その17 邪魔者
「ソアンちゃん?」
「.....っ、イングさん」
アパートの階段を降りて、敷地内の駐車場を突っ切ろうとした時だった。
カフェの店長のイングがソアンに声をかけてきたのだ。
「どうしてここに?」
「どうしてって、それはこっちのセリフ。
今朝は遅番だったから、店の様子を確認しておこうと思って電話したら、ソアンちゃん休みを取ったって聞いてさ。心配になって、店に行く前にちょっと寄ってみようかなと」
「あ、それでここに?」
「そう。それ以外の何があるっていうの?」
当たりまえのことだろ?と。
イングの目がそう言っている。
----ごめんなさい。
すごくありがたいけど、すごく迷惑。
「すみません」
「体調不良だったんじゃなかったの?」
「え?あ、あぁ。それはですね」
「ソアンちゃん?」
「きゃ」
言い訳を探しているうちに、
怪訝な顔のイングにズリっと距離を詰められ、腕を取られた。
「ソアンちゃん?どこにいくつもり?あぁ、病院なら一緒に」
「あ、い、いいえっ。結構ですっ」
空いた片手をブンブン振って、遠慮しますとアピールした。
「どうしたの?妙によそよそしいけど」
----いや、あなたがなれなれしいだけで。
「ソアンちゃん?ね?」
「す、すみません。体調はもう大丈夫です。だから、一人で大丈夫ですっ」
「一人で?どうして?僕らはもう」
「店長はお店に」
「は?....店長?ねぇ、ソアンちゃん?どうしてそんな。イングさん、でしょ?」
「ぁ....えっと」
「それに、もうそろそろいいじゃないか。だって、僕らは相思相愛でしょう?」
「え?.....何を」
「だってそうでしょ?
僕ほどソアンちゃんのことを理解している男はいないよ。わかってるでしょ?
ソアンちゃんが好きなもの、僕はなんだって知ってる。食べ物も映画も音楽も。
今まで食事に行った場所、全部ソアンちゃんの好きな料理だったでしょ?
あぁ、ドライブも好きだったよね?紅葉は終わったから、湖にでも今度行こうか?湖とか山とか好きなんだよね?あ、もし今から行きたいところがあるんなら、車取りに行けば送って行くし」
----イングさん?
「......そんなこと、どうして」
「さぁ、ソアンちゃんどこに行くつもりだった?言って、言ってごらん?」
----このヒト、やっぱりおかしい。
咄嗟に、ソアンの口から本音がこぼれた。
「ヨンファのところに」
「ヨンファ?......ヨンファって、あの男か?」
「え?」
イングの表情が変わった。
「ぁっ.....い、たいっ」
掴まれた腕がキリキリと痛む。
「どうして?どうしたのさ、ソアンちゃん。どうしてあの男のところに?」
「.....手、手をはなしてください」
ソアンの言葉を無視するように、イングは一人で話し続けていた。
「どうしてさ?やっとソアンちゃんが僕のものになったと思ったのに。あいつのことは覚えてたってこと?いや、おかしい。この前会った時、覚えてなかったよね?」
「.......」
ついに、
イングは独り言のようにそう呟いた。
しかし、その言葉はソアンの耳にも十分に届いていて。
----この前、会った時?
「あの、会ったって」
しかも、今、覚えてるとか言わなかっただろうか。
----店長?
恐る恐るそう問うたソアンに、
イングは露骨にいやな表情を浮かべる。
「て、んちょう?」
「まさか、思い出したの?ソアンちゃん」
「え?、ぁ」
-----きゃぁ
恐怖のあまり、声も出なかった。
腕を掴むイングの力が更に強まり、ぐっと引き寄せられた瞬間、
イングの顔が目の前に迫ったのだ。
ギラギラとした目は、白目が黄色がかって見える。
-----やだっ 気持ち悪いっ
そう感じた瞬間、ハッとした。
そうだった。
このイングという男を、私は毛嫌いしていたのに。
いや、私だけじゃなく、カイジも。
『ソアン、あの店長には気をつけろよ。あいつどう考えてもお前狙い。つか、キモイだろ、あいつ。妙にベタベタしやがって』
あ、なのに....記憶をなくした私は、どうしてこの男を?
ううん。
おかしいよ。おかしい。
さっきだって、私のことを色々と知って。
「ソアンちゃん?」
イングの声に、体がピクリと跳ねた。
記憶が蘇った今、イングとの関係は明らかだ。
いくら記憶が消えていたとはいえ、イングに個人的な話しをするとは思えない。
「.....」
心にひっかかるのは、
----思い出したの?、というイングの言葉。
「ま、さか.....あ、私のこと、何か知って」
一瞬、イングの目が見開かれた。
しかし、すぐにその目は元に戻る。
「もちろん、いっぱい知ってるよ」
自信有り気な、いや、せせら笑うような口元。
「くくっ」
「.....っ」
イングが笑うと同時に、生臭い男のタバコの匂いがした。
----やだっ。怖いっ。
「そんな顔しないでよ、ソアンちゃん。
僕らはイングさん、ソアンちゃんって呼び合う仲だろ?ほら、部屋に戻ろう。体調不良で休んだんなら、面倒みてあげるから」
「......ゃ」
「ほら、ソアンちゃん」
もっと教えてあげるよ。
ソアンちゃんが忘れてること、何でも。
「え?」
肩を抱かれて、耳元にイングの息がかかった。
「ご無沙汰、でしょ?」
...............ぃ、い
「いやぁ----------------------っ」
「うわっ」
「どうしたのっ?あら、あなたここのアパートの」
背後から女性の声がした。
イングに肩を抱かれたまま、声のする方へと首だけ向ければ、同じアパートの住人の姿が見えた。
「チ、チカンっ」
蚊の鳴くような声とはこのことか。
恐怖に声が震える。この声が届いただろうか。
「え?痴漢?その男っ?」
コクコクと、何度も頷けば、その女性の顔が急に強ばった。
「ち、違います。ソアンちゃん、何を」
「警察、警察を呼ばなくっちゃ。ちょっと、誰かっ!誰かいません?痴漢、痴漢よ!」
「おっ、こ、このおばさん、何言って」
「おばさんって何よっ。あんた痴漢の分際でっ。あ!あんた、あんたの顔知ってるわ!あんた最近このへんをウロウロしてたでしょ!」
「うっ」
イングが慌てて手を離した隙に、ソアンは一歩後退った。
偶然ゴミを出しに降りてきたアパートの住人が、二人のやり取りを見て声をかけてくれたのだ。
「痴漢っ!この男、痴漢ですよっ!誰か、誰か警察呼んで-----!」
住人の女性の大声にガラガラと窓を開ける音がする。
中には、窓から顔を出してこっちを覗う姿もあった。
「ちっ」
「あなた、大丈夫なのっ?」
女性が駆け寄って顔を覗き込んでくる。
「....は、はいっ」
「あ、ちょっとあんた逃げる気?」
さすがのイングもたまらず帽子を深く被りなおすと、
「いいか?あとでちゃんと話しをするからな!」
そう言い残して走り去った。
次々とどこからともなく現れる住人や近所の人たち。
ほとんどが年配の女性だったけれど、
すべての人にお礼を言って、今回は顔見知りだったということもあり、警察には通報しないままにしてもらった。
「でもね、顔見知りだからこそ怖いのよ。大丈夫?」
「はい」
「気をつけるんだよ、お嬢さん若いんだし」
「ありがとうございます」
イングを撃退してくれた女性にバス停まで送ってもらい、
予定を随分オーバーしながらも、どうにかバスに乗り込んだ。
「......あれ?開いてる?」
ヨンファの部屋のチャイムを鳴らしても返事はなく。
ドアノブを回すと、ガチャリと音がして、ドアが開いた。
「え?」




