでいたニット帽をかぶり直し、耳のあたりの髪の毛を整える。
そういえば、ヨンファは髪の長い女の子が好きだとか言っていなかったか。
首元に手を当てて、指先に触れる髪にそんなことを思う。
----切っちゃったし
「......何期待してるの、ソアン」
そう。
受け入れてもらおうとか、許してもらおうとか、そういうことじゃない、と。
そう決めたはずなのに、
「まったくこれだから、弱虫って言われるのよ」
肩で大きく息をつく。
「さぁ、行こう。
ヨンファがいるかわからないけど、とにかく」
----本当の気持ちを告げたい。
スマホのディスプレイを確認すれば、
2016年1月16日 午後1時をまわっていた。
「......」
階段を3階まで駆け上ったせいか、僅かにあがった息。
ふぅ------と一度大きな深呼吸をする。
そうして、
人差し指をぴっと立てたまま、数十秒。いや、一分は経ったかもしれない。
それでも未だチャイムが押せないまま。
「もぉ」
何だろう。
こんな風に胸がドキドキするなんて。
今朝方、カイジに電話をした時とは違う胸の鼓動。
「......」
八方美人。
ふと、先だって店を辞めたバイトの女の子にそう言われたことを思い出した。
ソアンさんは、八方美人ですね、と。
その言葉尻に皮肉めいたものを感じたのは確か。
あの時は、どうしてそんなことを?と、そう思ったのだけれど。
今ならよくわかる。
----そうだよね。
カイジと付き合いながら、ヨンファのことを想い。そのくせ、カイジと別れることもできず。ヨンファに嫌われることもいやで。
どっちつかずな、それこそ八方美人だ。
「はぁ」
それに、あの店長のことも。
ソアン自身には身に覚えはないが、
記憶をなくしたこの僅かな時期、イングとの関係が以前より近くなっていたことは確かだ。
イングにへんな勘違いをさせてしまうほどまでに。
ただ、
「......」
消えていた記憶が一度に戻ったせいか、
思考が混乱している。
----あぁ、ダメだダメだ。
こんなんじゃ、また逃げ出してしまう。
首を左右に何度も振って、よからぬ考えを追い出そうとした。
「もぉ、えぇ---いっ」
一生で一度ぐらい、
なにも考えず行動したっていいじゃないか。
ソアンは息を吐くと、四角のボタンに乗せたままの指先に力を込めた。
ピンポーン ピンポーン
四角の白いボタンを押すと、チャイムの音が二度。
「......」
返事がないことを確認して、もう一度押した。
ピンポーン ピンポーン
「いない?」
縁がなかったのかもしれない。
ふくらみかけていた風船が、ぺしゃんこに潰れてしまった。そんな感じだ。
ぎゅっと唇を噛み締めて一歩、「.....ん?」
帰ろうとして一歩後退った時、ドアの向こうで微かに物音がした。
「いるの?」
『----急な体調不良とかじゃないだろうけど』
そう言ったカイジの声が蘇った。
「ぁ、ほんとに具合悪い、とか?.......ヨンファ?」
「え?」
ドアノブをひねるとカチャリと音がしてドアが開く。
ワンルームのアパートの玄関には二人分の革靴。
その隣にヨンファのものだろう、履きつぶした感じのスニーカーが並んでいた。
----誰かいる?
「ヨンファ?ごめん、開けちゃった」
カーテンが引かれたままなのか、
昼間にしては薄暗い部屋、遠くにぼんやりとオレンジのライトがともされていた。
「.......ぁ」
玄関の気配に気がついたのだろう。中にいた「男性」が振り返る。
その顔は、見覚えのある顔だった。
「ちょ、ちょっと、待って」
何がどうなっているのかわからない。
昨夜、例の手紙を受け取った時、いや、それ以上の。
「どうしてあなたがここに?」
「......それはこっちのセリフですよっ。勝手に人んちに入ってきて」
「人んちって、ここはヨンファの部屋で。っていうか、どうして?ヨンファに何を」
靴を脱ぎ捨て部屋にあがると、見覚えのある顔をした男性の背後から、ずんぐりした背格好の若い男が現れた。
そうしてソアンを足止めしようとしたのだ。
その若い男は、もう一人の男性を、「博士」と呼んでいる。
-----「博士」
その呼び名と顔に、見覚えがあった。
初老、というには早すぎるかもしれないが、前髪に僅かに白髪が混じっている。
優しそうな顔をしているが、めがねの奥の細い目はあまり笑わない。
その-----「博士」もソアンを覚えていたらしい。
めがねの奥の目が一瞬丸くなった。己の目に映るものが信じられない、とでも言うように。
それはそうだろう。
-----ソアンの施術をしたのは、この「博士」だったのだから。
「は、博士っ、この女は」
「はなしてっ」
「こら、バタバタすんなって」
「やだっ。ちょっとエッチ、へんなところ触らないでっ」
「え?そ、そんなっ、-----ぐわっ、いってぇ-----------っ」
若い男がひるんだ隙に思いっきり脛を蹴り上げる。
男が大声をあげながら蹲った。
「.......まったく、静かにしてください。彼の施術に関わり....」「だから何をしてるの?」
驚いた風に目を丸くしながらも、機械の操作を続ける博士に向かってそう訊いた。
一抹の不安を抱えながら、
「何を?」
博士と呼ばれる男性が、メガネをくいっと引き上げた。
「何を、と-----それを聞きますか?
あなたなら、この状態を目にしてすぐにわかるんでは?
ここにいらしたということは、思い出したんでしょう?」
「どうしてそんなことっ」
「どうして?それはこっちが聞きたいくらいですよ」
博士が低い声でそう呟いた時、ソアンの背後で影が動いた。
「......あぁ、ひどいことしやがる、この女っ。脛とか蹴りますかね、普通」
その声に、チラを顔を向けたのがいけなかった。
「あ!博士っ!この女、どっかで見たと思ったら、この患者のカルテにある女じゃ」
その若い男の言葉を遮るように、博士が手をあげた。
「君、少しここで画面の管理をお願いしていいかな?
彼の記憶図がきちんと順を追って焼き消えているかどうか、時間がかかりすぎていないかどうかを見ておいてほしいんだ。
その間に、僕は、そのお嬢さんと話がしたいから」
「いいですよ。あ、でも博士気をつけてください。この女、何をするか」
「わかってる。さぁ、こっちへ」
若い男がヨンファの枕元に置かれた機材のそばに立つと、入れ替わるようにして博士がソアンの前に出た。
「さて、どうして思い出したのか。
どうやってここまでたどり着いたのか、教えてもらえますか?-----ソアン、さん?」
「.....ぁ」
記憶操作をしたのは、この男性だ、と。
そう確信はあったものの、反面、ソアンの思い違いであって欲しい、とも思っていた。
博士は、機材の上から二枚の紙を手にして、その一枚に目を向けた。
自然とそれを追うように、ソアンもその紙に視線を向ける。
-----見覚えのある、それは
「それって、記憶の」
「そう。覚えていますか?
あなたも作ったでしょう?記憶を消す前の、記憶分散図」
それは、記憶の中に現れる削除したいターゲットを時系列に並べたものだった。
「え?」
そこには、ソアン、という文字があった。
「私の.......」
「あぁ、そうです」
-----まさか
一瞬、目の前が真っ白になった気がした。
博士は、手にしていたもう一枚の紙をソアンに差し出した。
そこには、
「......ヨンファ?」
博士の手には、
ヨンファのサインが記された『記憶操作療法 同意書』が握られていた。
「わかりましたか?」
「......」
「彼は、あなたの記憶を消してしまいたいと。そう決意したんですよ」




